LOGIN早苗は圧倒的な“才能”を持っていた。
鷹見がこれまで、努力という言葉を意識することなく“それなりに”こなしてきたあらゆる分野において、彼女はまったく別の地平で結果を出していった。
しかもそれは、誰かに教わった正攻法ではない。常識や定石をなぞるのではなく、必要なものだけを直感的に掬い取り、不要なものを容赦なく切り捨てる破天荒な我流。それでいて完成度が高いのだから始末が悪い。こなすことに満足していた者と、身につけることに執着する者。その差は、時間が経つほどに明確に開いていった。
何をやっても勝てない。いや、勝負にすらならないこともあった。
唯一、自分の拠り所としていたボクシングでさえ例外ではない。踏み込みの鋭さ、間合いの詰め方、躊躇のなさ――怒涛のようなラッシュに押し込まれ、視界が揺らぎ、気づいたときには床に沈んでいた。
そのとき、鷹見は初めて“敗北”を実感した。
胸の奥に渦巻いたのは屈辱だった。
だが同時に、どこか
鷹見の言葉に女は首を傾げた。光の角度が変わり、女の顔に浮かんだ陰影に鷹見は驚く。頬を殴られたと分かる痕がそこにあり、原因を問えば結婚を嫌がって殴られたとのこと。女の身でそこまで抵抗した女に、何も抵抗しなかった自分とを比較し、鷹見は畏敬の念を抱いた。.*.「早苗、次の休みなんだが……」あやめに関係を知られたのだから、これからは隠さなくてもいい。それなら堂々とデートでもしてみようかと思って鷹見はそう尋ねたが。「次の休みは出かける約束があるから無理」あっさりと断られた。いままで碌にデートもしていない。それに今回はあまりに急。いろいろ思ったが、誰との約束かだけは聞くことにした。「断ってほしいなら、断ってあげるわよ?」「……いや、いい」鷹見の言葉は予想していたらしく、「ヘタレ」と早苗は笑う。早苗が会う相手は鷹見の内縁の妻と、その娘。娘は鷹見の子どもとなっているが、実際は内縁の妻とその亡夫との間の娘。傘下の病院に手を回し、娘の出生日を半年もずらしてみせたのは早苗だった。.鷹見の内縁の妻となった女は、極道の世界で育っているため【愛人】や【内縁の妻】の役割をよく分かっている。女は鷹見が自分名義にしたマンションで暮し、あまり外出をしない。しかし、役割を理解しているだけで、中身は普通の女だった。(……いや、普通か?)女は鷹見の内縁の妻として龍神会の催しに参加したとき、早苗を呼び出し、自分たちは形だけだからこれからも関係を続けて構わないと言った。あとから聞けば、初対面の鷹見の様子から自分が原因で想い人と別れたと誤解。それ以降は悶々と自分を責め、いい機会だと早苗に会って胸の内を話したわけだが……。 『はあ?』鷹見と早苗は恋人でも何でもなく、その状態で許可を出されても戸惑うだけだった。ここで「なかったこと」にしないのが早苗。どうしてなの
後日、鷹見はあやめに呼ばれた。「鷹見さんの内縁の奥さんは、【愛人】でしたのね」あやめの声は問いではない。少しだけ調子を落とした声は、確認。そのことに、鷹見は一瞬だけ表情を作るのが遅れた。鷹見と早苗のことをあやめが知り、「それ」を調べるかどうかは賭けだった。調べられて困ることではないが、気まずさはある。なにしろ鷹見の内縁の妻となった女は、神崎家と縁づけるための存在であり、対象は宗一郎か冬弥だった。但し、当時の冬弥はまだ十代前半で幼く、宗一郎は健康を装うことはできていたが病気に置かされている状態。冬弥が幼い分、宗一郎の病気は知られるわけにはいかなかった。形だけの愛人だとしても側にいれば知られる可能性がある。当時の龍神会は神崎美鶴の失態により弱体化していたため、それ以上のリスクを負うわけにはいかなかった。その状態で白羽の矢が立ったのは鷹見だった。鷹見自身が望んだわけではなく、鷹見の父親が龍神会のために判断したこと。当時はまだ早苗とは体の関係はなく、約束の言葉もなく、『龍神会のため』という言葉を前に鷹見は宗一郎の代わりにその女を迎えることを受け入れた。分家の次男である鷹見に相手方は難色を示したが、宗一郎と兄弟の契りを交わすことで彼の弟分となり、さらに愛人ではなく【妻】とすることで相手側も納得はした。ただ納得したのは父親だけで、妻となる娘本人は拒絶。当てつけのように龍神会の当時のライバルの組の若頭を射止め、彼の愛人の座についた。鷹見としてはそのまま話が流れても良かったが、相手も龍神会も粘り、先方の愛人の娘が鷹見のもとにくることになったが、その女は一度結婚していた女だった。分家の次男だが組長の弟分と、娘だが庶子で結婚歴あり。本人同士が顔すら会わさぬまま話は進んだが、愛人にするか妻にするかは本人同士で決めることとなった。形だけのお見合いの席で「困ったことになりましたね」と女は笑い、そして【愛人】もしくは【内縁の妻】を望んだ。理由は、亡き夫を愛しているから。死別だったため姓は亡夫のもの、それを変えたくないのだと言う。もし早苗に出会っていなければ、鷹見は何も
早苗は圧倒的な“才能”を持っていた。鷹見がこれまで、努力という言葉を意識することなく“それなりに”こなしてきたあらゆる分野において、彼女はまったく別の地平で結果を出していった。しかもそれは、誰かに教わった正攻法ではない。常識や定石をなぞるのではなく、必要なものだけを直感的に掬い取り、不要なものを容赦なく切り捨てる破天荒な我流。それでいて完成度が高いのだから始末が悪い。こなすことに満足していた者と、身につけることに執着する者。その差は、時間が経つほどに明確に開いていった。何をやっても勝てない。いや、勝負にすらならないこともあった。唯一、自分の拠り所としていたボクシングでさえ例外ではない。踏み込みの鋭さ、間合いの詰め方、躊躇のなさ――怒涛のようなラッシュに押し込まれ、視界が揺らぎ、気づいたときには床に沈んでいた。そのとき、鷹見は初めて“敗北”を実感した。胸の奥に渦巻いたのは屈辱だった。だが同時に、どこか澄み切った感覚もあった。自分より上を認めるという経験は、これまで一度もなかったからだ。負けた、という事実が、妙に心地よかった。だが、そんな彼女を単なる“強者”として括ることはできない。むしろ、その評価だけでは決定的に足りなかった。早苗は優しい女だった。弟である樹の世話を、当たり前のように一人でこなす。まだ自分自身も守られるべき年齢でありながら、誰かに甘えることも、弱音を吐くこともない。その姿は、言葉で語られるどんな美徳よりも強く、現実として胸に刺さるものだった。.神崎家に住み込むようになって半年ほどが過ぎた頃、その均衡が崩れる出来事が起きる。樹が高熱を出した。ひきつけを起こすほどの高熱。これまで一度も他人に頼らなかった早苗が、そのとき初めて屋敷の者に助けを求めた。それは彼女にとっての“限界”の表明だった。女衆たちは迷うことなく動き、慣れた手つきで樹の看病に当たる。その光景を見た瞬間、張り詰めていた
「鷹見さんは、早苗さんのどこが好きになったんですか?」瑛心が遠慮がちに、しかし期待を隠しきれない声音で問いかける。その隣であやめも、明らかに“いい話”を待っている顔をしていた。いわゆる恋バナの定番の質問であり、答えによって場の温度が一気に上がることを知っているからこその表情。鷹見は一瞬だけ視線を泳がせたが、やがて諦めたように口を開いた。「動物的なところですかね」その一言に、二人の肩が分かりやすく落ちる。露骨な落胆だった。もっと甘く、耳障りのいい言葉を期待していたのだろう。それは分かる。分かるが、どこを好きになったのかと問われれば、それが最も的確な表現だった。言葉を飾ればいくらでも取り繕えるが、核心はそこにあった。.早苗は、いわゆる“常識”という枠組みを持たない人間だった。だが、それは決して無秩序でも無神経でもない。むしろ逆で、彼女は人を一つの型に当てはめない。相手と状況を瞬時に見極め、その場に最適な振る舞いを選び取る。その結果として、誰に対しても遠慮がないように見え、思ったことをそのまま口にしているように映るのだ。しかし実際には、ぎりぎりの線を見極めて踏み越えない人間だった。その綱渡りがあまりにも自然で、だからこそ周囲は不快感を抱く前に、言葉を受け入れてしまう。普通なら怯むような場面でも、彼女は平然としている。むしろ楽しんでいるようにすら見える瞬間もあった。 『あんた、また眉間にシワ寄ってるよ。クセ?』初対面に近い距離感でそんなことを言い放つ無遠慮さと、それを許してしまう空気。その矛盾を成立させてしまうのが、早苗という存在だった。表情もまた、彼女の特異性を象徴していた。百面相という言葉では足りないほど、ころころと変わる感情。喜びも怒りも、呆れも興味も、隠そうとしなかった。対照的に、鷹見は振り回される側だった。苛立ち、困惑し、ため息をつく。それが日常になっていた。最初は無視していた。宗一郎の命令だから関わっているだ
『面白い女だな』宗一郎の口から漏れたのは、明確な興味の表明だった。それは決して性的な意味ではない。目の前にいる存在を、“子ども”ではなく“女”として認識した上での、人間としての評価。その一言で、場の均衡が決定的に変わった。そして宗一郎は、金額を提示することも、交渉を続けることもせず、まったく別の方向へと話を転がす。『うちに来るか?』それは突飛で、常識的には拒絶されるべき提案だった。周囲を取り巻く空気だけでも、明らかに堅気ではない。それでも早苗は、迷う素振りすら見せなかった。『条件次第で』即答だった。金かと問われれば、『弟を一緒に連れていきたい』と返す。その答えに、鷹見は思わず目を見開いた。自分のためではない。まず出てきたのが他者だったことに、わずかな引っかかりを覚える。だが宗一郎にとっては、その程度は問題にもならない。子ども二人を養うことなど、神崎家にとっては誤差の範囲だ。宗一郎はあっさりと条件を飲み、そして鷹見に視線を向けた。「連れてこい」という無言の指示。それだけで役割は決まった。.案内されたのは、街の外れにある古びたアパート。外灯も心許なく、廊下は薄暗い。部屋の扉を開けた瞬間、さらに濃い闇が広がった。思わず眉をひそめ、「なぜこんなに暗い」と問えば、早苗は肩をすくめるようにして答える。『電気代が払えないから』あまりにもあっさりとした口調。惨めさも、恥もない。ただ事実を述べただけという声音だった。『暗くても死なない。水道代のほうが大事』その一言に、鷹見は言葉を失った。価値基準が違いすぎる。だが同時に、その選択は合理的だった。生きるために必要なものを優先する。それだけのことだ。部屋の中はほとんど何もなかった。家具と呼べるものは見当たらず、生活の痕跡も最低限。それでも中央に置かれた布団だけは、妙に存在感を持っていた。その上に、小さな包みがあった。恐る恐る
その日も、特別なことは何もないはずだった。神崎宗一郎の外出に随行し、繁華街を見回る。周囲にはいかにも堅気ではない男たちが付き従い、自然と人の流れが避けていく。その中心を歩く宗一郎は、威圧と風格を同時に纏っていた。普通の人間なら、視線すら合わせない。そんな中で、不意に空気を切り裂くような声が響いた。『ねえ、おじさん』思わず足が止まりかける。そんなインパクトのある言葉。声をかけられた宗一郎本人ですら、一瞬反応が遅れたほどだ。組員たちの視線が、同じ方向に向く。視線の先にいたのは、一人の少女。まだ中学生と思しき年頃で、セーラー服の上に無造作に羽織った上着はくたびれ、靴も擦り減っている。全体としては貧相で、どこにでもいる“落ちた子供”に見えた。だが、ただ一点、目だけが異様だった。濁りのない光が、まっすぐに宗一郎を射抜いていた。『おじさん。ねえ、聞こえている?』臆する様子も、怯えもない。その無遠慮さに、周囲の空気が一瞬で張り詰める。普通なら、その場で排除されてもおかしくない。しかし少女は構わず言葉を重ねた。『援助交際、してくれない?』あまりにも軽く、日常の延長のように告げられたその一言は、場の常識を完全に破壊した。あの瞬間の衝撃を、鷹見は今でも鮮明に覚えている。怒りでも呆れでもない、純粋な“興味”が胸に生まれたのは、あれが初めてだった。常識を知らないのではない。知った上で踏み越えている。その確信があった。宗一郎ですら言葉を失った一瞬の隙を、彼女は迷いなく踏み込んできたのだ。あのときの自分は、初めて「何か」を見つけた気がした。退屈で均一だった世界に、明確な“異物”が混ざった感覚。それが、早苗との出会いだった。.早苗の無遠慮な提案に、周囲の空気が一瞬で凍りついた。護衛たちの視線が鋭くなり、いつでも排除に動けるようにと気配が張り詰める。だが、その中心にいた神崎宗一郎は、そんな緊張をまるで意に介さないかのように







