LOGIN二人の視線がぶつかり合った。司野の眼差しは深く沈み、その奥には読み取ることのできない複雑な感情が渦巻いている。だが、素羽にはそれを読み解こうとする興味など微塵もなかった。今の彼女の胸にあるのは、ただ一つの願い――「離婚」だけだ。司野は机の上のペンを取り上げ、素羽の名前の下に自らの署名を書き込んだ。離婚届に受理印が押されたその瞬間、素羽がずっと握りしめていた拳は、ようやく静かにほどけた。出来たばかりの離婚届受理証明書を手にした途端、抑えきれない笑みが自然と口元に浮かぶ。その一挙手一投足のすべてが、司野の目に焼き付いた。――これほどまでに、嬉しいのか。素羽は両手で証明書を受け取ると、先に立ち上がり、微笑みを浮かべて言った。「須藤さん、翁坂さんと一生お幸せに」証明書をバッグにしまうと、そのまま外へと歩き出す。足取りは驚くほど軽く、まるで身体が宙に浮いているかのようだった。あまりにも現実味がなく、思わず自分の腕をつねってみる。痛い。夢ではない――紛れもない現実だ。司野が後を追ってきた。「車がないんだ。記者会見の会場まで乗せていってくれ」素羽はにべもなく断った。「嫌よ。タクシーでも拾いなさいな」彼が車で来ているかどうかなど、今の彼女には知ったことではない。区役所から出たその瞬間、素羽の頭上でクラッカーが弾けた。同時に、あらかじめ録音されていた音楽が鳴り響く。「離婚おめでとう、幸せを祈るよ。素羽さんならもっと素敵な人が見つかる……」派手な格好に身を包み、まるで結婚式以上にめでたい雰囲気を醸し出している張本人――翔太の姿を見て、素羽の表情が引きつった。区役所の外には、翔太が手配したスタンド花までずらりと並べられている。「僕からのプレゼントだ。見てくれよ」【祝・絶世の美女、素羽。クズ男を蹴り飛ばして新たな人生へ。若いツバメを九人十人と囲って、尽くされる快感を味わえ】素羽は言葉を失った。これが祝福なのか、それともかつて「尽くす側」だった自分への皮肉なのか、判断に迷う。大騒ぎで駆けつけた翔太は、親友である楓華でさえ隅に追いやってしまっていた。花束だけを持って現れた楓華でさえ、翔太のこの気合いに比べれば霞んで見えるほどだ。素羽は呆れたような目で翔太を一瞥し、思わず言いそ
素羽は床に座り、荷造りを終えたスーツケースを見つめながら、ぼんやりと思いに沈んでいた。「ニャー」猫の鳴き声が、彼女の意識を現実へと引き戻す。だんごは素羽の膝へとよじ登り、心地よい場所を見つけると、仰向けになって丸々とした腹をさらした。素羽は、撫でてほしそうにしているだんごを見下ろした。今回は拒まず、そっと手を伸ばして撫でてやると、小さな生き物は気持ちよさそうに喉を鳴らした。この猫に対する感情は、素羽にとってどこか複雑だった。この子の存在そのものが、花を捨てた罪を償おうとする司野の証のようなものだからだ。だんごに罪はない。だが、買い主が買い主である。この子を見るたびに、素羽の脳裏には、あの幼い猫が今もどこかで生きているのだろうかという思いがよぎる。「もう二度と会うことはないわね。お腹が空いたら森山さんを頼るのよ。あの不届きな買い主じゃなくてね。あいつには、あんたへの本物の愛情なんてないんだから」司野が本当に猫を好きなのかどうか、素羽にははっきり見えていた。すべては表面的なパフォーマンスに過ぎない。彼らの婚姻関係と同じだ。かつては偽りの調和を装っていたが、ひと突きすれば脆く崩れ去る。だが、それもようやく終わろうとしていた。心に期するものがあったからだろうか。その夜、素羽の眠りは浅かった。体内時計が鳴る前に、彼女は目を覚ました。一度目が覚めてしまうと、もう眠る気にはなれない。彼女は起き上がり、静かに身支度を整え始めた。朝。森山は、いつになく活気に満ちた素羽の様子を見て、不思議そうに尋ねた。「奥様、今日は何かいいことでも?ずいぶん嬉しそうですね」森山はあまりニュースを見ないため、昨夜起きたスキャンダルのことなど露ほども知らなかった。素羽は穏やかに答える。「もうすぐ自由になれるの」森山には、自由と喜びがどう結びつくのか理解できなかった。それでも、素羽が嬉しそうにしているのを見ると、自分まで嬉しくなる。そこで、彼女は素羽が喜びそうな話をひとつ持ち出した。「そういえば、美宜さんのご両親なんですが、昨日どういうわけか慌てて出て行かれて、それきり戻ってらっしゃらないんですよ」素羽には、彼らが去った理由がはっきりと分かっていた。景苑別荘で最後となる朝食を済ませると、彼女は車を走らせて区役
「女を抱いたんなら、責任くらい取りなさいよ。じゃないと、亡くなった彼女に妹を裏切ったって知られたら、地獄から這い上がってきて恨まれるわよ」司野の顔の筋肉が、びくりと激しく痙攣した。「素羽、言っておくが、この離婚は絶対にさせない」素羽は何も言わずスマホを取り出し、楓華に電話をかけた。「楓華……」その名を口にした瞬間、司野がそれをひったくり、凄まじい勢いで床へ叩きつけた。画面は一瞬で暗転し、次の瞬間には粉々に砕け散った。素羽はゆっくりと瞼を持ち上げ、冷えきった眼差しで彼を見据える。「携帯を壊せば、すべて解決するとでも思っているの?」司野の呼吸は一つ一つがまるで炎を孕んでいるかのようだった。怒りのせいか視界には二重の残像が揺れ、耳鳴りが激しく響き渡る。次の瞬間、視界が急激に暗転した。身体は制御を失い、そのまま素羽の方へ崩れ落ちていく。「司野さん……!」意識が途切れる直前、司野ははっきりと気づいた。手を伸ばせば自分を支えられる距離に立っていた素羽が、彼が倒れ込む寸前、すっと身を翻して避けたことを。そのまま彼は、無防備なまま床へ叩きつけられた。非難の視線が一斉に素羽へ向けられたが、彼女は自分が何か間違ったことをしたとは微塵も思っていなかった。鉄人のような体を持つ司野が、まさかこれほど突然虚弱に倒れるとは予想もしなかったのだ。彼女はただ、司野が暴力を振るおうとしているのだと思い、本能的に身をかわしたに過ぎない。この予期せぬ事態により、話し合いは一時中断となった。司野は部屋へ運び込まれ、すぐに家庭医が呼ばれる。酒の回った身体に発熱、さらに鞭打ち。いくら頑丈な体を持っていようとも、到底耐えきれるものではなかった。だが素羽は内心、少なからず不満を抱いていた。よりによってこのタイミングで気を失うなんて、わざとではないのか。話し合いは後日に持ち越されるものと思われたが、予想に反して幸雄は決断の早い男だった。彼は即座に医者に命じ、司野に注射を打たせ、無理やり目を覚まさせたのである。須藤家の人間は、やはり容赦がない。彼女が内心やりたかったことを、平然と代わりにやってのけた。司野が目を開けるや否や、幸雄は冷然と言い放った。「明朝、目が覚めたらすぐに素羽と離婚してこい」司野
現在のこの窮状は、須藤家が自分を追い詰めた結果に他ならない。素羽は毅然と言い放った。「私と司野さんの離婚を認めてくださるなら、私が記者会見を開き、彼とはとっくに協議離婚が成立していたと公表します。今日の騒動についても、彼と美宜が恋人同士として合意の上で行ったことであり、不倫の事実は一切ないと説明しましょう」幸雄が低い声で問い返す。「……もし、認めないと言ったら?」素羽はその瞳に、一片の躊躇も曇りも見せなかった。「それでも会見は開きます。ただし、語る内容は真逆のものになるでしょう。裏切られた妻として、世間に助けを求めるしかありません。会社の株価に致命的な悪影響が出ることは、おじいさんも望まないはずです」幸雄が口を開くより早く、司野が叫ぶように割って入った。「ふざけるな、ありえない!」しかし、素羽は微塵も動じない。「司野、今回は不倫の現場を押さえられ、その動画もすでに拡散されているの。前回のように、あなたの思い通りに情報を操作できるなんて思わないことね」司野は憎しみを込めて素羽を睨みつけた。「……あの時、俺に意識がなかったのは分かっているはずだ」異変に気づいた時、なぜ引き離さなかった。なぜ誤解を解こうとせず、これほどの大騒ぎに発展させたのか。「酔っていただけでしょ。死んでいたわけじゃないわ」素羽の唇に、冷ややかな嘲笑が浮かぶ。「美宜の面倒を見ると言い出したのは、あなた自身。ベッドの上でああして『世話し合う』のが、あなたの望みだと思っただけよ。無粋に邪魔をして、目が覚めたあなたから『空気が読めない』なんてなじられるのは、もう御免だわ」司野の呼吸が荒く乱れる。「離婚するためなら、これほど卑劣な手段も選ばないというのか?」彼は、素羽がこれほどまでに冷酷になれるはずがないと信じていた。だが、目の前の現実は、彼女が目的のためならなりふり構わず牙を剥くことを冷徹に示していた。「これも全部、あなたに教わったことよ」素羽は静かに告げた。それこそが、司野が自分に刻み込んだ最初の教訓だった。彼女は視線を司野から幸雄へと戻す。「おじいさん、決断を」幸雄の濁った双眸の奥で、老獪な計算が渦巻く。「……明日、記者会見の手配をさせよう」須藤家の名誉という絶対的な天秤の前では、他のすべては些事に
司野は、凍てつくような鋭い眼差しで美宜を射抜いた。「なぜ、素羽に助けを求めなかった」意識を失っていた自分に、その時の記憶はない。だが、美宜には頼れる人間が傍にいたはずだ。美宜は悲痛な声を絞り出し、激しく肩を震わせて泣きじゃくった。その声には、隠しきれない不満と焦燥が混じっている。「司野さん、どういう意味……?まさか、今日の出来事が私の仕組んだことだと疑っているの?助けを求めなかったなんて、どうしてそんなことが言えるのよ。必死で求めたわ。でも、彼女は冷たく突き放して、私を見捨てて行ったの。そのすぐ後よ、警察が踏み込んできたのは……」涙に濡れた顔を寄せ、美宜は司野の耳に吹き込み続けた。先ほどの大騒動で、美宜の名声は地に堕ちた。もともと既成事実を作り、司野を搦め手で縛りつけるつもりではあったが、自らの誇りまでを犠牲にして窮地に立たされることなど、微塵も望んでいなかった。警察を呼んだのが素羽である確証はない。しかし、どちらにせよ、この泥沼の全責任は素羽に背負わせねばならなかった。何しろ、あまりに出来すぎたタイミングだった。まるで精緻に書き上げられた筋書き通りに、事が運んだかのように。「司野さん、私はこれからどうすればいいの?ネットでは誰も彼もが私を尻軽女だと罵っているわ。これじゃあ、もう生きていけない……」美宜はしゃくり上げながら、縋るように訴えた。その様子を傍らで見ていた岩治は、内心で吐き捨てるように悪態をついた。――ああ、忌々しい!この女は泣くことしか能がないのか。事に及ぶ前に、なぜ社長を叩き起こさなかった。今さら涙を見せて何になるというんだ。一体誰が、こんな余計な真似をしろと言った?既婚者である社長に不埒な野心を抱くなど、その厚顔無恥さには呆れるばかりだ。岩治の頭痛は、主である司野のそれにも勝るとも劣らない。今夜は一睡もできず、この不始末の火消しに奔走することになるのは火を見るよりも明らかだった。その時、重苦しい空気を破るようにドアが叩かれた。岩治が応対に出ると、そこには幸雄の側近である執事・直人が、彫像のように佇んでいた。直人は感情を排した声で、単刀直入に告げた。「幸雄様が、直ちにお戻りになれと仰せです」司野は、その言葉を予期していたかのように、静かに目を閉じた。
利権や業績が絡むとなれば、連中の動きは恐ろしく早い。記者たちの手並みも鮮やかで、あろうことかライブ配信まで開始し、現場の状況をリアルタイムで世間に晒し始めていた。ひとたび不祥事が起きれば、そこには地域差別も男女の対立も、ましてや階級の壁すら存在しない。コメント欄は皮肉にも、主役である二人の素性を暴こうとする好奇心一色に染まっていた。「さあ、特定班の諸君、出番だ。この男女の全情報を3分以内に割り出せる有能な奴はいないか?」「ワクワクが止まらない!」画面上は、そんな類の書き込みで埋め尽くされている。素羽も今は、一視聴者として冷徹にこの「不倫騒動」を鑑賞していた。画面の向こうには、狼狽に震える美宜と、無理やり叩き起こされて呆然と自失する司野の姿がある。司野は割れるような頭痛に苛まれているのか、眉間に深い皺を刻んでいた。何が起きているのか、事態を全く飲み込めていない。その時、配信機材を担いだ記者が、容赦のない声を叩きつけた。「須藤さん!ホテルで密会とは、自宅で待つ奥様のことは頭にないのですか?瑞基グループの企業イメージへの影響をどうお考えで!」記者はそのまま、レンズを美宜の顔へと突きつける。「君、どこの店のホステスですか?須藤さんと密会するのはこれで何度目ですか!」記者の怒号のような問い詰めと、隣でひたすら泣きじゃくる美宜の声。それらが混ざり合い、司野の混濁していた脳がようやく再起動した。現状を完璧に把握した瞬間、彼の顔からは血の気が引き、こめかみが激しく引きつった。一方、クライアントとの会食の席にいた岩治は、部下からの報告を受けるなり顔色を一変させた。まるで自分自身が不倫現場を押さえられたかのような、背筋も凍る戦慄に襲われる。岩治は弾かれたように椅子から立ち上がった。困惑して顔を見合わせるクライアントたちを余所に、彼は部下に後を任せると、事態を収束させるべく夜の街へと駆け出した。――万事休すだ。ライブ配信は、記者が司野の身分を暴露した直後、規約違反を理由に遮断された。素羽は、車のフロントガラス越しに点滅するパトカーの赤色灯を見つめていた。これで、十分。これほど明白な不倫現場を押さえられた以上、司野が美宜を守り抜こうとするなら、前回のように検索ワードを削除する程度では済まない。
もしかして、昨夜のあれが激しすぎたのだろうか。素羽は下腹部に鈍い痛みを感じている。これ以上、また血を流すようなことになるのは絶対に避けたかったので、今日は仕事を休んで病院で体を診てもらうことにした。診察を終えた医者は、少し困ったように言った。「まだ体が完全に回復していません。夫婦の営みは、なるべく控えた方がいいですよ」その言葉に、素羽は思わず頬を赤らめる。もう二ヶ月も経ったのに、自分ではすっかり治ったつもりでいた。薬を受け取り病院を出ると、素羽はその足で芳枝のもとを訪れた。幸いなことに、松信はそこまで冷たい人間ではなかった。危うく実の息子に捨てられそうになったことを、芳枝が
叩いたのは幸雄の次男一家の娘で、叩かれたのもまたその分家の血を引く者だった。だが、一人は正妻の子、一人は愛人との子だった。須藤莉央(すどう りお)は振り返り、来た人物に気づくと、冷たい怒りの表情が一瞬止まり、すぐに嘲るような笑みに変わった。そして、掴まれていた手を振り払う。「触らないでよ!」素羽は地面に倒れている須藤佳奈(すどう かな)に手を差し伸べた。少女の幼さが残る頬には、はっきりと平手打ちの痕が残っている。佳奈は自分の手を頬に当てようとしたが、素羽がそれをそっと握り、そのまま立ち上がらせた。莉央の目には嘲弄が浮かぶ。「買われてきた縁起直しの小娘が、本家長男の嫁の肩書き
翌日、素羽が目を覚ますと、瞼は腫れ上がっていた。隣の布団はきちんと畳まれており、ぬくもりも感じられない。またしても、司野は夜遅くまで帰ってこなかったのだ。素羽は起き出すと、冷たいタオルで目元を冷やす。今日は日曜日だから、外に出る理由もなく、彼女は自宅でじっとしている。昼頃、琴子から電話がかかってきた。「ちょっと用があるから、屋敷に帰ってきなさい」と、どこか不機嫌な声だった。素羽は余計なことは聞かず、すぐに車で屋敷へ向かった。家につくと、美玲もいた。いや、それだけではない。見知らぬ二人の女性まで居間に座っている。素羽は一人も顔を知らなかった。「お義母さん」と、素羽は丁寧に
琴子は、今もう由紀子の顔を立てるためじゃない。自分自身の威厳を示すためだ。琴子は人の心の掴み方をよく知っている。彼女は見事に、自分の弱点を押さえたのだ。心の中で、素羽は琴子への恨みが湧いてしまう。彼女は、芳枝が体調を崩していることを知っているはずなのに。けれど、恨んでも仕方ない。芳枝の体を賭けに出すような真似、素羽にはできない。一歩前に出て、お茶を淹れる。素羽は茶碗を手に取り、差し出した。由紀子は受け取らず、「何か言いたいことはないの?」と問う。素羽は茶碗を握る手にぐっと力を込め、喉が上下する。数秒後、唇が小さく動いた。「すみません」「その謝罪は、私じゃなくて佳