LOGIN以前、千尋が渡辺家に彼氏を連れ込んだとき、瑞希と麻祐子が戻ってきて怒り狂ったことがあった。だが、千尋は女主人よろしく振る舞い、二人をあっさりとやり込めてみせたのだ。今の渡辺グループの実権を握っているのは、他でもない自分である。姑と小姑が少しでも自分の癇に障るような真似をすれば、いつでも経済的な締め付けを食らわせることができる。あの家に男を連れ込み、あの二人に嫌な思いをさせること自体が、今の千尋にとっては歪んだ悦びであり、密かな快感だった。祐介だって、かつて自分にさんざん辛酸を嘗めさせてきたのだから、これくらい当然の報いだ。帰り道、兄の大輔から電話がかかってきた。用件は、新たな政略結婚の打診だった。病気から回復して経営の第一線に復帰した大輔は、渡辺グループの資産を容赦なく吸収し、佐藤グループをさらに大きく太らせていた。「渡辺グループはもう抜け殻も同然だ。この機に祐介とは縁を切って、さっさと離婚しろ。お前はまだ若いんだ。この先もあんなふうに自分を安売りするような真似をするな。家柄に釣り合う相手を見つけて、再婚しろ」助手席の彼氏が、千尋の耳元にそっと唇を寄せてくる。千尋はその心地よさに、熱い吐息を漏らした。「兄さん、そこまで私のことに首を突っ込まないで。もう再婚する気なんてないから」声に混じる妙に甘く気怠げな響きを、大輔が聞き逃すはずがなかった。「千尋、また男と遊んでるのか。そういう相手は、結婚してからいくらでもこっそり囲えばいいだろう。今はきちんとした見合いが先だ」千尋は不機嫌になり、まとわりつく彼氏の手を鬱陶しそうに払いのけた。「もう再婚しないって言ってるでしょ。誰の顔色も窺わず、自分の好きに生きるわ。それに、渡辺の財産を食い潰して実家を肥え太らせた女だってこと、大桐市ではもう知らない人間がいないのよ。今さら、誰がこんな性悪な女を娶るっていうの」「商売のやり口なんて、どこもそんなもんだろ。莫大な持参金付きの女を、わざわざ断るような馬鹿な男がいるか。それに、俺が今目をつけているのは、洋城や港島の資産家だ……」千尋の声が一気に冷え込んだ。「……用済みになったら、遠くへ追い払う気?佐藤家のために渡辺の財産を根こそぎ奪い取ってやったのに、今度はこんな遠くの土地へ政略の駒として使うつもりなの。兄さんには心底失望した
「久しぶりね」その声を聞かなければ、智美は誰だか気づかなかったかもしれない。千尋だった。見違えるほど変わっていた。何度も美容整形を繰り返したのだろう。以前の面影はほとんどなく、顎は鋭く尖り、鼻筋も不自然なほど高く通っている。どこか人工的で、作り物めいた印象を与える顔になっていた。かつて瑞希が智美に目をつけたのは、智美と千尋の顔立ちがどこか似通っていたからだった。だが今の二人には、面影を重ねる余地すら残っていない。智美は静かな目で千尋を見つめた。何も言わなかった。千尋は智美のふくらんだお腹に目を落とし、自嘲めいた光を瞳にちらりと浮かべた。「まさかあんたが岡田家の次男を射止めて、子どもまで身ごもるとはね」かつて手にして、そして永遠に失ってしまったものを思い出したのだろうか。どこか遠くを見るような、うつろな目になった。智美はジュースをひと口飲んでから、静かに問い返した。「今、渡辺グループはあなたが取り仕切っているの?」千尋は得意げな表情を浮かべた。「そうよ。正直に言えば、祐介があんたに未練たらたらだったおかげね。羽弥市であれだけ馬鹿な真似をして捕まったのも、自業自得だと思うわ。そうでなければ、私がグループを掌握できたかどうか。義母も義妹も、社会に出たこともない世間知らずだもの。私のほうがよっぽど頭が切れるわ」実のところ、千尋には傾いた渡辺グループを立て直す実力などない。だが、最初からそのつもりもなかったのだ。渡辺の資産を佐藤家のために食い潰し、最終的に会社を傾かせる――彼女にとっては、それで十分だった。そのあとも、自分は佐藤家の誇り高き長女でいられるのだから。智美は過去のあれこれを思い返し、まるで遠い夢でも見ているような気持ちになった。祐介のことも、千尋のことも、今の自分にはもう何の感情も湧かない。彼らの話は、完全に別世界の出来事だ。淡々とした智美の表情に、千尋はじわじわと苛立ちが募るのを感じ、奥歯を噛みしめた。「あんた、私と祐介がこんな結末になって、内心ざまあみろって思ってるんでしょ」智美はふっと微笑んだ。「あなたたちのことで今さら感情を波立たせるほど、私の人生は暇じゃないわ。もう私のことは気にしないで。私がもうあなたを気にしていないのと同じように。これからもどこかで会うことがあっても、赤の他人として振
悠人:【…………】翌朝、目を覚ました智美は、悠人がもうすっかり着替え終えていることに気がついた。週末や休日のこの時間帯、悠人はたいてい布団の中でぐずぐずと智美を抱き込んだまま、のんびりと惰眠をむさぼるのが常だ。今日に限って、一体どうしたのだろう。ベッドの上に座ったまま、智美はぼんやりと悠人の姿を眺めた。仕立てのよいスーツに身を包み、襟元にはウィンザーノットで完璧に結ばれたネクタイ。髪はきっちりとオールバックにまとめられ、彼の端正な顔立ちがより一層際立っていた。まるでレッドカーペットを歩く映画スターのようだ。「美羽の結婚式は夕方からでしょ。こんなに早くからキメなくてもいいんじゃないの」悠人はこちらを向き、やわらかく微笑んだ。「せっかくだし、先に少し出かけないか。大桐市に来るのも久しぶりだし」その笑顔に、智美は思わずどきりとした。体の芯がじんと痺れるような感覚が走り抜ける。眉を寄せて悠人を見直した。なんだか今日の彼は、色鮮やかな羽根を広げた孔雀のように、惜しげもなく色気を振りまいているように見える。普段はこんなじゃないのに。智美も身支度を整え、服を着替えた。今日のコーディネートは、ベージュのフラワープリントのロングワンピースに、白のクラッチバッグ。おだやかで上品な雰囲気にまとめ、あくまで主役である花嫁の引き立て役に徹するつもりだった。まず二人は近くの店で朝食をとり、その後で事務所に顔を出した。美羽の結婚式には事務所のスタッフ全員が招待されており、悠人はあらかじめスタッフ全員に午後の半休を許可していた。法律事務所という職場柄、いくつもの案件に追われる日々が常である。午後の半休と言っても、のんびりしているような空気はどこにもなく、皆一様にデスクにかじりついて仕事を続けていた。悠人と智美は一人ひとりに声をかけ、コーヒーと小さなケーキを差し入れた。その後、大桐市での智美のかつてのオフィスへも立ち寄り、同じようにスタッフたちへ差し入れをして回った。ビルを出てから、智美は悠人に聞いた。「同業者を見て、弁護士を辞めたことが惜しくならない?」悠人は笑った。「人それぞれ、担わなければならない責任というものがあるからね。後悔はしていないよ」この人といると、不思議と安心できる。智美はそう感じた。巨大な岡田家を任せ
竜也と悠人はキッチンへ移った。「牛肉のピザを焼いたよ。祥衣が好きだからさ。あと、妊婦さんにいいスープも作ってるんだ。後でみんなも飲んでくれ」竜也は相変わらず、家事に対して一切の妥協がない。キッチンの前に立ち、手際よく立ち働く竜也の背中を見て、悠人は素直に感心した。自分も仕事への情熱は人一倍強い性格だと自負している。だが、竜也のように家庭に全力を注ぎ、三度の食事を丁寧に作ることにこれほどの生きがいを見出すような境地は、とても真似できるものではない。鍋の様子を見ながら、竜也は得意げに笑いかけてきた。「悠人、お前も俺を見習えよ。結婚したからって気を抜くな。中年太りなんてしたら終わりだぞ。この体型を維持しておかないと、妻の心だって離れていくからな」悠人は片眉を上げた。「俺が太ると思っているのか」竜也はお構いなしに続けた。「太る太らないの問題じゃない。油断するなってことだよ。最近の女は自立してるし、しかも賢くて綺麗だろ。お前が金があるからってあぐらをかいてたら大間違いだ。条件のいい男なんて周りにいくらでもいるんだから、自分を磨くことを怠ったら、あっという間に持っていかれるぞ」自分には関係のない話だと悠人は思いつつも、この数年で智美の活躍の場がどんどん広がり、出会う人間や言い寄ってくる男の数も増えているという現実がふと頭をよぎり、胸の奥がざわついた。悠人が眉間にわずかに皺を寄せたのを見て、竜也は言葉が刺さったと察し、にやりと笑ってさらに続けた。「あとで男性向けのファッションガイドを送ってやるよ。見た目で妻をつなぎとめるのは、恥でも何でもない。お前が奥さんの心をしっかり掴んでおけば、他の男が入り込む隙もなくなるだろ。あとな、最近は少女マンガもだいぶ読み込んでるんだよ。女が求める男ってどういうものか、ようやく掴めてきた気がする。祥衣の産後が落ち着いたら、絶対びっくりさせてやるつもりだ」悠人は黙り込んだ。……そこまで研究しているのか。さすが竜也、抜かりがない。その夜、家に戻った智美が風呂から上がると、悠人がスマホを手に、ひどく真剣な顔で何かを読み込んでいた。仕事のメッセージでも確認しているのだろうと思い、智美は特に気にも留めず、スキンケアを済ませてベッドに横になった。ところが、いつもなら必ず寄ってきて抱きしめ、額にキ
旅行に出ることで視野が広がり、何か夢中になれる趣味でも見つかれば、婚活ばかりに気を取られずに済むだろう――智美はそんなふうに考えていた。彩乃は旅行の話には目を輝かせた。「そうよね、ずっと病院に縛られて、どこへも行けなかったもの。そろそろ外に出ないと。せっかくの素敵な服だって、誰にも見てもらえないじゃない」その夜は、悠人と智美が彩乃と一緒に夕食をとり、食後は以前購入していた家へ戻った。ハウスクリーニングを頼んであったので、そのまま泊まれるようになっている。家に着くやいなや、祥衣からメッセージが届いた。【大桐市に来てるんでしょ?よかったら夜食でもどう?竜也が腕を振るって待ってるよ。久しぶりでしょ?】智美が悠人に相談すると、二人ともずいぶん長く会っていなかったことを思い出し、顔を出すことにした。祥衣は年始のボーナスが入ってから、さらに広い川沿いのマンションに引っ越していた。到着すると、ドアを開けて出迎えてくれたのは竜也だった。その日の彼の格好は、白いシャツにきっちりとネクタイを締め、スラックスを合わせ、さらにその上から二色のジャカード織りのニットカーディガンを羽織るという、なんともキメすぎた出で立ちだった。悠人と智美は、思わず言葉を失った。「外は三十度を超えてるんだぞ。室内にエアコンがあるとはいえ、それにしても大げさすぎないか」悠人が呆れたように言った。竜也は首元を緩めて、苦笑いを浮かべた。普段はTシャツにハーフパンツというラフな格好で通している彼にとって、この装いはまだどうにもしっくりこないらしい。「仕方ないだろ、嫁がこういうのが好きだからさ」そう言ってからちらりと後ろを確認し、竜也は声を落とした。「最近、うちの店の隣に漢方薬局が越してきてさ、そこの若い先生がこんな感じの格好をしてるんだよ。何度か様子を見に行ったんだけど、店のスタッフたちが既婚も未婚も関係なく、みんなあの先生のとこに入り浸るわけ。大した症状もないくせに。うちの祥衣に至っては『妊娠中の体調管理』を言い訳にして通ってるけど、あれは絶対にあのイケメン医者目当てだよ。ははっ、わかりやすすぎるだろ」嫉妬はしつつも、竜也はそれを理由に揉めごとを起こすような真似はしなかった。口喧嘩など、夫婦仲を悪くするだけで何の得にもならない。それより彼は、持ち
登録料については、契約書に「返金不可」と明記されているというのが紹介所側の言い分だった。業界の常套手段とはいえ、彩乃としては到底納得できなかった。彩乃は悔しかったが、こんなみっともない話を娘に打ち明けるわけにもいかなかった。結局、智美の耳に入れたのは祥衣だった。事の端を知った智美は静かにため息をつき、母を慰めるための贈り物を選んで実家へ送った。母が若い頃、夫に溺愛されていたことはよく知っている。だからこそ、今でも「愛」というものへ夢見がちなのだろう。だが、縁というのは狙って手に入るものではない。出会いとは、そう都合よく思い通りにいくものではないのだから。娘が顔を見せると、彩乃はいつもの小言をぴたりとやめ、珍しく穏やかな表情を見せた。智美の手を取ってソファへ連れていき、悠人の分も合わせてお茶を淹れようと立ち上がる。すると、悠人がさりげなくティーポットを受け取った。「お義母さん、俺がやりますよ」彩乃は目を細めて、義理の息子を見つめた。こんなに気がきく婿を持てて、自分は本当に幸運だ。自身の恋愛はうまくいかなくても、娘の結婚だけは申し分ない。この立派な婿をしっかり繫ぎ止めておけば、智美の一生は安泰だろう。とはいえ、大きなお腹を抱えて長旅をしてきたことだけはどうにも気になり、彩乃は不満げに口を尖らせた。「妊娠中にあちこち出歩いてどうするの。家でゆっくりしていればいいのに。何かあってからじゃ遅いのよ」「体は全然大丈夫よ。赤ちゃんも順調だし、プライベートジェットで来たからちっとも疲れてないわ」と、智美は笑って答えた。プライベートジェットと聞いて、婿の財力と手厚い気遣いをあらためて実感した彩乃は、内心さらに満足した。悠人が席を外して電話に出ると、智美はあらためて切り出した。「お母さん、私たちはこれから羽弥市に腰を落ち着けるつもりなんだけど……本当に一緒に来ない?」彩乃はゆっくりと首を横に振った。「私はやっぱり、大桐市の気候と食べ物が肌に合うの。この歳になって慣れない土地へ移るのは性に合わないわ。あなたたちが仲良くやってくれれば、それで十分。それにね、あちらのお義母様は名家の奥様でしょう。あなたの周りにいるのも、みんなお金持ちの奥様たちばかり。そういう方々と顔を合わせると、どうしても気後れしてしまうのよ。あなたのお父さん
千尋は涙を拭い、「最低」と罵ってから、病室から飛び出した。出てすぐ、ドアの前に立っていた智美と目が合った。彼女は八つ当たりで智美を激しく睨みつけた。智美は低い声で言った。「少し、話さない?」二人は近くのカフェに行った。千尋が先に口を開き、不満そうに言った。「今嬉しいでしょうね。以前、祐介くんはあなたを嫌っていたのに、今は、あなたを死ぬほど愛している。きっと自分が勝ったと思っているんでしょう?」智美は彼女を見つめ、目は穏やかだった。「そんなの、ちっとも欲しくないわ」「当然そう言うでしょうね。だって彼の心を手に入れたんだから、だから気にしないふりができるのよ」千尋は
智美は少し気まずかった。どうしようかと困っていると、光生が言った。「親父、智美さんを怖がらせるなよ。さっさと用事を済ませてこいよ!」矢代家の父子は仲が良く、そのため、光生は父に対していつもぞんざいな態度だった。「このレストランのオーナーを知ってるからね。ここは私のおごりにしよう」光生の父は笑った。矢代家の会社は中規模で、大富豪には及ばないが、地元企業なので人脈も広い。彼は元々、智美の前で自分の家の経済力を自慢して、息子の恋の進展を後押ししたかったのだ。なにしろ、彼は以前金に物を言わせて、元妻たちを口説き落としてきたのだから。しかし光生は、父が余計なことを言って智美を
里奈が感慨深げに言い終えると、コーヒーを一口飲み、カップが空になっていることに気づいた。彼女は智美の空のカップを見て言った。「外にコーヒー淹れに行こっか。ここのテレビ局、人はムカつくけど、コーヒーだけはまあまあ美味しいし」智美は頷いた。二人が給湯室でコーヒーを淹れ、出てきた時、廊下で愛海と鉢合わせした。愛海はわざと二人の間をすり抜けるように通り、肩をぶつけてきた。里奈は素早く身をかわしたので、コーヒーが少しこぼれただけで済んだ。しかし、智美は避けきれなかった。熱いコーヒーが、彼女の手の甲に飛び散ったのだ。じゅっと焼けるような痛みが走り、服にもシミができてしまった。「あら
そして彼のおかげで、渡辺家の兄妹はこれほど早く罪を償うことになったのだ。彼には、返しても返しきれないほどの借りがある。祐介は丸一ヶ月の拘留を終え、ようやく保釈された。迎えに来たのは、千尋だった。千尋は彼の憔悴しきった顔、乱れた髪、しわくちゃの服を見て、かつての自信に満ち溢れた祐介とはまるで別人のようだと感じた。途端に、胸が締め付けられるように痛んだ。一方、千尋を見た祐介の気持ちも、ひどく複雑だった。まさか、彼女がまだ自分を諦めていなかったとは。千尋に対して、彼は相変わらず生理的な拒絶感を覚えていた。人間とは複雑な生き物だ。かつては誰かを深く愛し、その人のため