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第215話

Author: 雨の若君
二人の間の空気は、一瞬にして険悪なものへと変わった。

切迫し、どこか危険な光を宿した司野の眼差しを前に、素羽は――もしこのまま美宜を傷つけるような言葉を重ねれば、彼は本当に自分をこの世から消してしまうのではないか、と密かに推し量った。

その緊張を断ち切ったのは、美宜からの一本の電話だった。

「司野さん……外、雷がすごいの。怖いよ……きゃあっ!」

彼女の悲鳴に呼応するかのように、雷鳴が激しく轟いた。

司野は声を和らげ、「大丈夫だ。今すぐ行く」と優しく言って彼女を安心させた。

そう言い終わるや否や、彼は素羽の家から瞬時に姿を消した。

やっぱり、美宜の言葉は効くのね。

素羽は自嘲気味にそう思った。

司野が残していったスーツケースにちらりと視線を向けると、ためらいもなくそれを家の外へ放り出した。

その頃、司野は土砂降りの雨の中を、美宜の住むマンションへと車を走らせていた。エレベーターに乗り込み、迷いなく上階へ向かう。

ドアが開いた瞬間、人影が司野の胸元に飛び込んできた。

「うう……司野さん、怖かった……」

司野はしっかりと美宜の身体を支え、そのまま室内へ入った。彼女をソファに座らせ、温かい水を一杯注いで手渡す。

美宜はそれを受け取り、少しずつ口に含んだ。

司野は向かいに腰を下ろし、静かに彼女を見つめた。

その視線に居心地の悪さを覚えたのか、美宜は首を傾げて尋ねた。

「司野さん、どうしてそんなに見てるの?私、顔に何か付いてる?」

司野はゆっくりと口を開いた。

「お前は、素羽のことをどう思っている?」

美宜は一瞬戸惑い、それからすぐに答えた。

「素羽さんは、とても良い人よ」

司野の表情には、微塵も感情の揺らぎがなかった。まるで他愛のない雑談の延長のようだった。だが、次の言葉を聞いた瞬間、美宜の顔色は変わった。

「お前が彼女に送った写真、あれはいつ撮ったものだ?」

その言葉に、美宜の瞳孔が瞬時に収縮し、疚しさが一瞬、顔をよぎった。

ほんの刹那の変化だったが、司野は見逃さなかった。やはり、素羽は自分を騙してはいなかったのだ。

美宜は無意識のうちにカップを握る手に力を込めた。どう言葉を選ぶべきか考える暇もなく、司野は続けた。

「俺がどうしてお前の面倒を見ているのか、お前自身が一番分かっているはずだ」

その瞬間、美宜の目元はみるみ
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