ネイヴァンは黙って首を横に振った。今は追うな、ということらしい。
僕が踏み出した片足を引っ込めると、彼はようやく掴んでいた僕の二の腕を放した。
真顔だったネイヴァンは、唐突に軽薄そうな笑みを浮かべる。
「なあ、喉が渇いた。何か飲むモン作ってくれよ」
「……僕がですか?」
「調理助手《アシスタント》だって調理人だろ?」
言われて、なるほどそうか、と思った。エルドリスに「助手君」とばかり呼ばれていたので自覚がなかったが、彼女と同じ黒い革エプロンを身につけている間は、僕は刑務官でも監督官でもなく、調理人と見られるのだ。そのことが意外で新鮮で、つい僕はネイヴァンの願い出を了承してしまった。
ネイヴァンを連れて調理場に戻ると、僕は彼にちょっとしたサプライズを与えようと思い立った。材料棚に瓶詰めの紫キャベツの蜂蜜漬けがある。これで"変わり種レモネード"を作ってやろう。
瓶から、紫キャベツの蜂蜜漬け液をグラスに注ぎ、砂糖とレモン汁、それから炭酸水を加えてそっと混ぜる。すると、淡い紫だった液体は、たちまち鮮やかなピンク色に変わっていった。子どものころに母が作ってくれた遊び心のある飲み物だ。
完成したレモネードをトレイに乗せてダイニングへ運ぼうとしたところで、ネイヴァンに「待て待て」と引き留められた。
「カビだか菌だかに囲まれながら飲むのはゴメンだ。外に出ようぜ」
僕たちは裏庭へ出て、六角屋根のついたガゼボ(あずまや)に腰を下ろした。風が心地よく吹き抜け、周囲の花壇には色とりどりの花が咲いている。館の中の異常な状況が嘘のような穏やかさだ。
ネイヴァンはピンク色のレモネードを興味深そうに見つめ、ひと口飲むと「へえ」と小さく声を上げた。
「キャベツの汁なんか入れるのかよと思ったが、美
「どこがいいかな。目玉、鼻、耳、唇、乳頭、臍、性器の先端、手足の指、小腸……」 観客たちが固唾を吞んで見守る。「目玉にしようか。宝石のような虹彩と、白目のコントラストが美しい」 刃先を下にして、ナイフが垂直に立てられる。それがググとわずかに沈み、エルドリスの手首の返しと共に回転する。 観客席から喘ぐような吐息が聞こえてくる。「次はそうだな……唇にしよう。もう二度と、私に裏切りの言葉を吐かないように」 エルドリスの台詞が演出なのか何なのか、僕にはわからない。ただ彼女の言葉は観客たちの共感を呼んだ。 白い指先が、唇のあるだろう場所を優しく撫でる。 その同じ場所にナイフの刃先を当てて、魚を三枚に下ろすかのように、見えない唇を切り取っていく。「さあ、どうするか。次は……この慎ましやかな乳頭にしよう」 男女問わず何割かの観客たちは顔を逸らし、逆にもう何割かの観客たちは前のめりになった。 エルドリスの指先が拘束台の上で小さな何かを摘まみ上げる。そしてその指先の下を、ナイフの刃が滑っていった。 僕には何も見えないはずなのに、その一瞬の光景がパッと脳裏に浮かんで思わず顔を背けてしまう。 人間の乳頭はふたつある。だからエルドリスはもう一度同じ動作を繰り返したが、二度目はまともに見られなかった。「次は……耳だな。耳の形状は繊細だ。さぞや美しい飾りとなるだろう」 エルドリスは拘束台の上の空間に手を伸ばし、耳介と思われる場所に指を掛けた。その指が、耳介を引っ張るように動く。ナイフを入れる耳の
「さあ、皆さま。先ほども紹介がありましたが、改めまして本日の調理人は、エルドリス・カンザラ先生です」 声が震えそうになるのをグッと耐え、広い会場中に聞こえるよう、腹に力を込める。「そして、本日の食材は……イルゼフォリアの胞子によって生み出された“幻《まぼろし》”です」 観客の一部から、ぱらぱらと拍手が上がる。それはあっという間に周囲に伝播し、円形の観客席全体へと広がった。 耳を打つ音の洪水。嗜虐的な期待に燃えた数百の手が、惜しみなく音の熱を飛ばす。 だが、それもほんの数秒。まるで見えない指揮者の合図に従ったかのように、拍手は静かに収束した。「イルゼフォリアは、この館の元の持ち主である研究者が、秘密裏に研究した黒魔法により錬成した魔物です。その胞子は熱狂的な愛、すなわち狂愛に反応します。胞子を吸った者に、その者が"殺したいほど愛しい人"の幻を見せるのです。その幻から採取した血肉、そして骨を、今夜はウエディングケーキのデコレーションとして使用します」 言いながら、すでに動き出しているエルドリスを見る。彼女は調理台に置かれていたナイフを今まさに、手に取ったところだった。そして拘束台まで歩いていき、そこに横たわっているであろうリュネットの、おそらく頭を、撫でるような仕草をする。 その冷え切った慈愛の表情に、僕は心臓がぎゅっとなる。「それでは先生、お願いします」 エルドリスは静かに頷くと、台の上を右から左へ眺めるように首を動かした。左手を見えないリュネットに添えて、右手に持ったナイフを構える。「では、開いていく」 ナイフの刃先が何もない空間に沈み、ズズズと動いていく。 僕からすればまるでパントマイムだ。空の拘束台の上をナイフが滑っているだけ
リビングの置時計が、ボーンボーンと八回、鐘の音を響かせた。 午後八時。 僕たちの前に、執事服を着た白仮面の男が音もなく現れる。「これより調理場の品々を、会場へ移送いたします」 男は淡々と言った。「会場……? 今夜の『30分クッキング』は、あの調理場で行うんじゃないんですか?」 僕の疑問に、男は首を振る。「いいえ。今夜は特別な場所を用意しております」 その言葉に続くように、若い白仮面の男がふたりやってきて、僕とエルドリスに白い布を手渡した。広げてみると、それは白いエプロンだった。「主《あるじ》の意向です。こちらにお召し替えを」 拒否する理由もないので大人しく着替える。調理人の服装としては、黒い革エプロンよりも白い布エプロンのほうが一般的だが、エルドリスを見ても自分自身を見ても、違和感を拭えない。 黒い革エプロンは、赤い血が目立たないように黒色で、血が染みにならないように撥水性のある革なのだ。用途を考えれば醜悪な衣装だが、自分にもエルドリスにも、そちらのほうが似合っているように思えた。 若い白仮面が、ごま塩頭の白仮面へ耳打ちをした。「準備が整ったようです。ご移動を」 僕たちは先導する男に従って歩き出した。 たどり着いたのは調理場だった。だがそこは、僕たちが先ほどまで使っていた調理場とはまるで様相が違っていた。 魔導冷蔵庫も棚も、調理器具も、すべてが姿を消していた。空っぽの空間に、ぽつんとひとつだけ残されたもの。それは―― 冷凍室への扉。&n
日が沈むのと同時に、館中のランタンが一斉に灯った。きっと白仮面の男たちのうちの誰かの魔法なのだろう。 その明るくなった廊下を、僕はひとり歩いていた。 夕食後、三人でリビングに移動して紅茶を飲んでいたのだが、エルドリスが席を立ったきり、戻ってこないのだ。 僕は――恐らくネイヴァンも――手洗いだろうと思った。だから行き先は聞かなかった。女性に"手洗いへ行く"などとわざわざ言わせる男なんて馬鹿だ。 しかし、三十分経っても彼女が戻らなかったとき、僕は馬鹿になっておけばよかったなと思った。 ネイヴァンとふたり、彼女は大丈夫かという話になったのだが、ふたりして手洗いに押し掛けるのも気が引けて、結局僕だけが、用を足しに行くという正当な名目を掲げてリビングを出た。 館の一階には、男女別のトイレが並んで設置されている。金持ちの館らしく、来客を想定した造りなのだろう。 僕はまず男性用のほうのドアを開けた。中には手洗い場がひとつと個室がふたつ。ランタンの明かりはあるが、ほんのり薄暗い。 女性用手洗いに近い側の個室に入った。そのまま壁に耳を近づけて、何か聞こえないかと息を殺す。自分でも変態的な行為だと思った。だが心配なのだから仕方がない。 しかし何も聞こえなかった。壁が厚いのか、それとも中に誰もいないのか。 ポーズとして手を洗ってから男性用手洗いを出る。そしてすぐ隣の女性用の前に立ち、ドアをノックしてみる。「エルドリス、いますか?」 返事はなかった。 迷った末、僕はドアノブに手をかけ、そっと開けた。 中の造りは男性用とほぼ同じで、違いは、壁のタイルに花柄のものが混じっているくらいだ。「エルドリス…&he
金属製の扉を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。そこには石造りの階段が、暗闇へとまっすぐに続いていた。「うわ……」 僕は思わずたじろいだ。危険はないはずとわかっていても、身構えてしまう。「冷凍室を、こんな地下に……?」 尋ねると、ネイヴァンはさも当然のように言った。「古い家には、まれにある。地中は一年中、気温が一定だからな」 言いながらネイヴァンは階段を下りていく。僕は慌ててあとを追った。「上の扉が閉まったら閉じ込められてしまいますよ……」「そんときゃ転移魔法で脱出だ」 頼もしいことこの上ない。 階段を下りきった先に、また金属製の扉が現れた。ネイヴァンがドアノブに手を掛けて開くやいなや、凍てつくような空気が一気に流れ出してくる。 中に入ると、そこはまさしく極寒だった。吐いた息は白く煙り、肌を刺すような冷気が全身にまとわりつく。僕は両手をこすり合わせながら内部を見渡した。 壁は分厚い断熱材で覆われ、天井には霜が白く張り付いている。床には滑り止めの施された石板。無数の棚が並び、その上には肉の塊や野菜や魚介類、さらには豚の頭や大きな鳥の手羽のようなものまで、所狭しと並んでいた。「すごいですね……何でもあります」 ネイヴァンは目当てのひき肉を探して歩き回っていた。食材は剥き出しの状態で置かれているものも多いが、さすがにひき肉は何かに包んであるらしく、パッと見では見つからない。 僕も木箱を開けたり布袋の中を覗いたりしながら棚の間を行
レモネードを飲み終えると、ネイヴァンは「ちょっと見て回る」と言って、館の表の方へ歩いていった。 僕は空のグラスとトレイを手に、調理場へ戻った。するとエルドリスが、バットに流し入れて魔導冷蔵庫で冷やし固めていたゼリーを切っているところだった。 ウエディングケーキの飾り付けに使う花型ゼリーを、ペティナイフで器用に切り出していく。僕がやったら噴飯ものの出来になるだろうが、彼女はまるでミスをしない。 完成して別のバットに置かれた五枚花弁の赤いゼリーは、磨き上げられたルビーかガーネットのように、艶やかな煌めきを放っていた。 黙々と作業を続ける彼女の邪魔をしたくなくて、僕はしばらくの間、彼女がシンクに入れた調理器具たちを洗って過ごした。 やがてゼリーの細工を終えた彼女が顔を上げた。彼女は残ったゼリーの切れ端を掴んで自分の口に入れ、うんうんと頷き、「助手君」「はい、な――あぶばっ」 大きめの切れ端を突然口に押しつけられて少し鼻に入った。でも、とんでもなく美味しい。 様々なフルーツの果汁を彼女独自の配合でブレンドしてあるので、味わったことのない芳醇な味と風味が舌の上で弾け、鼻を突き抜ける。 食感も絶品だ。もっちりとした弾力がありながら、舌で少し押すだけでぶりんと崩れるゼリーは、まるで吸い付くように舌を包み込み、味蕾のすべてを掴んで離さない。「さっきから何か言いたげだな」「あの、いえ……」「はっきりしない男はあまり好きじゃない」「……あなたは、その……大丈夫なのだろうか、と」「何も問題はない」 意味が伝わっていないような気がして、僕は言い直した。「精神的に大丈夫か、という意味です