LOGIN煙草を挟んだ宇治宮の指先が、かすかに、だが確かに震えるのを、京司の鋭い眼光は捉えて離さなかった。「何の事や? いきなり押し掛けてきた用件が、そないな下らん戯言か」吐き捨てるような宇治宮の冷徹な声音に、京司の表情は一層の険しさを帯びていく。「――組の屋台骨を支える若頭補佐の安否すら、あなたにとっては些末に過ぎんと言うのですか」宇治宮の口から、張り詰めた空気を引き裂くような怒声が飛び出した。「うるさいんじゃっ! 下の連中を管理するんも、お前の仕事やろがっ!」水を打ったように静まり返っていた和室に、彼の怒号が激しく響き渡る。だが、京司の心はピクリとも動かない。激昂する宇治宮を前にしてもなお、彼はただ冷徹なほどに落ち着き払った態度で、その視線を受け止めていた。「……シノギのヤク(薬)がもたらす端金は、オヤジにとって、俺たち“子”の命よりも重いものなのですか」京司の口から紡がれたその言葉が、凍てついた刃のように空気を切り裂いた。刹那、宇治宮の動きがぴたりと止まる。石像と化したかのように、指一本すら動かさない。ただ、彼の指に挟まれたままの煙草から、仄白い紫煙だけが、部屋の静寂のなかを、ゆらりと、あてどなく漂っていた。長い沈黙が、二人の間に重く澱んでいた。やがて、強張っていた宇治宮の輪郭が、微かな諦念とともに緩んでいく。「カシラのお前には、いずれ話そうと思うとったんや……」紫煙の向こう側、宇治宮の視線は決して京司の瞳を捉えようとはしなかった。ただ虚空を睨み、吐き出される煙とともに、言い訳めいた言葉が形を成していく。それを聞く京司の胸の奥で、何かが決定的に瓦解していった。それは長きにわたる歳月が、一枚ずつ丁寧に積み上げてきた“信頼”という名の堅牢な城壁だった。音もなく、しかしあまりにも鮮烈に、その礎から崩れ落ちていく。胸の深奥を吹き抜けるのは、ただ荒涼とした、冷たい風の音だけだった。「うちでは薬の商いはご法度……そう刻まれた鉄の掟やなかったんですか」京司の口からこぼれ落ちた言葉は、鉛のような質量を持って宇治宮の肩にのしかかった。宇治宮の額を、じっとりとした厭な汗が這い始める。沈黙を破ったのは、宇治宮の喉の奥から搾り出される、歪んだ言い訳だった。それはまるで、錆びた鋏でガラスを引っ掻くかのように、京司の鼓膜を
車内を支配する重苦しい沈黙を切り裂くように、京司の唇から言葉が零れ落ちた。地を這うような低い声音が、狭い空間にじっとりと染み込んでいく。「……山城を襲った犯人。わかっとるんやろ?」 鈴華との密会から、わずか数時間後のことである。京司の胸中でトグロを巻く怒りは、容赦なくその歩を速めさせ、彼を組長宅へと突き動かしていた。そこに聳え立つのは、外界を峻拒するように高く、重厚な門扉に閉ざされた邸宅である。昏い情念を宿した指先で、京司は門前のインターフォンを鋭く押し込んだ。 「……カシラ!? どうされたんですか、一体。こんな時間に、前触れもなしに」スピーカーから漏れ出たのは、組長の身辺を預かる若衆の、動転を隠せない声だった。無機質な機械越しでさえ、彼の困惑と、京司から放たれるただならぬ気配への戦慄が、ありありと伝わってきた。 「オヤジに至急話があるんや。取り次いでくれへんか」低く地を這うような京司の声には、一切の反論を許さない絶対的な威圧が宿っていた。「し、少々お待ちください……!」若衆の怯えを含んだ上擦った声が途切れると、しばしの沈黙が邸宅を支配した。やがて、その静寂を切り裂くように、鋼製の重々しいシャッターが轟然たる音を立ててせり上がっていく。まるで巨大な怪物がその顎を開くかのように、暗澹とした空間が姿を現し、京司の身体を深く、静かに呑み込んでいった。静寂が支配する客間の和室に、その厳かな空気を踏みにじるような荒々しい足音が、一歩、また一歩と近づいてくる。障子が無造作に引き開けられ、不機嫌の影を露骨に顔に張り付かせた組長・宇治宮が、ぬうっと姿を現した。「なんや京司。こんな夜更けに、無断で押し入るようにやってくるとは、一体どういう風の吹き回しや」迎え撃つ京司は、ただ平伏し、低く、しかし芯のある声を畳に染み込ませるように返した。「夜分に突如として押し掛けました非礼、どうかお許しください。ですが、どうしてもオヤジの口から直接、一刻も早く確かめねばならへん義理が生じました。何卒、お耳をお貸しいただけまへんでしょうか」「なんや? あらたまって」宇治宮は吐き捨てるように言うと、乱暴に座布団へと巨躯を沈めた。懐から取り出した煙草に火を点けると、ちろちろと揺れる焔の向こうから、怪訝そうな、あるいは品定
じわり、と京司の額を伝う汗が、室内の重苦しい空気を物語っていた。鈴華の言葉を疑うわけではない。ただ、目の前の現実があまりに早く回りすぎて、思考の歯車が追いつかないのだ。「……山城の身は、本当に安全なんか?」「六穣会の支配下の、中国系の闇医者です。九条組の威光を以てしても、そう簡単には抉り出せぬ場所です」「そうか……。だが、なぜ君の耳にそんな話が届く。山城と面識があるんか?」「山城補佐の古参の友人が、私の知る人物でして。私の耳まで届いたに過ぎません」山城の身の安全の知らせに、京司の胸を焦がしていた焦燥が、凪いだ海のように引いていくのを感じた。彼は胸ポケットから手慣れた手つきで煙草を抜き出し、ライターの火を滑らせる。小さな焔が彼の顔に陰影を深く刻み、紫煙が夜の闇へと溶けていった。煙の向こうを見つめながら、京司は低く、吐き出すように呟く。「俺や山城の耳には絶対に入れられんような歪みが、九条組の底で始まりつつある、いうわけか……」立ち上る紫煙の淡い揺らめきに、京司はハッと我に返った。「すまん。この車、禁煙やったか?」車内に満ちゆく不調法な煙をあわてて遮ろうとする彼に、「構いませんよ」鈴華が応える。その唇から零れたのは、凍てついた空気を溶かすような、フッと柔らかい微笑みだった。いつから、彼女のこんな表情を見ていなかっただろう。久方ぶりに向けられたその温もりに、限界まで張り詰め、凝り固まっていた京司の神経が、ほどけるように和らいでいく。彼はもう一度煙草を深く吸い込み、肺を満たす紫煙の苦味とともに、胸に染み渡る確かな心地よさを噛み締めていた。 紫煙が車内の澱んだ空気に溶けては消え、沈黙だけが重く二人を支配していた。その張り詰めた糸を断ち切ったのは、京司の唇から零れ落ちた、自嘲を孕んだ呟きだった。「あんなひどい別れ方したんに、わざわざ知らせに赴いてくれたんかいな」鈴華の唇から、かすかな溜息とともに苦い笑みがこぼれ落ちた。フロントガラスの向こう、遠ざかる夜景を見つめたまま、彼女はぽつりと呟く。「……貴方の身に危険が及ぶかもしれない。そう思った瞬間、理屈よりも先に、身体が動いていました。気がつけば…京都へ向けて車を走らせていたんです」鈴華の紡ぐ言葉は、まるで肉体を冷たく締め上げる鎖のように、京司の胸の奥深
「いい加減にせぇっ」京司の喉から放たれた言葉は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、そして濡れた鉄のように重くその場に突き刺さった。「組の問題や。お前が口出す事やない。わきまえや」「で、でも……」梨花の唇が小さく震える。突如として目の前に現れた鈴華という存在が、彼女の足下を底なしの沼のように揺るがしていた。しかし、京司の冷徹な眼差しのなかに、もはや狼狽える梨花の姿は映っていない。彼の視線はただ、まっすぐに鈴華だけを射抜いていた。「わかった。なら話、聞こか」京司の声音から、ふっと険が消える。彼は鈴華の華奢な背にそっと掌を添えた。その手のひらの熱を伝えるようにして、二人は静かに歩みを進め始める。残された梨花の立ち尽くす影を、冷ややかな夜気が包み込んでいった。「ごめんなさい。邪魔をするつもりは……」「……君には俺が楽しげに時を潰しているように、見えたんか?」低く、温度のない声が返ってきた。鈴華は喉の奥が凍りついたように言葉を失う。京司はその気まずい沈黙を、吐き出す煙のように無造作に振り払う。「それで、話というのは?」「……山城若頭補佐の件です」その名が告げられた瞬間、辺りの空気が目に見えて変わった。「なんで君が山城のことを……」問い詰める京司の視線を真っ向から受け止め、鈴華は声を潜めて言った。「山城補佐は今、六穣会のシマに潜伏しています。裏の医者の元です」「……生きてたか、山城」京司の口から、張り詰めていた糸が切れたような安堵の溜息が漏れる。だが、すぐに怪訝そうに眉をひそめた。「だが、なんであいつは、わざわざ大阪の地に潜伏しとるんや?」「……九条組から、命を狙われているからです」鈴華のその一言が、室内の空気を一瞬で氷結させた。京司の顔からさっきまでの安堵が綺麗に消え失せ、ナイフのように鋭く、険しい表情へと一変した。「そんな事あるはずないやろっ!」京司の怒号が、狭い部屋の空気を震わせた。彼は鈴華の華奢な肩を、骨がきしむほど強く掴み、その顔を覗き込む。狂気すら孕んだその瞳は、何か縋るべき嘘を求めているようでもあった。しかし、対峙する鈴華の瞳には、冷徹なまでの静寂が宿っていた。取り乱す男を前に、彼女はただ、残酷なまでに無色透明な真実だけを口にする。「事実です。……連絡を断ったのも、組の人間の中で信用に
事務所の目前、京司の視界に入ってきたのは、見覚えのない大阪ナンバーの一台であった。アスファルトに影を落とし、異質な静寂を纏って佇むその鉄塊に、彼は直感的な危うさを嗅ぎ取る。「……何や、あの車」低く漏れた独白と同時に、全身の筋肉が瞬時に硬化し、防衛本能が鋭い警告を鳴らした。張り詰めた空気の中、均衡を破るように運転席のドアが緩やかに、しかし拒絶しがたい重みを持って開かれる。その隙間から、一人の女性がしなやかな輪郭を現した。「……鈴華っ! 君、なんで京都におるんや」京司の言葉が、凍てついた空気を切り裂く。彼の視線が鋭い矢となって自分へと向けられた瞬間、鈴華の時は止まった。しかし、その視線の先に映り込んだのは、京司の傍らにしなだれかかる梨花の姿。二人の残像が、網膜に焼き付いて離れない。心臓を直に抉られるような鋭利な痛みが走り、膝は頼りなく震え、指先からは体温が失われていく。己の内で何かが崩落していく音を、鈴華は確かに聞いた。だが、彼女は逃げなかった。込み上げる動揺を力任せにねじ伏せるように、薄い唇を強く噛みしめる。滲む鉄の味を覚悟に変え、震える足で一歩、また一歩と、執着と意地が混ざり合う足取りで京司のもとへと歩み寄った。(――しっかりしなきゃ。私情を挟んでいる場合ではないでしょう?)胸中に渦巻く動揺を鋼の意志でねじ伏せ、鈴華は京司の前に歩み出た。しなやかな腰を折り、深く、恭しく頭を垂れる。その所作は、張り詰めた糸のような緊張感を孕んでいた。「烏丸の若頭。突然の訪問の非礼、何卒ご容赦ください。至急、耳に入れておきたい義がございます。……しばし、お時間を頂けないでしょうか」潤んだ瞳を隠し、凛とした声を絞り出す。だが、京司がその重い唇を開くより早く、傍らの梨花が鋭い言葉の礫を放った。「プライベートな刻を邪魔立てしているのが、貴女には見えないのかしら?」梨花の視線は、冷徹な氷刃となって鈴華を射抜く。「京司さんに御用があるのなら、しかるべき場所を通しなさい。ここは、貴女のような者が土足で踏み込んでいい領域ではないわ」その眼差しに宿るのは、抜き身の刀のような剥き出しの敵意。梨花の瞳は、鈴華を射抜く氷晶のように冷徹であった。京司の腕に縋りついていた彼女の指先は、温もりを拒絶するように無慈悲に振り払われる。
洗練されたフレンチの門を後にした二人の間には、埋めようのない温度差が横たわっていた。梨花は、まるで当然の権利を行使するかのように、しどけなく京司の腕に自らのそれを絡ませた。「まあまあの店だったわね」彼女の言葉は、充足感に甘くふやけ、夜の空気に溶けていく。弾むような足取り、艶然とした横顔。そこには、選ばれた者だけが享受できる女の傲慢なまでの上機嫌があった。しかし、隣を歩く京司の胸中に去来していたのは、静かな、それでいて逃れがたい拒絶の情であった。鼻腔を執拗に衝く、重苦しく甘ったるい香水の残香。そして、衣服越しに伝わってくる梨花の湿り気を帯びた体温と、絡みつく蔦のような腕の感触。それらすべてが、今の彼には生理的な嫌悪を呼び起こす毒素でしかなかった。親密さを演じるためのその接触が深まれば深まるほど、彼の精神は逆に頑ななまでに透明な壁を築き、彼女から遠ざかろうと身を固くしていた。京司の脳裏に、不意に鈴華の残り香が立ち上がった。それは人工的な香水などではなく、雨上がりの森で若葉が放つ、新緑の芳香に似ていた。肺の最奥まで満たしたくなるような、生命の純粋さを形にしたようなその香りは、彼の意識を甘やかな追憶へと引きずり込む。 だが、色鮮やかなネオンが無慈悲に彼を呼び戻す。思考を支配していた幻影が霧散し、視界が今の景色へと収束していく。京司は、今なお彼女の気配を追い求めている己の執着を自嘲するように、乾いた笑みをこぼした。「ねえ……これから京司さんのお部屋にお邪魔してもいいかしら」梨花の瞳は、熱を孕んだ湿り気を帯び、逃れがたい執着を湛えて京司を射すくめていた。その視線は、まるで彼の輪郭をなぞり、皮膚の奥へと侵食してゆくような重苦しさを伴っている。京司は、その粘りつくような熱視線を断ち切るべく、無造作に煙草を指に挟んだ。カチリ、と硬質な音を立てて灯された小さな火影が、二人の間に漂う不穏な沈黙を束の間弾き飛ばす。彼は深く肺に煙を吸い込み、境界線を引くように紫煙を吐き出した。揺らめく煙の帳が、梨花の湿った眼差しを遮る薄絹となり、彼を再び孤独な静寂の中へと引き戻していく。「すまんが、これから事務所に戻らなあかんのや」京司は梨花へ視線を向けることすらせず、まるで事務書類を読み上げるような無機質な声を落とした。
「東九条の近くに在日に顔が利くおっさんが住んでるさかいそいつに聞いてみよう思てます」重厚な革の香りに包まれた車内で、男は指先の白むほどにステアリングを握りしめていた。喉の奥で震える声をどうにか絞り出し、後部座席に鎮座する「彼」へと投げかける。彼は一言の返辞も与えない。ただ、深い沈黙のなかで、隣に座る彼女の顔色をさぐるよう、薄氷を踏むような視線をわずかに流した。彼女もまた、言葉を重ねることを選ばなかった。視線の先にあるはずの京の街並みも、今の彼女にとっては、ただ通り過ぎるだけの無機質な背景に過ぎないのかもしれない。「あんたが探してる娘…君とはどないな関係や?それぐらいは教え
翌朝彼女がロビーへ降りると、真っ先に目に飛び込んできたのは、窓辺でコーヒーを味わう彼の端正な姿だった。朝の柔らかな光を吸い込むような漆黒のスーツ。肩のラインは体にぴたりと沿い、余計なたるみのないジャケットは、前を一つだけ軽く留めて端正なシルエットをつくっている。シャツの襟はまっすぐに立ち、白の生地は皺ひとつなく清潔感が漂う。ネクタイは結び目が左右対称に整えられ、胸元で静かに存在感を放ち、袖口からはシャツのカフスがきちんと一センチほど覗き、腕の動きに合わせて上品に揺れる。ただそこに座っているだけだというのに、彼の周囲だけは別の時間が流れているかのような錯覚に陥る。その落
彼女がそこに立っているだけで、路地の空気は凍てつき、時間はその歩みを止めたかのようであった。古びた街灯の届かぬ暗がりに、彼女の細身の影が溶け込む。まるで時の流れから切り離されたかのように、一切の躍動感を排していた。風が、彼女の長い黒髪を静かに持ち上げ、ゆっくりと元の位置へと戻す。彼女の透徹した白い肌は夜闇に仄白く浮かび上がり、オニキスの様な漆黒の瞳は瞬き一つせず、微動だにしなかった。そして、その視線が、路地の先に立つ男へと向けられる。そこには、問いも、驚きも、あるいは期待や絶望といった感情のひとかけらもない。ただ、深淵の底から見上げるような、一切の感情を剥ぎ取られた視線が、
石畳を踏むたび、昼間の喧騒がすっと解けていき、まるで時間そのものが薄い霧となって漂い始める。狭い路地では、灯は風に吹かれ古びた壁に映り淡い光を揺らす。人影はないのに、どこかで誰かが騒いているような、そんな気配だけが確かに残っている。 繁華街の路地裏。表通りの華やかさが背中に遠のくと、京都の夜はまるで別の顔を見せ始める。光と影がせめぎ合う細い峡谷の様子を見せ、ネオンのにじむ光がアスファルトに落ち、その上を、酔客の笑い声がふわりと漂っていく。店の暖簾が風に揺れるたび、中から漏れる湯気と出汁の香りが、 夜の空気に小さな温度を灯す。壁に貼られた古びたポスター、閉店したままのス







