Share

第二話番外「once more night」

Author: 雛瀬智美
last update publish date: 2026-11-03 18:32:44

いっそ出会わなければ良かったのに。

 そう思うのは自分の苦しみから逃れたいだけなのか?

 たった一度夜を過ごした女を忘れられない。

 胸を離れないのだ。

 我を忘れるほど夢中になったあの夜。

 忍ばせておいた避妊具がなければ、事に及ぶことはなかった

 とは思うが、何もせずに解放してやる自信は欠けらもなかった。

 異性と身体をかわしたことがなかったから、

 触れたいと思ったのが不思議だった。

 恋愛で関係を深めずに求めてしまったのは、

 女性というものを知らないからだろうか。

 

 仕事に使う資料を探しに本屋へと車を走らせた。

 別に、見つかりさえすれば何処の本屋でも良かった。

 わざわざマンションから遠い場所を選ぶなんてどうかしているとは思うけれど。

 平日でも時間帯的に客は割と多く、店内は今流行のポップスが賑やかな雰囲気を醸し出していた。

 店内を散策しているとふと気になる面影を見つけた。

 4月の終わり、出会った彼女に間違いなかった。

 今日発売の本は戸棚ではなく平積みされているというのに、わざわざ

 棚に手を伸ばそうとしている。無理な体勢のせいで足が半ばヒールから浮いていた。

 見ていられず横から手を伸ばし本を取って声を掛けた。

「これでいいのか?」

 今気がついたとばかりに彼女がびくりと反応しこちらを振り向く。

 驚き固まった顔。

「……やっぱりいいです。取って頂いたのにごめんなさい」

 慌てたように早口で捲くし立てながら本を俺に押し返してきた。

 あからさまに動揺され、ショックを感じている自分がいる。

 だが、俺の表情は変らない。彼女は顔を強張らせていた。

 目立つことすら気に留めずに店内を駆け抜けて出て行った。

 残されたのは一冊の本。

 俺は、探していた会社用の資料と一緒に、その本もレジに持って行った。

 彼女の好きなものを知りたいと無意識で思っていたのかもしれない。

 本屋を出て駐車場から車を出すと、必死で探していた。

 彼女ー沙矢ーを。

 気が動転していることも考えられた。

 だとしたら自分の責任だ。

 慌てて飛び出したから心配になっていた。

 無我夢中で車を走らせた。

 恐らくはバスか電車で通勤しているのだろう。

 既に帰っている可能性もある。

 何故かまだこの辺にいる気もしていた。

 裏通りなんかに紛れ込んでいなければいいが。

 一通り巡って本屋のある通りまで戻ってきた。

 バス停も手前にある。

 目を凝らしてよく見れば

 疲労しきった表情で椅子に座る沙矢の姿があった。

 小さな傘を差しかけてうつむいている。

 俯き加減なのを見ると何かあったのかと勘ぐってしまう。

 バスが停止する位置にゆっくりと車を寄せる。

 クラクションを鳴らすが、気がつかない。

「乗れよ」

 痺れを切らして助手席のドアを開けて、声を掛けた。

 明らかにわざとらしいのにきょろきょろと辺りを見回している。

 当然ながら誰も反応していない。

「え……」

 煙草のフィルターを噛み、ハンドルを握りなおす。

 戸惑っている様子が手に取るように伝わってきた。

 おかしな見世物になっているのか、周囲の人々の視線が

 こちらに集まってきていた。煩わしいことこの上ない。

「ありがとう」

 沙矢は声を絞り出して唇に乗せた。

 乗り込んでくる彼女に俺はフッと笑うと、ドアにロックをかけ、窓を開けた。

 シートベルトをして準備が整ったのを確認すると車を走らせた。

「疲れきってる感じだった。

 本屋で気づいてたんだけど声をかける前に走っていったから」

「……あの日からあなたの事を一度も忘れたことなんてない」

 ルームミラー越しに見やれば、泣き出しそうな表情だった。

「馬鹿だな」

 知らず自嘲の笑みを浮べていた。

 自分自身に言っている気がした。

「忘れられるわけ……ないじゃない」

 顔を見なくても大粒の涙が彼女の頬を濡らし始めているのが分かった。

「どうしてあんなことしたの! 」

 涙混じりの高い声。

「あなたにとっては簡単なことなんでしょ。

こんな世間知らずな子供を手に入れるくらい」

「私なんかのどこが良かったの? 私なんかじゃなくても

大人で綺麗な女の人なんてたくさんいるでしょ」

 塞き止めていた感情が溢れているのだろう。

 言葉は次々に沙矢の唇をこぼれた。

「欲しいと思った」

「無性にお前が欲しかったんだ」

 あの日の心情をぽつぽつと漏らす。

 言葉にすれば陳腐で、これほど分かりやすい物はないのに、

 簡単に口にすることができない自分。

 あの時言っていればお互いに苦しむこともなかった。

 階下で目が合ったあの時、俺の心はかき乱された。

 瞬時にがんじがらめにされたんだと。

「……嘘よ」

「誰でも良かったんでしょ? 」

 彼女の長い髪が揺れてシートに音を響かせた。

 首を振ったのだ。

「お前だから欲しいと思った。信じてくれなくてもいいが」

 真摯な声音で呟く。

 あんな手段しか選べない俺を簡単に信じられるはずがない。

 否定でも肯定でも彼女の言葉が聞ければどちらでも良かった。

「……本当? 」

 恐る恐る返ってきた反応に胸を撫で下ろし、

「ああ」

 吐息を吐き出すように。

 後部座席からは微かな嗚咽が聞こえてくる。

 一気に車のスピードを上げた。

「怖かったの」

 ここは、たまに一人でのんびりとしたくなった時に泊まるホテルだ。

 家へ帰らなければいけないとぼそぼそと言っていた言葉を聞き流し

 少し強引に連れて来た。

 正直な所、帰したくなかった。

 家へ送ろうと最初は思っていたが、涙を啜る音で、気持ちは霧散した。

 そそられてしまったのだ。

 それだけではなく、雨の中一人でバスを待つ孤独な姿に保護欲もかきたてられていた。

 幾分落ち着いた表情でソファーに座っていた沙矢は、

 突然肩を震わせて泣き出した。

 冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すとグラスに注いで渡した。

「それもこれも俺が原因か」

 "逃げ出したなんて、傷つくな"

 語尾に含ませていた意味を沙矢は感じ取ったようだった。

 煙草を口にくわえ、火をつけるとフィルターの焼ける音がした。

「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」

「冗談だよ。辛かったな」

 うなだれる沙矢の頭を柔らかい仕草で撫でた。

「今夜は側にいてやるよ」

「お風呂入ってもいい? 汗で気持ち悪くて」

 強請るように見つめてくる仕草がたまらない。

「ゆっくり入れよ」

 淡く微笑んで掠める程度のキスをした。

「うん」

 バスルームの方に消えた沙矢の背中を見送る。

 口では汗で気持ち悪いなんて言っているが、そのつもりだと都合よく解釈しそうだ。

 どちらにしてもこの後の展開は分かりきっているけれど。

 少し離れた場所から、湯の流れる音が聞こえてきた。

 俺は、冷蔵庫からビールを取り出し、プルタブを起こした。

 アルコールを煽ると幾分体を熱が満たす。

 この程度の軽いアルコールじゃ酔えやしない。

 喉に流し込み、考える。

 俺はこのまま流されるまま、ずるずると穴に落ちて行くことを望むのか。

 手離せなくなる。

 愛情なんて簡単に言えないから性質が悪い。

 愛しいと思ったのは確か。

 もう会わないと思っていたが、ふいうちの再会。

 はっとした。

 彼女は一段と綺麗になっていた。

 コケティッシュと表現するに相応しい。

 ふっ。

 口元をゆがめて笑う。

 欲しいと言われて喜ぶなんておかしいんじゃないのか。

 奔放すぎると痛い目を見るぞ。

 意味が分かってるのか。

 心が欲しいってわけじゃない。

 どういうことか分かってるよな。

 意味分かってて喜んでるなら、本当の馬鹿だ。

 こんな男の中に堕ちるのを望むのだ。

 そもそも車に乗ることを受け入れた時点で彼女も半ば覚悟していたはずだ。

 立ち昇る紫煙の中に映るのは都合のいい未来のビジョン……。

 俺はタオルを浴室の外にあるかごにそっと置いた。

 ベッドの端に座ってコロンをつけていると、部屋のドアが開く音がしたので 

 そっと、ベッドの引き出しにしまった。

 バスタオル姿の沙矢がたたずんでいる。

 ドライヤーは使わなかったのだろう。

 髪はまだ生乾きだ。

「あなたは?」

「今朝入ったからな。いいんだ」

 匂いに気づいたのか、沙矢がきょとんとしている。

 惚けた表情でこちらを見るな。

 自分を制御できなくなる。

 見つめ返せば視線が交差した。

 口づけを重ね、瞳を閉じた沙矢の背中に腕を回しバスタオルを解いた。

 そのままベッドに誘導し縺れ合いながら沈んでいった。

 窓を叩きつける雨が、激しさを増す。

 その雨よりも激しく俺は彼女を苛んでいた。

肩に回された腕、甘い啼き声。

 彼女と抱き合っていると五感全てを刺激される。

 沙矢の涙は快感によるものともう一つは。いや考えるな。

 俺に拭う資格なんて存在しない。

 お互いを感じ合うことで、伝わるものがあればいい……

 なんて戯言だな。

 沙矢が首を振っている。

 怪訝な顔で凝視すれば

「時計の音を聞きたくないの」

 やけに可愛らしい台詞が返ってくる。

   くすりと笑い、

「俺だけ感じていればそれでいい」

 傲慢に告げた。

陶酔した表情の沙矢。

 清純可憐なさっきまでの顔とは別人で、ベッドの中では彼女は女と化す。

 まどろんでいる姿に自然と口の端が上がる。

 唇と指先で隅々まで確かめていると確かな生ある物の温もりを感じた。

「……い」

 自分の口から出た言葉にはっとした。

 俺は何を言おうとしたんだろう。

 しがみついてくる体は震えていた。

 内心、舌打ちしながら壊れそうな体を抱きしめる。

 思わず歯軋りしてしまった。

 彼女が、俺を嫌うのもそれはそれでいい。

 いっそ嫌われた方が楽だ。

 彼女が突き放さない限り俺は、求め続けててしまう。

 本気になることはないだろうが。

 快楽と悲しみが入り混じった表情で、彼女がしがみついている。

 やはり思うがままに蹂躙してしまったな。

 だが彼女が望んでいたからなんて言うのは卑怯か?

 寂しそうにしていた子猫に一時の温もりを

 分けてやったと言ったらいけないのか。

(沙矢……)

 思いの外力が強くなる。

 揺れる視界に、涙の跡の残る表情が映った。

 俺は、また罪を犯している。

 傷を残した分、己が傷ついていることなんて考えもせずに。

 眩い白い世界に共に旅立ち、やがて重なり合った。

 体の向きを横にして腕枕する格好になる。

 しっとりと濡れた髪から香るシャンプーの匂い。

 自分と同じものを使っているのに、違う感じがするのが不思議だ。

 抱き寄せれば腕の中の彼女は、穏やかな寝顔をしていて、胸が痛くなった。

 

 朝の光がカーテンの隙間から漏れている。

 結局ろくに眠れず夜をやり過ごした俺は煙草に手を伸ばす。

 微かな音に視線を向ければ、ぼうっとした表情で体を起こす沙矢の姿。

「……はずかしい」

 急に顔を赤らめ、両手で頬を押さえた。

「何を今更」

 あからさまに冷たい一瞥をくれてやる。

「だって……」

「可愛かった」

 腕の中で乱れるお前は。

「……!」

 先程よりも激しく頬を赤く染めた沙矢は戸惑いつつ、

「嬉しいけどそんなこと言われると……」

 そう口にした。

「また会えるか?」

「私は会いたいけど」

「俺は、ちょっと厄介な仕事をしてるから、

 そんなにしょっちゅう暇なんてできない。

 それでもよかったらまた会おう」

 厄介……都合のいい言い訳だ。

 言い聞かせているだけで、すぐ会おうと連絡を入れるに決まっている。

 そして会う度に彼女とともに過ごす夜をもう一度と願うのだ。

 今回のように。

「会えるなら待つわ」

 笑いかけてくる沙矢の髪を梳く。

 ふと渡そうと思っていたものを思い出した俺は、

 床に置かれた袋に手を伸ばした。

 これを買ったのはあの翌日だった。

 会える機会があったら渡そうとずっと持っていたのだ。

 袋から箱を取り出し、片手に持ち、沙矢の髪を掻き分けた。

 首筋に触れ、耳元に辿り着く。

「……青?」

 左右のピアスホールにピアスを着ける。

「似合ってる」

 指先でピアスを揺らすと、

「え……あ、ありがとう」

 沙矢ははにかんだ。

「いつか落としてしまったからな、そのお詫びも兼ねて」

 吐息が触れるほどの至近距離。

 沙矢の胸の高鳴りが聞こえてきた。

 そんなに嬉しかったんだろうか。

 屈託なく笑う顔は綺麗で愛らしくて。

「別に無理することないんじゃないか。そのままで充分だと思うぞ」

 大人っぽく見せようと頑張っていたのは分かっていた。

「……でも」

「外見だけ取り繕ってもな」

「もう無理しない。そのままの私でいる」

「そうだな」

「送っていってやるから準備しろ」

「わかった」

 沙矢は時々ちらちらとこちらの様子を窺がっている。

 自らを抱きしめる仕草から目を逸らした。

 髪を掻き上げて、視線を送る。

 衣服を整えて駆けて来る沙矢の腕を取って部屋を後にした。

 たとえ抱き合うことしかしらない関係でも、

 お互いに触れ合っていることこそ真実なのだから、

 余計な言葉なんていらないだろう。

 自分に言い訳するように溜息をついて、彼女の腕を引いた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 極上Dr.の甘美な誘惑―罪深き深愛の果て-   第7話「Real Time Lovers」

     シーツに残る温もりに微笑んだ。 朝まで共に過ごせたことを改めて実感する。誘われて旅行に来てよかった。 嬉しすぎて、じんわりと心に温かい気持ちが広がる。 温もりを確かめたくて頬を寄せると 力強い腕がそこにはあった。 こうして抱きしめられていると安心する。 いつもはベッドから離れて衣服を身につける青をぼんやりと見ているだけだった。「沙矢」 名を呼ばれる。「……どうしたの?」 恐る恐る聞く。 一緒に帰るのだと分かっていても置いて行かれそうな恐怖がある。一度ホテルの部屋に放って置かれたのはトラウマだった。「カーテンを開けてくれないか?」 昨夜は彼が閉めたカーテンを今度は私が開ける……。「ええ」 するりとシーツを肌に巻きつけると寝台から立ち上がる。 カーテンを開けると朝焼けに照らされた海が見えた。 眩しくて、目を細めて景色を眺める。 彼を振り返ると、サイドテーブルに置かれたシガーケースから 煙草を取り出しているようだ。 私と視線を交わし、煙草に火をつける。 この姿を見るのは別れの瞬間と決まっていた。 眠ったフリをして薄い瞼であなたの仕草を見つめていたの。 今日はそうではない。 共に朝を迎え、一緒にいるということを実感している。 彼は煙草を口にくわえ、シーツを巻つけて立ち上がる。 昨日から二人で泊まっているホテルの部屋は。 互いの部屋にいるよりも、二人きりに感じる。 ここには誰もいないから。 私達を邪魔する人なんて誰一人として……。 他には誰もいないと知っはているけれど、 彼がどこを見つめているのは分からないままだ。 隣に立つ彼にもたれかかると、抱きすくめられた。 もうすぐで、この時は終る。帰ったらまた一人に戻る。 儚い泡沫の夢は、あっという間に消えてなくなるのだ。 時間を止めて共にいられたら。 悲しみを抑え、願いをかけるように彼の手を握る。 心のどこかでは危険な恋とわかっていた。 手を引かれ甘い罠の中に引きずり込まれ、 這いずりだす事もかなわないけれど。 痛む胸は、治まることを知らず、 行き場のない想いを持て余し、これからどこへゆけばいい? 彷徨った先には何があるの。 瞳の奥が熱くなる。(泣いては駄目。折角の二人の旅行なのよ) 言い聞かせても、涙は溢れ出す。   彼に抱きしめられ

  • 極上Dr.の甘美な誘惑―罪深き深愛の果て-   第6話「遠き海へ」

     初めての一泊二日の二人の旅行。 彼と一緒というだけで心が躍り、ときめく。 私たちは少しずつ変り始めてる。 いつも朝になれば切ない別れが来る。 穏やかにそばを離れられたことなんて一度もなかった。 一泊二日とはいえ時間を気にせず一日中一緒にいられることは、とても幸せだ。 心はまだ届かなくても私はまだ彼に見切りをつけられてはいない。 普段は言ってくれなくてもベッドにいる時は愛してると言ってくれる。 赤い花をたくさん咲かせてくれる。 私は青と会うまで、何も知らなかった。 結婚するまで誰かと体の関係を持つことはないと思ってた。 周囲の友達にも固いとか古風とかよく言われたほどだ。 助手席から運転している彼の横顔を見つめ、微笑む。 海も夜景もたくさん見たい。 想い出は消えることなく胸に残る。 首にかけたネックレスをぎゅっと握り締めた。 彼がくれたプレゼントが力をくれる。 車はトンネルを抜け、海が見え始める。 窓を開け、無邪気に身を乗り出した。「きれい」 ルームミラーに映る彼は、笑っている。「ホテルに荷物置いたらすぐに海を見に行こうか」 涼しげな声音が頬を撫でる。 こんな瞬間がとてもかけがえなくて愛しい。 そう感じていた。 海鳥達の鳴き声。 車はスピードを上げて、真っ直ぐ進んでゆく。 彼の器用なハンドルさばきにもみとれてしまう。 車をバックさせる時の真剣な眼差しも何もかも好きだった。 洗練された身のこなしと、女性扱いの上手さ。 何もかもできすぎている男性。 一ミリの隙も見せなくて、こちらに何かを気取らせるようなミスは 犯さない。計算なのかもしれない。 何も悟らせない彼は常に完璧だった。 聞かれたら答えてはくれるが、彼から教えてくれることは無い。 悲しみで押しつぶされそうになる胸を手のひらで押さえ景色を眺めた。 何て美しいのか。 海の青はとても心をくすぐる景色だ。 その時、車が停まった。 目の前には大きなホテル。 こんな立派な所に止まるのは初めてだった。 ガチャリ。 彼が、車を降りて助手席の扉を開ける。「ありがとう」 トランクから二人分の荷物を降ろすと、「いこうか」 彼の後ろをついて歩き、ホテルに入っていく。 立派な高級ホテルだが、個人経営で従業員の数が 少な目のホテル。俺は宿泊先を選

  • 極上Dr.の甘美な誘惑―罪深き深愛の果て-   番外編「始まりの日」(第一話ヒロイン視点)

     彼女は帰ろうかと思った矢先、階段で足を踏み外した。 普段はしないようなことをするなんてよほど 疲れていたんだと結論づけたかったのだけれど、 そこで終わることはできなかった。 彼女を助けようと階段を上ってきた青年も巻き込んで 共に堕ちたのだ。 どこまでも。 この出会いが永遠となることをまだこの時二人は、知らなかったのだけれど、 非現実的な出会いはまさしく運命だった。 彼女が忘れ物を取りに来なければ彼と出会うことはなかったのだから。  どうやら痛みは無いようだ。 身じろぎしても起き上がれないのは強い力で 抱え込まれているからだと動転した意識の中でやっと気づく。 起き上がろうと体を動かせばまた腕の力が強くなったようだ。 体が強張る。 きっとこの腕の持ち主が助けてくれたんだ。 広い腕の中は気が狂いそうなくらい温かくて。「ごめんなさい……」 自分の不注意で巻き込んでしまったことが申し訳なかった。「支えてもらってありがとうございます。お怪我ありませんか? 」「ううっ」 聞こえた呻き声にびくっとした。 どこか痛いのだろうか。どうしよう。「胸が痛い」「う……本当にごめんなさい」 頭を動かして彼の方を見つめる。 きっと今泣き出しそうな顔してる。 悪いのは私で彼は助けてくれたのに。「君こそ大丈夫か?」 いい人だ。 ふっと微笑を浮かべてこちらを安心させてくれようとしてる。 起き上がれないまま、背中から腕が回ってきて抱きしめられる。 決して強引ではない柔らかい仕草。 公衆の面前で地面に横たわったまま抱きしめられてるなんて。 今更ながら恥ずかしい。「ええ。もう大丈夫です」 彼の腕を剥がし立ち上がろうとした時強く抱きすくめられた。 再び彼に寄りかかった状態になる。「えっ……」「送っていこうか? 」「……バスで帰りますから」 高鳴る鼓動。 間近に見た彼の顔が信じられないくらい綺麗だったから驚いて、 一瞬これが現実ではないような錯覚を起こす。「気にしなくていい」「……じゃあ」「私の家でお茶でも飲んでいきますか? 」「ええ」 私はその時、彼の口の端が上がったことに気づかなかった。 駐車場まで二人で歩く。 高い背を時折見上げては、息を吐いた。 無言で誘導する人は私の手をぎゅっと握っていた。 指先

  • 極上Dr.の甘美な誘惑―罪深き深愛の果て-   第5話「強がり」

     受話器越しに聞こえてきた声音に、ぞくりと身を震わせた。 息を飲みこんで、呼吸を整える。 彼が漏らした呟きを頭の中で繰り返す。『……来週まで待てない。今すぐ会いたい』 平静を保つのに必死になった。 切羽詰まった声音が、心の琴線を掻きたてる。『沙矢…… ? 』 どうやら、思案する時間が長かったようだ。 怪訝そうに聞き返す声に、『私も会いたい……』 どうにか告げた。涙声になっているのは気づかれたかな。『今から、迎えに行く』 ぷつり、途切れた電話。 ツー、ツーという音だけが響いている。 呆然と立ち尽くしていた。 あんな風に求められるなんて、これが現実かどうか分からなくなる。 この部屋で、抱かれてから、まだ日は経ってはいない。 再会してから、未来も見えないまま関係を重ねていた。 さっさと着替えることにした。 シフォン生地の白いワンピースをクローゼットから取り出し、鏡の前で体にあてる。 こんな私が白い服を着るなんてと苦笑する。 青への純潔を守っている証。何色にも染まらない意思表示だった。スカートの部分にフリルがついていて可愛らしい服だ。 この間見せたら気に入ってくれたので、これにしようと思った。 ハンドバッグを手に、そわそわと部屋を歩き始めた。 約束は破らないと思うが、二人の関係のせいで、完全に信じきることはできなかった。 チャイムの音がし、慌てて開けると彼がいた。 どこか疲れた表情をしているが、衣服の乱れなどは何一つない。 すっきりとダークグレーのスーツを着こなし、同系色のネクタイをしめている。 童顔というわけではなく、年相応に大人びているのだが、 歳の差を意識させない人だと、今更ながら気づく。 会社にいる彼と同じ年齢くらいの男性と比べても、若々しい。独特の雰囲気を醸し出していた。「……どうかしたのか。行くぞ」 手を差し出され、掴むと引っ張られるように外へ出た。 慌てて鍵をかけると、青の側に立つ。 掴まれた手首に少し力がこもっていた。 それでも歩幅は合わせてくれていて、ゆっくりと隣りを歩くことができた。 横顔はとても切なくて、見ていると胸がしめつけられる。 車に乗り込んで、一息つくと、青が唐突に話しかけてきた。「……今日は、あまり気づかってやれないかもしれない」 どういう意味か分かってしまい、

  • 極上Dr.の甘美な誘惑―罪深き深愛の果て-   第四話「本能」

     不安、焦燥、ひたすら愛しいという気持ち。 全部が彼の為のもの。 藤城青、年上の美丈夫。 不条理な関係しか二人の間には存在しなくても、私は自分の気持ちを捨てるつもりはない。 言葉にして伝えることは、できないけれど。 二人で出掛ける機会がまたあるなんて夢のようだ。 忙しい彼は私なんかのために時間を割いてくれている。 これから、二人で紅茶の専門店に行く予定なのだ。「……青」 名を呟くと切なさで胸が苦くなる。 誕生日でもないのに贈ってくれたプレゼント。 青のマンションの部屋で、思い出がまたひとつ紡がれた。 中央に三連のピンクベージュ色のパールがついたネックレスは 洗練された大人の女性がつけるものだ。 嬉しくて心が跳ね躍った。 今日は鎖骨がのぞくブラウスを着て、ネックレスをつけている。 ドアのノックの音が微かに聞こえ、ぱたぱたと走っていく。「……迎えに来てくれてありがとう」 恐る恐る見上げたら、指が伸びてきた。 髪に触れられて、どきどきと心臓が暴れ始めた。「ネックレスつけてくれているんだな」「うん……私にはもったいないくらいだけど」 あなたがくれたものだから。 最後の言葉は胸にしまい、はにかんだ。「そんなことない。今日の服装にも似合っている」 つくりものめいた無表情に淡々とした言葉。 瞳がやさしく細められたのは気のせいだろうか。「行こう」 差し出された手に、手を重ね、後ろに続いた。 駐車場につくと、先に彼が車に乗り込み中から助手席のドアを開けてくれた。 喜々として微笑んだ私は、 隣りに座る彼が緩く眼を伏せたのを見て表情を変えた。 シートベルトをつけたのを確認すると、ゆっくりと車が動き出した。 車窓から流れる風景を眺め、沈黙の時間をやり過ごした。 一人ではしゃいで、興醒めさせてしまったら嫌だ。 あの日から一週間後の休日に会えたことは、何にも代えがたい僥倖。 それを台無しにしたくはない。スムーズに駐車スペースに止まった車に、もう着いてしまったのかと愕然とする。 バッグを握りしめていると、外からドアが開けられた。 彼が先を歩き、ついていく。 隣を歩いたって誰に見とがめられるわけではないのに自然と背中を見るのを選んでいた。 広くて逞しい背中。長身痩躯でスタイルも抜群だと思う。 薄茶色の髪は日が当た

  • 極上Dr.の甘美な誘惑―罪深き深愛の果て-   第三話「an anniversary」

     今日は彼のマンションへ行く。「うちへ来ないか」 彼に誘われ、驚いた。 まさか青の家に連れて行ってくれるとは思わなくて。 驚きを隠せないで呆けている私に彼は言った。「プレゼント受け取ってくれ」「うん。嬉しい」 さり気ない心遣いが胸に染み渡るようだった。 外での食事を終え、車に乗り込む。 白のスポーツカーは彼に良く似合っているけど どこか不釣合いに感じる。 私にとって彼は黒か藍のイメージなのだ。 纏う色も去ることながら、雰囲気そのものも。 煙草を銜え、ハンドルを操作している彼は、本当に格好いい。 いつもそう思う。 助手席のシートに腕を置いて軽やかにバックする時なんて 腕の中に閉じ込められている気分になってしまう。 流れる景色を見ていると、そわそわする。 彼の部屋へ行くなんて初めての事で、期待で胸が膨らんでいた。 彼は私に何をくれるのだろう。 情熱の欠片だけでも私は十分幸せなの。「せ……い? 」 こわごわ話しかける。「今日、泊ってもいいの? 」「当たり前だろう」「カクテル作ってやるよ。お前をイメージした物を」「うん」 頬が綻ぶ。 本当に祝ってくれるんだ。 車が左へ合図を出し、左折する。 目の前には、大きなマンションがそびえ建っていた。 最上階の最奥が彼の家だ。 彼が助手席のドアを開けてくれる。 車を降り、彼の後ろを歩く。 広い背中を見るのが好きで、私は常に彼の後ろを歩いている。 3歩後ろをゆくなど意識しているつもりはない。 背中を見つめていれば確かにそこにいる彼を感じられる 気がするから後ろを歩いている。 こんなに近くにいても遠くに感じるから、 私にはこうすることしかできない。 細く長い指がエレベーターのスイッチを押す。 あっという間に最上階へと運ぶ機械。 彼はオートロックの部屋の鍵を開ける。 ホテルの部屋以外で、カードキーを見たのは 初めてで少し感動してしまう。 次いで、部屋に入ると、広さに圧倒された。 3LDKだ。私の部屋と比べてどれだけ広いんだろう。 何より驚いたのは、目立たない閉鎖された空間だということ。 こんな所に彼は一人で……。「ねえ」「何だ」「随分寂しい場所ね」「こういう所じゃないと駄目なんだ」「……そうね」「掛けてくれ」 広いリビングで黒い革張

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status