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12:残された手帳

last update Dernière mise à jour: 2025-10-03 08:12:25

 満ち足りた幸福感の中、一人残された結菜は、シーツの中にまだ残る智輝の温もりを感じていた。

 昨夜の出来事すべてが、まるで美しい夢のように思える。

 彼が見せた無防備な笑顔、情熱を宿した瞳、彼女の名を呼んだ優しい声。その一つひとつが、色褪せることのない宝物のように感じられた。

(また夜に会える……)

 その約束に結菜は期待に胸を膨らませながら、ベッドを抜け出した。

 体はひどく気だるく、特に下腹が重いが、心は生まれて初めて満たされている。一歩を踏み出すと、どろり――と彼女の中から昨日の情事の証が流れ出した。

「あ……。これ、智輝さんの」

 結菜は赤面した。シャワールームを探して、身を清める。

 シャワールームの大きな鏡に映る彼女の肌には、赤いキスマークがいくつも散っていた。結菜はまた赤くなりながら、シャワーを済ませた。

 それから彼のシャツを借りて羽織って、部屋の中を見て回る。どこもかしこも、彼の気配に満ちている。

 リビングに行ってみると、ローテーブルの上に、智輝が忘れていったのであろう黒革の手帳が置かれている。

(忘れ物? どうしよう、連絡はした方がいいのかな)

 結菜は手帳に手を伸ばしかけて、ためらった。

 ふと、その時。手帳の表紙に型押しされたロゴマークに、彼女は気づいた。

 洗練された書体で組まれた「KIRYU」の文字。その周りを、歯車と電子回路をモチーフにした意匠が囲んでいる。ニュースや経済誌で何度も目にしたことのある、巨大ITコンツェルン「KIRYUホールディングス」のロゴだった。

(桐生……? 智輝さんの名前も、桐生。まさか、偶然よね)

 血の気が引いていくのを感じた。これから知るであろう真実から、もう逃げられない。結菜はこわばった指で手帳を開いた。

 手帳の見開きに挟まれていた一枚の名刺が、彼女の淡い希望を打ち砕いた。

 そこには、彼の美しい筆跡で書かれたものと同じ名前――『桐生智輝』――その下には『代表取締役CEO』という、結菜の日常とはあまりにかけ離れた肩書が記されていた。

 愕然とした。彼は、冷徹な若き経営者として有名な桐生智輝本人だった。

 学生時代に祖父が創業した会社を継いで、一代で世界的なIT企業へと成長させた、経済界の寵児。そんな雲の上の存在だったなんて。

(嘘……。どうして、何も言ってくれなかったの?)

 数時間前までの幸福感はあ
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