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第60話

Auteur: 雨の若君
習慣というものは、本当に恐ろしい。

馴染んだ空気の中にいると、素羽は簡単に己を見失い、堕ちてしまう。それは彼女自身の本能であり、簡単に抑えられるものではなかった。

司野の腕の中に身を預け、素羽はそっと瞳を閉じる。ほんの一瞬だけ現実から逃避させて、と心の中で願う。

司野が傍にいてくれるだけで、不思議と恐怖も薄れていく気がした。

だが、その穏やかな時間はほんの束の間。突如として耳障りなスマホの着信音が静寂を引き裂いた。

素羽は反射的に司野の服を掴む。彼に電話に出て欲しくなかった。

司野はその手元を一瞥し、最初は素羽の望みを叶えてやろうとした。しかし、執拗に鳴り続ける着信音を無視することは、結局できなかった。

「ちょっと電話に出てくる。すぐ戻るから」

やっぱり、自分の勘は外れない。

電話の相手は美宜だった。

通話が繋がった瞬間、司野の表情が一変する。自分の妻がまだ傍にいることすら、すっかり忘れてしまったかのようだった。

急ぎ足で出ていこうとする司野に、素羽は初めて自分の弱さをさらけ出した。「司野、行かないで!」

心からの願いを込めて、彼に残ってほしいと訴えた。

「美
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