LOGIN京浜の秋の夜、雷雨は突然、激しく襲いかかった。大粒の雨が、書斎にある大きな床までの窓を叩きつけ、まるで無数の手が狂ったようにガラスを打ち鳴らしているかのようだった。紗夜は重厚なデスクの後ろに座り、長沢グループの海外マーケット拡大に関する緊急書類を手にしていたが、文字は一つとして頭に入ってこない。胸の奥がざわついて、落ち着かない。彼女は書類を置き、窓辺へ歩み寄った。豪雨に呑み込まれた夜の闇を見つめながら、言葉にできない苛立ちが、ますます強くなっていくのを感じていた。そのとき。パチッ、という音がした。書斎の隅にあった人感式のフロアランプが、何の前触れもなく消えた。続いて、書斎どころか、屋敷全体の灯りが一瞬にして闇に沈む。――停電......?紗夜は眉をひそめ、反射的に机上のスマホを手に取り、執事に電話をかけようとした。だが、画面をスワイプして表示された「圏外」の二文字を目にした瞬間、心臓が大きく沈んだ。セキュリティシステムが......停止している。異変を悟ったその瞬間、蒼白な稲妻が夜空を切り裂いた。刹那の閃光に照らされて、彼女ははっきりと見た。いつの間にか、窓の外に黒い背の高い影が立っているのを。紗夜の呼吸が止まる。悲鳴も上げず、取り乱しもしない。ただ静かに立ち尽くし、片手で机の下の非常ボタンをそっと押し、もう一方の手で卓上の鋭いペーパーナイフを握った。カチリ――床までの窓の鍵が、外側からあっさりと開けられる。蒼也は幽霊のように、音もなく室内へ足を踏み入れた。黒いトレンチコートをまとい、雨に濡れた髪が額に張りついている。かつては温和で無害に見えたその顔に、今は不気味な笑みが浮かんでいた。「奥様」しゃがれた声は、紙やすりで擦ったように荒い。「こんな遅くまで、まだお休みじゃないんですか?」紗夜は答えず、冷ややかに彼を見据えたまま、ナイフを握る手に力を込める。「出雲」声には一片の温度もない。「本当にしつこいわね」「仕方ないでしょう」彼は肩をすくめ、無邪気を装う。「奥様が......あまりにも忘れがたい存在だから」そう言いながら、タブレット端末を机に置き、彼女の前へと押しやった。「今日は、いいものをお見せしに来ました」低く抑えた声
長沢グループ最上階のオフィスは、凍りつくような冷気に包まれていた。紗夜は、かつて文翔だけが座っていた執務椅子に腰を下ろし、氷のような表情を浮かべている。目の前の大型モニターは六分割されていた。一輝、仁、千歳、海羽、未怜、明――彼女が動かせるすべての力が、いまここに集結している。画面越しに映る、蒼白でありながら異様なまでに静まり返ったその女を見つめながら、誰もが悟っていた。血の匂いを孕んだ嵐が、まもなく始まると。紗夜は一切の前置きをしなかった。黒く目立たないUSBメモリーを取り出し、パソコンに差し込む。「これは......文翔が残したもの」その声は静かだったが、重い鉄槌のように全員の胸を打った。中に入っていたのは、文翔がすでに水面下で進めていた調査資料――蒼也の背後にいる支援者たちの、闇に葬られるはずだった取引の証拠の連鎖。資金の流れの一本一本、一つ一つの密会が、毒蛇のように絡み合い、目を背けたくなるほど生々しい。これこそが、文翔が彼女に遺した、最強の武器だった。「一輝、瀬戸内さん」紗夜の視線が、同じく頂点に立つ二人の男へ向く。「海外の資金網は、あなたたちに任せるわ」「わかった」二人は一瞬視線を交わし、互いの目に露骨な殺意を見た。続いて、紗夜は海羽と珠緒へ目を向ける。「世論戦は、あなたたちの領域よ」「任せて」海羽は冷ややかに笑う。美しい瞳には凍てつく寒気。「明日の朝には、あの老害どもの不祥事が、どんな芸能ゴシップよりも派手に踊るわ」最後に未怜を見る。「法的手段は、あなたに任せたよ」「ええ」未怜は金縁眼鏡を押し上げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。「ちょうどあの連中、気に入らなかったところなの」......こうして、蒼也とその背後勢力に対する全方位的な殲滅戦が、静かに幕を開けた。一輝は瀬賀家の海外での巨大な影響力を行使し、複数の国際投資銀行と連携。蒼也が掌握する海外の秘密ファンドに対し、精密な空売り攻撃を仕掛けた。仁は国内金融界の人脈を動かし、「マネーロンダリングの疑い」という名目で匿名通報。蒼也関連の資産口座を一斉凍結させる。海羽と珠緒は熟練の狩人のように動き、信頼できる海外メディアを通じて「京浜名門の闇を暴く」と題した特
紗夜は長沢グループ最上階のオフィスで、緊急の四半期財務報告書に目を通していた。大きな床まで届く窓から陽光が差し込み、彼女を金色の光の輪の中に包み込む。ひどく痩せていた。もともと手のひらほどしかない小さな顔はさらに細くなり、顎の線はいっそう鋭く冷ややかに際立っている。だが、あの澄んだ瞳には、かつての弱さも迷いも、もはや欠片もなかった。あるのは、底知れぬ静けさだけ。そのとき、机上の内線電話が唐突に鳴り響く。中島からだった。「奥さま」声には抑えきれない焦りが滲んでいる。「学校から連絡がありました」万年筆を握る手が、ぴたりと止まった。スピーカーに切り替えると、受話器の向こうから理久の担任教師の取り乱した声が飛び込んでくる。「長沢さん!大変です!理久くんが......下校途中で車に接触されて、いま......いま病院へ搬送されました!」――ブン、と。世界が崩れ落ちる音がした。紗夜は勢いよく立ち上がる。急に立ち上がったせいで視界が暗くなり、よろめき、倒れかけた。「奥さま!」中島が慌てて支える。だが彼女は何も言わない。ただ窓の外の青空を見つめ、頭の中は真っ白だった。......病院へ向かう車中、紗夜はずっと窓の外を見つめ、ひと言も発しなかった。だが、スマホを強く握り締める指の関節が白くなるほど力がこもっているのが、内心の焦燥を如実に物語っている。そのとき、見知らぬ番号から着信が入った。一瞥し、すぐに切る。だが執拗に、再びかかってくる。紗夜は深く息を吸い、ついに通話ボタンを押した。受話器の向こうから聞こえたのは、蒼也のどこか得意げで軽薄な声。「奥様、そんなに慌てなくても」胸が、すっと冷える。「子どもはかすり傷程度です」声には面白がるような笑みが混じる。「死にはしません。これはあくまでも、『前菜』ですから」紗夜は黙ったまま聞いている。だが、スマホを握る指は無意識にさらに強く締まっていた。「聞いた話ですが」突然、声が冷え込む。毒蛇が舌を出すように。「文翔が一番大事にしていたのは奥様で、そして奥様が一番大事にしているのは、あのガキだとか」その声音には、異常な高揚が滲む。「もし僕が毎日『サプライズ』を届けてあげたら、奥様は壊
蒼也の顔に浮かんだ驚愕は、三秒ともたなかった。彼は紗夜を見つめる。青白いのに、どこまでも静まり返ったその顔を見て、ふっと笑った。「誰かと思えば、奥様でしたか」ゆっくりと拍手をする。その音は、死んだように静まり返った会議室で、やけに耳障りに響いた。「その死んだ旦那の喪に服していればいいものを、こんなところへ何をしに?」言葉は、これ以上ないほど下劣だった。その場にいる誰もが、無意識に息を呑み、身動きひとつできない。だが紗夜は、まるで聞こえていないかのようだった。彼を一顧だにせず、巨大なミーティングテーブルの前へと歩み寄る。手にしていた書類の束を机に置いた。一番上にあったのは文翔の直筆署名と公証がなされた、株式の全面委任状。「文翔の法的な妻である限り」声は大きくない。だが氷をまとった刃のように、鋭く全員の胸を貫く。「私は名実ともに長沢家の当主です」一拍置き、顔を上げる。澄みきっていながら凍てつくその瞳が、愕然とした蒼也を真正面から射抜いた。「このグループに、部外者が口を出す筋合いはありません」蒼也の笑みが、完全に凍りついた。自分の思い通りに操れる、か弱い女だと高をくくっていた相手が、これほど公然と牙をむくとは思いもしなかったのだ。彼は冷笑する。「妻?」上から下まで値踏みする視線。軽蔑も嘲りも隠そうとしない。「ただの女ですよ?財務諸表が読めるのか?資本運用が分かるのか?何を根拠に、こんな巨大な企業を仕切るつもりですか?」そう言って、今度は古株の株主たちへと視線を投げる。「皆さん、本気でこの何も分からない女に、長沢グループの未来を託すおつもりですか?」その一言は、小石のように彼らの胸に落ち、もともと揺らいでいた心に波紋を広げた。互いに顔を見合わせる。そこに浮かぶのは、迷いと......欲。そのとき。「我々が全力で補佐し、支援します」中島の声が、落ち着いた調子で響いた。彼は紗夜の後ろから一歩前に出る。続いて、財務部長、法務部長、マーケティング部長......文翔に忠実だった幹部たちが、次々と前へ出て、迷いなく紗夜の背後に並んだ。「奥様のすべての決定を」中島は会場を見渡し、一語一語、はっきりと言い切る。蒼也の顔色が一気に沈む。
文翔が死んだ翌日、長沢グループの空気は一変した。京浜金融センターにそびえ立ち、普段は栄華を誇る本社ビルは、目に見えない暗雲に覆われたかのように重苦しく、息苦しい圧迫感に包まれていた。社内は動揺に揺れていた。これまで文翔に抑え込まれ、顔も上げられなかった傍系の親族や古株の株主たちは、血の匂いを嗅ぎつけたハイエナの群れのように、もはや我慢しきれず動き始める。水面下で小さな会合を開き、それぞれが思惑を巡らせ、この権力の空白から少しでも大きな取り分を得ようと画策していた。そんな不穏な流れの中、蒼也が戻ってきた。もはや安物のコック服を着た、温厚で無害そうな「出雲」ではない。上質なイタリア仕立てのスーツを身にまとい、髪はきっちりと撫でつけられ、その後ろには黒いスーツにサングラス姿のボディガードがずらりと並ぶ。その威勢は、生前の文翔以上に派手だった。勝利を確信した笑みを浮かべ、大股で堂々と長沢グループ本社へと足を踏み入れる。彼を目にした者は皆、言葉を失った。......最上階の会議室には、水を打ったような緊張が満ちていた。長沢家の重鎮たちが、全員顔を揃えている。かつて文翔が座っていた席に腰を下ろす若い男を見つめる視線には、複雑な感情が入り混じっていた。驚き、疑念、そしてわずかな、隠しきれない欲望。「皆さま」蒼也が口を開く。声は大きくないが、室内の誰の耳にもはっきり届いた。「今、皆さんの胸中に疑問があることは承知しています」そう言って、口元の笑みをさらに深める。余計な前置きはなかった。隣に立つ弁護士に合図し、一通の書類をミーティングテーブルの中央に置かせた。それは貴仁直筆の署名が入り、公証済みの委任状だった。そこに記された内容は、爆弾のように会議室を揺るがす。「......文翔に万一のことがあった場合、長沢家および長沢グループのすべての業務は、その実孫――長沢蒼也が全権をもって継承する」「長沢蒼也だと?!」「いつ孫なんて増えたんだ?!」「そんなバカな......」取締役会の古参たちは雷に打たれたかのように、顔いっぱいに驚愕を浮かべる。文翔に忠実だった幹部たちでさえ、互いに顔を見合わせ、言葉を失っていた。その時、会議室の大型スクリーンに二つの姿が映し出される。
文翔の葬儀は、あの血に染まった結婚式以上に世間を騒がせた。京浜西の墓園は、この日、黒々とした人波と、それ以上に黒々とした報道陣に取り囲まれ、水も漏らさぬ状態だった。長い望遠レンズと無数のカメラが戦場さながらに並び、フラッシュは目が眩むほど激しく瞬く。誰もが首を伸ばしていた。この名門悲劇のヒロイン――紗夜が、どんなふうに泣き崩れるのかを。新婚の夫は「遺骨も残らず死亡確認」。就任したばかりの長沢家の嫁が一夜にして未亡人。どう見ても、天地を揺るがす号泣劇になるはずの筋書きだった。だが、黒いロールスロイスがゆっくりと停まり、紗夜が車から降り立ったとき、誰もが息を呑んだ。彼女は体に沿う黒のロングドレスを纏い、広いつばの黒いヴェール帽を被っている。垂れた黒紗が顔の半分以上を覆っていた。泣いていない。目すら赤くない。その表情は、底の見えない湖面のように静まり返っている。ただ真っ直ぐに立つ姿は、寒風の中でもしならない一本の松のようだった。隣には、同じく黒い小さなスーツを着た理久。目は赤く腫れているが、唇を強く結び、母の手を固く握っている。「来たぞ!」「撮れ!」血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、報道陣が一斉に押し寄せる。「今回の事故について一言お願いします!」「爆発は怨恨によるものという噂がありますが、本当ですか?」鋭い質問と容赦ない閃光が、母子に突き刺さる。理久は怯え、思わず母の背後に隠れた。紗夜は何も言わない。ただ息子を胸元へ引き寄せ、ゆっくりと顔を上げる。黒紗の奥にある澄んだ、そして氷のように冷たい瞳が、その場の一人一人を静かに見渡した。ざわめきは一斉に凍りついた。いつの間にか、千歳が背後に立っていた。彼は何も言わず、ただ自分の体で人波と閃光の大半を遮る。その細くも折れぬ背中を見つめながら、胸に去来する思いは複雑だった。もし、あのとき......だが、この世に「もし」はない。......葬儀が始まる。空の棺が、静かに墓穴へと下ろされる。遺体はない。中にあるのは、文翔が生前よく着ていた数着のスーツだけ。浩平と仁が、それぞれ瀬賀家と瀬戸内家を代表して前へ進み、白菊を棺にそっと手向ける。浩平は空の棺を見つめ、そして離れた場所に立つ孤
「え?!」珠緒の顔色が一瞬で変わり、真っ先に声を上げた。「竹内さん、最初に約束した内容と違うじゃないですか......!」本来の約束では、彼女たちのスタジオが展示会場の花の装飾を担当し、その代わりに彩側が花芸作品のブースを一つ用意する──双方にとってウィンウィンの協力関係のはずだった。なのに彩は、紗夜の作品で注目を集め終わった途端、彼女たちを切り捨てたのだ。「夏見社長、落ち着いてください」彩は穏やかな声で、怒りに震える珠緒と対照的に落ち着いていた。「私たちも次の展示のために総合的な判断をしただけです。信じられないなら、長沢社長に聞いてみてください」その言葉に、珠
紗夜は文翔が立ち去ってからようやく水面に顔を出したが、その表情はあまり良くなかった。彼女と文翔が結婚してこの5年間、夜の営みの回数も少なくはなく、基本的には週に2~3回のペースだった。文翔は仕事が忙しく、週に2~3回しか家に帰ってこなかったが、帰ってきた時は、紗夜はほとんどベッドで時間を過ごすことになっていた。週に2~3回、1回に3~4時間はざらで、彼が満足するまで彼女は容赦なく責め立てられた。とはいえ、それでも彼は節度がある方で、最近のように欲が抑えきれないかのように、数日おきに彼女を求めてくるようなことはなかった。それが彼女にはどうにも解せなかった。外では彩と済ませ
音が洗面所にまで響き返るほどの大きさだった。千歳は一瞬ぽかんとし、自分が焦りすぎたと気づいて気まずそうに口を開いた。「えっと、いや、その......そういう意味じゃなくて......」「じゃあ、洗って返しますね」紗夜は表情を変えず、静かに言った。千歳は彼女の顔を見つめ、ぼんやりと頷く。紗夜はそれ以上話す気もなさそうにハンカチを鞄へ入れ、軽く一礼した。「では、お先に失礼します」背を向け、歩き去る。千歳はその細い背中が完全に消えるまで、視線を動かせなかった。彼の視線がふと、彼女の手に提げられた、先ほど自分が押し潰してしまったバッグに移る。目の奥に、複雑な
「それに今回はわざわざ竹内さんのために出てきたっていうじゃない?普通の人が長沢社長に会うだけでも難しいのに!」「それだけ、長沢社長が竹内さんの企画した展示に力を入れてるってことですね!」彩はその言葉を聞くと、口元に控えめな笑みを浮かべて、「長沢社長はただ仕事に熱心なだけですよ。彼って、まさに典型的なワーカホリックなんです」と照れくさそうに言った。一見謙遜しているようで、その言葉の端々から彼女が文翔の性格や習慣をよく理解していることが伝わってくる。二人の関係が並大抵ではないことは、誰の目にも明らかだった。周囲の人々は目配せを交わし、意味ありげに微笑んだ。今夜のこの会は