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深く愛した果てに、結末はあまりにも淡く
深く愛した果てに、結末はあまりにも淡く
作者: こぐまミルクフォーム

第1話

作者: こぐまミルクフォーム
結婚も間近に迫っていたある日、江本清司(えもとせいじ)が招待状を手に私と招待客の名簿を確認していたとき、何の前触れもなく、こう言った。

「話がある。

俺、法律上はもう妻がいるんだ。

君さえ気にしないなら、招待状はそのまま出す。式も予定どおりやる」

彼は何でもないことのように煙草に火をつけ、気のない口調で言い添えた。

「昔、家に押しつけられたんだよ。受け入れた以上は、責任くらい取らないとな」

頭の中が真っ白になった。

しばらくして、ようやく声を絞り出した。

「じゃあ、この六年……私たちは何だったの?」

「俺が最低だったってことだ」

彼は灰を落としながら言った。

「で、これからどうするかは、君が決めろ」

下腹に添えていた手が、かすかに震えた。

そこには、今日こそ彼に伝えようと思っていたサプライズがあった……

何の心構えもないまま突きつけられた真実は、真正面から私を打ちのめし、胸の奥をぎゅっと締めつけた。

「でも六年も、一度も言わなかったじゃない……」

彼はあまりにも誠実に振る舞っていたから、あの優しいぬくもりの裏に、もうひとつの人生が隠れているなんて、一度だって疑ったことはなかった。

清司は煙をひと息吐いた。

「言ったところで、どうなった?」

口元だけわずかに歪めたその笑みは、目の奥までは届いていなかった。

なのに、そこには妙な確信があった。

「由紀子、俺たちの間に、そんな形は必要ないだろ」

必要ない?

私は、まだ出していない招待状に目を落とした。

あのとき彼が結婚式をしたがらなかったのは、現実的だったからじゃなくて……

重婚だと世間に知れ渡るのを恐れていたから?

胃の中がひっくり返るようにむかつき、私は洗面所へ駆け込んでえずいた。

「そこまで大げさに反応することないだろ!」

清司もついてきて、そっと私の背中をさすった。

「君と知り合う前に、田舎の親戚がこっちへ寄こしてきた子なんだ。教養もないし、学ぶ気もない。実家で何年かうちの親の面倒を見て、去年こっちに呼んだ」

「都内に適当に住まわせてる」清司はそこで少し間を置いた。「月に一、二回会って、生活費を渡すくらいだ」

私は振り向いて、彼を見た。

そこには背筋を伸ばし、上質なスーツに身を包んだ清司が立っていた。

六年間、私が愛してきたそのままの姿だった。

けれど今は、その目ににじむわずかな冷たさが全身を凍えさせた。

「じゃあこの六年、実家に帰って親に会うって言ってたのは、ほんとは……」

「あの子に会いに行ってた」彼はあっさりと言った。「親も年だし、世話をする人間は必要だろ。あいつはそこそこやってる」

そこそこやってる。

笑いたかったのに、口元は重く沈んだままで持ち上がりもしなかった。

六年。二千日を超える昼と夜。

彼には、この関係を始末する時間も、機会も、いくらでもあった。

彼女を切ることもできたし、私を手放すことだってできた。

それなのに彼は、曖昧な立ち位置に居座ったまま、両方の平穏を当然みたいな顔で手にしていた。

また下腹に、かすかな痛みが走った。

私は反射的にそこを押さえた。

清司の視線が私の手に落ち、眉がわずかに寄った。

「顔色が悪い」彼は近づいてきて、私の額に手を伸ばした。

私はとっさに後ずさりし、背中を冷たいタイルにぶつけた。

「触らないで」

彼の手が宙で止まった。

そのとき、スマホが鳴った。

彼は画面を一瞥して、切った。

また鳴って、また切った。

三度目に鳴ったとき、彼は小さく舌打ちして電話に出た。

受話口の向こうから、細く途切れがちな泣き声が聞こえてきた。

「清司さん……お薬、飲みたくない……あなたが来てくれたら治るのに……」

清司は眉間を揉んだ。

「もういい、助手を行かせる」

通話を切ると、彼は私を見て、少しだけ口調を和らげた。

「あの子はずっと体が弱くて、何かと手がかかるんだ」

私は何も言わず、ただ彼を見ていた。

この六年、こんな場面は何度もあった。

彼の電話は、いつだってひっきりなしに鳴っていた。

そのたび私は聞き分けよく、「先に行って」と言ってきた。

深夜に慌ただしく出ていくときも、祝日に約束をすっぽかされるときも、そのいくつかは、もうひとりの「妻」に割かれていたのだ。

私は笑った。涙が頬を伝い落ちた。

「その人に会わせて」

「必要ない」彼は顔を曇らせた。

「必要ない?」私は招待客の名簿をつかんで床に叩きつけた。「六年よ!私の青春も期待も、全部あなたに注いだの!それで今さら私に選べって?何を?このまま愛人でいるかどうかを?!」

彼は床に散らばった紙を見つめた。

「誰も愛人なんかじゃない。黙っていたのは俺だし、君に未来をあげたいと思ったのも俺だ。君は誰に対しても悪くない。罪悪感なんて持たなくていい」

……ああ。

馬鹿げた冷たさが、じわじわと全身に広がった。

どこか責任感があるようにすら聞こえるその言い分が、たまらなく吐き気を誘った。

「神田由紀子(かんだゆきこ)、君への気持ちは本物だ」

「じゃあ、あの子には?」私は問い詰めた。

彼は長いこと黙っていた。

そして最後に言った。

「ただの責任だ」

責任。

たった二文字の、あまりにも軽い言葉だった。

それなのに、六年間抱いてきた私の信じるものを、きれいに打ち砕くには十分だった。

またスマホが震えた。今度は私のものだった。

スピーカーから流れた声が、静まり返った部屋にひどく鮮明に響いた。

「由紀子、招待状はもう全部出したわよ!親戚みんな、清司は頼もしいって、あなたは幸せ者だって言ってたわ!」
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