ANMELDEN文翔が死んだ翌日、長沢グループの空気は一変した。京浜金融センターにそびえ立ち、普段は栄華を誇る本社ビルは、目に見えない暗雲に覆われたかのように重苦しく、息苦しい圧迫感に包まれていた。社内は動揺に揺れていた。これまで文翔に抑え込まれ、顔も上げられなかった傍系の親族や古株の株主たちは、血の匂いを嗅ぎつけたハイエナの群れのように、もはや我慢しきれず動き始める。水面下で小さな会合を開き、それぞれが思惑を巡らせ、この権力の空白から少しでも大きな取り分を得ようと画策していた。そんな不穏な流れの中、蒼也が戻ってきた。もはや安物のコック服を着た、温厚で無害そうな「出雲」ではない。上質なイタリア仕立てのスーツを身にまとい、髪はきっちりと撫でつけられ、その後ろには黒いスーツにサングラス姿のボディガードがずらりと並ぶ。その威勢は、生前の文翔以上に派手だった。勝利を確信した笑みを浮かべ、大股で堂々と長沢グループ本社へと足を踏み入れる。彼を目にした者は皆、言葉を失った。......最上階の会議室には、水を打ったような緊張が満ちていた。長沢家の重鎮たちが、全員顔を揃えている。かつて文翔が座っていた席に腰を下ろす若い男を見つめる視線には、複雑な感情が入り混じっていた。驚き、疑念、そしてわずかな、隠しきれない欲望。「皆さま」蒼也が口を開く。声は大きくないが、室内の誰の耳にもはっきり届いた。「今、皆さんの胸中に疑問があることは承知しています」そう言って、口元の笑みをさらに深める。余計な前置きはなかった。隣に立つ弁護士に合図し、一通の書類をミーティングテーブルの中央に置かせた。それは貴仁直筆の署名が入り、公証済みの委任状だった。そこに記された内容は、爆弾のように会議室を揺るがす。「......文翔に万一のことがあった場合、長沢家および長沢グループのすべての業務は、その実孫――長沢蒼也が全権をもって継承する」「長沢蒼也だと?!」「いつ孫なんて増えたんだ?!」「そんなバカな......」取締役会の古参たちは雷に打たれたかのように、顔いっぱいに驚愕を浮かべる。文翔に忠実だった幹部たちでさえ、互いに顔を見合わせ、言葉を失っていた。その時、会議室の大型スクリーンに二つの姿が映し出される。
文翔の葬儀は、あの血に染まった結婚式以上に世間を騒がせた。京浜西の墓園は、この日、黒々とした人波と、それ以上に黒々とした報道陣に取り囲まれ、水も漏らさぬ状態だった。長い望遠レンズと無数のカメラが戦場さながらに並び、フラッシュは目が眩むほど激しく瞬く。誰もが首を伸ばしていた。この名門悲劇のヒロイン――紗夜が、どんなふうに泣き崩れるのかを。新婚の夫は「遺骨も残らず死亡確認」。就任したばかりの長沢家の嫁が一夜にして未亡人。どう見ても、天地を揺るがす号泣劇になるはずの筋書きだった。だが、黒いロールスロイスがゆっくりと停まり、紗夜が車から降り立ったとき、誰もが息を呑んだ。彼女は体に沿う黒のロングドレスを纏い、広いつばの黒いヴェール帽を被っている。垂れた黒紗が顔の半分以上を覆っていた。泣いていない。目すら赤くない。その表情は、底の見えない湖面のように静まり返っている。ただ真っ直ぐに立つ姿は、寒風の中でもしならない一本の松のようだった。隣には、同じく黒い小さなスーツを着た理久。目は赤く腫れているが、唇を強く結び、母の手を固く握っている。「来たぞ!」「撮れ!」血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、報道陣が一斉に押し寄せる。「今回の事故について一言お願いします!」「爆発は怨恨によるものという噂がありますが、本当ですか?」鋭い質問と容赦ない閃光が、母子に突き刺さる。理久は怯え、思わず母の背後に隠れた。紗夜は何も言わない。ただ息子を胸元へ引き寄せ、ゆっくりと顔を上げる。黒紗の奥にある澄んだ、そして氷のように冷たい瞳が、その場の一人一人を静かに見渡した。ざわめきは一斉に凍りついた。いつの間にか、千歳が背後に立っていた。彼は何も言わず、ただ自分の体で人波と閃光の大半を遮る。その細くも折れぬ背中を見つめながら、胸に去来する思いは複雑だった。もし、あのとき......だが、この世に「もし」はない。......葬儀が始まる。空の棺が、静かに墓穴へと下ろされる。遺体はない。中にあるのは、文翔が生前よく着ていた数着のスーツだけ。浩平と仁が、それぞれ瀬賀家と瀬戸内家を代表して前へ進み、白菊を棺にそっと手向ける。浩平は空の棺を見つめ、そして離れた場所に立つ孤
紗夜は、鼻をつく消毒液の匂いにむせるようにして目を覚ました。ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは、眩しいほどに白い天井と、ベッド脇の機器が刻む「ピッ、ピッ」という規則正しくも冷たい電子音。――ここは、どこ?記憶は何かに引き裂かれたかのように断片的で、血に濡れた破片だけが残っている。爆発。炎。そして......轟音とともに落ちてきた、あの巨大なクリスタルシャンデリア。紗夜の胸が、どくんと沈む。反射的に隣へ手を伸ばす。だが触れたのは、冷え切ったシーツだけだった。――彼は?文翔は、どこ?「紗夜ちゃん!?」「紗夜!?」海羽と未怜の声が同時に耳に届く。紗夜は顔を向ける。二人の目はクルミのように腫れ上がっていた。胸の奥に広がる不吉な予感が、じわじわと強まっていく。「......文翔は?」声はかすれ、まるで紙やすりで削られたようだった。二人は何も言わず、ただ悲しみに満ちた目で彼女を見つめる。海羽がそっと手を伸ばし、彼女の冷たい指を強く握った。少しでも温もりを伝えようとするかのように。だが紗夜は、火傷でもしたかのように、ぱっと手を引っ込める。そしてもう一度、震えを帯びた声で問い直した。「答えて。文翔は、どこなの?」そのとき、病室の扉が静かに開いた。明が入ってくる。白衣姿だが、顔色は蒼白で、鋭い目には血が滲んでいた。彼は紗夜を見る。期待と恐怖が入り混じったその瞳を。喉仏が苦しげに上下する。手には数枚の紙。その内容が、彼を押し潰しているかのようだった。「紗夜......」やっとの思いで口を開く。「調査結果が......出た」紗夜は何も言わない。ただ静かに彼を見つめ、最後の宣告を待つ。「式場の爆発は規模が大きく、二次崩落と火災を引き起こした」声は低く、重く、言葉は一つ一つがやけに重かった。「文翔は君を守るために、直接その衝撃を受けたって......」一瞬、言葉が途切れる。深く息を吸い、続ける。「現場では焼損が激しく、身元確認不能の遺骸しか見つからなかった。DNA照合の結果......『遺体は残らず、死亡確認』とされて......」――ドカン。紗夜の世界が、音を立てて崩れ落ちた。「そんなはずない
その一瞬、紗夜の世界はすべてがスローモーションになったかのようだった。頭上では、巨大なシャンデリアが、血を欲する怪物のように大口を開け、じりじりと彼女へと迫ってくる。無数のクリスタル一つひとつが屈折させる、絶望の光までもはっきりと見えた。避けたい。逃げたい。――そう思うのに、両脚は鉛を流し込まれたかのように重く、まったく動かない。もう助からない――そう思った、そのとき。「さーちゃん!」文翔の声が、稲妻のように彼女の混濁した意識を切り裂いた。次の瞬間、温かく硬い胸が、勢いよくぶつかってくる。彼は一瞬の迷いもなく、自らの背中すべてで彼女を覆いかぶさり、死を隔てるわずかな空間を、その身で作り出した。ドカン――!凄まじい衝突音とガラスの砕け散る音が、耳元で炸裂する。彼女ははっきりと感じた。自分を庇うその男の体が、激しく震えたことを。骨が砕ける音さえ、聞こえた気がした。「文翔......」声は震え、形を成さない。彼を押しのけて様子を見ようとする。だが彼の腕は鉄の枷のように、彼女を強く、強く抱き締め、微動だにさせない。「さーちゃん......」耳元で、残された最後の力を振り絞るように、彼は囁いた。「生きるんだ......」それきり、声は途絶えた。巨大なシャンデリアが轟音とともに墜落し、きらびやかな光は一瞬で消え失せる。彼と彼女は、無辺の闇と瓦礫の中へと完全に呑み込まれた。紗夜の意識も、その衝撃と絶望の中で、深い闇へと沈んでいった。......「文翔!」「紗夜ちゃん!」千歳、仁、一輝たちは目を血走らせ、狂ったように瓦礫へと駆け寄り、素手で重い残骸を掻き分けようとする。だがシャンデリアはあまりにも重い。彼らはただ、最愛の友と愛する女性を呑み込んだその場所を、為す術もなく見つめるしかなかった。「早く!救助隊を呼べ!急げ!」千歳は目を真っ赤にし、ボディーガードに向かって怒鳴る。薫と千芳は、その光景を目にした瞬間、その場で意識を失った。雅恵は瓦礫を見つめる。生涯本当に愛したことはなかったのに、命を賭して尽くしてくれた「息子」。人とは思えぬ悲鳴を上げ、泣き崩れる。「いや......いや......」よろめきながら瓦礫へ駆け寄ろう
「新郎は新婦にキスを」神父の厳かな声が、広い教会の中に響き渡った。文翔は紗夜を見つめる。涙で満たされながらも、確かに微笑みを宿したその瞳を見ていると、自分の世界すべてが光に包まれたように感じられた。彼はゆっくりと身をかがめる。二人の唇が触れようとした――その瞬間。ドカン――!!耳をつんざくような爆音が、何の前触れもなく教会の後方で炸裂した。次の瞬間、天を衝く炎と凄まじい爆発音が響き渡る。紗夜は足元の床が激しく揺れるのを感じた。耳の奥で轟音が鳴り、頭が真っ白になる。巨大な衝撃波が、見えない手のように一瞬で教会全体をなぎ払った。天井の、聖書の物語を描いたステンドグラスが、派手な音を立てて粉々に砕け散る。無数の鋭いガラス片が、雹のように降り注いだ。「きゃあああ――!」一瞬の静寂の後、引き裂くような悲鳴があがる。招待客たちは驚いて飛び立つ鳥の群れのように、叫び、泣き叫びながら四方へと逃げ惑った。華やかだった式場は、瞬く間に混乱と恐慌の渦へと変わる。「さーちゃん!」文翔ははっと我に返ると、考えるより早く紗夜を強く背後へかばい、自らの体で飛び散るガラス片を受け止めた。「大丈夫だ!」耳元で響く声はかすれていたが、揺るぎなかった。「俺がいる」......その混乱の中、ウェイターの制服を着た一人の男が、悠然と舞台裏から歩み出てきた。その顔には、この惨状とは不釣り合いなほどの静けさが浮かんでいる。手には黒い起爆装置。かつては温和で無害だったその目には、今や底知れぬ憎悪が宿っていた。出雲蒼也だった。紗夜は彼を見つめる。見慣れたはずの顔が、あまりにも見知らぬものに思え、全身が凍りつく。「お前......」文翔の目に浮かんだのは信じ難い驚愕。それはすぐさま、怒涛の怒りへと変わった。まさか、もはや脅威ではないと高をくくっていた男が、こんな極端で狂気じみた方法で自分の結婚式に現れるとは。「驚いたか、長沢」出雲は笑った。その笑い声は混乱する教会の中で異様に耳障りで、毒を塗った刃のようだった。怒りと衝撃に満ちた文翔の顔を見つめながら、彼の目の笑みはさらに歪む。「お前は僕のすべてを奪った!」文翔を指差し、かすれた声で叫ぶ。それは告発であり、鬱積
今日の京浜は、信じられないほどの快晴だった。海辺の風はほのかに潮の香りを帯び、頬をやわらかく撫でていく。普段は絵葉書の中でしか目にすることのない、あの最高級の海辺の教会も、今日はまるで童話の世界のように飾り立てられていた。数えきれないほどの白いバラとカスミソウが、教会の門から海沿いの断崖まで途切れることなく敷き詰められ、まるで天へと続く道のようだった。瀬賀家、長沢家、そして京浜で名の知れた名門や権勢家たちが、今日は一人残らず顔をそろえている。報道陣のフラッシュは朝6時から止むことなく焚かれ続け、まるで銀色の海のようにきらめいていた。誰もが知っている。今日は、文翔と紗夜の結婚式だ。6年越しの挙式だ。......教会の重厚な木の扉が、厳かな結婚行進曲に包まれながら、ゆっくりと押し開かれた。その瞬間、会場中の呼吸が止まったかのようだった。紗夜は、逆光の中、静かに立っていた。細かなダイヤモンドが無数に散りばめられたそのウェディングドレスは、陽光を受けて砕けた星屑のように、きらびやかでありながら柔らかな輝きを放っている。彼女の両脇には、二人の男性が立っていた。一人は彼女を育て上げた和洋。もう一人は彼女に命を与えた浩平。同じように彼女を深く愛する二人の父は、今、彼女の腕をそっと支えながら、誇らしさとわずかな寂しさが入り混じった表情を浮かべている。紗夜は深く息を吸い、一歩を踏み出した。赤いバージンロードは長く、果てしなく続く道のように見えた。けれど彼女は知っている。その先に、彼が待っていることを。文翔は、ただ静かに立っていた。白のオーダーメイドの礼服が、彼の体躯をいっそう凛と際立たせている。その顔に、かつての冷たさや距離感はない。底知れぬその瞳には、今、緊張と壊れそうなほどの優しい情が満ちていた。生涯ただ一人の愛する人が、一歩一歩自分のもとへ歩いてくるのを見つめながら、彼は胸を何かに強く打ちつけられたかのように感じていた。彼はずっと、すべてを掌握することに慣れていると思っていた。冷静でいることにも、自制を保つことにも。だが、彼女が本当に目の前に立った瞬間、そのすべてが、音もなく崩れ落ちた。呼吸すら忘れてしまうほどに。......和洋と浩平は、紗夜の手を、
満晴は自分の衝動的な行動をすぐに後悔した。本来なら彩こそが「浮気相手」なのに、さっきの騒動のせいで、かえって彩を正妻のような立場に押し上げてしまい、紗夜までも難しい立場に追い込んでしまった。でも、彩がかつて自分と恋人の関係に割り込んできた最低な女であることには、確信がある。それなのに彩は認めるどころか、今や文翔にすり寄っているなんて。幼い頃から尊敬していた文翔なのに、結局男なんてみんな同じか。「文翔お兄ちゃんの目は節穴か?」満晴は紗夜のために怒りをあらわにした。「こんなに素敵な奥さんを放っておいて、よりにもよってあんな品のない女と関わるなんて、信じられない.....
その言葉を聞いた紗夜は、心の中で皮肉げに笑った。理久が学校へ行くようになったことで、少しずつ変わっていくのではないかと期待していた。以前、彼が自ら謝ってくれたこともあり、「やはり私が産んだ子なのだから、そう簡単に母親を切り捨てたりはしないはず」と、ひそかに嬉しく思っていたのに。結局は自分の思い込みだった。理久の目には、「どこに出しても恥ずかしい母親」である自分よりも、あの完璧な彩の方が遥かに上に映っているのだ。紗夜は息子の問いに答えず、代わりに文翔へ目を向けた。彼は何事もなかったように手元の書類に目を通し、時おり中島にメッセージを送り、修正点を伝えている。いつも通り
ほんの数秒だけためらったあと、紗夜は指輪を外し、それを他の宝石と一緒に箱の中へ放り込んだ。ちょうどそのとき、池田が部屋のドアをノックした。「奥様、旦那様とお坊ちゃんがお戻りになりましたが、今から夕食のご準備をされますか?」文翔と理久の食事はいつも紗夜が直接作っていたため、池田もいつも通り、二人の希望を伝えてきた。「旦那様は今日はタイ風のハーブ焼きムール貝に白ワイン煮込みを。お坊ちゃんはトマトとハムの炊き込みご飯、甘めの味付けで酸味はなしをご希望です......」池田は紗夜の顔をうかがいながら続けた。「食材はすでに準備済みです」誰もが当然のように紗夜の献身を受け入れて
紗夜は息を呑んだ。自分は何もしていないのに、彼にこんな侮辱を受けるなんて。今日一日ですでに気が立っていた彼女は、文翔に顎を強く掴まれた痛みと、容赦ない言葉の暴力に、ついに堪えきれず、勢いのままに彼の親指の付け根に噛みついた!「っ......!」文翔の顔色が一変し、怒りをにじませて言い放つ。「お前犬か!?離せ!」紗夜はまるで聞こえないかのように、鬱憤をぶつけるかのごとく、噛みついたまま離そうとしなかった。彼女をなんだと思っている?嫌っているからといって、ここまで侮辱してもいいとでも?そう思うと、涙がにじんでくる。「紗夜!」文翔は歯を食いしばって彼女の手