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第2話

Author: くまちゃんは必ず輝く
澪は不満げに唇を尖らせ、縋るような声を上げた。

「どうして?彼女も署名したんでしょう?ずっとあなたが望んでいたことじゃない」

そうだ。これこそが、彼が切望していた結末ではなかったのか。

それなのに、なぜ今さら話し合いを避ける必要がある?

紀一は彼女を見つめ、溢れんばかりの甘い声で宥めた。

「俺たちが何のために帰ってきたか、忘れたのかい?」

澪はこくりと頷き、「忘れてないわ。……早く行ってきて」と彼を促した。

階段を上がっていく紀一の背中を見送りながら、彼らがここへ寄った理由を悟った。

どうせ、海外旅行にでも行くためのパスポートを取りに来たのだろう。

去年と同じだ。

けれど今回は、この広い屋敷で独り、帰りを待つだけの私ではない。

紀一の姿が見えなくなると、澪はテーブルに並んだ料理と私を交互に眺め、嘲るような笑みを浮かべた。先ほどまでの「守ってあげたくなるような弱々しい女の子」の面影は、微塵も残っていない。

「志乃さん、本当にごめんなさいね。紀一さんが、どうしても私を海外に連れて行きたいって聞かなくて。

断るのも悪いでしょう?

そういえば、あなたとは結婚してから一度も旅行なんて行ってないんですってね」

私が黙殺していると、彼女はこれ見よがしに左手をかざし、食指に輝く指輪を自慢げに見せつけてきた。

「このリングも、紀一さんからの贈り物なんです。別に欲しくないって言ったのに、どうしてもって……これほどのサイズの翡翠、市場にも滅多に出回らないんですって」

幼稚で執拗な誇示に、胸の奥からどす黒い不快感がせり上がってくる。

私は彼女の言葉を強引に遮り、隠しきれない嘲笑を込めて言い放った。

「ええ、そうね。恩人を仇で返すような人間なんて、世の中にそう何人もいないもの。あなたのその無神経さには感服するわ」

彼女の顔が屈辱で赤らんだり青ざめたりするのを見て、胸の内に溜まっていた鬱憤がいくらか晴れるのを感じた。

けれど、そのささやかな快感も長くは続かなかった。階段の方から、紀一の怒声が響き渡ったからだ。

「志乃、いい加減にしろ!」

言葉が終わるより早く、紀一は階段を駆け下りて私の前に立ちはだかり、澪を庇うように背後に隠した。

「彼女をいじめるなと何度言えばわかるんだ。言葉も通じないのか?

少し目を離した隙に、またこれか!」

冷徹な面持ちには、隠しきれない怒りが滲んでいる。

「いじめているように見えるの?私はただ、事実を言っただけよ」

私が反論しようと口を開くと、澪は彼の袖をそっと引き、いかにも物分かりの良いふりをして見せた。

「紀一さん、私は大丈夫。……行こう?遅れると飛行機に間に合わなくなっちゃう」

そう言いながら、彼女は勝ち誇ったような挑発的な視線を私に投げかけてくる。――「あなたが何を言っても、彼は信じないわよ」とでも言いたげに。

ようやく毒気が抜けたのか、二人は指を絡め合わせるようにして玄関へと向かった。

閉まりかけたドアの隙間から、澪の不満げな声が漏れ聞こえてくる。

「ねえ、どうしてサインしなかったの?彼女がやっぱり離婚しないなんて言い出したら、困るじゃない」

それに答える紀一の声も、はっきりと聞こえた。

「いい子だ、今は忘れて。今日は大晦日なんだ、そんな縁起でもない話はやめよう」

閉ざされた扉を見つめながら、私は拭い去れない口惜しさを噛み締めていた。

何もなかった私たちが、湯水のごとく金を使える地位に登り詰めるまで、七年の月日を費やした。

その間、彼は「体を休めてくれ」と甘い言葉を並べて私を遠ざけ、会社の全権を一身に担ってきた。

そうやって、実のところ私の影響力を少しずつ削ぎ、骨抜きにしていったのだ。今の私は、ただの肩書きだけの空っぽな名義人に過ぎない。

会社の経営には、もう指一本触れさせてもらえない。

これこそが、私が頑なに離婚を拒んできた理由だった。

「苦労して耕した畑の収穫だけを、後から来た泥棒に横取りさせる」なんて、私の人生でそんな都合の良い話は許さない。

もし紀一が、何が何でもあの女に美味しい思いをさせたいと言うのなら――私は持てる限りの力を尽くして、その実りごと畑を焼き払ってやる。

翌朝、私は高平市行きの始発便を予約し、空港へと向かった。

以前からずっと、ここを旅してみたいと思っていたのだ。

若かりし頃はお金がなく、ようやく余裕ができた頃には、そばにいてほしい人はもういなかった。

私は雪山の麓に部屋を借りた。晴れた日には、窓から雄大な山脈を一望できる。

大家の瀬戸口航(せとぐち わたる)は私と同年代の男性で、物腰が柔らかく、言葉の端々にいつも穏やかな笑みを浮かべている人だった。

彼の所有する物件はどれも人里離れた場所にあり、今はオフシーズンということもあって、借り手は私一人だけだった。

雪山に登りたいのだと伝えると、彼は「近いうちにひどい吹雪になるから、登山道はすべて閉鎖されましたよ」と教えてくれた。

天候が安定するまでは、一歩も立ち入れないらしい。

この半年の間、登頂することだけを楽しみに準備を重ねてきた私は、目に見えて落胆した。

そんな私を察したのか、彼は言葉を添えた。

「もしお急ぎでないなら、しばらくここに滞在されるといい。このあたりは雪山以外にも、見どころはたくさんありますから」

急ぐ理由なんて、どこにもなかった。会社の心配をする必要もなく、夫は別の女とどこかへ消えたのだから。

滞在初日の夜、私は彼と軒先に立ち、音もなく降り積もる雪を二人で眺めて過ごした。

少し迷ったが、私は彼に「腕の良い山岳ガイドを紹介してほしい」と頼んでみた。多少値が張っても構わない、と。

彼は考え込むように頷くと、スマートフォンの連絡先を辿り始めた。

その時、ポケットの中で私の端末が震えた。

取り出してみると、通信キャリアからの料金未払いを知らせる通知だった。

支払いを済ませた直後、立て続けに三通のメッセージが画面に躍り出た。

紀一からだった。

【どうしてLINEを消した?】

【書斎の引き出しに黒いファイルがあるはずだ。中身を写真に撮って送れ】

【おい、見ているんだろう。無視するな】

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