LOGIN司野は喉の奥に込み上げる苦味を飲み下し、用意してきた差し入れを素羽の前へ差し出した。「流産したばかりなんだ、体をいたわらないといけない。無理はするな、お前の体に障る。……今は俺の顔も見たくないだろうから、もう現れない。代わりに森山さんを呼んで、お前の世話をさせるよ。意地を張るようなことはしないでくれ」やつれきった素羽の姿を目にするたび、胸が張り裂けそうだった。だが、その言葉が終わるか終わらないかのうちに、素羽は司野の差し出した厚意を足で蹴り飛ばした。中身が散乱し、鈍い音を立てて床に転がる。その眼差しは刃のように鋭く、彼を射抜いていた。「……あなたの大事な子供だったんじゃないの?その子が生き残れなかったのは、あなたのせいよ。あなたが殺したの。それなのに、どうしてそんなに平然としていられるの?夜、眠る時にあの子の夢を見ないの?私は見るわよ。全身血まみれで、体がバラバラになったあの子が、痛い、痛いよって、ずっと私に語りかけてくるの」その言葉を聞いた瞬間、司野の体は強張り、奥歯を強く噛み締めた。照明の下、顔色はいっそう青白く浮かび上がる。子供の死は、司野にとっても消えない澱だった。素羽の言葉が生々しく脳裏に響き、全身の骨が軋むような痛みが走る。子供の夢こそ見ない。だが、目を閉じるたびに浮かぶのは、血溜まりの中に倒れる素羽の姿だった。その記憶が蘇るたび、罪悪感に魂を苛まれ、幾夜も眠れぬ夜を過ごしてきた。素羽は彼を見据え、一言一言を突き刺すように言った。「司野、これは私たちへの罰なの。忘れないで。あの子はあなたのせいで死んだのだと、その頭に刻み込みなさい。一生かけて、あの子に懺悔し続けるのね」言い放たれた瞬間、司野の張り詰めていた背筋は力なく折れ、体は小刻みに震え始めた。その蒼白な顔を見たとき、素羽の中で張り詰めていた糸がわずかに緩む。だが、胸に渦巻く憎しみは弱まるどころか、むしろ激しさを増していった。――あなただけが救われるなんて、絶対に許さない。素羽は背を向け、ドアを閉めて彼を外へと追い出した。部屋の中では、楓華が心配そうに素羽を見つめていた。外のやり取りはすべて聞こえていたが、あえて出ていくことはしなかった。これは、素羽自身が決着をつけるべきことだったからだ。素羽はキッチンへ向かい、水をコ
三智子の遺体が発見されたという知らせは、タケシの耳にも届いていた。彼は自らの腕に刻まれた深い引っかき傷へと視線を落とし、その瞳に陰湿な光を宿す。まだ癒えきっていないその傷は、三智子が死の間際に必死でもがき、彼に残したものだった。だが、タケシは警察のDNA鑑定など微塵も恐れていない。そもそも彼はこの国の人間ではなく、たとえ照合されたところで「該当者なし」となるだけだからだ。とはいえ――念のため、タケシは美宜に連絡を入れ、今後は直接会うことを避け、用件はすべて電話で済ませると伝えた。三智子の遺体に証拠が残っているかもしれない――その一言に、美宜の心臓は大きく跳ねた。どうしてそんな詰めの甘いことをしたのかと、心の中でタケシを責めずにはいられない。美宜は不安げに問いかける。「……私まで疑われるかしら?」タケシは落ち着いた声でなだめた。「大丈夫だ。やったのは俺だ。お前は関係ない」万が一発覚したとしても、彼女に火の粉が及ばぬようにする――そういう意思表示だった。美宜はその意図をすぐに読み取る。「タケシさん、本当に優しいのね」「言ったはずだ。お前は俺が守る」---清人は素羽とともに上階までは上がらず、エレベーターの前で彼女を見送り、その場に足を止めた。素羽は冷たい壁にもたれ、エレベーター内の鏡に映る自分と向き合う。肌も唇も血の気を失い、まるで枯れ果てた花のようだった。精気を吸い尽くされたその姿は、もはや生者というより幽鬼に近い。清人の想いに、素羽が気づいていないわけではない。だが、壊れた心と疲弊しきった身体を抱えた今の自分には、男女の情愛など考える余裕はなかった。彼の深い優しさも誠実さも、自分のような人間に費やされるべきではない。彼はもっと相応しい、幸せになれる相手と結ばれるべきだ。なにより、自分は彼を愛していない。ならば、期待を持たせるようなことはしてはならないのだ。エレベーターの扉が開き、素羽は崩れかけた体を引きずるようにして降り立った。静まり返った廊下の先に、不吉な影が立っている。顔を上げた瞬間、自宅の向かいに佇む司野の姿が目に入り、素羽の瞳に激しい嫌悪が走った。司野の視線は、素羽がエレベーターから一歩踏み出したその瞬間から、片時も逸れることなく追い続けていた。だが素羽は、彼の存在など最
美宜は独り言のように呟いた。それは目の前の男に向けた言葉であると同時に、自分自身への弁明でもあった。まるで悪いのは自分ではなく、意に沿わぬ行動を取る彼らの側なのだとでも言いたげに。タケシは彼女の蒼白な顔を見つめ、案じるように問いかけた。「……まだ、司野と一緒にいたいのか」美宜は即座に答える。「司野さんは、私の未来の夫になる人よ。一緒にいちゃいけない理由なんて、どこにあるの?」タケシは一瞬言葉を選ぶようにしてから、口を開いた。「正直に言えば、お前はあいつには勿体ない」司野は自分の妻のために、美宜の命すら顧みず、無理やり中絶を強いた。そんな男がまともであるはずがないし、美宜が想いを寄せる価値のある相手とも思えなかった。その言葉を聞いた瞬間、美宜の表情が険しく歪んだ。「いい加減にして。そんなこと、二度と聞きたくないわ。彼のどこが勿体ないっていうの?私と司野さんこそ、誰よりもお似合いなのよ」言い終えた途端、部屋は一瞬で静寂に包まれた。まるで空気そのものが奪われたかのように、呼吸音さえ消える。美宜は暗がりに立つ野崎タケシを見つめた。――この男には、まだ利用価値がある。彼女は歩み寄り、男の腰に腕を回して胸元に顔を埋めると、柔らかな声で囁いた。「司野さんに嫁ぐのは、私の人生の夢なの。タケシさん、あなたなら協力してくれるわよね?」そう言って顔を上げ、潤んだ瞳で見つめる。その姿は、守ってやりたいと思わせるほどのか弱さを装っていた。タケシは喉を鳴らし、ひとつ頷く。「……ああ、協力してやる」その返答を聞くと、美宜はぱっと表情を明るくし、甘やかな声で続けた。「分かってたわ。タケシさんが一番頼りになるって」---タケシは夜の闇に紛れ、美宜の住まいを後にした。漆黒の中、彼はまるで密林を駆ける豹のように、周囲へ神経を張り巡らせている。影のように滑らかな身のこなしで、やがてその姿は夜の帳へと溶けていった。彼の姿が完全に消えた後、ようやく張り込みを続けていた監視役が姿を現す。その動きは即座に司野のもとへと報告された。司野の表情は、喜怒哀楽の一切を読み取らせないほど静まり返っている。だが、周囲に漂う重苦しい気配から、彼が決して表面ほど冷静ではないことを岩治は感じ取っていた。決定的な証拠がない以上
人の命というものは、ある者の目には一文の価値もない屑に映り、またある者の目には利用価値のある再生資源に見える。自分自身の命は、まさに前者だった。そして三智子の場合は後者――彼女の死は親にとって「利用価値のある資源」へと堕していた。史恵の考えに、耕平も同意した。安田一家がわざわざ遠方からやって来たのは、親子の情などという甘い言葉を語るためではない。純粋に金が目的だった。自分たちに情報を流してきた相手も、三智子の幸せなど望んでいないのは明らかだ。死んだ者は戻らない。泣き喚いたところで何も変わらないのなら、現実的に金を搾り取る方がよほど有益だ。金さえ手に入れば、村を出て都会で家を買う。誰も自分たちを知らない場所で人生をやり直し、息子に嫁を迎える――そんな都合のいい未来図を、彼らは疑いもなく思い描いていた。やがて間もなく、素羽のイヤホンに、史恵が電話をかける声が流れ込んできた。「……三智子の死は、あんたの仕業じゃないのかい?」物言いはあまりにも直截だった。遠回しな探りなど一切なく、いきなり核心に切り込む。相手の返答は聞こえない。だが、史恵の脅し文句ははっきりと耳に届いた。「誤魔化すんじゃないよ。あんたの差し金じゃなきゃ、私らが来た途端にあの子が死ぬなんておかしいだろう?分かってるんだよ。あんたは私らを使って、あの子を追い詰めようとしたんだ。呼び出すだけ呼び出して、一銭も出さないなんて通じると思うのかい。こっちは安くないんだよ。金を出すか、それとも警察に全部ぶちまけてやる――あんたが娘を殺したってね!」やがて相手が折れたのか、史恵は臆面もなく要求を突きつけた。「一億だよ。一分たりとも負けやしない。明後日までに用意しな!」通話が切れると、残されたのは一家三人による、その大金の使い道を巡る興奮じみた妄想だった。順一が訊ねる。「母さん、あいつ本当に払うのか?」「払わないわけがないだろう。命が惜しけりゃね」とはいえ史恵自身も、相手にそれほどの財力があるとは思っていなかった。一億――百万や千万とは桁が違う。その額が手に入れば、自分たちも一気に金持ちの仲間入りだ。三人の顔には、抑えきれない欲望の光がぎらぎらと浮かんでいた。重要な情報が途切れたのを見て、素羽はイヤホンを外した。密閉された車内に、
その言葉を聞いた瞬間、史恵と耕平の表情が目まぐるしく変わった。二人は一瞬、視線を交わし合う。巧みに隠したつもりなのだろうが、彼らを注視していた素羽は、そのわずかな動きを正確に捉えていた。――やはり、何かある。そう確信するには十分だった。史恵がぶっきらぼうに言う。「あんた、それをわざわざ言いに来たのかい?」素羽は落ち着いた声で答えた。「いえ、三智子さんの代わりに、ご挨拶に伺っただけです」「挨拶なら済んだだろう。さっさと帰んな」史恵は露骨に追い払おうとした。見舞いなどどうでもいい。それよりも、彼らには今、身内で話し合うべきことがある。素羽は隣の清人へと視線を送る。彼がわずかに頷くのを確認すると、彼女もそれ以上踏み込むことはしなかった。「……三智子さんの葬儀までに、何かお困りのことがあればご連絡ください。力になれることがあれば、お手伝いします」そう言い残し、二人は部屋を後にした。宿の下に停めた車に戻ると、素羽と清人はそれぞれイヤホンを耳に装着する。次の瞬間、イヤホン越しに三智子の家族の会話が鮮明に流れ始めた。今回の訪問の本当の目的は、部屋に盗聴器を仕掛けることだったのだ。やがて、耕平が口を開いた。「……だから言っただろう。あいつにあんな酷い仕打ちをするな、逃げられるぞって」史恵がすぐさま噛みつく。「今さら私のせいにするつもりかい!私があの子にああ接した理由なんて、あんたが一番分かってるはずだよ!あんたが股間の始末もできずに、実の娘にまで手を出しやがったからだろうが!私が黙らせなきゃどうなってたか、分かってるのかい?あんなことが村中に知れ渡ったら、私たちは人間扱いされないどころか、村八分で一生後ろ指をさされるんだよ!」息子・順一がよその娘を強姦した事件ですでに評判は地に落ちていた。そこへ父・耕平の不祥事まで重なれば、もはや村に居場所はなくなる。イヤホン越しに流れるその告白に、素羽は唇を強く噛みしめ、瞳に激しい嫌悪を宿した。自分と三智子の因縁はさておき、耕平の獣じみた行為と、それを隠蔽するために結託した史恵のやり口――そのどれもが、吐き気を催すほどの醜悪さだった。血の繋がった実の娘だ。守るどころか傷つけるとは。彼らを「畜生」と呼ぶことすら、畜生に対して失礼だ。まさに、畜生以
素羽は、三智子の両親に狙いを定めていた。彼女が三智子の人間関係を洗ったところ、周囲の人間は皆、彼女は孤児で家族はすでに他界していると語っていた。明らかに虚偽だ。三智子が対外的にそう言っていた理由は、ただ一つ――家族を憎んでいたからだ。彼らなど死んでしまえばいいとさえ思うほどに。警察もまた、三智子の遺族に連絡したのは自分たちではないと証言していた。向こうから訪ねてきたのだという。警察が知らせていないのなら、遺族はどうやって彼女の死を知ったのか。しかも、これほどまでに早く。素羽は、三智子の両親こそが突破口になるかもしれないと考えた。三智子の家族は、安いホテルに身を寄せていた。清人が付き添い、素羽はそこへ向かった。ドアを叩くと、出てきたのは若い男だった。顔立ちはどことなく三智子に似ており、一目で兄妹だと分かる。だが、三智子の落ち着いた気配とは対照的に、男の視線は卑しく濁っていた。素羽を見るなり、その美しさに目を見張りつつ、品定めするような粘ついた視線を投げかけてくる。清人はその不快な視線に気づき、露骨に眉をひそめた。その時、奥から史恵の声が飛んできた。「誰だい?」素羽は男の視線を意にも介さず、姿を現した史恵に向かって静かに言った。「初めまして。三智子さんの友人です」史恵の目もまた、まるで値踏みするかのように、二人を頭の先から足元まで舐めるように見回した。そこには露骨な強欲の光が宿っている。「……何の用だい?」素羽はかすかに微笑んだ。「中でお話ししてもよろしいでしょうか」史恵は短く頷き、二人を中へ通した。ツインルームの狭い室内には、一家がひしめき合っていた。部屋に入るなり、史恵が真っ先に口を開く。「あんた、あの子の親友なのかい」素羽は静かに首を振った。「同僚でした」そして、わずかに間を置いて続ける。「……三智子さんからは、ご両親は亡くなったと聞いていましたので、ご存命とは思いませんでした」その一言に、史恵は目を剥いて怒鳴り散らした。「あの恩知らず、親を死んだことにして呪いやがったのか!」「だから言っただろ、母さん。あの女は身内を裏切るような奴だって」弟の安田順一(やすだ じゅんいち)も加勢し、憤慨した声を上げる。「自分だけ都会で贅沢して、俺たちの苦労な
二人の会話は、まるで袋小路に迷い込んだかのように行き場を失い、その中でただ堂々巡りを続けていた。素羽は言った。「あなたと美宜がホテルで密会していた写真、持ってるわ。須藤家に影響が出るのを恐れないなら、とことんやりましょうよ」司野は相変わらず淡々とした表情のまま、まるで素羽の言動そのものが滑稽であるかのように彼女を見ていた。その反応のなさを目にし、素羽は心の中で密かに嘲笑する。まさか、自分が証拠を手に入れられないと、そこまで確信しているの?素羽は司野の目の前でスマートフォンを操作し、彼と美宜が写った写真を突きつけた。視線が画面に落ちた瞬間、司野の淡々とした表情に初めて揺ら
場の空気というのは不思議なもので、二人が並んで立つだけで、誰と誰の気が合わないのかが自然と伝わってくる。楓華は亜綺に対して、心の底から良い印象を抱けなかった。美宜と親しげにしている人間が、まともな人物であるはずがない。美宜の頬に残る平手打ちの跡を見た瞬間、亜綺は大げさに声を上げた。「美宜、その顔……誰に殴られたの?素羽、あんたでしょ!」楓華は軽くあしらうように、皮肉をたっぷり込めて言った。「どこの猿が、こんな場所で騒いでいるのかしら」亜綺は怒りに満ちた目で睨みつけ、声を荒らげる。「誰を猿だって言ったの?」楓華は口角を吊り上げ、冷ややかに応じた。「返事をした人
美宜は司野の腕の中に顔を埋め、声を上げて泣き出した。今回は演技をする必要もなく、それは心底からの嗚咽だった。「司野さん……どうして素羽さんは、私にこんなひどいことができるの?私、両親にだって叩かれたことがないのに……うう……」司野は低く抑えた声で言った。「素羽、美宜に謝れ」素羽は胸の奥から込み上げる不満を必死に押し殺し、背筋を伸ばした。「どうして私が、彼女に謝らなきゃいけないの?」「人を殴ったなら、謝るべきだろう」「彼女は殴られて当然だったのよ」「お前っ……!」司野は、素羽があまりにも理不尽だと感じた。素羽はさらに続ける。「私に謝れって言うなら、でき
森山は、ジムにこもり、正気を失ったかのように体を動かし続ける素羽の姿を見て、思わず心配そうな視線を向けた。これほどまでに身体を酷使する運動は、常軌を逸している。素羽は、ただ運動をしているのではなかった。胸の奥に渦巻く狂気を、必死に吐き出そうとしているだけだった。止まりたくなかった。一度でも動きを止めれば、あの写真の光景が、容赦なく頭の中に押し寄せてくるからだ。司野は言った。美宜とは何の関係もない、と。彼女のことは妹のように見ているだけだ、と。だが、その言葉はすべて、彼自身の行動によって無残に打ち砕かれた。特別な関係でもない異性と、二人きりで旅行に行く。それは、本