Share

第5話

Auteur: ザクロ姫
それを聞いて竜也の表情は一気に冷え込んだ。彼は杏奈が再び松葉杖をつき、足を引きずりながら自分から離れていくのをじっと見ていた。

そして心にイライラがよぎった。竜也からしてみたら、杏奈は刑務所から出てきてからますます扱いにくくなったように感じた。

せっかくこれから、うまくやっていこうと思っていたのに。

「杏奈、何を馬鹿なことを言ってるんだ?」竜也は眉をひそめ、相変わらず見下したような表情だ。「たかがペンダントじゃないか。そんなんで騒ぐなんて、お前は本当にどうかしているぞ」

だが、杏奈は冷ややかに彼を見つめ、心底これまでの愛情が冷え切って行くのを感じた。

竜也は最初からこのペンダントの意味を知っていた。それでも、大したことじゃないと思っているのだ。

つまり、自分のことはどうでもいいと思っているのだろう。

でも、もういい。どうせ三ヶ月後には、ここを出ていくのだから。

彼の気持ちなんて、もうどうでもよかった。

「ママ、もうわがまま言うのやめてよ」浩は父親の真似をして眉をひそめた。「なんだかヒステリックで怖いよ。他のママみたいに優しくないから嫌だよ」

それを聞いて杏奈は怒りのあまり笑えてきた。彼女は問い返した。「母親だから、優しくなきゃいけないの?自分の気持ちを持っちゃいけないの?」

それには浩も言葉に詰まり、意地を張ってそっぽを向いた。その瞳には、杏奈への愛情はほとんどなく、むしろ警戒心ばかりが浮かんでいた。

「まだそんなこと言うなら、もうママだなんて思わないからね」浩はフンと鼻を鳴らして言った。彼は真奈美の手を握る。「真奈美おばさんをママにする。真奈美おばさんは大学も出てるし、ちゃんとした教育も受けてるんだ。ママみたいな専業主婦とは違うんだよ!」

杏奈は冷たい目で浩をじっと見つめた。

もし中川家に嫁いで浩を産んでいなければ、自分は今頃、博士課程に進んでいただろう。

自分は子育てに専念するために、大学院へ進むのを諦めたのだ。

それなのに今、息子は学がないから母親にふさわしくない、と言っているのか?

杏奈は、すべてが馬鹿馬鹿しく思えた。

十月十日お腹を痛めて産んだ息子は、結局、竜也の冷たい人間性を受け継いでしまったようだ。

彼女は皮肉っぽく笑った。「あなたの言う通りね。私には、あなたのママになる資格なんてないね」

それを聞いて竜也の表情が険しくなった。「杏奈、どういう意味だ?」

杏奈の目に一瞬ためらいがよぎったが、それでも静かに言った。「もうこれから、私をあなたのママだと思わなくっていいから。あなたは好きな人を、ママにすればいいじゃない」

そう言って彼女は浩を一瞥し、静かな声で付け加えた。「後悔しないでね。それと、あなたは体が弱いんだから、あまり遊びすぎないように……」

「僕だってあなたみたいなママはいらないから。もしママを選べるなら、絶対に真奈美おばさんを選ぶよ!」浩は怒り任せに顔を真っ赤にしながら叫んだ。

彼は棚の上にあった積み木を掴むと、床に叩きつけて粉々にした。「説教なんかも聞きたくない!うるさい!ママじゃないって言うなら、もう僕にあれこれ言わないで!」

途端に床に叩きつけられた積み木は破片となって散らばった。

杏奈はそれをちらりと見て、胸がずきりと痛んだ。

それはあの年の浩の誕生日に、親子二人で長い時間をかけて組み立てたものだった。

だが彼女はもうこれ以上口を出さなかった。

浩が必要としないのなら、もう言うべきことは何もない。

彼が心の底から真奈美を求めているのなら、自分はその願いが叶うようにさせてあればいい。

そんな状況に真奈美はわざとらしく口元を覆った。「全部、私のせいなのね。ごめん、お姉さん。あなたがこんなに誤解してるって知ってたら、ここに来るんじゃなかった……」

「杏奈、ふざけるのもいい加減にしろ!」竜也はすっかり冷え切った表情で杏奈の手首を掴んだ。その力は、骨が軋むほどだった。

杏奈は皮肉に笑った。「ふざけてなんかないから。私が一番後悔してるのは、あなたと結婚したことよ!」

杏奈の声は大きくはなかったが、リビングの隅々まではっきりと響き渡った。「竜也、離婚しよう」

初恋の人のために、彼は自分をどん底に突き落とした。

だから今日、自分はこの親子ときっぱり縁を切ろう。

それを聞いて竜也の眉間のしわがさらに深くなった。彼はふと、冷ややかに笑った。「刑務所暮らしで、頭がおかしくなったんじゃないか?」

竜也はそう冷たい声で言いながら、杏奈の手首を掴んだまま、見下すように視線を向けた。

その切れ長の目は、冷え冷えとした光を帯びていた。

結婚して何年も経つが、竜也はいつも冷たかったけれど、ここまで怒った彼を見るのは初めてだった。

「杏奈、中川家を出て、お前にどこへ行けるんだっていうんだ?」竜也の声はぞっとするほど冷たい。「言っとくけどお前のカードはすべて止めるからな。お前が自分の非を認めるまでな」

それを聞いて杏奈は、なんだか笑いたくなってきた。

彼女は口を開き、三ヶ月後にはここから離れることを彼に伝えようとした。

しかしその時、真奈美が「きゃっ」と小さな声をあげた。

竜也は慌てて杏奈の手首を振り払い、真奈美の方へ駆け寄った。

杏奈は彼に突き飛ばされるようにして、よろめいたが、なんとかソファに手をつき、体勢を立て直した。

彼女が顔を上げると、真奈美が竜也の腕に半ばもたれかかっていた。「竜也さん、足がすごく痛いわ。どうしよう、踊れなくなったら……」

片や、竜也の目に浮かぶ心配の色をみて、杏奈の胸をチクリと刺されたようだった。

彼女はため息をつき、口の端を引きつりながら、切ない笑みを浮かべた。

きっと、これが運命なのだろう。自分は、この親子のもとから静かに去る運命なのだ。

きちんと別れを告げ、すべてをはっきりさせることもなく。

「離婚協議書は、誰かに頼んで作ってもらうから。竜也、そしたらちゃんと私と一緒に市役所へ離婚届を出しに行ってね」

杏奈は淡々と言ったあと、二人を一瞥もせず、彼女はただ松葉杖をついて立ち去った。

足を引きずりながら歩く杏奈の後ろ姿は、ひどくか弱く見えた。竜也の目に一瞬、何かがよぎったが、彼はすぐにそれを押し殺した。

「あらら、これは大きな誤解になっちゃったわね」真奈美の目に一瞬、得意げな色が浮かんだが、彼女はすぐにそれを隠した。「まったく、女ってどうしてこう面倒なのかしら。竜也さん、あなたと私がただの親友だって、誰でも知ってるのに!マブダチの私にまで焼きもちするなんて!それに、私もう結婚してるのよ!」

真奈美は笑った。「追いかけて、機嫌でも取ったらどう?まあ、突き飛ばされたけど、私は大丈夫だから。彼女みたいに、デリケートじゃないしね!」

それを聞くと、竜也の心にまたイライラが込み上げてきた。彼は目を伏せ、少しうんざりした口調で言った。「必要ない。好きにさせておけ。あいつは京市に行き場なんてないんだ、どうせすぐに戻ってくる。それよりお前だ、お前の足は何よりも大切なんだから、怪我は許されない」

杏奈が、これまで真奈美のことで腹を立てたことは、一度や二度ではなかった。

いつも、適当なプレゼントを渡して機嫌をとれば、それで済んだのだ。

彼女は京市に身寄りもなく、今や手足も不便だし、行くあてなんて、どこにもないはずだ。

こんな風に騒ぐのも、結局は自分にもっと構ってほしいだけだろう。

罪を被せた件については、確かに自分にも負い目があった。これからは、もっと埋め合わせをしてやればいい。

浩も寄ってきて、真奈美に抱きついた。「そうだよ、真奈美おばさん!ママはいつもこうなんだ。僕とパパに甘やかされてるから、わがままなんだよ。二、三日もすれば、大人しく帰ってくるって」

彼は床に散らばった積み木の破片を見て、少しだけ胸が痛んだ。

しかし、すぐに自分に言い聞かせた。

ママは、自分とパパのことが大好きなんだ。自分たちを捨ててどこかに行くなんてありえないんだから。

きっとまた、いつものヒステリーを起こしているだけなんだ。

……

中川家を出てから、杏奈は何も持ってこなかったことに気づいた。

現金さえ、持っていなかった。

竜也の言う通りだった。

カードを止められたら、手足不便な自分は、京市でどこにも行く当てがなかった。

杏奈が途方に暮れて、道端で松葉杖を手に立ち尽くしていると、背後からどこか色っぽい男の声がした。「杏奈さん」

その声には聞き覚えがあり、語尾が少し上がる独特の響きがあった。

杏奈ははっとして、振り返った。

男は車のドアに寄りかかっていた。黒い車体が、彼の肌の白さを際立たせている。後ろに流した銀髪が数本、額にかかっており、その切れ長の目は妖しくも艶ぽかった。

男は気品と優雅さを漂わせ、杏奈に唇の端で微笑みかけると、その視線は彼女の足元で、ごくわずかに止まった。「乗っていくか?」
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application

Latest chapter

  • あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!   第740話

    警察からは、澪が精神的に不安定になったとだけ聞かされた。それ以上のことは、教えてもらえなかった。杏奈は精神病院の場所を聞いて、急いでそこへ向かった。山の中腹にある精神病院。杏奈が澪を見つけたとき、彼女は病衣を着て部屋の隅にうずくまっていた。髪はボサボサで、顔は真っ青だ。彼女は口の中で何かを呟いていた。「どうして私を騙したの?どうして騙したの?どうして……」澪は隔離室に、たった一人で閉じ込められていた。杏奈は医師に尋ねた。「彼女、何をぶつぶつ言ってるんですか?」「彼女自身の妄想かもしれません。でも、本当に誰かに騙された可能性も捨てきれません。精神を病んだ方の見る世界には、現実が反映されることも少なくないんです」「中に入って、様子を見てもいいですか?」医師は眉間にしわを寄せた。「やめたほうがいいでしょう。彼女は今、あまり状態がよくありませんから」そのとき、澪が不意に顔を上げた。杏奈の姿を捉えると、彼女は一瞬固まった。そして次の瞬間、狂ったように立ち上がって杏奈の方へ突進してきた。医師が慌ててドアを閉めた。ガラス越しに、澪がものすごい勢いでドアを叩いているのが見えた。目は血走り、口汚く罵っている。「杏奈、あんたのせいよ!あんたのせいで私はこんなになったのよ、殺してやる!殺してやる!」彼女は狂ったようにドアを叩き続けた。その狂気じみた姿と憎悪に満ちた眼差しに、杏奈は思わず身震いした。医師が杏奈の方を向いた。「あなたとこの患者さんは、以前あまり仲が良くなかったのですか?」杏奈は少し考えて頷いた。「まあ、そうですね。ちょっと……」「でしたら、もう彼女に会いに来ないでいただけますか。彼女の症状を悪化させかねませんから」杏奈は仕方なくその場を去った。実を言うと、澪のあの姿を見て、杏奈の気持ちは複雑だった。澪の執念はあまりに強すぎる。彼女は自分の人生すべてを、その執念に捧げてしまったのだ。だが、そうまでする価値があったのだろうか?精神病院から山を下り、家に着いたときにはもう夜になっていた。玄関のドアを開けると、健吾が心配そうな顔で駆け寄ってきた。「どこ行ってたんだ?メッセージも既読にならないし、電話にも出ない。松浦さんに電話で聞いても、気分が沈んでるだけだって言うし……一体

  • あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!   第739話

    だけど睦月の声は、少し詰まっているようだった。彼女は黙って杏奈を見て、何かを迷っているようだった。しかし、杏奈は、もう待てなかった。「睦月、まだ私のこと友達だと思ってくれてるなら、本当のことを話して!もしそうじゃないなら……もう二度と会わないから」それは、胸に突き刺さるような言葉だ。でも睦月は知っている。杏奈が一度決めたことは、彼女自身が考えを改めない限り、誰にも止められない。とうとう、睦月はため息をついた。どちらにしても、この友達は失ってしまう。それなら本当のことを話して、覚悟を決めさせたほうがいい。睦月は、ゆっくりと話し始めた。睦月の話で、杏奈は事情を理解した。彼女の家は、とある国の王室の分家筋らしい。でも、ハーフだからという理由で、本家からは疎まれているそうだ。今回、その王室の姫がデザインコンペを開いたのは、睦月の一族を追放するためだった。もし睦月がコンペで負けたら、家族もただでは済まないらしい。だから、杏奈にコンペに出てほしかったのだ。それを聞いた杏奈は、全く腑に落ちなかった。「どうして普通に話してくれなかったの?私たち、友達でしょ。私が助けないとでも思ったわけ?」宏介と一緒になって、健吾をダシに脅すなんて、あんまりじゃないか。睦月はため息をついた。「だって、もうデザインはやめたって言ってたから。あなたが本心ではどう思ってるか分からなかったの。それに今回のコンペは、負けたらあなたまで巻き添えにしてしまうような、特殊な契約が必要で……だから……」「だから断られるのが怖くて、私と健吾をハメたって言うの?」睦月はうつむいて、何も言わなかった。その沈黙が、答えだった。杏奈は、自分の気持ちをどう整理すればいいか分からなかった。彼女はバッグを手に取って立ち上がると、睦月に言った。「睦月、返事はまた後でする」そう言うと、杏奈は店を出ていった。睦月は、その場に座り込んだまま、何も言わなかった。引き止めることもしなかった。ただ、静かに涙が頬を伝った。たった一人の友達を、失ってしまった。その時、宏介が近づいてきて、泣いている睦月を見ると、黙ってティッシュを差し出した。睦月は宏介の顔を見た途端、溜まっていた怒りを爆発させた。彼女は、宏介を突き飛ばした。「誰があなたを

  • あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!   第738話

    宏介は杏奈に視線を移し、笑顔で挨拶した。「杏奈さん、お久しぶりです」杏奈は顔を曇らせた。「あなた、一体何者なの?」「君を助けに来た者だよ」そう言うと、宏介は睦月の方を見た。睦月はずっと彼を睨んでいたが、宏介は意に介さず、ただ微笑み返すだけだった。その様子は、杏奈に睦月との関係をわざと見せつけているようだった。睦月は観念して、杏奈に彼を紹介するしかなかった。「杏奈、この人が話してたジェイス先生の友達よ。健吾さんの手術の件で話をつけてくれるっていう人」杏奈の注意をそらすため、睦月は健吾の名前を出した。しかし、杏奈の表情は晴れなかった。それどころか、まるで知らない人を見るような目で睦月をじっと見つめていた。睦月はその視線に射抜かれ、胸がざわついた。彼女は歯を食いしばり、宏介をきつく睨みつけた。なんでこの人が来るのよ!杏奈は睦月から視線を外し、宏介の方に向き直った。「その『お友達』は、敵なの?味方なの?」その質問は、睦月に向けられたものだった。睦月はすぐに答えた。「もちろん、味方に決まってる!」杏奈はもう、こんな回りくどい話はうんざりだった。宏介が前に澪と組んで健吾を陥れようとしたことは、簡単に許せるようなことではなかった。杏奈にとって、この男は決して味方などではなかった。だが、睦月が宏介と友達だったなんて、杏奈にとっては全くの予想外だった。それなら、宏介が前に健吾を陥れようとしたことを、睦月は知っていたのだろうか?もし睦月が知っていたとしたら……杏奈は、この先どうやって睦月と友達でいればいいのか、想像もできなかった。「睦月、このことはちゃんと説明してもらわないと」杏奈は睦月に隠し事をすることは滅多になく、前にあった健吾と澪の件も、ちゃんと話していたのだ。だから、睦月は知っているはずだった。それなのに、睦月と宏介は友達だった。もし睦月が知っていて黙っていたのだとしたら……杏奈は背筋が凍る思いだった。睦月はもう隠し通せないことを悟った。しかし、どう説明すればいいのか分からなかった。ただ、自分はたった一人の親友を失うのだと——その残酷な現実を突きつけられたような気がした。全部、宏介のせいよ。だが宏介は杏奈の方を向いた。「杏奈さん、俺と睦月は友人

  • あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!   第737話

    「誰と一緒に来たの?」「佐々木さん!」杏奈が口をきいてくれたので、浩はすごく嬉しくなった。そして、元気いっぱいに杏奈の問いに答えた。杏奈はうなずいて聞いた。「じゃあ、佐々木さんはどこ?」浩は唇を尖らせて、何も言おうとしなかった。杏奈がもう一度聞くと、浩は目に涙をためた。「ママ……佐々木さんを見つけたら、また僕を追い払うの?」浩の目にはみるみる涙がたまって、今にも泣き出しそうだ。杏奈はあきれた顔で彼を見つめた。長い間、母親だったんだから。浩が嘘泣きをしていることくらい、すぐに分かった。「一人で探しに行く?それとも私に連れて行ってほしい?どっちかにして」杏奈の言葉に、浩の目がキラリと輝いた。ママと一緒に佐々木さんを探しにいけると気づいた時、浩はもう、嬉しくてたまらなかった。「ママと一緒がいい!」そう言って、浩は杏奈の手を握ろうとする。でも、杏奈はその手をひょいとよけた。そして、睦月の方を向いた。「睦月、ちょっとこの子を連れて人を探してくるから、先にお店見てて」睦月は分かった、と頷いた。そばで見ていた瑠衣は、浩のことが不憫でならなかった。もう浩の家庭教師ではないけれど、あんなにママに懐いているのに、母親はあんなに冷たいなんて。見ていて、とても気の毒になった。一体、杏奈のどこにそんな魅力があるんだろう。浩と浩の父親は今でも彼女を忘れられずにいるのだから。杏奈は瑠衣に軽く会釈をすると、浩を連れてその場を去った。浩はママと一緒にいられるのが嬉しくて、瑠衣のことなんて全く気にしていなかった。それを見て、瑠衣はすごすごと立ち去るしかなかった。浩は杏奈と並んで歩きながら、時々ママの顔を見上げている。その視線を感じて、杏奈はゆっくりと口を開いた。「浩。あなたを送るのは、保護者の人がそばにいないから。私たち、一応親子だし、危ない目に遭わせるわけにはいかないでしょ。でも、それだけよ」浩はまだ小さかったけれど、杏奈の言葉の意味は分かった。彼はうつむいたまま、黙って杏奈の隣を歩く。しばらくして、ぽつりと浩は尋ねた。「ママ……健吾さんと赤ちゃんができたから、僕のこと、もういらないの?」杏奈の声は、優しく、そして残酷だった。「ママなんかいらないって言ったのは、あな

  • あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!   第736話

    いつも耳にしているあのあどけない声に、杏奈はハッとした。杏奈が振り返ると、浩が腰に手を当てて、目の前の女性を睨みつけているのが見えた。その女性には、杏奈も見覚えがあった。浩の家庭教師、瑠衣だった。以前は浩もこの先生のことを気に入っていたはずなのに。今の態度を見る限り、もうそうではないみたいだ。杏奈は関わるつもりはなく、その場を去ろうとした。しかし、浩の方が先に彼女に気づいた。浩はすぐに駆け寄ってきて、杏奈の前に立った。「ママ、お洋服を買いに来たの?」杏奈の顔を見た途端、浩の表情はぱっと明るくなった。さっきまで瑠衣に見せていた不機嫌な顔とはまるで違い、心の底から嬉しそうだ。杏奈は、そんな浩を静かに見つめた。その瞬間、何かが彼女の心を揺さぶった。そのせいで、彼女はすぐに立ち去ることができなかった。今まで何度も、その呼び方を変えるように言ってきた。でも、浩は決して言うことを聞かなかった。それに、この子が謝ってきてからというもの、自分に対する態度は日に日によくなっている。どんなに冷たくしても、浩は自分の非を理解しているのだろう。にこにこしながら、ママと呼び続けてくる。さすがの杏奈も、これ以上子供に対してきつく当たることはできなかった。彼女は小さく頷くと、睦月と一緒に行こうとした。浩は、そんなそっけない返事を気にする様子もない。杏奈が歩き出すと、小さなリュックを背負ったまま、後をちょこちょことついてきた。どこで覚えてきたのか、こんなことを言う。「ママ、女の子がお買い物するときは、男の子が荷物を持ってあげなくちゃ。僕が持ってあげるよ」そう言って、浩は杏奈の手からバッグを受け取ろうとした。杏奈はさっと身をかわした。「荷物持ちなんていらない。この後用事があるから、ついてこないで」それでも浩は以前のようにしょげたりせず、めげずに杏奈の後をついてくる。荷物を持たせてもらえなくても、そばで楽しそうにおしゃべりを続ける。「ママはお洋服が欲しいの?お金はある?僕、持ってるよ!おばあちゃんがお小遣いをいっぱいくれたんだ。僕が買ってあげる!コスメも好きなだけ買っていいよ。僕が払うから!」彼は、えっへんと胸を張った。隣にいた睦月は、思わず吹き出してしまった。杏奈はうつむき、その瞳

  • あざとい女に夫も息子も夢中!兄たちが出動!   第735話

    さっきの杏奈のキスとは違って、健吾のキスは優しくなかった。彼女の唇を強く塞ぎ、彼女の呼吸ごと貪るように深く侵入してくる。それは強引で、有無を言わさないものだった。杏奈はほとんど耐えきれず、顔を仰向けにさせられ、健吾の動きに受け身で応えるしかなかった。そして、健吾の手が杏奈の服に伸びて、今にもボタンを外しそうになった。その時、杏奈はようやく健吾の動きを制した。健吾が目を開けると、その瞳は赤く充血していて、何かを必死に堪えているようだった。「どうした?」彼の声は掠れていた。「結愛がここにいるのよ」と杏奈は言った。「結愛なら、お母さんのところに連れて行くよ」健吾は行動が早く、そう言うとすぐに起き上がろうとした。杏奈は慌ててそれを引き留めた。杏奈は顔を赤らめた。健吾と過ごすうちに、以前よりは図太くなったつもりだが、さすがに今このタイミングで子供を預ければ、何をしようとしているのか見え透いている。そこまで厚かましくはなれなかった。「お母さんはもう寝てるわ。明日にしましょう」彼女はそう言って健吾を押しやると、ベッドの端に体を縮こまらせ、布団を頭までしっかりかぶってしまった。健吾は不満そうに杏奈を見つめた。すっかり火をつけられたのに、今さら我慢なんてできるわけがない。杏奈は目でバスルームの方を示した。健吾はしぶしぶ冷たいシャワーを浴びに行った。再びベッドに戻ってくると、健吾は杏奈に背を向け、後頭部しか見せてくれない。「俺は怒ってる」と、態度で示しているようだった。杏奈は彼の背中をツンツンとつついた。「怒らないでよ。もうキスしてあげないから」彼女はわざとそう言ってみた。案の定、健吾はこちらを振り返り、どこか恨めしげな視線を彼女に向けた。「俺が何で怒ってるか、分かってるくせに」杏奈はその言葉には答えず、笑って彼をからかった。「やっとこっち向いてくれたの?」健吾は唇を引き結んで黙り込んでしまった。杏奈は自分から彼の体にすり寄り、腰に腕を回して、その胸に顔をうずめた。「明日ね。明日にしましょう」健吾は、それだけで機嫌を直したのだった。……睦月から、午後に会えないかと誘われた。二人はすぐに食事には向かわず、まずはショッピングモールをぶらぶらと見て回ることに

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status