LOGIN空は夏美を一瞥すると、冷たく言い放った。「気分が悪いなら帰れ。俺一人でここで待ってるから」夏美は言葉に詰まり、すぐに目を赤くした。「そういう意味じゃないの。ただあなたのことが心配で……」夏美のそのぶりっ子な態度に、空は急に怒りを爆発させた。「君に心配される筋合いはない!君のせいで澪は俺のそばからいなくなったんだ!君の小細工なんてお見通しだ。親は騙せても、俺は騙せないぞ。今日から君とは何の関係もない。さっさと消えろ!」「なっ……」夏美はこんな屈辱を受けたことがなく、怒りにまかせて空の前から立ち去った。時間が経つにつれ、私も彼を相手にするのが面倒になり、道端の置物のように思うようになった。そんなある日、買い物の途中で前田涼太(まえだ りょうた)に会った。彼は小学校の同級生で、中学のときは隣の席だった。涼太は背が伸びてすっかり大人びていて、街角で手作り雑貨の小さなお店を開いていた。私たちは、昔のこと、今のこと、そしてこれからのことを、長い時間語り合った。話が弾んで、家で一緒にご飯を食べないかと彼を誘った。そういえば昔、母が学校に迎えに来ると、いつも涼太が我先にとばかりに、先に母に挨拶していた。思わず笑みがこぼれてしまうような思い出だ。今はもう、お互い大人になったけれど、彼が母に会ったら、子供の頃みたいに、あんなに親しげに接するだろうかね。涼太と話しながら家に帰る途中、まさかこんな時に空に会うなんて思ってもみなかった。彼はひどく痩せて顔色も悪く、服はぶかぶかだった。体からはタバコと酒の匂いがぷんぷんした。空は、私が涼太と楽しそうに話しているのを見て、突然怒り出した。まるで私が浮気でもしているかのように、「男がいるから別れたいんだろ!だから、田舎に残りたがって、A市に帰りたくないんだろ!」と、めちゃくちゃなことを言い始めた。涼太はわけがわからないという顔をしていて、私もすごく恥ずかしかった。私のことは何を言われてもいい。でも、友達まであんなふうに責めるのは許せなかった。私は彼の頬を思い切り叩きつけた。これで少しは、彼の頭も冷えるんじゃないかしらと思った。「頭がおかしいんじゃないの、気持ち悪い!私たちはもう別れたのよ。それに心変わりしたのはどっち?そんなにはっきり言わせないで。とっとと消えて!も
私が吹っ切れているのを見て、空は謝り続けた。「あの日、おばさんのお見舞いに行けなかったのは、本当に忙しかったんだ。胃がんだって聞いてたけど、まさか、あんなに大変なことになってるなんて、知らなかった。俺を殴ってくれ、澪。もう一度やり直してくれるなら、君の言うことは何でも聞くから」母のカルテは、調べれば誰にでも分かるようになっていた。それなのに、同じ病院で医師として働いている空が、母の病状が重いことを知らなかったなんて。よくも、そんなことが言えたものだね。もう彼とこれ以上関わりたくなかったので、私ははっきりと告げた。「あの日のメッセージで、はっきり伝えたはずよ。別れたら、もう終わり。あなたといるのは、本当に疲れるの。もう帰って。夏美さんと一緒になれば、ご両親も喜ぶでしょ。だから、もう私の前に現れないで」「嫌だ!」空はひどく取り乱していた。「俺が愛しているのは君だけだ。君じゃなきゃ、誰といたって幸せになれない。安心してくれ。すぐに夏美とは縁を切るから。もう二度と君を悲しませるようなことはしない。澪、君がここに残りたいって言うなら、それでもいい。もう一度俺を受け入れてくれるなら、俺も一緒にここに残るよ」空は、まるで、過去のすべてを投げ出すことが、彼にとってはいとも簡単なことであるかのように、迷いなくそう言い切った。私は空の顔から、嘘の証拠を見つけ出そうとした。だけど、それはできなかった。空の言葉に、私の心は大きく揺れた。でも、それは好きという気持ちからではない。何年も前、私も彼に、「お願いだからここにいて」と、そう懇願したことがあったからだ。「つまり、本当はあなた、それでもよかったんじゃない」「え?」空はきょとんとして、私の言っている意味が分からないようだった。「5年前、卒業の時。私が地元に帰りたいって言ったら、『遠距離は無理だ。一緒には行けない』って言ったのは、あなたじゃない」私はうつむいて、静かに言った。「私がA市に残らないなら別れるって。そう言って私を脅して引き留めて、この5年というもの、私の好きという気持ちをずっと踏みにじってきたじゃない。なのに今さら、別れるってなった途端、『一緒にここに残る』なんて言うんだね。空、つまり今まで、あなたは私と一緒に来られなかったんじゃなくて、ただ、来たくなか
おかげさまで、母の体も少しずつ良くなってきた。私が帰ってきたことには、ちゃんと意味があったんだ。たまに母が、何気なく私の前で空のことを口にすることがあった。でも私は、いつもなんとか話題を変えたり、話を逸らしたりした。別れたことについて、母にははっきり説明しなかった。彼女自身のせいで私の恋愛をダメにしたって、思わせたくなかったから。でも、私が急に実家に戻ってきたんだから。さすがの母も何かあったと察するだろう。きっと、申し訳なく思ってるに違いない。以前、母が会いに来てくれたとき、空はいつも態度が悪かった。彼女が私のために我慢してくれてたのは、分かっていた。私の恋愛のせいで、母まで傷つけてしまった。だから、空に対する嫌悪感が、さらに強くなったんだ。空が私に会いに来るなんて、本当は思ってもみなかった。彼みたいな人なら、私が家を出た後、誰もいない部屋で悪態をついてるはずだ。心の中では、「見る目のない女だ」って私を罵って、そう遠くないうちに夏美と結婚するんだろうって。そして、別れを切り出したことを、私がいつか死ぬほど後悔するって、そう思ってるんじゃないの?だからあの朝、買い物を終えて家に帰る途中、家の前に立っていたあの後ろ姿が誰なのか、一目で分かったけど……まさか、空だなんて思いもしなかった。彼が振り返った瞬間、心臓がどきんと跳ねて、そしてすっと冷めていった。それはもう好きだからじゃなくて、ただびっくりしただけだって、自分でも分かった。空は、一度も私の実家に来たことがなかった。母が会いたがってたから、今まで何度も誘ったけど、そのたびに色々な言い訳をして断られていた。空が私の故郷を、A市みたいに都会じゃない田舎だって、見下しているからだって分かってた。口では何度「愛してる」って言っても、心の中では彼の両親と同じ、私のことを見下していたんだ。ただ、空の両親よりも体裁を気にするから、それを口に出さなかっただけ。実家に帰ってから、たくさんのことを冷静に考えられるようになった。前は、いつも夏美のことが嫌いだった。彼女が私と空の間に割り込んで、私たちの関係を壊すんだって責めてた。でも今になって、本当に責めるべきなのは空の方だって、はっきりと気づいた。空が何度も夏美に気を持たせるようなことをしたから、
「野口先生、大変です、緊急の患者さんが運ばれてきました!至急お願いします!」手術を終えたときには、もう次の日の明け方になっていた。空の仕事は、ものすごく大変だ。あの頃の私は、仕事で疲れているはずなのに、空のことが心配で、じっとしていられなかった。彼が病院に泊まると聞くと、何か彼の好きな夜食を作って届けたり、温かいスープを作って持って行ったりした。空はいつも、「そんなことしなくていいから、家で寝てて」と言っていた。でも、恋ってそういうものじゃない?恋をしていると、なんだか自己満足みたいなことをしたくなるものだ。誰もいない静かな夜の病院で、空はスープを飲んでいた。私は彼の隣に椅子を持ってきて、くだらない話をして聞かせた。そんな時間だけが、彼の両親や夏美の存在を忘れさせてくれた。そして、私たちだけの、ささやかな幸せをそっと見せてくれる気がした。夜だからといって、ずっと暇なわけじゃない。空が忙しくなると、私は静かに彼を待っていた。待ちくたびれて眠くなったら、当直室のベッドで少しだけ眠った。幸せだったな。空は目を閉じた。想像の中の幸せな日々は、いつもこんな風にあっという間に過ぎてしまう。こんなふうに疲れて眠いときにしか私のことを思い出せない自分に、空はほんの少しだけ罪悪感を覚えた。二人の関係では、いつも私ばかりが尽くしていた。空は、母が胃がんで20日以上も入院していたのに、一度もお見舞いに来てくれなかった。一番近くにいたときなんて、たった4階しか離れていなかったのに。そこまで考えて、空はようやく彼が間違っていたことに気づいた。私と私の家族に対して、思いやりがないどころか、冷酷でさえあったのだ。恋人だということを抜きにしても、ただの友人として私の母を見舞うべきだった。空はもう一刻も早く行動しなければと思った。白衣を脱いで着替えると、すぐにチケットを取り直し、すぐに私の元へ向かおうと決めた。当直室を出てナースステーションの前を通りかかったとき、若い看護師二人の話し声が聞こえてきた。一人がうっとりしたように言った。「野口先生って本当にかっこいいよね。彼女になったら、すっごく幸せでしょう」「それが、そうでもないみたいよ」もう一人は呆れたように言った。「この間、野口先生の彼女のお母さんが診察に来
空は、別れたくない、と私を引き留めようとしてる。その頃、私はもう実家に向かう新幹線の中だった。新幹線のガタンゴトンという音の中、私は過去の全てと、空にさよならをした。スマホが何度も鳴った。画面を開くと、空から引き留めるためのメッセージが届いていた。【澪、どこへ行ったんだ?】【澪、俺が悪かった。行かないでくれ……】【澪、ごめん。前のことは全部俺が悪かった。だから、お願いだ、俺から離れないでくれ】立て続けに届くお詫びのメッセージを見ても、私の心はもう少しも揺れなかった。でも、今さら後悔しても、もう遅い。もしあの時、空が少しでも私のことを考えてくれていたら、私たちがこうなることは絶対になかった。私は、暗い気持ちを抱えながら、すべてのメッセージを消した。そして、ラインも電話も、彼に繋がる連絡手段をすべてブロックした。それを終えると、私は母とのライン画面を開いた。母からは、いつ頃着くかという連絡が来ていた。私の部屋も、もう綺麗にしてくれているそうだ。今朝早くにスーパーへ買い物に行ってくれて、私の大好きな料理を作ってくれているらしい。その優しさを思うと、胸がじんわりと温かくなった。やっぱり、本当に愛してくれる人の気持ちは、無理に探さなくても、自然と伝わってくるものなのだ。私のメッセージを見た空が、まだやり直せるという淡い期待を抱いていたのだとすれば、家のドアを開けた時、彼はすべてがもう手遅れだということを、ついに悟ったのだ。私たちが何年も一緒に暮らしたこの部屋は、何も変わっていなかった。まるで、空が私に一緒に住んでほしいと頼んできた、あの日のままだった。唯一変わったことといえば、私がここで暮らしていた痕跡が、すべて消え去っていたことだ。空は家柄もよく、医者という仕事柄もあって、普段から家で料理をすることはほとんどなかった。対して私は、家事が好きで、なんでも自分でやりたいタイプだった。だから以前は、キッチンには鍋やお皿といった調理器具がたくさん並んでいた。でも今は、それらがすべてなくなっていた。冷蔵庫の中も、きれいに空っぽになっていた。部屋全体がモデルルームみたいで、まったく生活感がなかった。玄関にあったスリッパも、リビングに飾ってあった絵も、クリスマスに撮った写真も、全て綺麗
スマホの画面に表示されたメッセージに、空はしばらく言葉を失った。私が怒ることは、彼も想像していた。どうやって言い訳をしようかと、もう考えていたくらいだ。いつものように、ちょっとしたプレゼントで機嫌をとるか。それか、全ての責任を私に押し付けるか。私が物わかりの悪い女で、彼の立場を理解してない、と責めるつもりだった。今までは、空がそうするたびに、私はいつも許していた。でも、今回は違った。空が今までどんな嘘をついて、私を何度も期待させては裏切ってきたとしても……スマホの画面が光って、別れのメッセージを見るその瞬間まで、まさか私の方から別れを切り出すなんて、彼は一度も考えたことがなかったのだ。空はパニックになった。レストランにいる両親と夏美のことなんて、もう頭になかった。彼はくるりと背を向けて、その場を去ろうとした。夏美はさっと顔色を変え、慌てて空の腕を掴んだ。「空さん、どこに行くの?お料理、もう注文しちゃったんだよ?私たちを置いていく気なの?」夏美は空の腕にしがみついて行かせまいと、甘えた声を出した。いつもなら、夏美がこうして甘えれば、空はすぐに心が和らいだはずだった。そして、素直に彼女の機嫌をとっただろう。でも今日の空は、不満そうな夏美の顔を見ていると、急に胸がむかむかしてきた。またこれか。彼は夏美の手を振り払い、出て行こうとした。「待って!」夏美はじだんだを踏むと、今度は凪に目をやり、か弱く、可哀想な様子で言った。「おばさん、空さんは私たちと一緒にご飯を食べる時間さえないんですって。澪さんと結婚したら、私たちはもう、お邪魔になってしまうのでしょう?」この言葉を聞いて、凪の顔つきは案の定、さっと変わった。凪はもともと私のことが気に入らなかった。田舎出身の私が彼女の息子にはふさわしくないと思っていて、ずっと空と別れさせて、夏美と一緒になってほしがっていたからだ。やっと空に説得されて私に会うのを承知したのも、彼の顔を立てただけ。本当に私を受け入れたわけではなかった。だから、凪は夏美の焚きつけるような言葉に簡単に乗せられてしまい、不機嫌そうな顔になった。「夏美の言う通りよ、空。あの子が来ないなら、もういいじゃない。野口家の嫁になりたいなら、年上の方を待たせるなんて非常識