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5.ひとりきりの夜

Author: 杵島 灯
last update Last Updated: 2025-09-05 19:47:39

 婚礼の儀式は粛々と終わった。

 次にマリッサとハロルドが向かったのは王宮の広間だ。

 ここで始まる宴で二人は、改めて人々の祝福を受けることになっていた。

 天井で輝く壮麗なシャンデリア、色とりどりの衣をまとった貴族たち、響き渡る楽団の音色。

 華やかさに包まれる空間の中で、ハロルドの表情は終始変わらなかった。

 微笑むことも、優しく声を掛けてくれることもなく、ただ形式通りに振る舞うばかり。隣に立つマリッサは笑顔を絶やさないよう努めながらも、胸の奥が少しずつ不安で染められていくのを止められなかった。

(どうして……? 式でも宴でも駄目なら、いつハロルドは笑顔を見せてくれるの……?)

 宴が進むにつれ、彼女の心は重さを増していく。

 けれど、心のどこかで「夜になれば、二人きりになれば」と希望を結びつけていた。

 やがて祝宴も終わり、侍女たちに導かれてマリッサは浴室へと向かう。

 隅々まで磨かれ、香油で髪を梳かれ、行く先は寝室だ。

 寝台の布は滑らかで、綿も弾力があってふかふか。

 絨毯も、カーテンも、新しい生活の始まりにふさわしく、すべてが真新しい。

 こくりと唾を飲んだのに気づいたのか、侍女がそっと囁く。

「妃殿下、どうぞご安心を。殿下はきっと、優しくしてくださいます」

 侍女はきっと、マリッサが今後の行為に不安で緊張していると考えたのだろう。「ありがとう」と返し、マリッサはなんとか微笑んでみせる。

(ええ、そうね。ハロルドはきっと……私を見てくれるはず……)

 期待と不安を胸いっぱいに抱えて待っていると、小さな音を立てて扉が開いた。

 姿を現したのはハロルドだ。彼の顔に浮かんでいるのは昼間と同じ形式的な表情で、花嫁に向ける優しい笑顔はいつまで待っても見られない。

 しかもハロルドは昼と同じ服装で、夜のための服は着ていない。戸惑うマリッサに、下を向くハロルドは静かに言う。

「すまないが、夜を共にするわけにはいかない」

「……え?」

 どういうことなのだろう。自分たちは夫婦になったのに、なぜ。

 疑問だけが頭を巡る。ハロルドはマリッサを見ないままで続ける。

「遠国から来たばかりなのにこのようなことを言うのは申し訳なく思っている。だが……私は……」

 その苦渋に満ちた表情で、マリッサはなんとなく察してしまった。

「……もしかしてあなたには、好きな人がいるの……?」

 ハロルドは何も言わない。だけど表情がはっきりと歪んだ。マリッサはそれを肯定だと捉えた。

(そういうことなのね……ハロルドには好きな人がいる、だけど国同士の関係も、王太子としての事情もある。だから私と結婚するしかなかった……)

 十五歳でハロルドの肖像画と会った。

 彼をとても可愛いと思った。

 以降も年を重ねながら成長する肖像画を見るたび、いつしかマリッサはハロルドに恋をしていた。

 だけど、ハロルドは今まで一度も、マリッサのことを想ってくれたりはしなかったのだ。

 目の前が暗くなる。体から力が抜けてしまいそうな気がする。

 泣きわめきたくなる気持ちを無理にも堪え、マリッサはハロルドを見つめる。

「あの……ハロルドが好きな相手というのは、どんな人なの? 絶対に手が届かない相手なの? ほら、もしも相手を教えてもらえたらその、私だって応援できるかもしれないでしょう?」

 何を言っているのだろうとマリッサは思った。ハロルドも同様なのだろう、表情がわずかに怪訝そうになる。

 だけど彼は結局、相手に関しては何も言うことなく踵を返す。

「遠方から来た上に式も挙げたんだ。疲れただろう。今日はゆっくり休んでほしい」

 そう言い残してハロルドは部屋を出て行った。

 寝室に一人取り残されたマリッサは閉められた扉を呆然と見つめる。

 肖像画を通じて募らせていた恋心は、当の本人に会って破れてしまった。

 気がつくとマリッサの頬を涙が流れていた。

 燭台の炎がひっそりと揺らめくなか、夜は深く静かに更けていった。

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