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第203話

Author: 雨の若君
司野の視線は険しかった。

素羽はそれに目もくれず、淡々と続ける。

「例の件だけど、いつになったら私と一緒に片づけてくれるの?」

司野は顔をしかめ、冷え切った声で吐き捨てた。

「もういい加減にしてくれないか?ここはお前が騒ぎ立てる場所じゃない!」

それを聞いた素羽は、口元を歪め、嘲るように笑った。

「じゃあ、ここはどんな場所なの?」

そう言いながら、寄り添う二人へと視線を向け、さらに言葉を重ねる。

「あなたが愛人を囲っている場所?あなたと美宜の関係がどういうものか、今さら私が説明する必要がある?」

その一言で、周囲の空気が一変した。

居合わせた人々の視線が、一斉に怪訝な色を帯びる。

今の言葉、どういう意味だ?

愛人?二人の関係?

美宜は、社長の妻じゃないのか?

探るような視線が集まるのを感じ取り、美宜の視線は落ち着きを失った。

自分が司野の妻ではないという立場を、ここで明かすわけにはいかない。

彼女は苦しげにうめいた。

「司野さん……頭が、痛い……」

その声に、司野は美宜を抱きかかえ、そのまま立ち去ろうとする。

だが、素羽が再び彼の前に立ちはだかった。

「皆に知られても、構わないわよ」

美宜は素羽を睨みつけた。

この女、正気じゃない。

こんなことを口にして、何の得があるというのか。司野を怒らせれば、なおさら自分の立場が悪くなるだけなのに。

司野は眉をひそめ、不快感を隠そうともせずに言った。

「いい加減にしろ。気でも触れたのか!」

それほどまでに、美宜が噂の的になるのが我慢ならないのだろうか。素羽は内心、そう呟いた。

そして、バッグから一通の書類を取り出し、司野の胸元へ叩きつけた。

「これにサインしたら、もう騒がないわ」

離婚協議書は司野の胸から美宜の体をかすめ、最後には床へと落ちた。

周囲の人々は、思わず身を乗り出して覗き込もうとした。

だがその前に、岩治がすばやく動いた。ちらりと目に入った「離婚」の二文字を確認した瞬間、即座に皆の視線を遮るように書類を拾い上げた。

もし社長が離婚するなどと知られたら、どれほどの醜聞になることか。

美宜は近くにいたため、「協議」という二文字しか見えなかったが、頭の回転は早かった。

それが何を意味するのかを悟ると、彼女の目に一瞬、きらめきが走る。

そして、わざとらしく
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