Se connecterその日も、特別なことは何もないはずだった。
神崎宗一郎の外出に随行し、繁華街を見回る。周囲にはいかにも堅気ではない男たちが付き従い、自然と人の流れが避けていく。その中心を歩く宗一郎は、威圧と風格を同時に纏っていた。
普通の人間なら、視線すら合わせない。そんな中で、不意に空気を切り裂くような声が響いた。
『ねえ、おじさん』
思わず足が止まりかける。そんなインパクトのある言葉。声をかけられた宗一郎本人ですら、一瞬反応が遅れたほどだ。
組員たちの視線が、同じ方向に向く。視線の先にいたのは、一人の少女。まだ中学生と思しき年頃で、セーラー服の上に無造作に羽織った上着はくたびれ、靴も擦り減っている。全体としては貧相で、どこにでもいる“落ちた子供”に見えた。
だが、ただ一点、目だけが異様だった。
濁りのない光が、まっすぐに宗一郎を射抜いていた。
『おじさん。ねえ、聞こえている?』
臆する様子も、怯えもない。その無遠慮さに、周囲の空気が一瞬で張り詰
そんなことを話しながら駐車場に出て、冬弥は車が変わっていることに気づいた。足を止めて警戒の視線を向けると運転席から鷹見が出てくる。「あやめはどうした?」「今日は女子会だから早苗に交代しろと、若の迎えにいくようにと屋敷を追い出されました」「札束ではち切れそうな財布では危険だからな」冬弥は肩を竦めて応えてみせたが、鷹見が乗ってくることはなかった。再び緊張が走る。「いつもの帰り道に『障り』があるそうです」「……どこの者だ?」「大迫が若にメッセージを送ると」「……メッセージ?」遠回りなやり方に冬弥は眉間にしわを寄せつつもスマートフォンを確認する。「……至れり尽くせりだな」届いたメッセージ添付されていたのは【安全な帰宅ルート】。今だけが安全なだけでなく、今後の安全も考慮して『鉄砲玉』である実行犯を捕らえる方法から、主犯を追い詰める手はずまで懇切丁寧に書かれている。「大迫に連絡して愛人たちに礼を届けるように言っておけ」「樹、組員にこの資料を送れ。鉄砲玉は捕らえて……西にいる主犯については赤羽組に任せる」了承したように鷹見は頭を下げると、冬弥が乗るために車の扉を開けた。「……鷹見に扉を開けられるのは随分と久しぶりだな」「若が結婚された日から、私は姐さんの専属でしたからね」そうだったと思いながら車へ乗り込もうとして、冬弥はふっと笑いを漏らした。「……若?」怪訝そうに樹が見る。「あのときは、ただの箱入りのお嬢さんだと思ったんだけどな」◇◇◇【過去回想】議員会館を歩きながら、冬弥は自分の手を見ていた。先ほど婚姻届に記入をしたものの結婚した実感は何もなく、何かの変化を求めるように冬弥は手を握ったり開いたりしてみた。(俺でこうなのだから、この女は……)父親の仕事部屋に呼び出されて、結婚相手として初対面の男を紹介される。そして婚姻届を書けと迫られ、提出は明日すると聞かされた上に、今夜から嫁ぎ先で暮らせと言えヲ追い出される。(まともな女なら泣き叫んでもおかしくない状況だよな)だが、あやめは泣かなかった。女の涙など面倒でしかない冬弥にとってはいいことだが、冬弥の半歩後ろを遅れることなくついてくるあやめは静か過ぎた。ヒールをはいた足音すら静かだった。(よくグレなかったな、この女)そんな感想が冬弥の脳裏に浮かぶ。龍神会には神
『ご利用ありがとうございました』無機質な音声がATMコーナーに響いた。開いた機械の口から札束を取り出し、新札特有の張り付くような感触がに冬弥は露骨に眉を寄せた。それを無理やり飲み込むように札束を無造作に財布へ押し込みながら冬弥は深くため息を吐いた。手の中の財布が分厚い。「なぜこの時代に財布を現金で膨らませなきゃならない」「地味に嫌なところが姐さんらしいですよね」隣で樹が苦笑する。樹も普段なら胸元の内ポケットに収まるほど薄い財布を手に持っている。こちらも札束を無理やり押し込んだせいか、財布の形は悲しいほど崩れてしまっている。「ガキの頃に使っていた財布を持ってくるべきだったか」「最近の財布はどれも薄型ですからね」あやめによる冬弥たちへの制裁はクレジットカードの停止だった。普段はカード決済で済ませている冬弥たちにとって現金生活は不便極まりない。「思ったんですが、これって俺たちが狙われる確率を上げますよね」カツアゲしてくれと言っているようなものだと、樹が膨らんだ財布をひらひら揺らしながら言う。「それも含めてお仕置きなのだろう」「達観してますね」「結婚してから、かなり経ったからな」冬弥は指を折りかけ、途中でやめた。月日で言えばそこまで長くないが、その一日一日の密度がとても濃いため『時間』の定義が本気で分からなくなっていた。「失礼ですが、こんなに姐さんと続くとは思いませんでしたよ」樹の言葉に冬弥は怪訝そうに首を傾げた。「離婚する気はなかったが?」「離婚はなくても……別れ方は、あるじゃないですか」樹の言葉を冬弥は否定しなかった。神崎家の結婚は昔からそういうものだった。神崎家の跡取りは“組に必要な女”を娶るため、夫婦間の何かは必要としない。必要なのは組のための価値。血筋、家柄、政治的価値。求める価値は時代によって違うが、いつの時代も組の戦略に不可欠な女を選んできた。そして選ばれた女たちの多くは神崎家の奥で静かに死んでいった。外敵から守るために屋敷の奥に閉じ込められ、閉ざされた世界で外に出れば死ぬのだと聞かされて過ごす。死と隣合わせの息苦しい空気を吸って生きる上に、組長の妻というトップの立場は常に孤独。唯一妻の孤独を癒せる夫は「組に必要だから」と外で愛人を堂々と侍らせる。愛人は妻を守るための盾、そう言われてし
【現在】「とーしゃまは、かーしゃまと、けっこんしてない?」楓がとんでもないことを言い出した瞬間、冬弥は思わず目を見開いた。「それは違――」即座に訂正しようとしたが、一歩遅かった。 楓はぱあっと顔を明るくし、期待に満ちた瞳で続ける。「じゃあ、ぼく、かーしゃまとけっこんしゅりゅ」「……なんだって?」あまりにも堂々とした宣言に、冬弥は一瞬本気で聞き返してしまった。一方で、楓は小さな指を立てながら、得意げに理論を展開する。「けっこんしてるひと、けっこんだめ。でも、かーしゃまは、けっこんしてない」「ちょっと待て、楓。俺とあやめは結婚している」冬弥の言葉に楓は膨れる。「してない」「している」「ちてない!」癇癪寸前の言葉足らずな口調で即答され、冬弥は額を押さえた。 どうやら楓の中では、「父親が母親の父に正式な挨拶をして許可を得る」という一連の流れこそが“結婚”らしい。確かに方向性としては間違っていない。問題は、それを基準にすると冬弥が完全に未婚扱いされてしまうことだった。 楓は父親に結婚の許可をもらわなければ結婚できないと思っている。そして、その“父親への挨拶”を冬弥があやめの父――柊謙一にしていないことを話した数分前の自分を冬弥は深く責めた。(……いや、俺たちは政略結婚だったし、最初から許可は下りていたようなものだからな。しかし、これをどう説明する?)「ううむ……」珍しく真剣に悩み始めた冬弥を、楓はじっと見上げる。 そして、ぽつりと言った。「とーしゃま、もーそーなの?」「……妄想なんて言葉をどこで覚えた」幼い顔で小首を傾げる仕草は愛らしい。だが発言内容は全く可愛くない。 冬弥が半眼になると、楓は悪びれもせず答えた。「わかいしゅー」「あいつらか……」龍神会の若い衆は、跡目である楓をそれはそれは可愛がっている。抱き上げ、肩車し、菓子を与え、何かあれば「わかわか」と呼んで大騒ぎする。これはいい。問題は、男所帯ゆえに会話の品が時々壊滅的なことだった。あやめの前では、彼女の纏う圧と威厳に押されて多少は大人しくなる。しかし楓たち相手だと、「まだ小さいから分からないだろう」という油断が出るのだ。あとで知ったことだが、楓のこの『妄想』発言も、若い衆の一人が推しているアニメキャラクターを指して「俺の嫁」と熱弁していたことが始まりだった。それに対
冬弥は自分を見たあやめの目に、落ち着かなくなった。普段の冬弥なら、特に何も思わない。極道の世界で育った自分が『普通ではないこと』は承知していたし、その『普通ではない』ゆえに態度に出てしまう粗野な威圧感に周りにはいつも委縮されることは当然とも思っていた。あやめも同じ反応すれば、それまでだっただろう。あやめは違った。恐怖より先に分析が来ていた。その姿に、柊謙一が手元に置きたがる理由は「駒だから」ではないことが分かった。柊あやめは『優秀な駒』だった。同時に、冬弥は気づいてしまった。この女は、ここに呼ばれた理由をまだ知らない。いや、知りたくないと思っていた。薄っすらと気づいて緊張しているくせに、“仕事の呼び出し”だと思おうとしていた。冬弥の胸の奥が少しだけ重くなった気がした。彼女の期待を裏切る存在が自分だと感じていた。「紹介しよう」それと同時に向けられたあやめの目は、深い色の瞳をしていた。理性的で、静かな目。だが、その奥にあるものは脆い。無理に硬く固めた硝子のようだと冬弥は感じた。「神崎冬弥君だ」それに気づいているのか、いないのか。柊謙一は紹介を続ける。「龍神会の若き組長、と言ったほうが分かりやすいな」その瞬間だった。あやめの呼吸が変わった。わずかに肩が強張る。けれど、崩れない。すぐに立て直した。強い女だ、と冬弥は思った。だが、同時に痛々しいとも感じた。自分が今から何を告げられるか、理解したのだろう。それでも、逃げない。いや、逃げられないことを知っている顔だった。あやめは静かに頭を下げた。「柊あやめ、です」無駄のない名乗り。まるで面接のようだった。「さくらの妹だ」柊謙一の言葉に、冬弥はわずかに眉を動かした。その紹介を聞いた瞬間だけ、あやめの笑顔が崩れかけたからだ。ほんの一瞬。だが、確かに傷ついた顔だった。(……そういうことか)姉と比較され続けてきたのだろう。先日冬弥が参加したパーティーに柊さくらも参加していた。それを知っていたからゆえに、柊謙一の言葉だろう。でもそれは、事情が分かっていれば分かる表現。(何も知らなければ、姉の付属品のような紹介だ)付属品の扱いを受けてきたことは、あやめの態度ですぐに察した。そして、父親からの愛情を知らないことも。だから、あやめは「役に立つこと」でしか自分の価値を保てないようだった。逆に言えば
【過去回想】六月の終わり。湿気を含んだ空気が、窓の外の景色を鈍く滲ませていた。国会議事堂近くにある柊謙一の議員事務所。その最上階の応接室で、神崎冬弥は壁際に立ったまま、無言で腕時計に視線を落とした。予定時刻まで、あと三分。龍神会の若頭補佐である樹が後ろに控えていたなら、間違いなく「座ってお待ちください」とでも言っただろう。しかし冬弥は座らなかった。ここは龍神会の本部ではなく、柊謙一の領域だ。客として呼ばれている以上、余計な縄張り意識を見せる必要はない。もっとも、目の前の男――柊謙一もまた、そういう無駄を嫌う人間だった。「娘は優秀ですよ」先ほどから柊謙一は、そう何度も口にしている。仕事の話をする時の声のようでもあるが、その声には情、親が子を語る響きを『評価』で隠しているように感じられた。それだけで、冬弥にはある程度理解できた。世間的には、柊あやめという女は、この男の「娘」である前に「政治の駒」として育てられてきたのだと言われている。それは間違いはないだろう。実際に、駒として利用するのだから。でも、父親として娘に対する愛情もある。そして信頼も。どの信頼故に、その駒が今日、自分の前に差し出されるのだ。.冬弥にとっても、この縁談は突然だった。いや、正確には突然ではない。まず、必要性は理解していた。関西の朱雀会が勢力を伸ばし始めてから、東京の均衡は崩れかけている。警察、政界、経済界。あらゆる場所で綱引きが始まっていた。その中で、龍神会が単独で立ち回るには限界がある。だからこそ、柊家との結びつきは必要だった。表と裏を、一時的にでも完全に接続するための楔。理屈は分かる。必要性も理解している。だが――。「……娘さんは、この話を了承しているんですか」冬弥がそう尋ねた時、柊謙一はわずかに沈黙した。もう一つの「突然ではない」理由は、この話は柊謙一によって先延ばしにされていて、結婚話が出たのは前のこと。本来なら婚約期間ももつつもりだったが―――。「了承する」それだけだった。説得する、ではない。了承“させる”。その言葉だけで、これから来る娘は何も知らないのだと理解できた。 コンコン。不意に扉が叩かれる。冬弥は視線を向けた。柊謙一の肩が大きく震えたのは、見なかったことにした。「入れ」柊謙一の低い声が返され、扉が開いた。入ってきた女
「とーさまー」自宅の書斎で仕事をしていた冬弥の元に、小さな客が二人やってきた。一人、楓は父親である冬弥の元に駆け寄り、その後ろを歩いてきた雪兎もそのあとに続く。書斎には雪兎の父親であり、冬弥の右腕でもある樹もいたが、雪兎はぺこりと会釈しただけ。父親は仕事中だと公私を分けると同時に、自身も楓の右腕として仕事中だというアピールでもあった。「どうした、二人とも? 珍しいな」冬弥は口元を微かに緩めると、楓を抱き上げ、雪兎の頭を撫でる。その脇では樹が内線電話でジュースとお菓子を準備するように言っていた。「おはなしがあるのです」「そうか」楓の言葉に冬弥は頷き、抱いたまま応接スペースにあるソファに座る。「どうした?」いつもならこのまま話し始める楓が、なぜか『降ろして』と言わんばかりに手足をばたつかせていた。首を傾げつつも冬弥が床におろせば、楓はとてとてと、冬弥と向かい合う形で向かいのソファに座った。その隣に雪兎が立ち、「雪兎は樹に似てきたな」と冬弥が言えば、雪兎は目に見えて嬉しそうに頬を染めた。「とーさま、おりがみのはなしがあります」「……“折り紙の話”」楓の言葉に冬弥は内心焦る。折り紙という遊びは知っているが、それで作った記憶がない。幼い頃の記憶だからと言ってしまえばそれだが、あやめは器用に何かを作るから「できない」とも言い難かった。「わかわか、ちがいましゅ。おーいって、でしゅ」(……“おーいって”)雪兎の言葉に冬弥は首を傾げたが、ここで樹が二人の言いたいことに気づいた。「もしかして、“折り入ってお話しがある”ではありませんか?」そう言う樹を、楓と雪兎が同時に『それだ』と指さす。とりあえず話はじめで躓いていたことが冬弥には分かった。「折り入って話とは、なんだ?」「インシンにあかちゃんがいるって」「そうだったな。結婚したいと言っていたのに、残念だったな」黎沈淵が聞いたら「ぶり返すな」と言いそうなことを冬弥は言ったが、楓はそれはもう気にしていないというように首を横に振った。「うわき、だめ、ぜったい」「……ああ、そうだな」実態は世間一般的な愛人ではないのだが、愛人を五人も抱えている冬弥は楓の言葉が胸に突き刺さった。そんな父親の様子など気に求めず、楓は話を続ける。「あかちゃん、いつあえる?」「詳しい日はこれからだろうが、生ま