LOGIN安田先生……?素羽の、あのカウンセラーのこと?楓華の脳裏に、かつてレストランで美宜と密会していたあの女の姿が鮮明に蘇った。景苑別荘で見かけた、あの心理カウンセラーだ。楓華の顔色は一変し、肺の空気を奪われたかのように呼吸が乱れる。「素羽!」Bluetoothイヤホンから、素羽の短く不可解そうな声が返ってきた。「……どうしたの?」「今、そのカウンセラーの車に乗っているのね!?」「ええ、そうよ」「降りて!今すぐ、その車から降りなさい!」楓華の悲痛なまでの叫びに、素羽は一瞬呆然と自失した。楓華は畳みかけるように、早口で言葉を投げつける。「その心理カウンセラー、裏で美宜と繋がっているわ!」芳枝の失踪に美宜がどこまで関与しているかは定かではない。だが、この絶妙すぎるタイミングで三智子が現れたことに、説明のつかない違和感がこみ上げる。長年培ってきた職業的な直感が、すべては仕組まれた罠だと警鐘を鳴らしていた。その言葉を聞いた瞬間、素羽の瞳が微かに揺れた。運転席に座る三智子の横顔を、それと悟られぬよう盗み見る。見慣れたはずのその穏やかな横顔が、今は底知れぬ闇に覆われているように見えた。素羽は激しく脈打つ鼓動を必死に抑え込み、努めて平静を装って口を開いた。「……安田先生。すみませんが、あそこの路肩で車を止めていただけますか?」三智子は、意外にも素直に頷いた。「分かりましたわ。ここは危ないから、もう少し先の広い場所で止めますね」車が完全に停止するやいなや、素羽はシートベルトを外すと、逃げるようにドアノブへ手をかけた。しかし、指先が金属に触れた瞬間、背後から鋭い風が迫る。素羽が反射的に振り返った時、三智子の手にはすでに注射器が握られていた。迷いのない動きで、それは素羽の首筋に突き立てられる。刺痛とともに、冷たい液体が体内へと流れ込んだ。素羽の瞳孔が急激に収縮し、視界がぐにゃりと歪んでいく。意識が急速に遠のく中、「……ごめんなさい」という三智子の微かな呟きが、奈落の底から響くように聞こえた気がした。そのまま、彼女は深い闇の中へと堕ちていった。「素羽!聞こえる!?素羽!」楓華は異変を察知し、受話器に向かって何度も叫び続けた。だが、スピーカー越しに聞こえてきたのは、微かな呻き声だけだった。楓華の眉が、苦悶に深
素羽は耳を疑い、茫然と立ち尽くした。「……消えたって、どういうことですか?」「ほんのわずか、電話に出るために席を外した隙に、芳枝さんの姿が見えなくなったんです。周囲をくまなく探しましたがどこにもおられず、スマートフォンも置いたままにされていて……」受話口越しに、介護士の切羽詰まった声が響く。「おばあちゃんのことですもの、ふらりと散歩にでも出たんじゃないかしら」素羽は自分に言い聞かせるように呟いたが、介護士はそれを即座に否定した。「いえ、今の時間は散歩の時間ではありませんし、何よりもうすぐ投薬の時間なんです」芳枝はこの病院に長く通う患者で、ナースステーションのスタッフは誰もが彼女の顔を知っていた。それにもかかわらず、いつ、どのようにして姿を消したのか、気づいた者は一人もいなかった。素羽は病院に掛け合って防犯カメラの映像を確認したが、彼女はまるで煙にでも巻かれたかのように、忽然と姿を消していた。パニックに陥りそうになる心を必死で抑え、素羽は警察に通報した。病院内を狂ったように探し回っていたその時、ふいにスマートフォンの着信音が鳴り響いた。見覚えのない番号だったが、なぜか彼女は、この電話が祖母の失踪に深く関わっていると直感した。「もしもし」応答すると、直後、ボイスチェンジャーを通したような、感情の欠落した不気味な声が聞こえてきた。「祖母に会いたければ、ここへ来い」相手は、とある住所を告げた。「……誰なの?」性別さえ判別できない無機質な電子音が再び響く。「通報すれば、二度と祖母の顔は拝めないと思え。猶予は一時間だ。現れなければ、あの老いぼれに明日の朝日は拝ませない」言い捨てるなり、電話は一方的に切れた。「もしもし!ちょっと、待って……!」素羽は拳を固く握りしめた。直後、メッセージの着信音が鳴り、一枚の写真が送られてきた。そこには、意識を失ってぐったりと横たわる芳枝の姿があった。素羽の全身から血の気が引き、身体が小刻みに震え出した。相手が何者なのか、目的は何なのか、皆目見当もつかない。だが、祖母の命を危険にさらすような真似だけはできなかった。素羽は縋るような思いで司野に電話をかけた。彼の広い人脈と力があれば、自分よりも確実に、そして強引にでも事態を解決してくれるはずだ。震える指
「……これでは、彼を侮辱しているも同然ではないかしら?」美宜は素羽を鋭く睨みつけた。「デタラメを言わないで。私とこの男は何の関係もないわ」素羽は戯れるように肩をすくめた。「金銭のやり取りまでしておいて、関係がないなんて?」その瞬間、美宜の瞳に暗雲が垂れ込める。――聞かれたの?一体どこまで?子供のことまで聞かれたのかしら?素羽にとって、自分はただの見物人にすぎない。美宜が野良犬のような男を囲っていようと、本来なら興味などなかった。ただ、滑稽で仕方がなかったのだ。あれほど司野に執着しているように見えた美宜が、所詮はこの程度だったとは。司野が心から可愛がっていたはずの「妹分」も、結局は心と体をきっちり切り分けていたというわけだ。素羽は、胎教に悪いくだらない痴話喧嘩をこれ以上眺める気にもなれず、視線を外してその場を後にした。美宜は、その背中を射抜くように見つめ続けていた。やがて、司野の「劣化版」である男も視線を素羽へと向ける。「……あれが司野の妻か。なるほどな、お前が選ばれなかったわけだ」その一言で、美宜の陰鬱な瞳はさらに深く沈んだ。彼女は、誰かに「素羽に劣っている」と言われることを、何よりも嫌っている。だが男は、まるで意に介さず言葉を重ねた。「俺はタダ働きはしない主義でね。俺の種を貸してやった代償は高くつくぞ。黙ってほしければ、明日までに口止め料を用意しろ。さもなきゃ司野に教えてやる――あいつはただの『寝取られ野郎』だってな」子供が流れてしまったことだけが惜しかった。あの子さえいれば、もっと大きくゆすれたはずだ――もっと早く知っていれば、と男は舌打ちする。「明日、金が確認できなかったら、予告なしに動くからな。せいぜい気をつけることだ」吐き捨てるように言い残し、男は軽薄な足取りで去っていった。美宜は拳を強く握りしめ、その瞳の奥にはどろりとした殺意が渦巻いていた。――司野さんにだけは、絶対に知られてはいけない……あの子が彼の子ではなかったなんて。---素羽が病室へ戻る途中、彼女を探しに来た司野と鉢合わせた。彼の顔には、いくつもの痣が浮かんでいる。どうやら「喧嘩でも顔だけは殴らない」という不文律は通用しなかったらしい。翔太は意図的に、顔ばかりを狙っていたのだろう。その
「ほら、息子よ。誰が来たか見てごらん。伯父さんだよ。さあ、ご挨拶して」翔太はそう言うと、わざと喉を詰まらせたような裏声で続けた。「『伯父さんなんて嫌いだもん。伯父さんなんて大っ嫌い!』」声を元に戻し、満足げに頷く。「さすがは僕の自慢の息子だ。親子揃って好みまでそっくりだな。嫌いなものまでここまで一致するとは」素羽は絶句した。この男の奇行には、いったい何度驚かされれば気が済むのか。奇人――まさに本物の奇人だった。司野の眼差しは陰惨さを極め、今にも翔太を八つ裂きにしかねない殺気を帯びている。それでも翔太は、両手をポケットに突っ込んだまま、不遜な態度を崩さない。「そんなに睨むなよ。親子仲がいいからって嫉妬か?」素羽は火の粉を浴びるのを御免こうむりたかった。「場所を空けましょうか?」口では問いかけつつ、動きに迷いはない。そのまま病室を出ると、気を利かせて外から扉を閉めた。ドアが閉まった直後、室内から激しい物音が響き渡る。素羽は足を止めることなく、その場を離れた。野次馬になるつもりもなければ、どちらが勝とうと知ったことではない。階下の庭に降りると、木陰を見つけて腰を下ろす。ようやく一息ついた――その時だった。背後から聞こえてきた声が、素羽の意識を鋭く引き寄せる。「金をよこせ。さもなきゃ今すぐ司野のところへ行くぞ」司野の名を耳にした瞬間、素羽は反射的に振り返った。そこにいたのは一人の若い男で、誰かに向かって話している。その横顔にはどこか見覚えがあった。だが、見知った顔というよりも、貼り付いたような強欲な表情の方が強く印象に残る。対峙している相手は一本の木に隠れて見えない。だが次の瞬間、その正体は声で知れた。木陰から、美宜の冷ややかな声が響く。「行けるものなら行ってみなさい」男がさらに脅しを重ねた。「払わないなら、あんたが司野に隠れて何をしてたか、全部ぶちまけてやる。どっちが損するか、見ものだな」「よくもそんなことを!」男は美宜を、都合のいい金づるか何かのようにしか見ていなかった。――まさか、自分が抱いた女がこれほどの金づるだったとはな。天が俺に金を運んできたってわけだ。その時、横向きの姿勢が窮屈で、素羽が体勢を変えようとした拍子に、足元の枯れ枝を踏んでしま
淳子は頭を抱えながらも、どうすることもできず、ただ娘の機嫌を取るしかなかった。---素羽の体調は、治療と食養生の甲斐あって次第に快方へと向かい、あと二日もすれば退院できるほどにまで回復していた。美玲が海外へ強制的に送り出されるという知らせを、わざわざ伝えに来たのは翔太だった。――この人、私たちの周りに監視カメラでも仕掛けているのかしら。そうでなければ、どうしてこんなにも動きが早いの?翔太はベッド脇の椅子に腰掛け、足を組みながら不敵な笑みを浮かべた。「さて――今のお前を『兄嫁』と呼ぶべきか、それとも『江原素羽』と呼ぶべきか」「『他人』で構わないわ」「それは困るな。これからお前を口説こうと思っているんだから」素羽は呆れたように目を見開いた。「……三階に行ってみたら?」「どうして三階なんかに?」「あそこは精神科よ。一度診てもらった方がいいわ」――人前でそんな迷惑なことを口にするくらいなら、さっさと治療を受けてほしいものね。翔太は口角を吊り上げた。「兄貴が行かないのに、僕が行く理由がどこにある?」「一人が嫌なら、ツアーでも組んで一緒に行けばいいじゃない」「それなら、お前もどうだ?人数が多い方が楽しいだろう」「……安売りショップにでも行くつもり?」――人数が増えたら割引でもされるっていうの?翔太はからかうように笑った。「いや、お前の症状の方が僕より重そうだからな。離婚までしておいて、その腹にはガキを宿したまま……本当に女神様みたいに慈悲深いな」「私が望んでこうしているとでも?」――どれほど「身一つ」で出ていきたかったか、この男には分からないのね。出られるものなら、とっくに出ていっているわ。翔太は足を下ろし、膝に肘をついて身を乗り出した。その瞳には、どこか妖しい光が宿っている。「手伝ってやろうか」素羽は最大限の警戒を向けた。司野が人でなしなら、目の前のこの男もまた、決して善人ではない。軽薄な遊び人を装ってはいるが、その冷酷さは司野に勝るとも劣らない。翔太が低く囁く。「その腹の子、処分してやってもいいんだぜ」「前にも言ったはずよ。あなたたち兄弟の醜い争いに、私を巻き込まないで。興味もないし、関わる気もないわ。私はもう司野の妻じゃない。そんな小細工に頭を使うく
素羽は森山が運んできた夕食を口にしていたが、食べ終える前に司野が戻ってきた。――美宜のところにいないで、何をしに戻ってきたのかしら。司野は彼女の向かいに腰を下ろすと、どこか申し訳なさそうな表情で、先ほど席を外した理由を説明し始めた。「彼女が急に倒れたから、つい……」だが、言い終える前に素羽が静かに遮る。「説明なんていらないわ。そもそも必要ないもの。私たちはもう離婚しているのよ。あなたが何をしようと、どこへ行こうと、私には関係のないことだわ」外から見れば二人はまだ夫婦だ。だが内実は違う。今の自分は、ただの代理母と変わらない。雇い主である彼の私生活など、興味の欠片もなかった。自分に火の粉が降りかからない限り、彼が何をしようと自由だ。その言葉に、司野は口を閉ざした。平然と、まるで何も感じていないかのような素羽の態度を前に、彼の表情は複雑に歪み、言い訳の言葉はすべて喉の奥で絡みついたまま消えていく。素羽は彼の存在を視界の端に捉えつつも、完全に無視して食事を続けた。だが、司野が現れる前のような食欲は失われており、数口運んだだけで箸を置く。今の司野は、彼女にとって「いてもいなくても同じ」どころか、目に入るだけで食欲を削ぐ存在に過ぎなかった。その様子に気づいた森山が、心配そうに声をかける。「奥様、もう少し召し上がってくださいませ」妊婦にとって栄養の過不足はいずれも好ましくない。今の素羽は明らかに痩せすぎており、本人にとっても胎児にとっても良い状態ではなかった。素羽は意味ありげに呟く。「吐きそうなの」彼女が立ち上がると、司野が言った。「庭を散歩するなら、付き添おう」毎晩、食後に庭を軽く二周するのが習慣だった。もっとも、今は安静が必要な時期のため、長く歩くことはできない。素羽が「結構よ」と言いかけた、その時だった。司野のスマートフォンが鳴り響き、その着信音が彼の動きを止めた。素羽は振り返ることもなく、森山とともに階下へ降りていく。司野は画面に表示された名前――「美宜」を見て、わずかに眉をひそめた。一瞬の躊躇の後、通話に応じる。すぐに、美宜の声が飛び込んできた。「司野さん、どこへ行ったの?どうして側にいてくれないの?」「淳子さんを呼んだ。具合が悪いなら、医者を呼べ」その言葉に
車は静かに大通りを走っていた。司野はふと、素羽の薬指が裸なのに気づき、少し戸惑いながら問いかけた。「指輪は?」素羽は一瞬きょとんとして、無意識に指を撫でた。「朝、洗面所に外して置いたまま、出かける時に忘れちゃったの」実は、結婚指輪なんて、とっくの昔に外していた。今日になって彼が気づくなんて思わなかった。積み重ねた年月が残した指輪の跡を見つめながら、素羽の心はどこか遠くへ漂っていった。あの指輪、最初から自分のサイズじゃなかった。けれど、合わなくても、初めてその指に通したとき、素羽はすごく嬉しかった。彼女はこっそりサイズを直し、それから五年も身につけ続けた。でも、現実は教え
「司野さん」美宜は司野の手に渡るはずだった杯を手に取り、そのまま一気に飲み干した。「あー、喉が渇いてたまらなかったわ」「えっ……」突然の出来事に、素羽の表情は一変した。杯を取り返す暇もなく、美宜はすでに酒を飲み干していた。「……」美宜は無邪気そうにパチパチと瞬きして言う。「素羽さん、どうしたんです?まさか、私が一杯飲んだくらいで文句言うつもりですか?それとも、このお酒に何かあるのですか?」その言葉に、司野の眼差しも鋭くなった。素羽は内心の動揺を押さえ、冷静を装って言った。「別に、何でもないよ」祐佳の考えそうなことなど分かりきっている。素羽は、この酒に何か仕込まれてい
スマホを握る手に力が入り、喉の奥がひりつく。もうこれ以上見たくなくて、素羽は画面を消し、そのまま目の前のグラスを手に取り、一気に飲み干した。慌てて飲んだせいで、咽せてゴホゴホと咳き込んでしまう。生理的な反応で、目の端がじんわりと湿った。その時、清人から電話がかかってきた。どうやら原稿のイラストについて話したいことがあるらしい。素羽は今いる場所を伝えた。三十分後、清人が現れた。彼は根っからの仕事人間。現れるや否や、すぐに本題へと入った。二人は夢中で話し込み、自然と顔を近づけていた。あまりに熱中していたせいで、素羽は一匹のうるさい「ハエ」が近づいてきたことに気づかなかった。
彼女は一人で来たわけではなく、隣には家政婦の梅田が付き添っていた。司野が驚いたように眉をひそめる。「どうしてここに?」美宜は心配そうに声を上げた。「昨日の夜、あんなふうに飛び出していったから、心配で眠れなかったのよ。素羽さん、一体何があったの?夜遅くに司野さんが病院まで送るなんて、体にどこか不調でもあるの?」素羽はその問いにすぐは答えず、代わりに司野の方へ顔を向け、思いきり軽口を叩いた。「ああ、昨夜はベッドの上でちょっと盛り上がりすぎちゃって」その一言で病室の空気が凍りついた。美宜の瞳の奥がきゅっと歪むのが見えた。おかしいわね、どうせ聞かれても不機嫌になるくせにって、素







