LOGIN智美自身も、しばらく引き延ばしておこうと同じことを考えていた。悠人は少し考えてから言った。「向こうには今、大きな問題が起きている。法律の一線を踏み越えていて、秘書に調べさせたところ、サプライチェーンにも不正が見つかっている。あそこは今、火の車のはずだ。その状況で山本心陽が君に事業の話を持ちかけてくるのは、どう考えても不自然だ」智美も、数年のビジネス経験で鍛えられた勘がある。すぐに悠人の読みに追いついた。「あなたに断られたから、今度は私に話を持ってきた――そういうことかもしれない。もしかしたら、この事業計画自体に問題があって、いざという時に私がトカゲの尻尾切りにされる。そうなれば、あなたも黙って見ていられなくなって、結果的にあの家の問題に引きずり込まれる、という算段なのかも……」「鋭いな、智美は」悠人が感心したように笑った。智美は少し照れながら続けた。「相手の狙いがわかった以上、今すぐ断るのは得策じゃないと思う。はっきり断れば、別の手を打ってくるだけだから。しばらく引き延ばして、向こうが焦ってきたところで、必ずボロを出すはずよ」悠人は「そうだな、それが一番の妙案だ」と認めた上で、少し心配そうに聞いた。「ただ、山本心陽の相手をさせるのは、君の負担にならないか?」本当のところ、厄介事に智美を巻き込みたくはなかった。智美は軽く笑った。「そんなに弱くないわ。任せておいて」……それから二日が経ったころ、心陽から電話がかかってきた。「智美さん、PR会社の件、どう考えてる?ここ数日で業界の大物を二人説得できたの。この人たちが入ってくれれば、こちらから営業しなくても、その名声だけで業界内での影響力がぐんと上がるのよ……」これだけ条件を並べて見せれば、早めに決断してもらえると踏んでいたのだ。智美は軽やかな口調で答えた。「確かに魅力的な話ね。ただ、今ちょっと立て込んでいて、この忙しさが落ち着いてからでないとじっくりお話しできなくて。起業って大きな決断だし、一歩一歩丁寧に進めないといけないじゃない?私は昔から慎重な性分だから、いつも裏付けをとって動くようにしているの。少し待っていただけるかしら」心陽は内心の焦りを必死に抑えながら、わざとそっけなく言った。「じゃあ早めに考えてね。他にも出資を希望している人はいるから、気が変わったなら
「とんでもない」心陽は美奈子からの言いつけを思い出し、内心の不快を表情の奥に押し込め、ゆっくりと笑顔を作った。「私の気が利かなかったわ。差し上げる前に、好みをちゃんと確かめておくべきだったの」しかし心の中では、かなり腹が立っていた。あのスカーフは一流の高級ブランド品よ。庶民育ちなだけあって、本当に物の価値がわからないのね。――心陽はそう思った。智美はコーヒーを一口飲んでから、にこやかに聞いた。「ところで今日は珍しいわね、こうして声をかけてくれて。何か嬉しいことでもあった?」心陽は事前に美奈子と相談して練ってきた段取りを思い浮かべた。真一郎が悠人に直接頼み込んで断られた経緯がある以上、もうその話は蒸し返せない。だからこそ、心陽が別の手を打つしかなかったのだ。心陽は腹の中で言葉を整えてから、バッグから一枚の書類を取り出してテーブルに置いた。「大したことじゃないんだけどね。最近、副業でPR会社を作ろうかと思って。でも私ひとりじゃ資金が少し心もとないし、会社の運営経験もないから、誰か一緒にやってくれる人を探してたの。あれこれ考えた末に、智美さんが頭に浮かんだのよ。羽弥市で音楽教室を九店舗も展開して、芸能事務所にも投資してるって聞いてる。商才は私より断然上よね。一緒にやって一緒に稼げたらと思うんだけど、どうかしら?」智美は表情を変えずに、静かに心陽を見た。これほどの用件のために、わざわざ自分を呼び出すとは思えなかった。「心陽さん、PRの仕事は私には馴染みが薄くて、もう少し考えさせていただかないと。他にご一緒できる方を探した方がよくないかしら。確か、心陽さんにはお姉さんや妹さんがいらしたはずじゃ……」心陽はわざとらしくため息をついた。「姉は仕事に全然興味なくて、結婚してからはショッピングと遊びばかり。妹は恋愛のことしか頭になくて、何も頼めない。お義姉さんたちも私とは馬が合わなくて。そう考えたら、智美さんが一番頼れると思ったの。それに、業界のことを知らなくても大丈夫よ。私には羽弥市にそれなりの人脈とコネがあるから、会社を軌道に乗せるのはそこまで難しくないと思ってる。きっと利益も出せる。智美さんには、資金面と、あなたの人柄が頼りだから一緒にやりたいの。もう少し考えてみてくれない?」以前、山本家の人々は智美を格下に見ていた。
夕食のテーブルには、智美と詩乃の好物がずらりと並んでいた。明日香は食事のあいだ中、せっせと二人に料理を取り分け続けた。息子である自分よりも、妻と娘を溺愛する母親の姿も、悠人にはすっかり見慣れたものになっていた。むしろ、母と智美の仲が良いことは、悠人にとっても何よりうれしいことだった。食後、明日香は智美と詩乃を連れて二階へ上がった。二人が留守の間も、明日香はあちこちのブランドからジュエリーや高級服を次々と取り寄せていた。智美の凛とした美しさも、詩乃のあどけなくも華やかな愛らしさも、どんな服を着せても見事に映える。それが明日香にとって何よりの楽しみだった。おかげでこの二年、智美と詩乃専用のウォークインクローゼットは増設に増設を重ね、今や二フロアを占拠するほどになっていた。詩乃はプリンセスドレスを目の前にすると、小さな体から興奮が漏れ出すようで、どれを先に試着しようかと目移りして仕方がなかった。浜市から戻ったばかりの智美は、羽弥市でたまった仕事が山積みになっており、本音を言えばすぐにでも仕事場に向かいたかった。しかし義母と詩乃の楽しそうな顔に水を差すのも忍びなく、辛抱強くそばで付き合い続けた。二時間ほどお姫様ごっこに付き合ったころ、詩乃はとうとうファッションショーに疲れ果て、そのままうとうとし始めた。智美はそっと詩乃を抱き上げて寝室へ運んだ。やっとひと息つける、と内心ほっとしながら。寝室に戻ると、悠人がすでに荷解きをすっかり終えていた。汚れ物は家政婦に渡して洗濯へ出し、きれいな衣類はすべてクローゼットに収め、智美のスキンケア用品も浴室の棚にきちんと並べられていた。悠人はこういう細かなことに気が利く。智美が頼まなくても、いつの間にか片付いている。そういう人だった。詩乃が眠っているのを確認すると、悠人は娘をそっと抱き上げてベッドに寝かせ、エアコンのリモコンを手に取り、風邪を引かないよう室温を少し上げた。智美がソファに腰を落ち着けたところで、スマホが震えた。画面を開くと、悠人の従兄の妻である心陽からメッセージが届いていた。【智美さん、羽弥市に戻った?もし時間があれば、一緒にコーヒーでも飲みませんか?】智美はすぐには返信しなかった。少し前に悠人から聞いた、真一郎が助けを求めてきた話が頭をよぎった。メッセージ画
詩乃に冷たくあしらわれても、礼央はそのまま二人の後についてレストランへ向かった。遅れて悠人がやってくると、隣のテーブルにしつこく居座る礼央の姿が目に入り、わずかに眉をひそめた。詩乃は悠人が手に下げている袋を見て、パッと目を輝かせた。「パパ、その袋、詩乃へのプレゼント?」悠人は娘に向けた視線をやわらかく細めた。「そう。開けてごらん」智美が袋を受け取り、中の箱を取り出すと、心地よい重みがあった。「自分で開ける!」詩乃が自分で箱を開けると、中には繊細な絵付けが施された陶磁器の食器セットが入っていた。詩乃がお昼に欲しがっていたシャムネコのデザインではなかったが、愛嬌たっぷりの小さな白猫が何匹か描かれていて、それはそれで十分かわいらしい品だった。詩乃の顔がぱっと明るくなった。「ありがとう、パパ!」悠人は詩乃の頭を撫でながら言った。「今日欲しがってたあのシャムネコのセットも、後で職人さんに頼んで、ちゃんと同じものを作ってもらうからね」詩乃は素直にうなずいた。パパが約束したことは、必ず果たしてくれる。それを詩乃はよくわかっていた。智美は箱を丁寧にしまいながら詩乃に言った。「洗ってから使おうね」「うん」悠人がウェイターを呼んで注文した。三人でテーブルを囲む、それはごくありふれた、しかし何にも代えがたい家族の団らんだった。隣の席でひとりぽつんと座っている礼央は、その光景を眺めながら、じわじわと孤独を噛みしめていた。明敏に【一緒に飯でも食わないか】とメッセージを送ると、すぐに返信が来た。【残業中。無理です】【飯食い終わってからじゃだめか】【だめです。早く終わらせて、夜は妻と子どもの顔を見ながら話したいですし】礼央はしばし言葉を失った。どうやらこの世界で孤独を持て余しているのは、自分だけらしかった。食事の途中、悠人のスマホが鳴った。画面を確認した悠人は、すかさず通話を切った。智美が不思議そうに聞いた。「どうして出なかったの?」「真一郎おじさんからだ」山本家では最近問題が起きており、悠人に助けを求めてきていた。悠人はその場では返事をせず、秘書に裏を洗わせたところ、明らかに法に触れていることが判明したため、はっきりと断っていたのだ。真一郎は会社の件で頭を抱え、何度も電話をかけてきたが、悠人はずっと無視
恋愛も結婚も、人生においてかけがえのないものだ。前半生でそれを遊び半分に浪費してきたなら、そのツケは必ず回ってくる。たしかに自分は頭の固い人間かもしれない。しかし明敏は、自分の考えが間違っているとは思わなかった。現に礼央は智美の件で、大きな壁にぶつかっている。過去の放蕩のツケが回り、智美に近づく資格さえ失ってしまっていた。礼央は明敏が使えないと悟り、苛立ちをぶつけた。「もういい、出て行け。自分でなんとかする」明敏はそれ以上取り合わず、さっさと部屋を出た。夕方、詩乃が智美にホテルのテニスコートに連れていってほしいとせがんだ。出かける前に、パパが買ってくれたオーダーメイドのミニテニスラケットもしっかり持っていった。智美は三十分ほど詩乃に付き合ったが、さすがに疲れて、あとはベビーシッターに任せて少し休ませてもらうことにした。ちょうどその時、梨沙子から電話がかかってきた。智美は移動して電話に出た。そこへ礼央がやってきた。詩乃の気を引こうと、礼央は声をかけた。「俺と一緒に打とうか?」詩乃は礼央の顔を覚えていた。ふっくらとした小さな口で、不思議そうに聞いた。「あなた、ママのことが好きなんでしょ?」まさかこんなに幼い子がぴたりと言い当てるとは思わず、礼央は思わず顔をほころばせた。「そうだよ、ママのことが好きなんだ」智美の娘がますます愛おしくなってきた。もし智美が自分と一緒になってくれるなら、この子のことも精一杯かわいがるつもりだ、と礼央は思った。詩乃はベビーシッターに振り返った。「このおじさんと打つ」ベビーシッターは礼央を警戒するような目で見た。礼央は気さくに笑った。「悪いことはしませんから、そこで見ていてください。ちょっと一緒に打つだけですよ」礼央は詩乃に聞いた。「お嬢ちゃん、名前は?」「詩乃。詩乃社長って呼んでいいよ」と詩乃は得意げに答えた。礼央は思わず吹き出した。「了解、詩乃社長。じゃあ始めよう」礼央は誰に対しても根気が続かないたちだったが、智美の前では、そして智美の娘の前では、不思議と違った。詩乃が何を言っても、何をしてきても、きっと全部受け入れてしまうだろうと自分でもわかっていた。すっかりどうかしている――礼央はまた苦笑いした。智美への想いが、ここまで自分を変えるとは。詩乃はテニスを始め
「失せろ!」好きな女性と親戚になどなりたくない。まだ諦めていない。まだやれる、と礼央は思った。礼央はホテルのフロントを通じて智美に次々と贈り物を届けさせた。バッグ、香水、アクセサリーと続けたが、どれも残らず突き返された。フロントから折り返しの電話があり、スタッフはやや遠慮がちな口調で言った。「黒崎様、岡田様からお言葉をお預かりしております」「何だ」スタッフの声がひそまった。「これ以上続けるようなら警察を呼ぶ、とのことでございます」礼央は言葉を失った。明敏はその日一日、礼央がきちんと仕事をするよう見張るために部屋に張り付いていた。受話器越しに聞こえてきたやり取りに、思わず笑いがこぼれた。「向こうはもう完全に見切りをつけてるじゃないですか。なんで追いかけ続けるんですか。僕に言わせれば、本気で仕事に向き合って、黒崎家が岡田家と同等の資産を築けるくらいの器量を見せる方がよほど意味があります」明敏はあえて挑発して発破をかけようとしたが、礼央にはその手が通じなかった。智美を目の前にしていない時は理性が保てるのに、一度顔を見ると、恋愛感情が完全に理性を吹き飛ばしてしまう。「ダメだ、別の方法を考えないと」礼央は考えを巡らせながら、レストランで見た、ふっくらとした頬と二つのお団子ヘアがかわいらしい小さな女の子の姿を思い浮かべた。すぐにひとつの策が浮かんだ。「智美の娘に気に入られれば、智美もそこまで拒絶しなくなるはずだ。それに悠人――あいつは仕事の虫じゃないか。俺を四六時中監視しているほど暇ではないだろう」考えれば考えるほど、妙案に思えた。明敏は首を振った。「そこまでして他人の子の父親になりたいんですか」「智美の娘は俺の娘だ。大切にするのは当たり前だ」その子に悠人の血が半分流れていることなど、礼央は気にしなかった。明敏は、礼央が本気で狂ってしまったのだと思った。書類を閉じて立ち上がろうとすると、礼央が呼び止めた。「残業して企画書をまとめろって言ってたのに、どこ行くんだ」明敏はうんざりしながら言った。「その状態で真剣に仕事できますか。頭が冷えてからにしてください。数十億規模のプロジェクトを恋愛脳で台無しにされたら困ります」礼央は明敏の手元の結婚指輪に目がとまった。「お前、結婚してたな。子どももたし
「私はただ、あなたとデートしたくて、一緒にいる時間が欲しかっただけよ!何が悪いの?それに、八時に来るって言ったのに、映画館の前で一時間も待ったのよ!来られないなら早く連絡くらいしなさいよ、どうしてあんなに待たせるの!」「ああ、俺が悪かったよ!でも間に合うと思ったんだ。急に色々入ってくるなんて思わないだろ。それに、俺だって前に君を待ったことあるだろ!一回待たされたくらいで、そんなに怒ることかよ!」「今怒ってるのはそこじゃないの!そっちの態度の問題よ!私の気持ちを全然考えてないじゃない!」「じゃあ、君は俺の気持ちを考えたことあるのかよ!いつも俺が機嫌取ってばかりじゃないか。君が俺の
悠人が病院に篤を「見舞った」翌日、篤は自ら智美のもとへ謝罪に訪れ、訴訟も取り下げた。麻弥は元々、夫に智美を徹底的に困らせるようけしかけていたが、今や夫の影で借りてきた猫のように縮まり、一言も発することができなかった。智美も、これ以上事を荒立てて今後の仕事に影響させたくなかったため、和解の道を選び、双方の示談は成立した。翔太も無事に目を覚ました。篤は自ら高価な見舞いの品を持って翔太の病室を訪れ、これでもかというほどお世辞と謝罪の言葉を並べ立てた。翔太は、この男が急に態度を変えたことに何か裏があるのかと訝しんだが、そこへ悠人が入ってくるのを見て、ようやく全ての事情を理解した。
翔太は苦笑いを作って、その場をごまかした。「その件は、また改めてご相談させてください」軽くあしらわれたと感じた篤は、露骨に不機嫌な顔になった。彼は矛先を智美に向けた。「そこの君。聞くところによると、君は以前高橋先生のもとで学んでいたそうだな。つまり君は高橋先生の『生徒』だろう?高橋先生は体調が悪いと言って、俺の酒が飲めん。君は彼の生徒として、代わりに二杯くらい飲むのが筋じゃないか?そうでないと、酒を勧めた俺の顔が立たないだろう」智美は眉をひそめた。何より、こういう酒席の悪習は大嫌いだ。それに、相手はスポンサーだが、自分と翔太は招かれた外部の協力者であって、テレビ局の社員では
智美は彼女をじっと見つめ、落ち着いた眼差しで告げた。「男なんて必需品じゃないのよ。男一人のためにこんな風に自分を見失うなんて、救いようがないわ。……自分自身の力で成功するほうが、誰かを支え、成功させ、その男の『妻』という立場に収まるより、ずっと価値があるわ」智美は、彼女が理解したかどうかを確かめもせず、踵を返した。あの歪な結婚生活の中で、彼女はかつて、祐介こそが千尋にのめり込み、我を忘れるほど「恋愛を優先する」タイプなのだと思っていた。だが今となっては、千尋こそが本物だ。とうに去った恋人のために、自分の体をボロボロにしてしまうなんて。二人とも、いつも手放した相手ばかりを追い