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第 8 話

作者: 燈ちゃん
会食は、思っていたよりも早く終わった。

凛が席を立ち、バッグへ手を伸ばそうとした瞬間、隣にいた陸のほうが先に立ち上がり、バッグを手に取る。

「送るよ」

それは問いかけではなく、決定事項を告げるような口調だった。

凛は素直に頷いた。断ったところで、結果は変わらないと分かっているからだ。

幼い頃から、陸はずっとそうだった。

もし真也が人を従わせることに慣れた独裁者だとするなら、陸も決して負けてはいない。

時々思う。この2人が真正面からぶつかったら、一体どんな空気になるのだろう、と。

凛はただ、面白半分にそう想像しただけだった。まさかその何気ない想像が、間もなく現実になるとは――この時の彼女はまだ知る由もなかった。

2人が個室を出ると、廊下の冷気が先ほどの部屋よりも強く感じられた。凛は無意識に腕をさする。

その時、角を曲がった先に見えた人影に、彼女の足が止まった。

十数メートル先、見覚えのある男が、個室の前で電話をしている。

グレーのスーツに背の高い姿。そして、よく知っている横顔。

真也の秘書――哲也だ。

彼がここにいるということは、つまり、真也もこの近くにいる。

その瞬間、凛の思考が一瞬止まった。

真也に見つかりたくない。説明もしたくない。そして何より、真也の口から、あの言葉を聞きたくない。

――「その男は誰だ?」

3年間の結婚生活で、凛は十分過ぎるほど説明をしてきた。けれど、説明するたびに戸惑いを感じる。自分は何も間違っていないのに、なぜそれほど必死になって説明を繰り返し、自分の無実を証明し続けなければならないのだと。

もう、そんな説明はしたくなかった。今さら真也と向き合うことも。

凛は静かに一歩後ろへ下がる。その肩が、すぐ後ろにいた陸の胸元へ触れた。

「……あっちから行きましょう」声を落として告げる。「あっちにもエレベーターがあるから」

正式に離婚が成立するまで、余計な衝突を増やしたくなかった。

陸は凛の視線を追い、彼女が逃げようとする理由に気づく。そして、何も言わずに彼女の手首を軽く掴む。

「凛」

頭上から落ちてきた声には、責める響きはなかった。ただ、彼女自身も言葉にできない複雑な感情があるようだ。

「……何を避けているんだ?」

凛は答えられなかった。自分でもよく分からない。

離婚を切り出して、家からも出た。そして、法律では、2人が夫婦でなくなる日はすぐそこまで来ている。

それなのに、哲也の姿を見た瞬間、胸の奥が大きく揺れた。

まるで、後ろめたいことでもしたかのようで、何かを怖がっているかのようだ。

……自分は何を怖がっているのだろう?

他の男と一緒にいるところを真也に見られること?

そんなこと、もう気にする必要なんてないはずなのに。

……おかしい。

自分はいったい、どうしたのだろう。

凛は自分に言い聞かせるように、理由を探した。もし真也に、陸と一緒にいるところを見られたら――離婚の話が余計にこじれる。

きっと真也は、自分が浮気をしたと思うだろう。そうなれば、被害者の顔で責めてくるかもしれない。財産分与の話でも、不利になるよう何か言ってくる可能性がある。

そう考えた瞬間、凛は反射的に手首を引いた。けれど、そこに絡んだ陸の指先は、離れるどころかさらに強く彼女を捕らえる。

陸は何事もなかったかのような表情で、廊下の奥へ向かって歩き出した。凛は引かれるまま、少し足元を乱しながら彼についていく。

「……陸」声を潜めて言う。「離して」

けれど陸は応じない。歩みを緩めることもなく、その態度には有無を言わせない強引さがあった。

その時、電話を終えた哲也が顔を上げる。そして、目に飛び込んできた光景に一瞬固まった。「……奥様?」

凛と陸との距離を見た瞬間、哲也の顔色がわずかに変わる。そして反射的に、背後にある個室の扉へ視線を向けた。

凛はもう一度手を引き抜こうとした。けれど、陸には離す気など微塵もない。彼女が顔を向けると、陸の瞳には隠す気のない愉快そうな光が浮かんでいた。

――わざとだ。

凛は奥歯を噛みしめる。

次の瞬間、個室の扉が開いた。

真也が中から姿を現す。

手にはスマホを持っていて、どうやらメッセージを打ち込んでいるらしい。

最初に彼の目に入ったのは、哲也の姿だった。そして、その視線の先を追った瞬間、凛を見つけた。

その隣にいる陸も。

そして最後に、陸が凛の手首を掴んでいることに気づいた。

空気が、一瞬で凍りつく。

真也は目を細め、手の中のスマホをくるりと回すと、ポケットへしまった。その視線は、目の前の凛へと向けられる。

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