「血統?」
とエルドリスが問うた。ネイヴァンが片頬を引き上げて笑う。
「まあ、エリィは知らないか。知ってるのは帝国の中でも一部の貴族や軍のお偉方くらい。あとは、長生きな爺さん婆さんとかな」
「もったいぶらずに端的に言え」
「はいはい、わかったよ。ネイファ家っていったら、良い意味でも悪い意味でも一目置かれている一族だ。先祖が魔物と交わったっていう」
ネイヴァンは片手の指で輪を作り、そこにもう片方の手の指を差し入れる。
「……くだらん」
エルドリスは呆れ顔でひと言発すると、ネイヴァンから顔を背け、黒い砂浜のあちこちにバラバラと転送されてきた調理器具や荷物の整理を始めた。
「ネイヴァンさん。やめてください、その話」
僕は意を決して言う。
「なんでだよ。俺はいい意味で一目置いてる側だぜ? なにせネイファ家には数十年に一度、隔世遺伝か何かで変わった能力を持つ子どもが生まれるんだろ?」
「……僕は違います」
「いいや、きみがそうだと聞いてるぜ?」
「誰から」
「そりゃあ企業秘密だ。バラしたら俺の信用に関わる。で、実際のところ、きみの"もうひとつの胃"ってのはどんなもんなんだ?」
そんなところまで知っているのか。
僕は首を左右に振った。
「知りません。デマでしょう、そんな話」
それ以上この話を続けたくなくて、ネイヴァンから離れる。そしてエルドリス同様、黒い砂浜の上に散らばった調理器具やらなんやらを拾っていく。
だがネイヴァンはしつこく僕についてくる。
「いいじゃあないか、教えろよ。きみの能力がわかれば、『30分クッキング』の演
「そうだ、忘れていた」 ネイヴァンが急に立ち上がり、木箱の中を探り始めた。エルドリスと僕が訝しげに見つめていると、彼は満面の笑みで振り返る。「衣装に着替えようじゃあないか」「はい?」 と思わず声が出る。「せっかく死刑囚島《タルタロメア》に来たんだ。いつもの黒い革エプロンじゃつまらん。きみたちそれぞれに合った衣装を用意しておいた」 ああ、またこの演出家が変なことを言い出した。 エルドリスが承知するはずがない、と思って彼女を振り向いてみたが、彼女は不機嫌そうに腕を組んでいるだけで、黙ったままだった。 僕はふと、何度か仲介させられた伝言のひとつを思い出した。『衣装を用意する』 ネイヴァンはそう僕に言《こと》づけ、僕はエルドリスに伝え、エルドリスは何も言わなかった。つまりはその時点で”無言は肯定”の承知をしていたのかもしれない。不承不承《ふしょうぶしょう》だろうが。 ネイヴァンは僕たちとの温度差を意に介さず、木箱の中から衣装を取り出した。「ほら、エリィの分だ。ちゃんと着るって約束したよな?」「馬鹿言え、約束はしていない」「だが、死刑囚島《タルタロメア》にきみを連れてくる条件のひとつと受け取ったはずだ。勘の良いきみならな」「……チッ、食えんやつめ」 結局僕もエルドリスも、ネイヴァンの執拗な押しに負けて、着替えることになった。 衣装はそれぞれ、島の探索に適したものが選ばれていた。 エルドリスは、黒い狩猟服にマントを羽織り、膝丈のブーツを履いている。動きやすさを重視しながらも、彼女の持つ威圧感を損なわないデザインだ。&
森の奥へ進むにつれ、空気が変わってきた。どこか肌にまとわりつくような不快感があり、湿った土の匂いも強くなっている。葉擦れの音すらどこか不気味に感じる。「エルドリス、まだ進むんですか?」「当然だ」「でも、死刑囚島《タルタロメア》は、中心部へ行けば行くほど上級魔物が多くなると聞きました。この辺りで一度――」「戻りたければ、勝手に戻れ」 彼女は僕を振り返ることもなく言った。その背中はあまりにも迷いがなかった。 本気ではないが、思わず言いたくなってしまう。「……あなたを拘束魔法で縛って浜辺へ連れ戻すことだってできますよ」「珍しく監督官らしいことを言うな。だがそんなことをしてお前に何の得がある。低級魔物ばかり開いていても、視聴者は満足しないぞ」「確かに視聴率を考えれば、あなたが上級魔物を捕らえて開いてくれた方がいいに決まってます。でもそれ以前に僕には、監督官としてあなたの命を守る義務があるんです」「ハッ、終身刑の囚人の命など」「あなたは死刑囚ではありません」 僕がそう言うと、エルドリスは振り返って立ち止まり、溜息をついた。それからネイヴァンに目で合図を送る。 ネイヴァンは小さく頷くとカメラのスイッチを切り、休憩とばかりに近くの木にもたれた。 僕は二人の阿吽の呼吸のようなものに戸惑い、真意を求めてエルドリスを見る。 彼女の青水晶のような瞳は、真っ直ぐ僕へと向けられていた。「この島には、目的があって来た」「目的……って、『30分クッキング』の特別企画でしょう?」「それは建前だ。私はこの島で、"魔物にされた人間"を探したい」「えっ」 短い静寂。森の遠い奥の方から、魔物の唸るような鳴き声が聞こえる。
「ほう、お前の能力は識嚥《シエ》というのか」 エルドリスの口元に薄く笑みが浮かぶ。「それで、お前の言いぶりだと識嚥《シエ》は"魔物にされた人間"の判別に使えるようだな。一体どんな力なんだ?」「え……知ってるんじゃないんですか?」「私はさっき砂浜で、お前とネイヴァン・ルーガスが話すのを聞いただけだ。だが"もうひとつの胃"、その名だけで大方、能力の予想はついた。胃に入ったモノに関する魔法を使えるとか、成分を分析できるとか。それが生物だった場合、能力を奪える、記憶を読める、とかな。いずれにしても何らかの形で、胃に入れたモノの正体を暴ける能力だろうと考えた」「……鎌をかけたんですね! 卑怯です!」「そう怒るな。お前が悪い」「なんで僕が!」「私に能力を隠していたな。酷いじゃないか、私はお前に延命魔法で妹を生き長らえさせた話までしたのに。それでなくとも監督官であるお前は私の出自、年齢、身長、体重、使える魔法、今朝食べたものまであらゆる情報を得ているだろう」「そ、それはだって、被監督者の基本情報を知っておくことは監督官の義務ですし」「公平《フェア》じゃないと思わないか? 私とお前は盃を交わした対等な同志のはずなのに」 駄目だ、言い負かされる。 反論の言葉が出てこなかった。どうしようもなくて俯いていると、彼女が僕に歩み寄り、僕の正面で足を止めた。 白い綺麗な手が視界に入ったかと思うと、その手は蝶のようにひらりと動いて僕の顎先に留まり、俯く僕の顔をクイと持ち上げる。 僕を見下ろす青い瞳。まるで氷の結晶が光を受けて輝くような、冷たくも美しい。「私に教えてくれないか、お前のすべてを」 それは魔法だった。 知っている。彼女の魔力は延命魔法にし
「何だ? ぐずぐずしている時間はないぞ」 彼女はナイフを振りかぶったまま、訝しげに僕を見下ろす。「クラーグルの一部を、ほんの少しだけ切り取ってください」「なんだと?」「お願いします。僅かですが勝算があるんです」 エルドリスは考えるような表情を見せたが、すぐにクラーグルに向き直り、ネイヴァンから最も遠い触手の先へとナイフを投げた。 触手は1cmにも満たない幅だけ切り取られ、音もなく地面に落ちる。ネイヴァンを捕らえる触手たちに大きな動きはない。「これでいいか」「はい!」 僕はうねうねと動き続けるそれに駆け寄って素早く拾った。「おい、何をする気だ」 エルドリスが背後で戸惑うような声を上げるが、答えている余裕がない。僕がこれから何をするか、彼女の位置からは見えないだろう。 僕は触手の切れ端を口に入れ、ごくんと飲み込み、二つある胃のうち、識嚥《シエ》へと落とした。 次の瞬間、視界が明滅し、目を開いているのに暗転する。 たった一度だけ味わった、あの嫌な感覚。 クラーグルの記憶が流れ込んでくる。――――― 長い手足を木々に絡ませ、植物に擬態して、ただ待つ。 幼いころから繰り返してきた狩り。 研ぎ澄まされた感覚が、獲物の気配を捕らえる。 音がする。 小枝が折れた。 空気が揺れる。 獲物が近づいてくる。 距離が縮まる。 あと少し。 獲物が完全に射程内に入る。 ここだ。 瞬時に絡みつく。 迷いはない。 獲物の全身に触手を這わせ、がんじがらめにする。
夜の帳が下りる中、焚き火の炎が砂浜を揺らめかせる。「皆さま、こんばんは。『30分クッキング』です」 いつものように調理台の手前に立ち、僕は魔導カメラへ語る。「本日も特別企画として、死刑囚島《タルタロメア》よりお届けしております。食材はこちら、クラ―グルです」 調理台の上に横たわるのは、蛸に似た巨大な魔物。無数の触手は束ねられて、ぎちぎちと締め上げられているが、まだ抵抗の意思があるのか、拘束の下でしきりに蠢《うごめ》いている。「クラ―グルはA級魔物に分類される非常に危険な存在ですが、味は絶品と言われています。本日はこのクラ―グルを、活け造りにしていきます」 エルドリスがナイフを手に取り、クラ―グルの巨体に歩み寄る。「まずは、触手の一本を開く」 刃が触手の表皮に触れた瞬間、クラ―グルが激しくもがき出す。しかし、エルドリスは構わず、縦一直線に浅く切り込みを入れた。そして切り込みに両手の親指を差し入れる。「クグルゥゥゥゥ……ガァ……」 ズルッ、メリメリッと嫌な音を立てて皮を剥いでいく。剥ぎ終えると、手際よく内側の肉を削ぎ始める。「ピィィィィィィィ……ギャアアア……」「薄く削いだ方が、食感が良くなる」 削ぎ取られた肉は透き通るような白色。それを、まだ生きているクラ―グルの顔の上に飾り付けていく。趣向を凝らした活け造りだ。「次に、頭部を処理する」 エルドリスは、クラ―グルの頭部に垂直に刃先を当てる。そして体重をかけて刺し込む。
朝焼けのもと、僕たちは再び島の奥へと足を踏み入れた。ネイヴァンの転移魔法で昨日、クラ―グルと遭遇した場所まで一気に移動し、そこからさらに進んでいく。 高い樹々に日光を遮られた森は晴天の朝でも薄暗く、空気は冷たく湿っていて、不気味な雰囲気があった。明確な気配こそ感じないが、どこか草葉の隙間から、僕たちを狙う上級魔物が様子を伺っているのではないかと嫌な想像をしてしまうくらいだ。「周囲をよく観察しながら進め。普通の魔物の痕跡とは異なるモノが見つかるかもしれない」 エルドリスは僕とネイヴァンにそう指示し、先頭を勇ましく歩いていく。 僕は彼女の背中を見つめながら尋ねた。「エルドリス、もしも本当に、魔物にされた人間かもしれないモノを見つけたら、どうするんですか」 エルドリスは間髪入れずに答えた。「捕えて観察する」「それで、元人間かどうかがわかりますか?」「個体によるだろう。会話ができれば間違いない。それが無理でも人間だったころの名残が見受けられれば、そうとわかる。例えば指輪をしているだとか、歯に治療痕があるだとか」「そういうのがまったくなくて、判別できなかったときは?」「……お前が頼りだ」 やっぱりな。「ねえエルドリス、わかっていますか。人間が人間を食べること――カニバリズムは禁忌です。僕に禁忌を犯させるんです?」「私のために犯してくれ。いや、私たちの目的のために」「あなたには、人の心がないんですね」「すまない。だが他に方法がない。お前に支払わせる代償は大きいが、その分私もあとから同じだけ代償を支払おう」「別に道連れを求めているわけじゃ……」 ネイヴァンが背後で軽薄に笑った。
捕えた魔物を前にして、僕たちは互いに顔を見合わせた。「さて、こいつをどうするか」 ネイヴァンが腕を組んで魔物を見下ろす。エルドリスは、僕の俊足の鎖《ラピッドチェイン》でがんじがらめにされている魔物を靴底で蹴って転がし、あらゆる角度から観察しているようだった。 ひび割れた皮膚。位置のズレた不自然な関節。形の歪んだ頭部。白く濁った目。 不気味すぎて到底人間とは思えない、人間に酷似したモノ。 ナイフの刃先で魔物の顎を持ち上げて顔を凝視していたエルドリスはため息をつくと、低く言った。「やはり見ただけではわからない」 その言葉の意味するところを察し、僕の胃が縮み上がる。 やっぱり、そうなるのか……。 どうやって拒否しようかと考えていた、その時――「きゅーぅぅ♪」 思わず全員が固まった。 なんだ今の音……いや、声か? 発生源を三人で見下ろす。 聞き間違いか? 今、この魔物が頓狂な鳴き声を上げたような……。 次の瞬間、魔物の体がぼわんと破裂し、白い煙が立ち上る。「全員下がれ! 煙を吸うな!」 服の袖を口元に当てて防御しながらエルドリスが鋭く叫ぶ。僕とネイヴァンも同じように口元を覆い、離れた場所から煙が晴れるのを待った。 逃げられてはいない手応えはあった。監獄の監督官が会得する俊足の鎖《ラピッドチェイン》は、そう易々《やすやす》と破れるものではない。僕の鎖はまだ何かを捕らえている。 しかし、その対象物は随分と
三人の総意により、フワドルの子どもは逃がしてやることにした。 だが僕が俊足の鎖《ラピッドチェイン》を解いてやると、白くふわふわした小さな魔物は走り去らず、エルドリスの足にぴょんと飛びついた。「なんだ」 エルドリスが面倒くさそうに見下ろす。「きゅるる♪」 甘えた声を出して彼女の足にすり寄るフワドル。その小さな前足で彼女のズボンをカシカシと引っかき、まるで注意を引きたいかのようだ。「おいおい、可愛いじゃあないか。ママになってやれよエリィ」 ネイヴァンが楽しげに笑うが、それも含めてエルドリスには鬱陶しいようで、彼女は大きめの舌打ちをする。「お前がパパでも何でもなってやれ。……おい、まとわりつくな、離れろ」 エルドリスは足を振ってフワドルを引き剝がそうとしたが、フワドルはまるでそれが遊びの一環であるかのように喜び、ますます彼女にじゃれついた。「きゅっきゅ♪」「……ああもう、好きにしろ」 諦めた様子でため息をつくエルドリス。 そんな彼女を見ながら、ネイヴァンが「そうだ」と手を打った。「このフワドルに、擬態してたあの気色悪い魔物をどのあたりで見たのか聞いてみようぜ。案内させれば話が早いだろ」「フワドルって会話できるんですか?」「試してみりゃあいい」 そう言ってネイヴァンは、エルドリスの足にしがみつくフワドルのそばにしゃがみ込んだ。「おい、チビ助。お前が擬態してたあの魔物、どこで見かけた?」 魔物に人間の言葉が通じるはずがない。それも
目の前に星が散るとか、火花が散るとかいった比喩表現を、大げさだと笑う人もいるけれど、僕は笑えない。なぜなら、もうひとつの胃、識嚥《シエ》にモノを落とした瞬間、僕はその感覚を味わうからだ。 目を開けているのに真っ暗な視界の中で、星なのか火花なのかわからない光が明滅する。頭がくらくらして、とにかく気分が悪い。 そして、明転は唐突に訪れる。――――― 酷い寒さ。 指先が凍え、体の芯から震える。 飢え。 胃袋が自身を喰らい尽くそうとしている。 誰も僕らを守ってはくれない。 街の外れ、廃屋の壁に寄りかかり、冷えた背中を震わせてふたり、小さな硬いパンを分け合う。 盗みで生き延びるしかなかった。 失敗すれば大人たちに殴られ、追い回され、それでも生きるために再び盗んだ。 いつ終わるとも知れない飢餓と逃亡の日々。 鮮血の温かさを知った。 最初の殺人、火掻き棒が骨を砕く感触、鮮やかな血の赤。 殺したかったわけじゃない。 罪悪感はあるのに胸が昂った。 心臓が狂ったように鼓動し、全身に血が巡った。 ああ、これが「生きていく」ということか。 こんなことをしてまでも、死ぬまで、生きていかなきゃいけない。 ねえ、先生。 神は僕たちが、先生の両手足の爪を剥ぐのを許してくれるかな? そうして流れた血を熱い鉄棒で焼き止めるのを許してくれるかな? 足の裏に釘を刺すのを許してくれるかな? 必死に歩こうとする先生が転ぶたびに肌を焼くのを許してくれるかな? 熱い鉄棒で先生を犯すのを許してくれるかな? 先生、あなたが教えてくれた神は、あなたを助けなかったね。 先生は、無事に神さまのもとへ行けたかな?
鉄扉が開くと同時に、ふわりと清潔な石鹼の香りがした。 顔を見せたエルドリスは、いつもまとめている髪を下ろしている。服装も、先ほど別れたときの黒い狩猟服とマントとブーツではなく、上下オレンジ色の囚人服だ。部屋で過ごすならばこれが楽なのだろう。 肩まで伸びた艶やかな黒髪に、終身刑を示すオレンジ色の囚人服。 『30分クッキング』の調理人である彼女とは異なる顔を意図せず見てしまった気がして、僕は少しの罪悪感を覚える。そして、それとは異なる種類の胸の高鳴りも。「おい、そんなに顔を赤くしてどうした? ラシュトの正体について、何かとんでもないことでもわかったのか?」「あっ、その、そうじゃなくて……いえ、そうなんですが」 知らず、赤面していたらしい。僕は両手で顔を隠すように彼女の視線を遮り、「資料室に保管されているラシュトの資料を読みました。その件で話が」「なるほど。入れ」 エルドリスが扉を大きく開けてくれる。僕は頭を下げ、彼女の独房へと足を踏み入れた。 以前に来たときと同じように、僕とエルドリスは窓際の木製のテーブルセットに向かい合って座った。彼女がお茶を入れてくれ――普通のお茶ではなく、やはりカサリス・ビートル茶だ――それをひと口飲んでようやく顔の熱も冷えてきた僕は、資料室で知ったラシュトとエンリオのことをすべて彼女に話した。 守秘義務、という言葉が一瞬脳裏をよぎったが、関係ない。ナイトフィーンドの胆汁酒でエルドリスと同志の盃を交わした時から、僕の為すべきことの最たるは、刑務官としてのお堅いルールの遵守ではなくなった。 エルドリスは僕の話を黙って聞いていた。そして僕が話し終えると、しばらくの沈黙ののち、静かに口を開いた。「話はわかった。それで、お前はどうしてその話
それからというもの、ラシュトとエンリオは定期的に「獲物」を攫っては、廃工場や下水跡、墓地の地下納骨堂など、ひと気のない場所へと連れ込み、好き勝手に拷問して殺した。 記録に残っているだけでも、十八件。それらすべては凄惨を極めた。 両目を抉られ、手足の指を砕かれ、下顎を切断された老婆。 腹部を切り裂かれ、引き出した腸で首を絞められた酔いどれ男。 熱した鉄串を全身に突き刺された末、喉を裂かれた若い衛兵。 天井から吊られ、全身の数十か所を少しずつ炙られた女司祭。 手首足首をうっ血するほど固く縛られ、その先を切断された状態で豚小屋に閉じ込められた少女。 目を覆いたくなるような残虐非道の数々。 しかしそれも終焉を迎えることとなる。 十五歳の秋。 それはひとつの事件がきっかけだった。 ある令息の誘拐と惨殺。帝都でも知られた名家のひとり息子が、慈善事業と銘打って貧民窟へ足を運び、お忍びで売春宿へ出掛けたところを攫われた。そして翌朝、彼の頭部だけが、お付きの者たちが宿泊している宿の玄関に置かれていた。 その犯人は言わずもがな、ラシュトとエンリオの兄弟だった。彼らは身なりの良い、気取った若い男をいつものように軽い気持ちで誘拐し、いたぶって殺した。 だが、今回は相手が悪かった。被害に遭ったのが帝都の令息だということで、帝都から優秀な警察隊が捜査にやってきた。 数週間後、兄弟はついに捕らえられた。 ふたりは帝国内でも最も重罪人が収監される第七監獄《グラットリエ》へと送致され、正式に裁きを受け、死刑判決を下された。 十六歳の春、ふたりは死刑囚島《タルタロメア》へと転送される。 それが、ちょうど一年前の記録だった。&
識別番号861942――ラシュト・フェインバーグの記録は、生きたと思われる年月に反して、想像よりも分厚かった。 僕はページを捲りながら、部屋の角に置かれた資料閲覧用のデスクへと向かった。 識別番号:861942 氏名:ラシュト・フェインバーグ 年齢:第七監獄《グラットリエ》収監時 15歳 死刑囚島《タルタロメア》転送時 16歳 罪状:連続無差別殺人 刑罰:死刑(死刑囚島《タルタロメア》への流刑) 基本情報のあとには、彼の生い立ちが事細かく記載されていた。それらは読むだけで胃が痛むような内容だった。 極寒地帯の最貧民窟フロストロウで生まれたラシュト・フェインバーグは、父親を知らない。母親は日雇い労働と売春を繰り返し、幼いラシュトと双子の兄エンリオを連れて、港の廃倉庫で寝泊まりしていた。食事は盗みか、母親が客から貰ってくる施しで、飢えと寒さに凍える日々のなか、兄弟は互いに身を寄せ合って生き延びていた。 母親はラシュトが八歳の時に薬物の過剰摂取で死亡した。 その日から、彼らは完全なる『孤児』となった。 彼らは早熟だった。自分たちの生存に必要なもの――金、食糧、身を守る力――それを得るために、手段を選ばなかった。 十歳になるころには、ふたりはスリや空き巣をたくみに繰り返すようになっていた。他人の物を奪うことに罪悪感はなかった。一日でどちらが多くの財布をスレるかゲーム感覚で競いさえした。 しかし問題は起きた。 十三歳の冬、ある裕福な商人の屋敷に忍び込んだふたりは、運悪くメイドの女に見つかり、彼女を撲殺してしまった。凶器は暖炉のそばにあった火掻き棒だった。 それから、彼らの犯罪は加速度的に悪化していく。
その夜、僕たちは黙々と七体の魔物を調理し、七本分の映像を完成させた。 火ぶく鳥《カロリーバード》の丸焼き がらん牛《ホロウブル》の低温ロースト 風のやどり猫《ウィスプキャット》の薄造り 〜春風のカルパッチョ〜 とげ花かさ《スパイクフラワー》のスパイスチップス 〜香る凶花の小皿〜 ぬめりカメ《グラッジタートル》のとろとろ粘鍋仕立て けむりサル《スモーグモンキ》の壺燻製 〜猿煙の晩酌セット〜 まどろみ虫《ネンネムシ》の茶碗蒸し 〜夢路の一匙〜 最後の食レポを撮り終えたころには、東の水平線がうっすらと白み始めていた。夜明けだ。「さーて……クランクアップだな」 ネイヴァンが空を見上げて伸びをする。「帰りは俺の転移魔法でいいか? こんな朝早くから第七監獄《グラットリエ》に転送檻の起動を依頼するのも面倒だろ」 来るときにはネイヴァンの転移魔法を信用できないと言っていたエルドリスが、何の抵抗もなく頷いたのが印象的だった。 僕たちはネイヴァンによって、第七監獄《グラットリエ》へと送られた。 この島への感慨などない。僕は一刻も早く悪夢から覚めたい思いで、エルドリスを先に飛ばしたネイヴァンの手が肩に触れるのを待った。 眩暈のような感覚のあと、戻ってきたのは朝日の見える窓ひとつない地下調理場だった。ひやりと湿った空気と、廃棄処理係の手腕をもってしても除ききれなかった僅かな血の臭い。 悪夢から覚めても、また悪夢。 間もなく転移してきたネイヴァンへ、なぜこんな場所に飛ばすんだと非難交じりに尋ねてみると、至極まっとうな答えが返ってくる。「仕方ないだろう。エリィを囚人の活動区
「空間旅行《ホップステップ》」 僕の肩に手を触れたネイヴァンが呪文を口にした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、気がつくと僕は黒い砂浜へと戻ってきていた。正午を過ぎた太陽が黒い砂浜に反射して眩しい。生暖かい潮風は、相も変わらず腐臭交じりのしょっぱい臭いがする。 僕より先に転移していたエルドリスは、調理人の性《さが》なのか、早くも調理台の前に立っていた。 間もなくネイヴァンが転移してくる。彼は、「こんな場所でもホームって感じだな」 と同意を求めて僕を見たが、僕は素直にそうですねとは返せなかった。 第七監獄《グラットリエ》に帰りたい。 頭の中でそう思って、実に皮肉な一文だなと笑えた。配属が決まったときには絶望すらした最悪の職場。凶悪犯が収監され、本土から隔絶された孤島の監獄。 そうだ、世間からまったく切り離されているという点で、第七監獄《グラットリエ》は死刑囚島《タルタロメア》と似ている。けれども今の僕にとっては、あれほど嫌っていた第七監獄《グラットリエ》が故郷のように懐かしい。 ネイヴァンは僕の微妙な反応を深刻には捉えなかったらしく、揚々とエルドリスのほうへ歩いていった。そして彼女の手元を覗き込み、大声で僕を呼ぶ。 一体何だというんだ。 この期に及んで面倒事はごめんだった。早く帰りたい。そればかりが思考を支配する。「どうしたんですか?」「おい、これ見てみろよ、新人君」 ネイヴァンとエルドリスの視線の先、潮風に吹き上げられた黒砂にまみれた調理台の上に、何かが置いてある。 皺が寄り、黄ばんだ紙。そして、その上に重石のように置かれた――木製のナイフ。
規格外の魔物が森へと消えてから、僕もエルドリスも、もちろん瀕死のネイヴァンも、口をきくことはなかった。二人が何を思っていたのかは知れないが、僕はただ目の前の命を救うことに集中した。 正確には、そうすることで規格外の魔物への恐怖を忘れようとした。 横たわったネイヴァンの上半身の服を手早く脱がす。そして両手を胸の穴にかざし、強化魔法で上げていた魔力を惜しみなく注ぐ。延命魔法が切れる前に、彼の心臓を再生させなければ。 淡い光が何層にもなって穴の開いた胸を包む。やがて、その層を通じて小さな振動が僕の手のひらへ伝わってくる。 僕は穴の場所を少し避けてネイヴァンの右胸付近に耳を当てた。 トクン……トクン……「心拍が、戻った……」 僕の呟きに、エルドリスが小さく頷く。「よくやった、助手君。これで虚の脈息《ルクス・エヴィータ》が切れても絶命しない」 その言葉にホッと肩の力が抜ける。 ネイヴァンも目を開けて、僅かに笑った。「サンキューな、新人君。きみが回復魔法を使える人間で助かったぜ」「いえ、僕は大したことは……」 彼の命を救った一番の功績はやはり、エルドリスの延命魔法だと僕は思う。僕の教科書魔法とは違い、彼女のあれは難易度でいえばS級のはず。あれがなければ――そして彼女があれを長々しい詠唱もなく即座に発動できる能力者でなければ、ネイヴァンは死んでいた。「エルドリスのおかげです」 僕が言うと、彼女は一瞬、意外そうに眉を上げ、それからどこか後ろめたそうに目を伏せた。
僕はというと、ネイヴァンが戦っている間、自分自身に強化魔法を掛けていた。このあとネイヴァンに掛けることになる回復魔法の威力をできる限り上げるためだ。「助手君」 戦闘に目を向けたままエルドリスが僕を呼ぶ。「十五分で……いけそうか?」「五分五分、といったところです。あの、回復魔法が間に合わなかったら、延命魔法の重ね掛けもできるんですよね? 妹さんにやっていたって……」 碧い瞳が一瞬睨むように僕を見て、また前方に戻る。「す、すみません。別に初めからそれ頼みにしたいわけじゃないんですが、人の命が僕の魔法にかかってるって思ったら……」 プレッシャーで死にそうで。「勘違いするな。責めたわけじゃない。ただ、延命魔法の重ね掛けが上手くいく保証はないと伝えておく」「ど、どうしてですか?」「リュネットの場合、最初に延命魔法を掛けた時点で、"欠けていた臓腑"の代替物が揃っていた。しかし、今のネイヴァンの場合はそうじゃない」「代替物、ですか……」 穴の開いた心臓の代わりとなれるもの。それは別の無傷な心臓。 小さな疑問が湧いた。確か、エルドリスの妹リュネットは、町の外で魔物に遭遇し、内臓のほとんどを食われた、と。ならばその時エルドリスは、どうやってそれら内臓の代わりを見つけたのだろうか。 ネイヴァンとラシュトの間で、空気が爆ぜた。 僕の意識はそちらへ奪われる。 戦いはネイヴァンが明確に押していた。延命魔法により死の恐怖を感じずに戦える男。躊躇なく相手の懐へ潜り込み、急所を狙い続ける。
「ネイヴァン・ルーガスッ!」 ネイヴァンが立っていた位置でエルドリスが叫ぶ。二人の場所が、入れ替わったのだ。 ネイヴァンは倒れ、左胸に刺さった槍は、スライムのように溶けて逃げていく。その槍の抜けた穴から尋常じゃない量の血が溢れ出す。 左腕の痛みを、一瞬で忘れた。 僕はほぼ反射的にネイヴァンへ駆け寄り、回復魔法を発動した。だが初歩の初歩たる教科書魔法だ。山火事にコップ一杯の水をかけ続けるようなもの。燃え尽きるスピードの方が圧倒的に早い。「虚の脈息《ルクス・エヴィータ》」 エルドリスの手がかざされて、真っ赤な胸の穴が、濃い白の光に包まれる。「回復魔法では間に合わない」 延命魔法だ。これでネイヴァンは、30分は生き長らえる。だが延命魔法は"致命傷を負っていても一定時間生きられるようにする"だけで、"致命傷を治す"わけではない。だからその30分の猶予期間に回復魔法で傷ついた臓器を――穴の開いた心臓を治療しなくては。 白い光が消え、血の止まったネイヴァンが、「やってくれるじゃねえか」と呟きながら上体を起こす。「ネイヴァンさん、まだ動いては――」「ああん? 殺されかけて泣き寝入りしろってぇ?」「治ったわけじゃないのは、その痛みでわかっているでしょう!?」「さあな。どういうわけか、大して痛くねぇんだ」 エルドリスの延命魔法は、命の期限を延ばすだけの魔法。かつて彼女が『30分クッキング』の視聴者に向かい『痛覚には何ら影響ない』と語ったとおり、痛みは消えていないはず。本来ならば起き上がるどころか話すことすら、呼吸すら辛いはずなのだ。 その痛みを超越しているのだとしたら、それは大量出血による血圧の急低下やアドレナリ