「美咲、ごめんなさい、私が悪かったわ。どうか健司くんを返して。彼がいないと私は生きていけないの。元夫がまた私を見つけて、連れ戻そうとしてるのよ。だからお願い、健司くんを奪わないで。これは私が勝手に持ち出したあなたのリングなの。健司くんは何も知らないわ。ちゃんと返すから、これからももう二度とあなたの前に現れない。だから、お願い。健司くんが早く釈放されるよう、警察に説明してくれない?」姉が彼女を引き起こそうとしたけれど、沙耶は頑なに車の前から動かなかった。その姿を見ていられず、私はただただ騒ぎを早く終わらせたいと思った。その場で、私は弁護士や被害を受けたドレスショップの責任者と連絡を取り、健司が早期釈放されるよう交渉した。そして、深々と頭を下げる沙耶を残して車の窓を閉めた。――そして、いよいよ結婚式。父が私の手を啓太の手に重ね、軽く叩いて送り出してくれた。その瞬間、涙が込み上げてきた。何度も夢見た結婚式。けれど、新郎は健司ではなく啓太だった。目の前で微笑む彼を見つめながら、これからの人生はきっと幸せになれると確信した。式を終え、来賓を見送り終える頃には三時間以上が経っていた。啓太と手をつなぎ、ホテルを出たところで――健司の姿があった。警備員と口論し、隣には泣き腫らした目の沙耶がいた。招待状も持たずに押しかけたため、中に入れてもらえなかったらしい。私と啓太が並んで歩み寄ると、健司は歯を食いしばりながらこちらへ向かってきた。包帯を巻いた手が痛々しく、姿はすっかり憔悴している。啓太が一歩前に出て、彼を立ち止まらせた。「美咲、本当に俺を捨てるのか?この前ちゃんと謝っただろ?沙耶ちゃんとは何もなかったんだ。ただ、あいつは元夫から暴力を受けてて、助けを求めてきただけなんだ。全部、彼女のせいなんだよ。だからもう、二度と連絡を取らないって約束した。美咲、俺が好きなのは君だけだ。俺たちは九年も一緒にいたんだぞ。それなのに、知り合ってまだ数日しか経ってない男を選ぶのか?あいつなんかより、俺を信じろよ!」必死にすがる健司を前に、私は冷め切った心で見つめ返した。彼はいつだって責任を他人に押しつける。二人の関係を壊したのは私だと責め、今度は「沙耶が悪い」と言う――自分の過ちを省みたことは、一度もなかった。「健司、今のあなたはすごく無
私は彼の目を見て、首を横に振った。「美咲、まだ怒ってるのか?全部俺が悪かった、許してくれ。俺たち、約束しただろ?一緒に年を取るって……結婚したいなら、明日でも結婚しよう。お願い、俺と結婚してくれ」そう言って、健司はポケットからリングを取り出し、その場に片膝をついた。割れたガラスが突き刺さっても構わない様子だった。「美咲!」駆け込んできた啓太が、私を後ろにかばう。だが健司はすぐ立ち上がり、私の腕を引っ張ろうとする。「彼女に近寄るな!」その声に、健司の目がさらに狂気を帯びる。「美咲、俺たちは九年も一緒にいたんだぞ!未来を語り合って、いつまでも一緒にいるって約束もしたんだ!それを全部捨てて、あいつを選ぶのか!そんなのあんまりだ!」思わず、冷笑が漏れた。――私の気持ちを踏みにじったのは彼と沙耶だというのに。「健司、私たちを終わらせたのは誰なのか、あなた自身が一番よくわかってるはずよ」「……ごめん、俺が悪かった、本当に悪かった!だから帰ってこい、美咲!俺と結婚しよう!」その必死な声は、夢で聞いたものと同じだった。けれど私の心はもう、凍りついて二度と溶けることはない。啓太は終始、私を覆うように立ち、健司の姿を見せまいとした。やがて警察が来て、彼は連れて行かれた。後処理はすべて啓太が引き受けてくれた。私は一切、関わらなかった。そして結婚式当日。式場には花は一輪もなく、代わりに植物とぬいぐるみが飾られていて、とても可愛らしい雰囲気だった。啓太はきちんとスーツを着こなし、私の家まで迎えに来た。姉がはしゃいで「歌わなきゃ通さない!」と茶化し、彼は照れながらもラブソングを披露する羽目に。笑い声に包まれて、順調に式場へ向かう――はずだった。ところが車を出した途端、一人の女が前に飛び出して道を塞いだ。髪は乱れ、顔は青ざめ、見るからに憔悴しきっている。止めようとする人を振り払い、彼女は私の前に膝をついた。その姿を見て、私は息をのむ――沙耶だった。
翌朝、私の腫れた目を見て、ウェディングドレスショップのメイクさんが思わず「大丈夫ですか?」と声を上げた。氷で何度も冷やしたおかげで、ようやく腫れは引いてきた。母がずっと前からデザインを依頼していたウエディングドレスは、夢のように美しかった。鏡に映る自分に、思わず息を呑む。啓太も言葉を失い、呆けたように見つめていた。姉が肘で小突くと、ようやく我に返り、慌てて「似合ってる、すごくきれいだ」と繰り返した。その後、姉は楽しそうに写真を撮り、SNSに投稿する。【フィルターなし。妹の美貌に撃沈した一日!】結婚準備は想像以上に体力を奪う。ドレスの試着だけでぐったりしてしまった。着替えの合間、入口から声が響く。「すみませーん、みささんにお届け物です。フードデリバリーでーす」「私です」反射的に答えてしまった。受け取って配達員が去ったあと、全員が首をかしげる。誰も頼んでいないのだ。胸の奥を冷たい予感が走った。――「みさ」。それは昔、怒る私を宥めるとき、健司がよく使っていた呼び名。案の定、すぐに電話が鳴った。知らない番号だ。出ると、聞き慣れた声が飛び込んできた。「どういうつもりなんだ。俺は一晩中待ってたんだぞ!家にも帰らずに、ドレスを試着しに行ったのか?なんで俺を呼ばなかった!」「一晩中待った?沙耶と一緒に月見してたくせに。私が何をしようと、もうあなたには関係ない。私たちはもう終わったのよ!」「美咲!君の結婚相手は俺しかいない!他の男と結婚なんかしてみろ、どうなるかわかってんのか!」最後まで聞かず、電話を切った。今の彼は、理性を失った狂犬のようだった。その夜、晩ご飯のあと姉を連れて猫たちに会いに行くはずだったが、急にドレスショップから電話が入った。「新井(あらい)さま、大変申し訳ありません。ある男性が『会わせろ』と騒ぎ、窓ガラスまで割られてしまって……警察を呼びましたが、できれば来ていただけますか?」両親や姉には告げず、私は啓太と急いで店へ向かった。着いたとき、大きなガラスは粉々に砕け、店内のソファには健司が座っていた。手には私のウエディングドレス。服は乱れ、手もガラスの破片で傷だらけだった。赤く充血した目をした彼を、店員たちは恐れて遠巻きに見ているだけだった。私に気づいた健司は立ち上がり、ドレスを差
「どこへ行くの?」ようやく落ち着いて、私は小さく尋ねた。「もふもふたちに癒やしてもらうんだ」啓太はそう言って、私を彼の運営する保護施設へと連れていった。夜の給餌タイムらしく、私の手にカリカリの袋を持たせてくれる。そこにいる犬や猫たちは、どれも信じられないくらいきれいで、誰が見ても元野良とは思えなかった。みんな嬉しそうに彼にまとわりつき、視線を向ければ瞳を細めて甘えてくる。背中によじ登ろうとした子猫を、啓太が慌てて引きはがす。その不器用な動作に、つい笑いがこぼれた。胸の奥の重さがふっと薄らいでいくのを感じる。長椅子に腰を下ろすと、物怖じしない猫が一匹、当然のように膝へ飛び乗ってきた。柔らかな毛並みを撫でると、喉を鳴らす音が心地よく響く。啓太も隣に腰をかけ、二人で夜空に浮かぶ丸い月を見上げた。「あなたのことは、お母さんから全部聞いたよ。彼と別れて、後悔はないかい?」静かな声に、私は短く答えた。「ない」小さな声だったけれど、私の意思は揺るがなかった。啓太はまっすぐ私を見て、穏やかに言った。「じゃあ、もう手を離さない。彼に傷つけさせたりもしない……僕、美咲のことを好きにさせてみせるよ」頬が熱くなり、私はただ、こくりとうなずいた。「……うん」家に戻った頃には、もう夜の九時を回っていた。「明日、ウェディングドレスの試着に行こう」そう言って、啓太は車を発進させて帰っていった。寝る前まで健司からの連絡は一切なかった。あれだけ怒鳴り散らしたのに、私への執着なんて半日も持たなかったらしい。その代わり、姉からの電話が鳴った。「美咲、健司くんにはまだ何も言ってないの?さっきゴミ出しに降りたらさ、あの人、あの女と一緒に月見してたの!もう頭にきて、ゴミ袋ぶつけてやろうかと思った!」――どうりで今まで連絡がなかったわけだ。沙耶がそばにいたから。最初から予想できたことなのに。「うん、別れるって言っただけで、細かいことまでは話してない。そもそも私たち、付き合ってたわけでもないし、彼が誰と一緒にいようが自由だよ。……それより、私が結婚する話は絶対言わないでね」「言うわけないでしょ。あんなの、もうただの他人よ。じゃ、荷造りするね。明日のドレス試着、姉さんも一緒に行くんだから」「ありがとう、気をつけて来て。
「私ったら、すっかり舞い上がっちゃって。ほら、美咲、こちらが羽生家の長男、羽生啓太(はにゅう けいた)さんよ。いい男でしょう?母さんはちゃんと調べたんだから。悪い癖もなければ、変な噂も一切なし。ご両親も立派な方でね、特にお母さんは私とも知り合い。人柄も良いし、将来絶対姑との揉め事なんてないから安心して」そう言って、母は啓太をぐいっと私の前へ押し出した。啓太は百九十センチはありそうで、私より頭ひとつ分は高い。思わず見上げる格好になり、その顔をまじまじと見つめた――なんだか見覚えがある気がする。にこっと笑った彼が、さらにかっこよく見えた。彼は手にしていた多肉植物のブーケを差し出す。「お花にアレルギーだって言ってたよね。前に、みんなみたいに花束をもらえなくて羨ましいって言ってたのも覚えてる。これは特注の多肉ブーケだ、あなたに贈るよ」反応が追いつかずぼうっとしたままブーケ受け取った瞬間、記憶がよみがえる。――あ、この人は……「あなた、たまちゃんの手術をしてくれた先生!」「ええ、覚えててくれたんだ。今おばさんの家に行っても、たまちゃんに全然懐かれなくてね」啓太は苦笑を浮かべた。「『おばさん』じゃなくて、『お母さん』って呼んでもらってもいいけど?」母が茶化すように言うと、私も啓太も同時に顔を赤らめてしまった。その後、車に乗り込むと、母は啓太の話をし続けた。彼は獣医師だけじゃなくて、ペット病院の院長でもある。たまちゃんの定期検診で母と顔を合わせたとき、さりげなく私のことを聞き、そこで連絡先を交換したらしい。そして母が「娘にお見合いを」と言い出した途端、真夜中にご両親を連れて家まで訪ねてきたのだという。話を聞くうちに、さっき落ち着いたはずの頬がまた熱を帯びる。こっそり運転席の啓太を見たら、彼もちょうどバックミラー越しにこちらを見ていた。私は慌てて視線をそらし、スマホを見るふりをした。健司の連絡を全部遮断してからは、通知音を切っていた。だが画面を見て絶句する。未読メッセージと不在着信が山のように溜まっていた。健司の友人の番号や、見知らぬ番号まで混じっていた。恐る恐る再生した友人からの音声メッセージ――そこから流れてきたのは、健司の怒声だった。「美咲!沙耶ちゃんはいま病院だ。医者は強いショックを受けたって言
最後に私を引き上げてくれたのは、レストランの店員だった。震える身体を抱えて家に戻り、浴槽いっぱいに熱い湯を張って浸かる。指先がしわしわになるまで、頬が真っ赤になるまで浸かっても、冷えきった心だけはどうにも温まらなかった。浴室を出ると、窓の外はすでに白み始めていた。九年間暮らしたこの部屋を最後に見渡すと、昨日、健司に突き飛ばされて水に落ちた瞬間の記憶が鮮明によみがえる。玄関の靴箱の上に鍵と指輪を置き、私はスーツケースを引きずって外へ出た。飛行機に乗り込む直前、機内アナウンスが「携帯電話の電源をお切りください」と流れる前に、健司へ最後のメッセージを送った。――【さようなら、二度と連絡しないで。私には、もうあなたが必要ないから】九年分の青春に、そこで終止符を打った。これからは前を向いて歩く。四時間後、飛行機がゆっくりと着陸する。電源を入れた途端、着信とメッセージ通知が立て続けに鳴り、携帯が震えっぱなしになった。すべて健司からだった。沙耶が戻ってきてから、彼はほとんど私に連絡をよこさなかった。どこに行くのかも言わず、いつ帰るのかも教えず、私は何度もソファで彼を待ち続けて眠り込んだ。けれど健司は、もう私の存在を忘れていたのだ。また電話が鳴ったが、私はためらわず切って番号をブロックした。今度はメッセージアプリの通知が来た。開くと、健司が送ってきたのは――猫が謝るスタンプ。胸がざわついたけれど、それ以上は見なかった。深呼吸して、すべての履歴を削除する。九年分のやり取りが一瞬で空白になり、その画面を見つめながら指先が小さく震えた。気持ちを落ち着けてから空港の外に出た。外に両親が待っているはずだから、何も悟られないようにしなくては。人混みの中、両親を見つけるのは一苦労するだろうと思ったが、とある大きな横断幕がすぐに目に入った。【おかえり、美咲】思わず足が止まる。周りの人たちの視線が集まってきて、顔が熱くなる。けれど久しぶりに会う両親は相変わらず明るかった。父が私のスーツケースを受け取り、母は泣きそうな顔で抱きしめてくる。「ごめんね、美咲。父さんと母さんが仕事ばっかりで寂しい思いさせたから、あんな男に連れていかれちゃったのよね。でももう大丈夫。今日からまた、母さんたちの可愛いお姫様に戻れるわ」母が健司のこと