LOGIN素羽は昔からそうだった。自分がやると決めたことには、百二十分の力を注ぎ込み、必ず完璧にやり遂げる。奏は口角を上げ、誇らしくてたまらないといった顔で彼女を見つめた。甘い言葉が、息をするように次々と口から飛び出してくる。「信じてるさ。信じないわけないじゃないか。俺の奥さんの能力は本物だからね。君ほどすごい人、今まで見たことがないよ。俺って、なんでこんなに幸せ者なんだろうな?前世でどんな善行をしたら、君みたいないい奥さんをもらえるんだ?」素羽は軽く彼を睨んだ。朝から晩まで、口を開けば冗談ばかりなのだから。そう思いながらも、彼女は急かすように言葉を続けた。「お調子者ね。さあ、自分の仕事に戻って」帰国したのは、国内での事業拡大に向けて準備を進めるためだ。二人とも、決して暇を持て余しているわけではなかった。夕方。素羽はアシスタントを連れて、取引先のクライアントとの会食へ向かった。どこにいようと、人脈というものは非常に重要であり、大いに役立つものだ。普通なら、これほどまでに商談がとんとん拍子に進むことはない。だが、奏という強力な後ろ盾が、二人の事業展開に数え切れないほどの便宜を図ってくれていた。政財界に顔の利くパイプがあれば、何事も格段に進めやすくなる。会食の席で、相手の態度はそれなりに丁寧だった。その瞳の奥に、隠しきれない見下したような色が浮かんでいたとしても、素羽はまったく気にしなかった。見下されようが、どうでもいい。自分が望むものを手に入れられれば、それで十分だ。どうでもいい人間が何を考えていようと、気にかける価値すらない。コンコン、と個室のドアを叩く音が響いた。ウェイターがロマネ・コンティを載せたトレイを手に入ってくる。「失礼いたします。隣の個室のお客様からのお届け物でございます」「どなたからですか?」素羽と取引先の社長は、同時に動きを止めた。「須藤と名乗るお客様で、『知り合いです』とおっしゃっておりました」ウェイターはそう言いながら、笑顔で素羽へ視線を向けた。クライアントの田中は、それを聞くや否や、ぱっと顔をほころばせた。「素羽さんのご友人は、随分と気前がいいですねえ。何千万円もする高級ワインを、ぽんと贈ってくださるとは」「須藤」という名を聞いた瞬
司野は幸雄を仰け反るほど激怒させたというのに、悪びれる様子など微塵も見せず、悠然とその場を立ち去った。遠ざかっていく背中を睨みつけながら、幸雄は怒りで髭を震わせ、目を吊り上げる。そして、バンッと力任せに茶卓を叩いた。「待て!勝手に帰っていいと、誰が言った!」しかし、司野は振り返ることもなく言い放った。「俺の足だ。どう歩こうが、どこへ行こうが俺の勝手だろ」そう吐き捨てると、彼は本当にそのまま出て行ってしまった。「このろくでなしめ……本当に付け上がりおって」幸雄がどれほど怒鳴り散らそうとも、司野の足が止まることはなかった。「見ろ、あの小僧を。日に日に俺をないがしろにしおって。敬意の欠片もありゃせんわ」幸雄は、その怒りを執事の直人へとぶつけた。しかし直人は穏やかな表情を崩すことなく、静かに茶を注ぎ続けた。「司野様は、今でも幸雄様を深く尊敬しておられるかと存じます。それに、あの気性も元を辿れば、幸雄様が幼い頃から可愛がり、甘やかして育てられた結果ではございませんか。苗木はすでに立派な大樹へと成長しております。今さら引き抜いて植え直そうなど、土台無理な話でございます」幸雄は目を吊り上げ、怒鳴り声を上げた。「なんちゅう言い草じゃ!あやつが年長者を敬わず、教養のない人間になったのが俺のせいだとでも言いたいのか!」直人は急須を置くと、幸雄から距離を取るように二歩ほど後ろへ下がり、言った。「滅相もございません。私はそのようなことは一言も申し上げておりません」幸雄は濁った目を細めた。「何をそんなに離れる必要があるんじゃ。己の耳に痛い発言をした自覚があって、湯呑みを投げつけられるとでも思ったか」直人は決して認めようとはせず、むしろ自分が身を挺するような態度を見せた。「私が打たれて血を流すことは構いません。しかし、幸雄様が湯呑みを割ってしまわれ、その後でお心を痛められるのではないかと心配しております」幸雄は鼻を鳴らした。「己が湯呑みにすら劣る存在だと、よく分かっておるようじゃな」直人は体の前で両手を組み、わざとらしく恭しく目を伏せた。「自分の身の程については、それなりに弁えているつもりでございます」理由は分からない。だが、その言葉を聞いた瞬間、幸雄はどうにも拭えない違和感を覚えた。
その可能性を考えただけで、司野は全身から力が抜けるような感覚に襲われた。煮えたぎっていた血が一瞬にして凍りつき、背筋に冷たいものが走る。素羽が他の男と結婚し、子どもまで産むだと?そんなこと、絶対に許されるはずがない!---素羽が死んでおらず、今も生きているという知らせは、須藤家にとっても、そして何より幸雄にとって、まさに青天の霹靂とも言える衝撃だった。だが、素羽が生きていたこと以上に、彼女がサットン一族のトップに嫁いだという事実のほうが、幸雄には到底受け入れがたいものだった。彼にとって素羽とは、翼をもがれ、反抗する力など微塵も残されていない檻の中の獣だった。自分の思い通りに扱い、必要がなくなれば切り捨てるだけの存在でしかなかったのだ。そんな、取るに足らない存在だと見下していた人間が、今や自分の頭上にまで這い上がってくるなど、誰が想像できただろうか。どうやら、自分は素羽の力量を大きく見誤っていたらしい。まさか、ここまで強大な後ろ盾を見つけてくるとは。「四時前には会社を出たそうじゃが、一体何をしておった」幸雄は、屋敷に戻ってきてから一言も口を開かない司野を、鋭い目で睨みつけた。司野は執事が淹れた茶を口に含んだ。強烈な渋みが一瞬で口いっぱいに広がり、その苦い味をそのまま喉の奥へ流し込む。「この茶、古すぎるんじゃないのか。ひどく苦い」「茶が苦いんじゃあるまい。お前の腹の中が苦いんじゃろうが」幸雄は鼻で笑った。司野は湯呑みを置き、祖父の嫌味には付き合わず、単刀直入に本題へ入った。「俺を呼び出して、何の用ですか」幸雄も遠回しな言い方はせず、率直に切り出した。「西嶋が須藤家に牙を剥いておるのは、素羽への腹いせじゃろうて」それくらいのことは、二人ともとっくに気づいていた。「あの西嶋の小僧も、相当頭が悪いようじゃな。たかが女一人にいいように操られおって」幸雄は吐き捨てるように言い、その瞳の奥には隠しきれない嘲りが浮かんでいた。女の気を引くためなら、大金でも湯水のように使う男だと思っているのだろう。その言葉を聞いた瞬間、司野の伏せた瞼の奥に暗い感情が一瞬だけ揺らめいた。しかし、それをすぐに押し隠した。幸雄は向かいに座る司野を見つめ直し、手元の数珠を転がしながら低い声で告げた。「暦の上
司野の視線は三人の間をさまよい、やがて誠矢の顔に釘付けになった。彼はその子供をじっと観察し、顔立ちのどこかに見覚えのある面影を探しているようだった。子供の眉や目元には、素羽の面影があるように感じられた。あの愛らしくあどけない雰囲気は、かつて素羽にも確かにあったものだ。三人の追いかけっこはすぐに終わり、車は行き交う車の流れに紛れ、幼稚園の門前から消えていった。車内に、司野の低く掠れた声が響く。「調査はどうだ」岩治はまだ、死んだはずの人間が生きていたという衝撃から完全には立ち直れていなかった。素羽が死んでいなかったと分かってはいても、まるで白昼堂々幽霊に遭遇したようなものだ。心臓が縮み上がるような感覚は、なかなか消えてくれなかった。突然聞こえてきた司野の声に、岩治はビクッと肩を震わせた。しかし、すぐに我に返ると、求められていた調査結果を一つひとつ報告し始めた。「西嶋は素羽さんの個人情報を徹底的に隠しており、この数年間の彼女の経歴については、ほとんど何も掴めませんでした。ただ、周囲の人間の話によると、二人の夫婦仲は非常に良好で、彼は妻と子供を溺愛する良き夫、良き父親として知られているようです」そう報告しながら、岩治はバックミラー越しに、こっそり後部座席の司野の様子を窺った。その表情は深い闇に覆われているようで、そこから感情を読み取ることはできない。だが、何度も指先を擦り合わせる仕草が、彼の苛立ちをはっきりと物語っていた。それはまるで、愛する人を他人に奪われたような、どうしようもない不快感だった。「素羽さんの経歴が掴めない一方で、西嶋の過去についてはかなり詳しく判明しています」素羽が彼の前に現れるまで、奏は有名なプレイボーイだった。服を着替えるよりも早いと言われるほど、次々と女性関係を変えていたのだ。対外的な印象は、何もせず酒と遊びに明け暮れる放蕩息子そのものだった。しかし、その偽りの姿があまりにも完璧だったからこそ、かつてサットン家で内紛が起きた際、彼のようなドラ息子がまんまとトップの座に就くことができたのだ。彼が作り上げた偽りの姿は、それほどまでに周囲へ深く浸透していた。司野の声が再び響いた。「子供はいくつだ」岩治は正確な数字を答えた。「四歳八ヶ月です」司野は瞳を暗く沈ませ、
奏はバックミラー越しに、まるで主の帰りを待ち続ける忠犬のように、いつまでもその場に立ち尽くしている清人の姿を見て、唇を尖らせた。「君のあの先輩、どこかおかしいんじゃないの?」素羽は言った。「どうしてそんなこと言うのよ」奏は答えた。「おかしくないなら、どうして他人の奥さんをあんなに見つめるんだよ?見た目は普通そうだけど、どこか悪い病気でも抱えてるんじゃないの?」素羽は彼を軽く睨んだ。「誠矢があなたを嫌うのには、ちゃんと理由があるわね。本当に可愛げのないことばかり言うんだから。先輩は私の親友よ。適当なことを言わないで」奏は口を尖らせた。同じ男として、清人がどんな目をして素羽を見ていたのかくらい、彼にははっきり分かっていた。「君の友達は、俺の友達でもあるさ。君がそう言うなら、これ以上は何も言わないよ」幼稚園の門の前で、素羽は先生から誠矢を受け取った。誠矢は、親鳥の元へ飛び込んでいく雛鳥のように、素羽の胸へ勢いよく駆け寄った。「ママ、離れている間、ずっとずっと会いたかったよ。ママも僕に会いたかった?」素羽はその柔らかな小さな頬を撫でた。「ええ、会いたかったわ」無垢な存在と一緒にいると、人の心まで洗われていくような気がした。誠矢は手招きをして、素羽に顔を近づけるよう促した。「ママ、こっち来て。僕からプレゼントがあるんだもん」素羽が腰をかがめた瞬間、温かくて湿ったキスが彼女の頬に落ち、チュッという可愛らしい音を立てた。誠矢はまん丸な目を細め、嬉しそうに笑った。「ママ、僕のプレゼント好き?」素羽は目元を和ませた。「ええ、好きよ」その様子を見ていた奏は、傍らにいたぽっちゃりとした小さな体をひょいと抱き上げた。「俺みたいな大人の男がここにいるのに、お前の目は節穴なのか?男女の区別はちゃんとつけろって教えただろ。お前はもう立派な男なんだから、ママにキスするなんて許さないからな。そういうのをセクハラって言うんだよ。分かってるのか?」誠矢は抱えられたまま、豚のようにフンフンと鼻を鳴らしながら体をよじった。「僕は大人の男じゃないもん。まだ子どもだもん。パパのほうが変態おじさんだよ。いつも夜中にこっそりママの部屋に忍び込んでるじゃないか。この変態おじさん」素羽はそれを聞くと、横目で奏
旧友との再会ともなれば、話に花が咲いて時間を忘れてしまうのも無理はない。気心の知れた人のそばにいると、素羽もようやく自分の居場所を見つけたような気持ちになれた。先生を安心させ、喜ばせるために、素羽は持てる力をすべて振り絞った。そして、ようやく彼の心の中に残っていた不安を落ち着かせることができた。先生のことで頭がいっぱいだったため、当然ながら奏からの着信には気づかなかった。改めてスマホを手に取ると、十件以上もの不在着信が残されていた。彼からのこうした連続着信には、素羽もすっかり慣れたものだった。清人と先生に一言声をかけてから、素羽は折り返しの電話をするため病室を出た。その十件以上の不在着信は、清人の目にも入っていた。もちろん、他人のプライバシーを覗こうとしたわけではない。ただ、偶然視界の端に映り込んだだけだった。画面に表示された登録名に気づいた瞬間、清人はわずかに目を伏せ、その瞳の奥に暗い影を落とした。廊下に出た素羽は、すぐに電話をかけ直した。コール音が一度鳴っただけで、すぐに通話が繋がる。次の瞬間、電話の向こうから奏の声が聞こえてきた。「忙しいの?」不満そうで、少し拗ねたような声。それでも感情を必死に抑えているのが伝わってきて、素羽は思わず口元を緩めた。「どうして電話に出なかったのって、素直に聞けばいいじゃない」奏はすぐに言い返した。「君が聞けって言ったから聞いてるだけだからね。俺が無理やり問い詰めたわけじゃないんだから、後になってまた俺が横暴だとか理不尽だとか言わないでよ」素羽は答えた。「はいはい、言わないよ」奏は素直な子どものように、すぐに次の質問をした。「じゃあ、さっきまで何して忙しかったのさ。あんなに何度も電話したのに、全然出ないんだもん」素羽は目を細め、少しいたずらっぽく言った。「教えない」電話の向こうから、奏がギリッと歯を食いしばるような音が聞こえた。「……俺のこと、からかってる?」素羽は笑いながら答えた。「よく分かったね」奏はふんと鼻を鳴らし、不満げに言った。「なんだよ、それ。傷つくじゃないか。言っておくけど、俺が傷ついた時に機嫌を直すのって、すごく大変なんだからね」素羽は軽い調子で返した。「じゃあ、慰めるのはやめておくね」奏は、自分







