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後宮を出た日、桃が咲いていた

後宮を出た日、桃が咲いていた

By:  まいにちKumpleto
Language: Japanese
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死の淵をさまようほどの難産を乗り越え、程若魚(てい じゃくぎょ)はついに我が子である皇子を産み落とした。 意識を取り戻して最初に耳にしたのは、枕元に付き添っていた侍女、采月(さいげつ)の涙ながらの訴えだった。 「妃様……皇子様は陛下がお連れになりました。これからは長秋宮で、皇后様がお育てになると……」 その言葉を聞いても、若魚は表情を微塵も変えなかった。寝台に身を横たえたまま、「そう」とだけ呟き、静かに頷いた。 采月をはじめ、周囲に控えていた侍女たちが一斉に平伏した。誰もが両目を赤く腫らし、震える声で若魚に訴えかけた。 「妃様……どうか何か仰ってくださいませ。私たち、この命を懸けてでも長秋宮から皇子様を奪い返してまいります!」 「その必要はないわ」 若魚の声は、凍てつく冬の湖面のように、どこまでも静かだった。 「……もう、いらないわ」 耳を疑うような言葉に、采月が弾かれたように顔を上げる。 「ですが、あの御子は、妃様が十月十日もの間お腹に宿し、命と引き換えにしてまで産み落とされた大切な御子ではございませんか!」 「陛下のお心のままに。陛下があの子を皇后様の御子とお定めになったのであれば、それがすべての答えなのよ」

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Kabanata 1

第1話

侍女たちは思わず顔を見合わせ、その顔に戸惑いと不安を浮かべた。

妃様が、我が子を奪われてなお、これほどまでに平然としているなんて……あまりにも、妃様らしくない。

その時、重苦しい静寂を切り裂くように、外から宦官の甲高い声が響き渡った。

「陛下のおなり――!」

鮮やかな明黄色の衣をまとった謝玄舟(しゃ げんしゅう)が、内殿へと足を踏み入れた。すらりとした長身と、非の打ちどころのない秀麗な顔立ち。だが、玄舟の顔には何の感情も浮かんでいなかった。

彼は寝台の傍らで足を止め、横たわる若魚を見下ろして口を開いた。

「……目が覚めたか」

そして、わずかな沈黙のあと、弁解とも単なる報告ともつかない淡々とした口ぶりで言葉を継ぐ。

「宛霜は皇后だ。このまま嫡子を持たねば、皇統の安定を疑われ、いずれ天下の非難を浴びることになる。皇子を皇后の養子とするのが、国のためにも、礼法に照らしても、最も筋が通っているのだ」

「陛下がわざわざご説明なさる必要などございません」

若魚は、ゆっくりと静かに目を開いた。かつては生気にあふれ、彼への深い恋慕を宿していた瞳。しかし今やそれは、凍りついた暗い淵のように、何の感情も映し出してはいなかった。

「すべて理解しております。それに、私も、異存はございません」

玄舟が密かに用意していた慰めの言葉の数々――「必ず償いはする」「いつでも会いに来ればいい」「あの子がそなたの子であることに変わりはない」といった言葉はすべて、発せられることなく喉の奥へと消えていった。

表情ひとつ変えない彼女の横顔をじっと見つめているうちに、彼の胸の奥底から、得体の知れない苛立ちが湧き上がってくる。

おかしい。

彼の知る若魚は、決してこのような女ではなかったはずだ。

甘えてはすがりつき、涙に濡れた瞳で彼を見上げ、たとえどれほど取ってつけたような理由であろうとも、彼の口から聞けさえすれば、たちまち機嫌を直して微笑むような女だった。

彼女は彼を深く愛していた。身を焦がすほど激しく、卑屈なまでに一途に。それこそが、彼の人生において唯一、決して揺らがないと確信できるものだったはずだ。

それなのに今の彼女は、ただ静かに、分かっている、異存はないと告げるだけだ。

「本当に、それでよいのか?あの子が宛霜を母と呼び、皇后である母を『母后』と慕うようになっても?」

「異存があろうとなかろうと」

若魚の唇に、ひどく儚げな微笑みが浮かぶ。

「陛下はもう、あの子を連れて行ってしまわれたではありませんか」

その途端、玄舟の胸に息苦しいほどの重圧がのしかかった。

これこそが、彼自身が望んだ結末だったはずだ。それなのに、彼女がここまで無関心を貫く姿を目の当たりにすると、どす黒い苛立ちが再び湧き上がってくる。

今の彼女はまるで、あの子のことなど少しも気にかけていないようだった。

そして、彼自身のことすらも……

その事実に気づいた瞬間、胸の奥が強く締めつけられるように痛んだ。彼は何かを言おうと口を開きかけたが、今この場で、いったい何を言えばよいのか、ふさわしい言葉がひとつも見つからなかった。

ちょうどその時、控えめに扉を叩く音が響き、続いて長秋宮の女官長の焦った声が聞こえてきた。

「陛下……皇后様のご持病が再発なさり……陛下がお見えにならないことを、しきりに案じておいでです……」

その声に、玄舟ははっと我に返った。瞳の奥底で揺れていた複雑な感情は、瞬く間に、皇后である葉宛霜(よう えんそう)を案じる色へと変わっていった。

「ゆっくりと休むといい。朕は……また日を改めて見舞おう」

それだけを言い残すと、彼は踵を返し、その足音は足早に遠ざかっていった。主の去った寝殿には、再び重苦しい静寂が満ちていく。

しばらくして、若魚はゆっくりと寝台から身を起こした。

「采月。これまでに陛下が私に下さったものを、すべてここに持ってきてちょうだい」

采月は一瞬戸惑いの表情を浮かべたものの、理由もわからぬまま言われた通りに品々をかき集めた。ほどなくして、大小さまざまな豪奢な錦の箱が、床を埋め尽くすほど、うず高く積み上げられた。

彼が即位して間もない頃に下賜してくれた、見事な南海真珠の髪飾り。皇帝として南方各地の巡察から戻った折、ふと思い出したかのように渡してくれた高級な眉墨。

それから、もっと昔のこと。東宮の寂れた離れで、機嫌の良かった彼がふと手折って贈ってくれた、梅の一枝。あの時、自ら丹精を込めて乾燥させて、大切に大切に錦の袋へとしまい込んだもの……

若魚はしばらく静かにそれらの品々を見つめたあと、裸足のまま寝台を下りた。そして、すべてを部屋の隅に置かれた銅の火鉢へと次々に投げ入れていく。

火鉢の中では、上質な炭が赤々と熾っていた。乾燥させた梅の枝は炎に触れた途端、たちまち縮こまって黒く焦げつき、一筋の青い煙となり、宙へと消えていった。

「妃様!いったい何をなさるのですか!」

事態に気づいた采月が悲鳴を上げ、慌てて止めようと駆け寄ってくる。

だが若魚は、伸ばされた手の手首を、ぐいとつかんだ。さほど強くつかまれてはいないはずなのに、采月は不思議と身動きが取れなくなった。

「動かないで」彼女は淡々と告げた。「これでいいの。これらは、とっくの昔に燃やしてしまうべきだったのだから」

七年もの間、地に這いつくばるほど卑屈に、彼を想い続けてきた、あの愚かな恋心も同じだった。

もっと早くに、跡形もなく断ち切ってしまうべきだったのだから。

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32 Kabanata
第1話
侍女たちは思わず顔を見合わせ、その顔に戸惑いと不安を浮かべた。妃様が、我が子を奪われてなお、これほどまでに平然としているなんて……あまりにも、妃様らしくない。その時、重苦しい静寂を切り裂くように、外から宦官の甲高い声が響き渡った。「陛下のおなり――!」鮮やかな明黄色の衣をまとった謝玄舟(しゃ げんしゅう)が、内殿へと足を踏み入れた。すらりとした長身と、非の打ちどころのない秀麗な顔立ち。だが、玄舟の顔には何の感情も浮かんでいなかった。彼は寝台の傍らで足を止め、横たわる若魚を見下ろして口を開いた。「……目が覚めたか」そして、わずかな沈黙のあと、弁解とも単なる報告ともつかない淡々とした口ぶりで言葉を継ぐ。「宛霜は皇后だ。このまま嫡子を持たねば、皇統の安定を疑われ、いずれ天下の非難を浴びることになる。皇子を皇后の養子とするのが、国のためにも、礼法に照らしても、最も筋が通っているのだ」「陛下がわざわざご説明なさる必要などございません」若魚は、ゆっくりと静かに目を開いた。かつては生気にあふれ、彼への深い恋慕を宿していた瞳。しかし今やそれは、凍りついた暗い淵のように、何の感情も映し出してはいなかった。「すべて理解しております。それに、私も、異存はございません」玄舟が密かに用意していた慰めの言葉の数々――「必ず償いはする」「いつでも会いに来ればいい」「あの子がそなたの子であることに変わりはない」といった言葉はすべて、発せられることなく喉の奥へと消えていった。表情ひとつ変えない彼女の横顔をじっと見つめているうちに、彼の胸の奥底から、得体の知れない苛立ちが湧き上がってくる。おかしい。彼の知る若魚は、決してこのような女ではなかったはずだ。甘えてはすがりつき、涙に濡れた瞳で彼を見上げ、たとえどれほど取ってつけたような理由であろうとも、彼の口から聞けさえすれば、たちまち機嫌を直して微笑むような女だった。彼女は彼を深く愛していた。身を焦がすほど激しく、卑屈なまでに一途に。それこそが、彼の人生において唯一、決して揺らがないと確信できるものだったはずだ。それなのに今の彼女は、ただ静かに、分かっている、異存はないと告げるだけだ。「本当に、それでよいのか?あの子が宛霜を母と呼び、皇后である母を『母后』と慕うようになっても?」
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第2話
七年。あれから、七年の月日が流れていた。七年前、玄舟はまだ東宮の太子であり、若魚はその東宮に仕える、書斎の掃除を任されていた、名もない下働きの宮女に過ぎなかった。丞相の嫡女である宛霜との華やかな婚礼を翌日に控えたあの日、玄舟は当時の皇帝の逆鱗に触れ、太子の座を廃されたうえで失脚した皇族や妃が幽閉される冷宮の別院へと送られてしまった。愛する宛霜まで巻き込むことをよしとしなかった彼は、宛霜との縁談を断ち切るため、たまたま近くにいた下働きの若魚を名目上の妻に選んだ。それは、名ばかりの、空虚な妻の座だった。冷宮での暮らしは筆舌に尽くしがたいほど苦しかったが、若魚にとってはむしろ甘く愛おしい時間だった。彼女はもうずっと前から、誰にも知られることなく彼を想い続けていたからだ。だからこそ冷宮で過ごした三年間は、彼女の人生でもっとも辛く、それでいて誰にも知られることのない幸せに満たされた日々でもあった。土砂降りの雨の中を二人で歩き、彼の亡き母妃が生前に埋めた酒の甕を、裏庭の枯れ木の下から泥だらけになって掘り出したこともあった。骨の髄まで凍える冬を共に越え、数少ない厚手の布団をすべて彼にかけ、自分の手足にはひどい霜焼けを作った。政敵が差し向けた宦官との言い争いの末に石段から突き落とされ、自らの脚の骨を折って、命を落としかけたことすらあった。彼とて、血の通った人間だった。あれほどまでに冷ややかだった彼でさえ、少しずつ変わっていった。若魚を見る眼差しから、最初にあった警戒と冷遇の色が薄れ、いつも凍りついていた瞳の奥に、微かな温もりが宿るようになっていた。凍える若魚に、何も言わず懐に入れて使う小さな手あぶり――温かい手炉を押し込んでくれたこともある。若魚が慣れない手つきで衣を繕おうとして指を刺してしまった時、彼は軽く眉をひそめながら「もういい、放っておけ」とだけ不器用に呟いた。若魚が悪夢にうなされて目を覚ました夜には、彼は珍しく彼女をその腕の中に抱き込んで、共に眠ってくれた。やがて玄舟は長きにわたる雌伏の時を経て、着実に策を練り上げ、ついに政敵を退けて実権を取り戻し、天下を統べる帝位に就いた。冷宮の粗末な別院から、皇城の中心にそびえる威容を誇る宮殿へと戻ったあの日、誰もが疑っていなかった。隣に立つ皇后の座は、間違いなく若魚のものだと。
Magbasa pa
第3話
それから数日の間、若魚は部屋に閉じこもったまま、一歩も外へ出なかった。そこへ、長秋宮の女官長が屈強な宦官たちを引き連れて荒々しく押しかけてきた。「恵妃様。ご出産からもう七、八日は経っておりますね。宮中では、産後三日以内にご挨拶とお礼にあがるしきたりですのに。いつまでも寝台から出られないのは、お身体がそれほどお弱いとでも仰るのか、それとも……そもそも皇后様など眼中にないということかしら?」若魚は寝台に横たわったまま天蓋を見上げ、何も答えなかった。女官長は顔つきを険しくし、鋭い声を張り上げた。「なるほど、それがお答えということですのね。誰か!恵妃様を寝台からお連れしなさい!皇后様のご命令です。しきたりを軽んじた罰として、杖で打つ杖刑に処し、見せしめといたします!」すぐさま屈強な宦官が二人歩み出て、有無を言わさず若魚を寝台から引きずり下ろした。出産で体力を大きく削られ、もともと弱り切っていた身体を、そんな乱暴な扱いで引きずり回され、若魚は目の前が真っ暗になり、ただ立っているのもやっとだった。これが宛霜の陰湿な嫌がらせだということは十分に分かっていた。母親としての立場を見せつけたいのか、それともただ弄んで楽しみたいだけなのか。けれど、もうどうでもよかった。すべてに対して、彼女の心は完全に麻痺していた。「罪をお認めになりますか?」女官長が冷ややかに問う。「ええ、認めます」若魚は目を閉じ、抑揚のない声で答えた。女官長は一瞬言葉に詰まった。こうもあっさりと認められるとは思っていなかったらしい。拍子抜けするほどの手応えのなさに、かえって苛立ちを募らせたようだった。「打ちなさい!容赦は要りません。身をもって思い知らせておやりなさい!」甲高い声で命じる。風を切る音とともに、刑罰に使う太い杖が力任せに振り下ろされ、肌に打ちつけられるたび、鈍い音が部屋に響いた。激痛が走るたび、若魚は下唇を強く噛みしめた。額にはじっとりと冷や汗が滲み、背中の衣はすぐさま赤い血で染まっていった。寝殿の奥へと引きずり戻されたときには、若魚は背中から流れた血で、衣を真っ赤に染めていた。どれほどの時間が経ったのか。朦朧とする意識の中、采月が転がるように駆け込んでくるのが見えた。その腕には、おくるみに包まれた赤子をしっかりと抱いていた。「妃様……妃様
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第4話
乾元殿の外には、煌々と明るい灯りが灯っていた。若魚は冷たい玉石の階段の下に崩れ落ちるように膝をつき、残る力を振り絞って叫んだ。「恵妃・程若魚にございます!どうか陛下にお取り次ぎください!お願いです、薬をお与えください!侍女の命をお救いください!」殿の中からは、かすかに管弦の音と、女の艶やかな笑い声が漏れ聞こえてくる。若魚の叫びは、まるで深い海へ投げ込まれた石のように、何の反応も呼び起こさなかった。それでも彼女は何度も額を地面に打ちつけた。硬い石畳に額がぶつかるたび、鈍い音が響き、たちまち青紫色に腫れ上がっていった。「恵妃・程若魚にございます!どうか陛下にお取り次ぎください!どうか薬を!」どれほど経ったろうか。ようやく殿の扉が開いた。玄舟が姿を現し、高い階段の上に立った。月明かりと灯火が彼を照らし、その整った面差しはいっそう冷たく、そして気高く見えた。塵ひとつ寄せつけないような佇まいだった。彼は視線を落とし、階段の下で裸足のまま、血に染まった薄い単衣一枚をまとい、ぼろぼろになった若魚を見つめた。眉が深く寄せられる。「若魚。またそなたは何を騒いでいる」その声は氷のように冷たかった。「聞けば、今日そなたの侍女が勝手に子を連れ出し、風に当てて熱を出させたそうだな。今も高熱が下がらないと聞く。宛霜に子を任せると自分で承知しておきながら、侍女にこんな真似をさせるとは。いったい何のつもりだ?」若魚は顔を上げた。涙と血が入り混じり、見るも無残な有様だった。それでも、彼女の瞳はまっすぐに彼を捉えて離さなかった。「陛下。私は、あの子に会いに参ったのではございません」玄舟は一瞬、言葉を失った。若魚は、胸の奥からひと言ずつ絞り出すように続けた。「私の侍女、采月を救うため、こうして参りました。どうか九転還魂丹をお授けください。どうか、あの者に生きる道をお与えくださいませ」玄舟は完全に固まった。聞き間違えたのかと、本気で疑うほどだった。「今、何と言った?もう一度言ってみろ」「私は」若魚は一語一語、噛みしめるように告げた。「侍女の采月を救うため、陛下に九転還魂丹をお授けいただきたく、お願いに参りました」「そなた……」玄舟の顔つきがみるみる険しくなり、肩がわずかに上下した。抑えきれない怒りが滲んでいた。「若魚!今、朕が
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第5話
若魚は自らの手で、采月に死化粧を施した。いつも笑みを絶やさず、笑うと愛らしく目を細めた采月は、今は遺体を安置する冷たい木の台の上に静かに横たわり、二度とその目を開くことはない。それから数日、若魚は昭陽殿に閉じこもり、部屋から一歩も外へ出なかった。外の世界の出来事のすべてが、もう自分には関わりのないことのように思えた。ただ静かに横になり、あるいは座り、窓の外で日が昇り月が沈むのを、感情を失った虚ろな瞳で見つめるだけだった。まるで魂の抜けた人形のように。そんな日々は、宛霜の生誕を祝う宴が催される日まで続いた。このような大きな宴の場では、後宮に仕える妃の一人として、出席しないわけにはいかなかった。華やかな管弦の調べが響き、祝賀の杯が次々と交わされる。高座には、玄舟と宛霜が寄り添うように並んで座っていた。宛霜は牡丹と鳳凰をあしらった、ひときわ鮮やかな真紅の宮廷衣装をまとい、頭には九羽の鳳凰をかたどり、珠をあしらった見事な冠を戴いている。化粧は隙なく完璧に施され、笑顔は明るく華やいでいた。玄舟は相変わらず冷たく気高い佇まいを崩さなかったが、宛霜に向ける眼差しには、誰の目にも明らかな柔らかさと甘やかな愛情が滲んでいた。自らの手で彼女に料理を取り分け、耳元で何か囁くときには親しげに身を寄せる。彼女がわざとらしく拗ねてみせれば、困ったように首を振りながらも、その瞳の奥には深い愛情が浮かぶ。女官が祝いの品を献上するたびに、彼はまず彼女の様子を窺い、彼女が嬉しそうな顔を見せて初めて、静かに頷いてみせた。居並ぶ妃たちや、位を授けられた高官の妻である命婦たちは、皆一様に羨望と追従の言葉を並べ立て、皇帝と皇后の睦まじさを褒め称えた。以前ならば、一つひとつの光景が若魚の胸を深く刺し貫き、息もできないほどの痛みをもたらしたはずだった。だが今は、ただ静かに眺めているだけで、心には何ひとつ感情の波が立たなかった。完全に凪いでいた。宴もたけなわ、歌舞がもっとも盛り上がりを見せたそのとき、突然の異変が起きた。どこからともなく、黒装束で顔を覆った刺客が十数人も現れ、鋭い刃を手に、まっすぐ上座へと突進してきたのだ。「曲者だ!陛下をお守りしろ――!」悲鳴、驚愕の声、割れる食器の音、刃のぶつかる金属音が一斉に響き渡った。華やかな宴の場は
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第6話
若魚が昭陽殿に戻り、埃に塗れた上衣を着替え終えたばかりのころ、長秋宮の宦官がやって来て、居丈高に皇后の旨を伝えた。皇后様が驚きと怒りで気が逆上し、突然血を吐いて倒れたため、陛下のご命令により、すべての妃嬪はただちに長秋宮へ参じ、看病にあたるようにとのことだった。若魚は一度目を閉じ、少し乱れた鬢を整え直すと、宦官の後について長秋宮へと向かった。長秋宮では、玄舟が宛霜の寝台の傍らに腰かけ、眉根を深く寄せ、ひどく険しい表情を浮かべていた。若魚は黙って末席まで進み、静かに跪き、頭を垂れた。まるで命を持たぬ彫像のように。太医が脈を診て、玄舟に報告する。「陛下に申し上げます。皇后様は強い驚きと怒りで気血が乱れ、血を吐き、意識を失われました。命に別状はございません。心を鎮める薬を処方いたしましたので、服用のうえ十分にご養生いただければ、じきに目を覚まされるかと」玄舟の表情がわずかに緩んだが、瞳に浮かぶ深い憂いは消えなかった。「本当に、命に別状はないのだな?」「ご安心ください、陛下。皇后様は一時的に強い衝撃を受けられただけ。十分にご養生いただければ大丈夫でございます」玄舟は深く頷き、太医を下がらせると、床に跪く妃嬪たちを見渡し、重々しく告げた。「皆、下がってよい。朕はここで宛霜に付き添う」傍らに控えていた宦官長が一歩進み出ると、慎重に口を開いた。「陛下、本日は陛下ご自身もお怪我を負われております。何よりも、まずはお身体をおいたわりくださいませ。明日は朝議も控えており、政務も山積しております。皇后様のご看病は女官たちにお任せになり、今宵はお戻りになってお休みくださいませ」玄舟は首を横に振り、青ざめた宛霜の顔に視線を落としたまま、有無を言わさぬ口調で言った。「多くを申すな。宛霜より大切なものなど、朕には何もない」その場にいた者たちは皆、静かに口をつぐんでうつむき、それ以上は誰も諫めようとせず、次々に礼をとって下がろうとした。若魚もほかの者たちに続いて立ち上がり、部屋を出ようとした。「陛下!」長秋宮の女官長は、宛霜の寝台の傍らから進み出ると、突然その場にひれ伏した。「わたくし……どうしても申し上げねばならぬことがございます!皇后様があまりの怒りに血を吐いて倒れられたのは、すべて……すべて、恵妃様のせいにございます!」
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第7話
女官長は玄舟のその一瞬のためらいを鋭く察知し、すぐさま口を開いた。「陛下、どうかお怒りをお鎮めください!恵妃様は……ご出産からまだ日が浅く、お身体もまだ本調子ではございません。重い刑を科すのは、いささか酷にございましょう。とはいえ、目上に逆らい、皇后様を辱めたこの罪、罰せずに済ませるわけにはまいりません!さもなくば、宮中のしきたりも、皇后様のご威厳も、いったい何のためにございましょう?」彼女はそこで一拍置き、瞳の奥に狡猾な光を宿した。「僭越ながら申し上げます。恵妃様のお身体が刑に耐えられぬのであれば……いっそ、ご一族の方々に代わって罪を償っていただいてはいかがでしょう。たとえそれが……すでに亡くなられた方のご遺骨であろうとも」その一言に、玄舟と若魚は同時に表情を変えた。若魚は勢いよく顔を上げた。凍りついていたその瞳に、信じがたいものを聞いた驚愕と、激しい恐怖が迸った。「いやっ!」彼女は思わず声を上げた。玄舟もまた、眉を深く寄せた。女官長は慌てて身を伏せた。「陛下、どうかご一考くださいませ!わたくしはただ、恵妃様ご自身の目でご覧になれば、今度こそ心から悔い改め、二度と同じ過ちを繰り返されることもないのではと考えただけにございます。これもすべて……後宮の安寧を願ってのことでございます!」若魚はその場に崩れ落ちるように膝をつき、恐怖に声を震わせた。「陛下!私が悪うございました!どのような罰でもお受けいたします!ですが……どうか、家族の遺骨だけには手を触れないでくださいませ!あの者たちは、もう亡くなっているのです!お願いでございます……陛下!」玄舟は、崩れ落ちるように懇願する若魚の姿を見つめながら、胸の中の違和感がさらに重くのしかかるのを感じた。だが彼は苛立たしげに手を振った。「もうよい!自分の過ちが分かったのなら、罪には代償が伴うということも理解すべきだろう。今のそなたのその様では、もはや杖刑にも耐えられまい。女官長が申したとおりにせよ。程氏一族はすでに処刑されている。だが、その生き残りである若魚が幾度罪を犯しても悔い改めず、皇后を侮辱した罪は、到底許されるものではない。者ども、程氏一族の墓を暴き、遺骨を掘り出して鞭打て!若魚、そなたもその目でしかと見届けるがよい。これが、幾度も宛霜に逆らった者の末路だ!
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第8話
どれほどの時間が経ったのか、口元には濃く苦い薬の匂いが漂っていた。同時に、不思議な温もりが、冷え切り、痩せ細った身体の隅々へとゆっくり染み渡っていった。若魚は鉛のように重い瞼を、全身の力を振り絞って開いた。視界に真っ先に映ったのは、深い疲労と複雑な感情の入り混じった玄舟の顔だった。「……目が覚めたか。具合はどうだ?」若魚は口を動かそうとしたが、ひどくかすれて声が出なかった。玄舟は傍らの侍女に目配せし、若魚に水を飲ませるよう命じた。温かい水が乾いた喉を潤し、彼女はようやくかすれた細い声を絞り出した。「……感謝……いたします……」玄舟は、触れただけで崩れ落ちそうなほど弱り切った彼女の様子を見て、眉根をきつく寄せた。「太医の話では、しばらくは静かに養生し、決して思い悩んではならぬそうだ。あの百年ものの高麗人参は、毎日薄く切って煎じ薬に加えるよう命じておいた。これまでのことは……もう終わったことだ。この先……もし体調を崩すことがあれば、侍女に直接乾元殿まで来させればいい。いちいち取り次ぎを通す必要はない」言い終えると、彼はじっと若魚の青白い顔を見つめた。かつてのような敬慕や感謝の色が、彼女の瞳に浮かんでいないかを探るように。だが若魚は、ただ静かに聞いているだけだった。黒く沈んだその瞳は何の感情も映さず、深く沈んだ虚ろさが宿るばかりだった。彼女は弱り切った身体を無理に起こし、礼をとろうとした。「……陛下のご厚情に感謝申し上げます」その動きが身体の奥に響き、激しく咳き込んでしまう。胸が引き裂かれるような、苦しい咳だった。玄舟はその痛々しい様子を見て、かつてのような反応を何ひとつ返さない彼女に、苛立ちとも焦りともつかない息苦しさがこみ上げてくるのを感じた。怒りをぶつけたいのに、いったい誰にぶつければいいのかも分からない。結局、彼は勢いよく立ち上がると、袖を翻して去っていった。あとに残されたのは、突き放すような冷たいひと言だけだった。「己でよく考えるがいい!」侍女が慌てて若魚の背をさすった。「妃様……陛下は、きっと妃様のことを、まだお心にかけていらっしゃるのですよ。でなければ、どうしてあんな……」若魚は咳を止め、疲れきったようにゆっくりと目を閉じた。心にかけている?そうかもしれない。でも、それが
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第9話
玄舟の表情が一瞬にして強張り、続いて怒りと信じがたい思いが瞳に浮かんだ。「若魚!そなたはまだ宛霜を陥れようというのか!あれほど心優しく従順な宛霜が、そのようなことをするはずがなかろう!そなたは以前の父と兄の件をいまだに根に持ち、ことあるごとに宛霜へ恨みをぶつけているのではないか?前にも申したはずだ。そなたの兄が先に宛霜へ無礼を働かなければ、程家があのような末路をたどることもなかったのだ!」ひと言ひと言が、若魚の心を容赦なく抉っていく。彼のあまりにも露骨な偏りを目の当たりにし、若魚の胸にかすかに残っていた期待も、ついに跡形もなく消え去った。「陛下の仰せのとおりにございます。私が……すべて悪うございました」玄舟は諦めたようでいて、どこか嘲るようにも見えるその様子に、どうしようもない怒りがこみ上げたが、それをぶつける先が見当たらなかった。彼は身を起こし、侍衛に向かって冷たく命じた。「恵妃、程氏は言動に慎みなく、幾度も皇后を冒涜しておきながら、反省の色なし。ただちに静室に閉じ込め、後宮の戒律を百遍書き写させ、己の過ちをじっくり省みさせよ!朕の許しなくば、外に出すな!よく思い知らせるのだ!」若魚は侍衛に引き立てられた。抗うことなく、ただなすがままに連れて行かれた。謹慎に使われる静室は薄暗く湿っぽく、高い位置にある小さな窓から、わずかな光が差し込むだけだった。筆と墨と硯、それに分厚い規則書が投げ込まれ、重い扉が音を立てて施錠された。若魚は冷たい壁にもたれ、その場に座り込んだまま、身動きひとつしなかった。どれほど経ったろうか、静室の中で、何かが這い回るような不気味な音が聞こえ始めた。疲れきった目を上げると、わずかな光の中、毒々しい斑模様の毒蛇が数匹、壁の隙間や通風孔から蠢きながら這い出してくるのが見えた。瞳孔が瞬時に縮まる。悲鳴を上げようとしたが、恐怖で喉が塞がれたように声が出なかった。冷たい蛇の胴が足首にひんやりと絡みつき、鋭い牙が皮膚に食い込んだ。激痛が走り、目の前が暗転して、若魚は再び意識を失った。……再び目を覚ますと、そこは昭陽殿だった。玄舟が少し離れた椅子に腰かけていた。彼女が目を開けたのを見て、複雑な表情を浮かべる。「静室は長らく手入れが行き届いていなかった。まさか毒蛇が潜んでいるとは、朕
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第10話
宛霜は月明かりの下、若魚の細く頼りない姿を眺め、得意げに口の端を歪めた。「あら?陛下と私の子を見て、妬ましくなったのかしら。それとも、どこかに隠れて泣きたくなった?」若魚には、彼女と揉めるつもりなど毛頭なかった。今夜を逃せば、もう二度と宮を抜け出す機会はない。そのことだけが気にかかっていた。「私はただ……少し体調がすぐれませんので、先に戻って休ませていただきたいだけでございます」「体調がすぐれない?」宛霜は片眉を上げた。「私には、ずいぶん面白くなさそうに見えるけれど。まあ、無理もないわね。自分の子すら守れず、まるで一族を呪い殺したかのような、今では陛下の寵愛まで失ったのだもの。私と陛下の睦まじい姿を目の前で見せつけられて、平気でいられるはずがないわ」宛霜はそこで冷ややかに笑った。「とはいえ、妃の身でありながら、勝手に席を立とうとするなど無礼にもほどがあるわ。罰として、この場で夜が明けるまで跪いていなさい」夜明けまで――それでは、宮を抜け出す機会を完全に失ってしまう。焦りに駆られた若魚は、思わず顔を上げた。「皇后様、私は……」「何?私の命に逆らうつもり?」宛霜は冷笑を浮かべた。「どうやら、この前の罰ではまだ足りなかったようね」「そのような恐れ多いことは、決して考えておりません」若魚は深く息を吸い、必死に気持ちを落ち着かせた。「ただ、本当に体調がすぐれませんので、どうか先に下がることをお許しください。罰なら、明日必ずお受けします。それではいけませんでしょうか」「明日ですって?私は今、この場で跪けと言っているのよ!」二人はしばし向かい合ったまま、動かなかった。若魚は焦りに胸を焼かれながら、刻一刻と無情に過ぎていく時間を思った。そのとき、宛霜の視界の端に、遠くからこちらへ近づいてくる、明黄色の衣をまとった玄舟の一行が映った。彼女の瞳に鋭い光が走る。次の瞬間、宛霜は突然よろめくように一歩踏み出すと、たちまち怯えと悲痛の入り混じった表情を作り、悲鳴を上げた。「若魚!どうして私を押すの――!」言い終わらぬうちに、彼女の身体は激しい水音とともに、傍らの蓮池へと落ちていった。「皇后様が池に落ちられた!誰か、お助けを!」女官の甲高い叫び声が、夜の静寂を切り裂いた。玄舟が人を連れて駆けつけたとき、目にした
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