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第 9 話

Author: 燈ちゃん
問いかけるような目だった。

――言いたいことはないのか、と。

凛はその場から動けなかった。陸の手は、まだ彼女の手首を掴んだまま。

廊下から音が消えたようだった。息苦しいほど張り詰めた空気に耐えきれず、哲也は何も言わず、さりげなく個室の中に入る。

陸は凛と真也の顔を順番に眺めると、小さく笑った。「ここでお会いするとは、奇遇ですね、桐生社長」

真也は陸を見ることなく、ただ凛だけを見つめていた。その口元には笑みが浮かんでいるが、声には凍るような冷たさが滲んでいた。

「こっちに来い」

たったの一言。

それは低く、喉の奥から押し出すような声だった。

次の瞬間、陸がようやく凛の手を離す。凛がわずかに息を吐いた、その直後だった。再び胸が強く跳ねる。

陸が落ち着いた足取りで、真也のほうへ歩いていく。「3年ぶりでしょうか、桐生社長」

その言葉を聞いて、真也はようやく凛から視線を外し、目の前に立つ、自分とほぼ同じ背丈の男を見た。

そして、彼と面識があることに気づく。

光永商事の若葉陸。

3年前、突如として海外市場に現れた新鋭実業家。その経歴は謎に包まれ、判断も行動も常に大胆で鋭かった。

真也は以前、西京市で開かれたビジネスフォーラムで彼を見かけたことがある。その時も、陸は今と同じように余裕のある表情で、すれ違いざまに唐突な一言を残した。

――「またお会いしましょう」。

当時、彼はまだ光永商事の地域統括責任者に過ぎなかった。それが、わずか3年でトップの座にまで上り詰めた。

目の前の男が、並外れた実力と底知れない策略を持っていることは容易に想像できる。

だが、真也は思いもしなかった。

その男が、自分の妻の手を握りながら、今こうして目の前に立つことになるなど。

「若葉社長……ですね?」真也は両手をポケットに入れたまま、陸を見る。そこに親しみや好意など、欠片もなかった。「なぜ妻とここに?」

陸はその呼び方を噛みしめるように繰り返した。「妻、ですか?」

口元にゆっくりと笑みを浮かべる。「俺の知る限り、凛はすでに離婚届を桐生社長のもとへ送ったはずですが」

離婚届?

その言葉を聞いた瞬間、真也の胸の奥がわずかに沈んだ。ポケットの中の手が、強く握り込まれる。けれど、表情には一切の変化を見せなかった。

「何のことかさっぱりですね。俺たち夫婦の間、確かに些細な行き違いがあったのですが……」喋る速度をあえて落とし、淡々と言葉を返す。「若葉社長に気にかけていただく必要はありません」

そう言って、真也は陸の横を通り過ぎようとした。

だが、陸は少しだけ身体をずらし、静かに進路を塞ぐ。

「些細な行き違い?桐生社長は、彼女の父親に必要だった医者を、別の女性のために海外へ派遣しましたよね?その後、理由も告げずに姿を消して、凛を一人西京市に残しました。それらを、桐生社長は『些細な行き違い』と呼ぶのですか?」

真也の動きが止まった。視線の向ける先は、凛だった。そして、その目には皮肉が浮かぶ。「……妻は、若葉社長には何でも話しているようですね。2人はどんな関係ですか?」

凛は背後で手を強く握りしめた。陸を見る瞳には、複雑な感情が滲んでいる。

陸は知っていた。

自分が父の病気を治すために結婚したこと。離婚届を真也の会社へ送ったこと。そして、真也と離婚するきっかけまで。

――また、自分のことを調べたのか?

陸は一体、何を考えているのだろう。

陸はそんな凛の視線に気づいたように振り返り、穏やかに笑った。「俺と凛の関係は、桐生社長が考えているほど単純なものではありません」

あまりにも露骨な挑発だった。

真也の顔に浮かんでいた余裕の笑みが、わずかに崩れる。怒りに思考を奪われたせいか、その瞬間の凛の複雑な表情さえ、別の意味に受け取ってしまっていた。

「……『凛』?呼び捨てですか」真也は陸へ一歩近づく。その瞳から、凍るような威圧感が伝わった。「すみません、急に用事を思い出したので、俺たちはここで失礼します」

そう言い終えると、真也は凛の腕を掴んだ。

凛は反射的に振りほどこうとする。けれどその瞬間、耳元に怒りを必死に押し殺したような声が落ちた。「……振り返るな」

その一言に、凛の動きが止まる。

真也と凛の姿が完全に見えなくなった瞬間、陸の顔から笑みが消える。人差し指にはめた指輪を何気なくゆっくりと回しながら、低く呟いた。「桐生真也、君は……まったく変わってないね」

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