Short
 浮気男を捨てて私は幸せになる

 浮気男を捨てて私は幸せになる

By:  十一Completed
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
11Chapters
729views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

私は結婚する。 けれど、九年付き合った彼、真田健司(さなだ けんじ)は、まだ何も知らない。 理由は一つ。彼が、離婚して戻ってきた元カノ、木下沙耶(きのした さや)の世話にかかりきりだからだ。まるで姫様を守るナイトのように、彼は何もかも肩代わりして動いている。 二人が顔を合わせた瞬間から、空気が甘く絡み合い、まるで失われた恋を取り戻したようだった。 彼は元カノを迎えるために、空輸で九千九百九十九本ものジュリエットローズを取り寄せ、部屋いっぱいに飾った。 「昔の約束だから」と誇らしげに言ったが、私が重度のバラ科アレルギーだということは、すっかり頭から抜け落ちていたようだ。 結果、私は救急車で搬送される羽目になった。 意識を取り戻した直後、私は両親にメッセージを送り、「お見合いをお願い」と頼んだ。

View More

Chapter 1

第1話

私は結婚する。

けれど、九年付き合った彼、真田健司(さなだ けんじ)は、まだ何も知らない。

理由は一つ。彼が、離婚して戻ってきた元カノ、木下沙耶(きのした さや)の世話にかかりきりだからだ。まるで姫様を守るナイトのように、彼は何もかも肩代わりして動いている。

二人が顔を合わせた瞬間から、空気が甘く絡み合い、まるで失われた恋を取り戻したようだった。

彼は元カノを迎えるために、空輸で九千九百九十九本ものジュリエットローズを取り寄せ、部屋いっぱいに飾った。

「昔の約束だから」と誇らしげに言ったが、私が重度のバラ科アレルギーだということは、すっかり頭から抜け落ちていたようだ。

結果、私は救急車で搬送される羽目になった。

意識を取り戻した直後、私は両親にメッセージを送り、「お見合いをお願い」と頼んだ。

両親の動きは驚くほど早かった。

退院前にすでに何十人もの男性のプロフィールと写真、さらに十数通りの結婚式プランを送ってきた。最も古いプランは、数年前に用意されたものだった。

母からのメッセージには、こう書かれていた。

【美咲(みさき)、母さんも恋をしてきた人間だからわかるの。健司くんが本当にあんたを愛しているなら、九年も待たせたりしないわ。今、別れるのは正しい選択よ。

お相手も結婚式のプランもずっと前から考えていたの。娘の結婚式は必ず最高のものにしたいからね】

──やっぱり。健司が私を愛していないことなんて、他人から見れば明らかだった。

ただ私だけが、彼の作り上げた甘い幻想を壊したくなくて、現実から目を背けていた。

「ありがとう、母さん。結婚式はシンプルでいいから、相手も任せるよ」

「それなら羽生(はにゅう)家の長男はどうかしら?とても優秀でしっかりしている方よ。善は急げっていうし、式も五日後に決めましょう。あんたは帰ってくるだけでいいの」

「……何の話だ?結婚式って?」

振り返ると、ちょうど健司が帰ってきていた。

私は慌てて通話を切り、スマホの画面を消し、裏返して握りしめる。

彼が手を伸ばしてきたそのとき、彼自身のスマホが鳴り響いた。

静かな夜に、女の震える声が漏れ聞こえる。

「健司くん……あなたが帰ったあとすぐに元夫が来て、ドアを叩いてるの。どうしよう、すごく怖いわ……」

健司の眉が一瞬で寄った。

「沙耶ちゃん、ドアを開けちゃだめだ。寝室に入って鍵をかけて、通報もしておくんだ。俺がすぐ行くから」

言い終えるよりも早く、健司は駆け出していた。ドアすら閉めず、私を夜に置き去りにした。

以前の私なら、泣き崩れていただろう。けれど、今は胸の奥が不思議なほど静かだった。

私はスマホのロックを解除し、姉にひとこと送った。

──【姉さん、今度こそ結婚するよ】

両親よりも私を案じてくれたのは、姉だった。両親が海外赴任してからは、ずっと姉と暮らしてきた。

おかげでこの街に来て、健司と出会った。

あの日、知らない街で不審者に尾けられ、恐怖で立ち尽くした私を助けてくれたのが健司だった。彼は私の青春を照らす光に思えた。

しばらく経ち、姉が結婚することになった。これ以上姉に迷惑をかけたくない私に、健司が「一緒に住めば守ってやれる」と言ってくれて、姉と同じマンションの部屋を購入した。そして私も、姉の制止を振り切って彼と同棲を始めた。

──そして気づけば、九年。

私の「結婚する」というメッセージを見た姉から、すぐにビデオ通話が入った。

「やっとね!健司くんと九年も付き合ったんだもの、ようやくゴールインじゃない」

「……違うの。相手は健司じゃなくて、羽生家の長男。名前もまだ知らないけど、優秀だって母さんが言ってたわ」

画面の向こうで、姉は沈黙した。目に悔しさと哀しみが浮かぶ。

「……本当にいいの?九年も一緒だったのに」

私は微笑んで、頷いた。

「うん、九年も一緒にいたけど、付き合ってる感じがしなかった。同棲していたこの九年間は、ただの曖昧な関係のまま、ダラダラと過ごしてただけ……もう疲れちゃったの」

私の言葉に姉は驚いていたけれど、最後には「応援する」と言ってくれた。

通話を切ると同時に、航空券決済済みの通知が届く。私は五日後、この街を離れる便を手配していた。

翌日。持っていけない多肉植物をいくつか抱え、姉と待ち合わせた商業施設へ向かう。

合流するなり、「結婚祝いに布団一式を買ってあげる」と言って、姉は私を寝具売り場へ連れて行った。

──まさか、そこに健司と沙耶に鉢合わせるとは思わなかった。
Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters

Comments

user avatar
さぶさぶ
呼び出すためにお店破壊する暴力男と復縁はしないでしょう。
2025-09-19 13:12:38
1
default avatar
蘇枋美郷
この後の落ちぶれていくクズ男女のところまで読みたかったー!
2025-09-19 16:47:29
0
user avatar
松坂 美枝
あれだけ浮気しておいて凶暴に暴れまわるクズが怖い 別れられて良かったけどもっと惨めになるところを読みたかった
2025-09-19 10:49:58
1
11 Chapters
第1話
私は結婚する。けれど、九年付き合った彼、真田健司(さなだ けんじ)は、まだ何も知らない。理由は一つ。彼が、離婚して戻ってきた元カノ、木下沙耶(きのした さや)の世話にかかりきりだからだ。まるで姫様を守るナイトのように、彼は何もかも肩代わりして動いている。二人が顔を合わせた瞬間から、空気が甘く絡み合い、まるで失われた恋を取り戻したようだった。彼は元カノを迎えるために、空輸で九千九百九十九本ものジュリエットローズを取り寄せ、部屋いっぱいに飾った。「昔の約束だから」と誇らしげに言ったが、私が重度のバラ科アレルギーだということは、すっかり頭から抜け落ちていたようだ。結果、私は救急車で搬送される羽目になった。意識を取り戻した直後、私は両親にメッセージを送り、「お見合いをお願い」と頼んだ。両親の動きは驚くほど早かった。退院前にすでに何十人もの男性のプロフィールと写真、さらに十数通りの結婚式プランを送ってきた。最も古いプランは、数年前に用意されたものだった。母からのメッセージには、こう書かれていた。【美咲(みさき)、母さんも恋をしてきた人間だからわかるの。健司くんが本当にあんたを愛しているなら、九年も待たせたりしないわ。今、別れるのは正しい選択よ。お相手も結婚式のプランもずっと前から考えていたの。娘の結婚式は必ず最高のものにしたいからね】──やっぱり。健司が私を愛していないことなんて、他人から見れば明らかだった。ただ私だけが、彼の作り上げた甘い幻想を壊したくなくて、現実から目を背けていた。「ありがとう、母さん。結婚式はシンプルでいいから、相手も任せるよ」「それなら羽生(はにゅう)家の長男はどうかしら?とても優秀でしっかりしている方よ。善は急げっていうし、式も五日後に決めましょう。あんたは帰ってくるだけでいいの」「……何の話だ?結婚式って?」振り返ると、ちょうど健司が帰ってきていた。私は慌てて通話を切り、スマホの画面を消し、裏返して握りしめる。彼が手を伸ばしてきたそのとき、彼自身のスマホが鳴り響いた。静かな夜に、女の震える声が漏れ聞こえる。「健司くん……あなたが帰ったあとすぐに元夫が来て、ドアを叩いてるの。どうしよう、すごく怖いわ……」健司の眉が一瞬で寄った。「沙耶ちゃん、ドアを開けちゃ
Read more
第2話
健司と沙耶は家具売り場のベッドに並んで横になり、肩を寄せて笑い合っていた。まるで幸せな夫婦が、新生活のために寝具を選んでいるように見える。ちょうど姉が布団カバーの柄を持ってきて私に選ばせようとしたとき、その光景に気づき、思わず詰め寄ろうとした。だが、私は彼女の腕を引いて止めた。「姉さんが選んだものなら、何でも好きだよ。お礼っていうのもなんだけど……これはずっと育ててきた多肉植物。飛行機じゃ運べないから、代わりに世話をしてあげて」私は姉を連れて健司の前を通り過ぎ、あえて彼の存在を無視した。すると、珍しく彼のほうから声がかかった。「美咲も来てたのか。誤解しないでくれ。これはただ、沙耶ちゃんにベッドの寝心地を試させてただけなんだ」健司は言葉を重ねる。「沙耶ちゃんの元夫が、彼女の新しい住所を突き止めて危害を加えようとしてたんだ。うちのマンションにはもう一部屋買ってあるから、そこに引っ越してもらったほうが安心だと思ってさ。あの家の家具もだいぶ古くなってたから、この機会に一緒に選び直そうと思ったんだ。ひとりで買って運ぶのは大変だろうし。――君もお姉さんと買い物?この多肉植物たち、どうしたんだ?持ってくるなんて珍しいな。普段俺にだって触らせてくれなかったのに」「あなたの家だから、どうしようとあなたの自由だよ。ベッドだって、使う人が確かめるのは当然のことだし、誤解なんかしてないよ」私がそう言うと、健司はほっとしたように見えた。その後しばらくして、私たちは買い物を終えて荷物を抱え、姉の家に戻った。だが、マンションの敷地に入ったところで、またしても健司と沙耶に出くわす。二人はたくさんの日用品を抱えて帰ってきたところだった。健司は沙耶の手にしていた袋をすべて取り上げ、その白い手を気遣うようにふっと息を吹きかける。「お腹すいた」と沙耶が口にすると、健司はすぐさま彼女の肩に腕を回して歩き出す。私は身を引き、二人を先に通した。エレベーターの扉が目の前で閉まりゆくなか、健司の声が聞こえてきた。――気分は悪くないか、低血糖になってないか、帰ったら大好物のチキン南蛮を作ってあげる、と。二人を見ていると、昔の私たちを見ているようだった。私が無理なダイエットで胃を悪くしたとき、健司は一度病院に付き添ってくれた。それ以来、ずっと私
Read more
第3話
姉の家を出たときには、もう夜の八時を回っていた。自宅に戻ったものの――鍵を持っていないことに気づく。管理会社に電話をして事情を話すと、「開けるには鍵を壊して新しいものに替えるしかありません」と言われた。だがここは健司の所有する家。私のような部外者が勝手に鍵を替えるのは気が引ける。しかも、もうすぐ出て行く予定だ。仕方なく、私は健司の番号を押した。三度目のコールでようやく繋がったが、電話口に出たのは――沙耶の声だった。「美咲?健司くんは今、料理してるの。こんな時間にどうしたの?」そして、わざとらしく弁解するように続ける。「あ、誤解しないでね。帰国したばかりで、私、頼れる人なんて健司くんしかいないの。彼もただ昔のよしみで助けてくれてるだけよ」どう返せばいいのか迷っていると、受話器の向こうから健司の声が弾んで聞こえた。「沙耶ちゃん!チキン南蛮ができたぞー!早く来いよ、食いしん坊さん」胸の奥がひどく痛んだ。私は電話を切り、九年間の出来事を思い返しながら、ひとり惨めさに押し潰されそうになる。結局、管理会社を呼んで新しい鍵に替えてもらった。早く中に入って、荷物をまとめてしまいたかった。家に入った途端、健司から着信があった。「美咲!どういうつもりだ?昼間は『誤解してない』なんて言ってたのに、裏では沙耶ちゃんにきつく当たっただろ!あいつ、ショックで晩ご飯も食べずに、俺に君のところへ戻ってほしいって言ってるんだ。このまま低血糖になったらどうするつもりだ?美咲、君はそんな人じゃなかったはずだ。沙耶ちゃんの帰国を祝う会で彼女を君に紹介しようと思ってたのに、何も言わずに帰ってしまったよな。あのときだって俺は怒らなかっただろ?沙耶ちゃんは優しい子で、人を責めるようなことは絶対にしない。だからこそ、なんでも一人で抱え込んでしまうんだ。もし君に不満があるなら、彼女じゃなくて俺に言え!」受話器越しに健司の荒い息づかいが伝わってくる。その背後では、沙耶が「落ち着いて」と甘えるように声をかけていた。その様子から、沙耶が健司の言う「優しくて知的な女性」ではないことはすぐにわかった。だが、彼女がこうして見せつけたかった狙いも理解できた。健司の態度を見れば、その狙いは十分に成功していたのだ。「……ごめん。戻ってきてほしいなんて思ってな
Read more
第4話
スマホを置き、荷造りの続きをしていると、ふと目に入ったのは――私たちの「恋愛日記」だった。私はそれを手に取り、換気扇を回し、鉄のボウルに入れた。そして火をつける。炎はゆっくりと紙を飲み込み、日記は灰に変わっていった。――そのとき。背後でガラスの割れる音が響いた。振り返ると、キッチンの入口に健司が立ち尽くしていた。床には砕け散ったワインボトル、赤い液体が血のように広がっている。「……何をしてるんだ!」健司は勢いよく私を引き離し、私はワインとガラス片が散らばる冷たい床に倒れ込んだ。彼は炎に包まれるボウルへ駆け寄り、素手で掴もうとする。だが熱さに弾かれ、手のひらに水ぶくれを作りながらも、無理やりボウルをシンクに投げ入れ、水をひねった。ジューッと嫌な音を立てて火が消え、白い煙と焦げ臭さだけが残る。灰の中に、焦げ残った紙片がふわふわと浮いていた。散り散りになったそれは、もう二度と元には戻らない。「美咲、君は何をしたかわかってるのか!俺たちの九年を燃やしたんだぞ!老後に一緒に読むって約束したのに……全部台無しにして!」私は体を起こそうとする。ワインに染みた服が紫に汚れ、手のひらはガラスで切れて血がにじむ。その痛みに思わず眉をひそめる。「……ごめん。俺、焦ってつい……立てるか?手を貸すよ」健司が手を差し出してきた。「いい。自分で立てる」私は視線を合わせることなく冷たく言い、彼の手を避けて立ち上がった。自分でもみじめだと思うほど、格好のつかない姿で。「なんでだよ、美咲。あの日記、九年も続けてきたんだろ?一生記録して、おじちゃんとおばあちゃんになったら一緒に読むって約束してたのに……どうして急に燃やすんだ?」「……さっき、インクをこぼして読めなくなったの。だから、もういいかと思って」苦しい言い訳を口にする。真実なんて、説明する気になれなかった。「インク?そんなことで燃やすなんて……あれは、俺たちの思い出なのに!」彼は灰の中から必死に紙片を拾い集めながら、名残惜しそうに呟いた。その姿を見た瞬間、胸の奥が凍りつく――思い出を壊したのは私じゃないのに。そもそも、彼が沙耶を選んだ時点で、私たちの思い出はもう壊れていた。今更私を愛しているふりをしたって、意味なんてないんだ。私は踵を返し、ワインで濡れた服の不快さ
Read more
第5話
翌日、会社に退職の手続きを済ませた帰り、友人から食事に誘う電話が入った。指定されたレストランの屋上に上がると、視界に飛び込んできたのは九千九百九十九本の、少ししおれかけたジュリエットローズ。その中央に健司が立ち、彼の友人たちが取り囲んでいた。その輪の中には、困ったような表情の私の友人の姿もあった。きっと無理やり電話をかけさせられたのだろう。私は友人に軽く微笑んで応え、足を止めた。「美咲、この前は忙しくて祝ってあげられなかったから、今日はみんなで誕生日パーティーをやり直そうと思って。誕生日おめでとう」健司が笑顔でそう言うと、背後から一斉に「おめでとう!」と声が上がる。そう、彼らは「忙しかった」のだ。予定していた私の誕生日には誰一人来ず、代わりに沙耶の帰国を祝ってあげた。私は一人で料理を用意し、部屋を飾り、深夜零時になるまで待ち続け、結局キャンドルが燃え尽きる瞬間に自分で「おめでとう」とつぶやいた。祝福の声が途切れると、皆は健司と沙耶の周りに集まり、次々にグラスを掲げ始めた。この場が誰のための会なのか、分からなくなる。私は花から一番遠いプールサイドに腰を下ろし、シャンパンを口にした。そのとき、隣に沙耶が腰を下ろした。「美咲、誕生日パーティーは楽しめた?実はね、飾りつけは私がしたの。あの花は健司が私の帰国祝いに贈ってくれたジュリエットローズなのよ。少し萎れてたから本来なら捨てるところだったけど、あなたにはちょうどいいと思って今日に回したの。だって――人が捨てたものを拾うの、あなたの得意技でしょう?」そう言いながら、彼女はシャンパングラスを軽く揺らし、私のグラスに当てた。そして、何気ない仕草で左手をかざし、薬指に光る指輪を見せつける。――その指輪。私にも似たものがある。だが、本物は私が持ってるほうだ。二年前の誕生日、健司は「君のために特別にデザインした」と指輪を差し出した。サイズが合わずにすぐ外れてしまったけれど、私は大切にしていた。失くしたときは泣きそうになり、でも彼に言えず、仕方なく粗雑な模造品を作って誤魔化した。後日、本物を見つけて安堵したものの、その偽物はベッド脇の棚に置きっぱなしにしていた。それを健司が沙耶に渡したのだと、今知った。「本物と偽物の見分けもつかないで、ゴミを宝物みたいに大事にできるあなたには敵わない
Read more
第6話
最後に私を引き上げてくれたのは、レストランの店員だった。震える身体を抱えて家に戻り、浴槽いっぱいに熱い湯を張って浸かる。指先がしわしわになるまで、頬が真っ赤になるまで浸かっても、冷えきった心だけはどうにも温まらなかった。浴室を出ると、窓の外はすでに白み始めていた。九年間暮らしたこの部屋を最後に見渡すと、昨日、健司に突き飛ばされて水に落ちた瞬間の記憶が鮮明によみがえる。玄関の靴箱の上に鍵と指輪を置き、私はスーツケースを引きずって外へ出た。飛行機に乗り込む直前、機内アナウンスが「携帯電話の電源をお切りください」と流れる前に、健司へ最後のメッセージを送った。――【さようなら、二度と連絡しないで。私には、もうあなたが必要ないから】九年分の青春に、そこで終止符を打った。これからは前を向いて歩く。四時間後、飛行機がゆっくりと着陸する。電源を入れた途端、着信とメッセージ通知が立て続けに鳴り、携帯が震えっぱなしになった。すべて健司からだった。沙耶が戻ってきてから、彼はほとんど私に連絡をよこさなかった。どこに行くのかも言わず、いつ帰るのかも教えず、私は何度もソファで彼を待ち続けて眠り込んだ。けれど健司は、もう私の存在を忘れていたのだ。また電話が鳴ったが、私はためらわず切って番号をブロックした。今度はメッセージアプリの通知が来た。開くと、健司が送ってきたのは――猫が謝るスタンプ。胸がざわついたけれど、それ以上は見なかった。深呼吸して、すべての履歴を削除する。九年分のやり取りが一瞬で空白になり、その画面を見つめながら指先が小さく震えた。気持ちを落ち着けてから空港の外に出た。外に両親が待っているはずだから、何も悟られないようにしなくては。人混みの中、両親を見つけるのは一苦労するだろうと思ったが、とある大きな横断幕がすぐに目に入った。【おかえり、美咲】思わず足が止まる。周りの人たちの視線が集まってきて、顔が熱くなる。けれど久しぶりに会う両親は相変わらず明るかった。父が私のスーツケースを受け取り、母は泣きそうな顔で抱きしめてくる。「ごめんね、美咲。父さんと母さんが仕事ばっかりで寂しい思いさせたから、あんな男に連れていかれちゃったのよね。でももう大丈夫。今日からまた、母さんたちの可愛いお姫様に戻れるわ」母が健司のこと
Read more
第7話
「私ったら、すっかり舞い上がっちゃって。ほら、美咲、こちらが羽生家の長男、羽生啓太(はにゅう けいた)さんよ。いい男でしょう?母さんはちゃんと調べたんだから。悪い癖もなければ、変な噂も一切なし。ご両親も立派な方でね、特にお母さんは私とも知り合い。人柄も良いし、将来絶対姑との揉め事なんてないから安心して」そう言って、母は啓太をぐいっと私の前へ押し出した。啓太は百九十センチはありそうで、私より頭ひとつ分は高い。思わず見上げる格好になり、その顔をまじまじと見つめた――なんだか見覚えがある気がする。にこっと笑った彼が、さらにかっこよく見えた。彼は手にしていた多肉植物のブーケを差し出す。「お花にアレルギーだって言ってたよね。前に、みんなみたいに花束をもらえなくて羨ましいって言ってたのも覚えてる。これは特注の多肉ブーケだ、あなたに贈るよ」反応が追いつかずぼうっとしたままブーケ受け取った瞬間、記憶がよみがえる。――あ、この人は……「あなた、たまちゃんの手術をしてくれた先生!」「ええ、覚えててくれたんだ。今おばさんの家に行っても、たまちゃんに全然懐かれなくてね」啓太は苦笑を浮かべた。「『おばさん』じゃなくて、『お母さん』って呼んでもらってもいいけど?」母が茶化すように言うと、私も啓太も同時に顔を赤らめてしまった。その後、車に乗り込むと、母は啓太の話をし続けた。彼は獣医師だけじゃなくて、ペット病院の院長でもある。たまちゃんの定期検診で母と顔を合わせたとき、さりげなく私のことを聞き、そこで連絡先を交換したらしい。そして母が「娘にお見合いを」と言い出した途端、真夜中にご両親を連れて家まで訪ねてきたのだという。話を聞くうちに、さっき落ち着いたはずの頬がまた熱を帯びる。こっそり運転席の啓太を見たら、彼もちょうどバックミラー越しにこちらを見ていた。私は慌てて視線をそらし、スマホを見るふりをした。健司の連絡を全部遮断してからは、通知音を切っていた。だが画面を見て絶句する。未読メッセージと不在着信が山のように溜まっていた。健司の友人の番号や、見知らぬ番号まで混じっていた。恐る恐る再生した友人からの音声メッセージ――そこから流れてきたのは、健司の怒声だった。「美咲!沙耶ちゃんはいま病院だ。医者は強いショックを受けたって言
Read more
第8話
「どこへ行くの?」ようやく落ち着いて、私は小さく尋ねた。「もふもふたちに癒やしてもらうんだ」啓太はそう言って、私を彼の運営する保護施設へと連れていった。夜の給餌タイムらしく、私の手にカリカリの袋を持たせてくれる。そこにいる犬や猫たちは、どれも信じられないくらいきれいで、誰が見ても元野良とは思えなかった。みんな嬉しそうに彼にまとわりつき、視線を向ければ瞳を細めて甘えてくる。背中によじ登ろうとした子猫を、啓太が慌てて引きはがす。その不器用な動作に、つい笑いがこぼれた。胸の奥の重さがふっと薄らいでいくのを感じる。長椅子に腰を下ろすと、物怖じしない猫が一匹、当然のように膝へ飛び乗ってきた。柔らかな毛並みを撫でると、喉を鳴らす音が心地よく響く。啓太も隣に腰をかけ、二人で夜空に浮かぶ丸い月を見上げた。「あなたのことは、お母さんから全部聞いたよ。彼と別れて、後悔はないかい?」静かな声に、私は短く答えた。「ない」小さな声だったけれど、私の意思は揺るがなかった。啓太はまっすぐ私を見て、穏やかに言った。「じゃあ、もう手を離さない。彼に傷つけさせたりもしない……僕、美咲のことを好きにさせてみせるよ」頬が熱くなり、私はただ、こくりとうなずいた。「……うん」家に戻った頃には、もう夜の九時を回っていた。「明日、ウェディングドレスの試着に行こう」そう言って、啓太は車を発進させて帰っていった。寝る前まで健司からの連絡は一切なかった。あれだけ怒鳴り散らしたのに、私への執着なんて半日も持たなかったらしい。その代わり、姉からの電話が鳴った。「美咲、健司くんにはまだ何も言ってないの?さっきゴミ出しに降りたらさ、あの人、あの女と一緒に月見してたの!もう頭にきて、ゴミ袋ぶつけてやろうかと思った!」――どうりで今まで連絡がなかったわけだ。沙耶がそばにいたから。最初から予想できたことなのに。「うん、別れるって言っただけで、細かいことまでは話してない。そもそも私たち、付き合ってたわけでもないし、彼が誰と一緒にいようが自由だよ。……それより、私が結婚する話は絶対言わないでね」「言うわけないでしょ。あんなの、もうただの他人よ。じゃ、荷造りするね。明日のドレス試着、姉さんも一緒に行くんだから」「ありがとう、気をつけて来て。
Read more
第9話
翌朝、私の腫れた目を見て、ウェディングドレスショップのメイクさんが思わず「大丈夫ですか?」と声を上げた。氷で何度も冷やしたおかげで、ようやく腫れは引いてきた。母がずっと前からデザインを依頼していたウエディングドレスは、夢のように美しかった。鏡に映る自分に、思わず息を呑む。啓太も言葉を失い、呆けたように見つめていた。姉が肘で小突くと、ようやく我に返り、慌てて「似合ってる、すごくきれいだ」と繰り返した。その後、姉は楽しそうに写真を撮り、SNSに投稿する。【フィルターなし。妹の美貌に撃沈した一日!】結婚準備は想像以上に体力を奪う。ドレスの試着だけでぐったりしてしまった。着替えの合間、入口から声が響く。「すみませーん、みささんにお届け物です。フードデリバリーでーす」「私です」反射的に答えてしまった。受け取って配達員が去ったあと、全員が首をかしげる。誰も頼んでいないのだ。胸の奥を冷たい予感が走った。――「みさ」。それは昔、怒る私を宥めるとき、健司がよく使っていた呼び名。案の定、すぐに電話が鳴った。知らない番号だ。出ると、聞き慣れた声が飛び込んできた。「どういうつもりなんだ。俺は一晩中待ってたんだぞ!家にも帰らずに、ドレスを試着しに行ったのか?なんで俺を呼ばなかった!」「一晩中待った?沙耶と一緒に月見してたくせに。私が何をしようと、もうあなたには関係ない。私たちはもう終わったのよ!」「美咲!君の結婚相手は俺しかいない!他の男と結婚なんかしてみろ、どうなるかわかってんのか!」最後まで聞かず、電話を切った。今の彼は、理性を失った狂犬のようだった。その夜、晩ご飯のあと姉を連れて猫たちに会いに行くはずだったが、急にドレスショップから電話が入った。「新井(あらい)さま、大変申し訳ありません。ある男性が『会わせろ』と騒ぎ、窓ガラスまで割られてしまって……警察を呼びましたが、できれば来ていただけますか?」両親や姉には告げず、私は啓太と急いで店へ向かった。着いたとき、大きなガラスは粉々に砕け、店内のソファには健司が座っていた。手には私のウエディングドレス。服は乱れ、手もガラスの破片で傷だらけだった。赤く充血した目をした彼を、店員たちは恐れて遠巻きに見ているだけだった。私に気づいた健司は立ち上がり、ドレスを差
Read more
第10話
私は彼の目を見て、首を横に振った。「美咲、まだ怒ってるのか?全部俺が悪かった、許してくれ。俺たち、約束しただろ?一緒に年を取るって……結婚したいなら、明日でも結婚しよう。お願い、俺と結婚してくれ」そう言って、健司はポケットからリングを取り出し、その場に片膝をついた。割れたガラスが突き刺さっても構わない様子だった。「美咲!」駆け込んできた啓太が、私を後ろにかばう。だが健司はすぐ立ち上がり、私の腕を引っ張ろうとする。「彼女に近寄るな!」その声に、健司の目がさらに狂気を帯びる。「美咲、俺たちは九年も一緒にいたんだぞ!未来を語り合って、いつまでも一緒にいるって約束もしたんだ!それを全部捨てて、あいつを選ぶのか!そんなのあんまりだ!」思わず、冷笑が漏れた。――私の気持ちを踏みにじったのは彼と沙耶だというのに。「健司、私たちを終わらせたのは誰なのか、あなた自身が一番よくわかってるはずよ」「……ごめん、俺が悪かった、本当に悪かった!だから帰ってこい、美咲!俺と結婚しよう!」その必死な声は、夢で聞いたものと同じだった。けれど私の心はもう、凍りついて二度と溶けることはない。啓太は終始、私を覆うように立ち、健司の姿を見せまいとした。やがて警察が来て、彼は連れて行かれた。後処理はすべて啓太が引き受けてくれた。私は一切、関わらなかった。そして結婚式当日。式場には花は一輪もなく、代わりに植物とぬいぐるみが飾られていて、とても可愛らしい雰囲気だった。啓太はきちんとスーツを着こなし、私の家まで迎えに来た。姉がはしゃいで「歌わなきゃ通さない!」と茶化し、彼は照れながらもラブソングを披露する羽目に。笑い声に包まれて、順調に式場へ向かう――はずだった。ところが車を出した途端、一人の女が前に飛び出して道を塞いだ。髪は乱れ、顔は青ざめ、見るからに憔悴しきっている。止めようとする人を振り払い、彼女は私の前に膝をついた。その姿を見て、私は息をのむ――沙耶だった。
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status