LOGIN流石に朝起きたままの格好で、みなとみらいのオシャレなパンケーキ屋に行くわけにはいかないということになったので、各々一度家に戻り、シャワーを浴びて、再び大学から一番近い駅に集合することになった。
しかしまぁ、急転直下とは、まさしく今日のような日を言うのだろう。
朝目覚めたら、入った覚えのない大学の教室で、見知らぬ少女とおっさんが居て、そして人間であるはずの僕は、異人とかいう化け物になっていて......
まったく、一夜にして色々なことが起き過ぎている。
女子とパンケーキ屋に行くという、今までにないことを経験できると考えれば、この状況も案外そこまで悪くないのかもしれないけれど、それでも流石に、『もう君は人間ではない』と、そんな風に言われるこの状況は、明らかに異常な筈である。
そう、異常なのだ。
それなのに......
「どうして僕は、こんなにも落ち着いているのだろう......」
ポツリと、シャワーを浴び終えた僕は問い掛ける。
しかしそれに応える声は、なにもない。
当たり前だ。
だって完全に、それは僕が一人だけの空間で言い放ったモノなのだから。
いわゆる自問自答。
端的に言えば『独り言』
身支度をしながら、僕は考える。
昨日の状況を聞いてみても、僕に落ち度があるようには思えなかった。
強いて言うなら、夜中に大学の敷地内に入ったくらいで、それ以外は何もない。
何もないのに、殺された。
要はそういうことだ。
今の僕はココに居るけれど、人間としての僕は、あまりにも理不尽な形でこの世を去ったらしい。
それなのに......
それなのにどうして僕は、それをなんとなく、納得してしまっているのだろうか......
納得して、受け入れて、理解しようとしているのだろうか......
わからない。
どんなに考えてみても、それに的確な答えを出すことは出来なかった。
っというよりも、最初から出せるわけがなかった。
だって今の僕は、自分が殺されたことも、自分が一度死んだことも、自分が人間ではなくなったことも、自分が異人という化け物になったことさえも、それら何一つに、実感が持てないでいるのだから。
そんな状態で、答えなんて出せるわけがないだろう。
「考えるだけ、時間の無駄だな......」
そんな風に、身支度を一通り終えた僕は、また独り言を呟いて外に出る。
そして外に出て、待ち合わせの駅に向かって歩くとき、不意に快晴である青空を見上げて、何故だか僕はこう思った。
なんだか、気持ち悪い天気だな......
待ち合わせ場所に着いたとき、既に彼女はそこに居た。しかしその時の彼女の姿は、出会ったときのような寒々しい薄着の格好でもなければ、一緒にコンビニに行った時のようなラフな格好でもない。
彼女の華奢な細身のスタイルが、それでいて、たぶん女の子の中ではそれなりに高いのであろう彼女の身長が、春を少しばかり通り過ぎた今の季節に着るような、いわば普通に可愛く、普通に美人な、女子大生の春ファッションを着こなしていたのだ。
しかしそれを、彼女が着こなせば。
人間ではない彼女が着れば、その洋服もまた、人間味を無くしてしまう。
人間味を無くして、通常性を無くして、異常なまでの綺麗さを、異常なまでの美しさを、その洋服に与えてしまう。
そう思えるほどに、駅前で佇む彼女の姿は、目立っていたのだ。
「ごめん、待たせた」
声に気付いた彼女は、携帯電話から視線を僕に移して、一言
「おそい」
ごめんって......
電車で数駅ほど乗って、みなとみらい駅に到着する。
異常なまでの近い距離に、こんな観光地があることに、変な気分になってしまう。
実家のある九州は、都会の人から見ればそれなりの観光地なんだろうけれど、それが常に近い所にある感覚はなかった。
むしろそういうモノは、物理的な距離は近くても、精神的な距離は遠かったのだ。
だからかもしれない。
僕は少しだけ、ワクワクしていた。
「それで琴音さん、そのお店の場所って一体......?」
少しだけ気を引きながら名前を呼んで、ついでに店の場所も聞く。
しかしそれらは、案外雑に返された。
「いや、私も昼間にここに来るのは初めてで......あっ、ちょっとまってね......」
そう言いながら彼女は、再び携帯電話を取り出して、地図アプリで場所を検索する。
なんだろう、普通こういうことは、男である僕がやるべきなのだろうか......
しかし馴染みのない場所で慣れていない事をすれば、琴音さんに迷惑を掛けてしまうかもしれない、けれど普通に考えて、全て彼女に任せっきりなのもどうなのだろう......
んー......わからん......
「あーここら辺か、よしわかった」
そんなことを僕が考えている間に、どうやら琴音さんの方は道が分かったようだ。
「おーい誠、道わかったから行くよ~」
「えっ......あ、うん......」
戸惑いながら、考えをまとめられないでいる僕は、彼女の後ろを付いていく。
それがどれだけ異常なことなのかを、知る由もない状態で......
その話は唐突だった。みなとみらいの海沿いを歩きながら、唐突にそういう話になった。
もし周りの人が聞いていたら、きっと変に思うだろうに、彼女はそういうことを一切考えず、一切考慮せず、ついでに言えば、その話題になる前に、何かしらの前置きだとか予兆があったわけでも決してなく、彼女は唐突に言い出したのだ。
「誠はさ、やっぱり人間に戻りたい?」
前を歩いていた彼女は、こちらを少しだけ振り向いて、僕にそう尋ねた。
「えっ......」
それに対して僕は、どう言葉を返せば良いのか、わからなかった。
でもその時の彼女に、テキトウな言葉を返してはいけないと、それだけはなんとなく、わかった気がした。
だから僕は、自分の今の心境を、そのまま彼女に伝えた。
「......正直、わからない......」
その僕の視線を逸らした解答に対して、琴音さんは少し笑って言い返す。
「わからないってなんだよ。自分のことだろ?」
「......いや、そうなんだけど、なんか......」
「ん?」
「今だに実感が持てないんだ。自分がその『人間じゃなくなった』っていう......だから......」
言葉を迷いながら話している僕に、彼女は平然とした様子で言葉を返す。
「誠の場合は『異人』になったっていうよりも、
そう言いながら、潮風に髪をなびかせて、彼女は僕を見ていた。
そしてそんな彼女に対して、僕は訊いてしまう。
「こっち側って......?」
そして訊かれた彼女は、まるでそれが当たり前のことの様に、平然と言い切る。
「決まっているでじょ、異人っていう化け物、私達のことだよ」
「......」
自分のことをそういう風に自覚しているからなのか、それともそれが当たり前だからなのか、もしくはその両方か......
とにかく彼女は、このとき悲観的な表情でもなければ、化け物じみた表情でもなくて、ただの、本当にただの女子大生だったのだ。
もしかしたら『異端の存在』というのは、案外こんな感じなのだろう......
このときの彼女を見て、僕はそう思った。
そして少し間を置いて、彼女はまた言葉を続ける。
「まぁでも、誠は人間に戻れるから、大丈夫だよ」
「えっ、そうなの?」
そう尋ねた僕の表情は一体どのようなモノだったのだろうか、安堵していたのだろうか、それとも残念そうにしていたのだろか......
自分ではどうしても、わからないモノである。
けれど尋ねた僕の言葉に対して、彼女は少し笑ってこう言った。
「あぁ、保障するよ」
そしてその言葉を最後に、彼女はまた振り返って、目的地であるパンケーキ屋を目指して再び、歩き始めたのだ。
目的地到着生クリームがこれでもかという程に盛られたパンケーキを見て、目の前に座る吸血鬼は瞳を輝かせて、それの写真を何枚か撮った後に、満足そうな表情で食べていた。
なんだかこうしていると、本当に何度も思うのだけれど......
本当に何度もそう見えてしまうのだけれど......
やはり普通の女の子に、見えてしまうのだ。
それこそ、彼女が吸血鬼だということも、彼女が好んで飲む筈の人間の血のような......
それら自体が真っ赤な嘘だと思えてしまう。
そう思えるほどに、今すごい勢いでパンケーキを食べている彼女は、どこにでもいるような女子大生、そのものなのだ。
しかし、そんな彼女とは裏腹に、僕はというと......
「なぁ、誠は本当に食べなくて良かったの?」
ほんとうに、どうしたものだろうか......
「あぁ、今はそんなにお腹は空いていないんだ......」
そう言いながら、僕は自分が頼んだコーヒーを口に含む。
なんだろう......
今僕が空腹ではないということは、たしかに紛れもない事実なんだけれど、しかしそれ以上に、どうしても嫌悪してしまう。
別に甘いモノが嫌いなわけでも、特別に生クリームがダメなわけでもない筈なのに......
それなのになぜか、このお店に入った途端に、
これでは少し、お店に申し訳ない気がしてしまう。
しかしそんな僕を気にもせず、目の前の彼女はそれを、とても美味しそうに食べて、幸せそうな顔をしている。
そんな彼女の表情が、あまりにも絵に描いた様なそれだったのだで、僕はつい一言、彼女に言った。
「ほんとうに好きなんだな......」
「いいや、そうでもないよ」
「えっ......」
思っていた言葉とは違う言葉が返ってきたので、僕は少し困惑してしまう。
しかし彼女は、そのまま話を続ける。
「いつもよりは美味しそうに見えるだけで、味は凄く美味しいって程、感じられない」
「感じられないって......どういうこと?」
「んーなんて言えばいいのかな.....」
少し考える彼女は、パンケーキを切る手を止めて、僕の方をしっかり見据えて、説明する。
「私は今、誠に異人性を半分渡して、逆に誠から半分、人間性を吸い取っている状態で......だから私と誠は、今は半分人間で、半分は異人の、不安定な状態で生きている」
「あぁ、それはさっき、あの相模さんっていう専門家が言ってたよね......」
その名前を出すと、彼女は少しだけ嫌そうな表情をする。
どんだけ嫌いなんだよ......
「うん、だからさ......」
その後に続いた彼女の言葉で、僕は少しだけ怖くなった。
しかし怖くなったのは、吸血鬼としての彼女に対してでもなければ、専門家である相模さんに対してでもでない。
「普段の、完全な吸血鬼の異人の私だったら、きっと
確実に半分だけ、異人に成り代わっている、僕自身に対してだ。
琴音さんから話されたことをまとめると、こういうことだ。普段の完全な、吸血鬼の異人である琴音さんは、そもそも人間が食べるような食事ができない。
人間が甘いと感じるモノや苦いと感じるモノ、もっと簡単に言ってしまえば、美味しいと感じられるモノや不味いと感じられるモノ。
それら全てが、普段の吸血鬼の異人である彼女にとっては、味や匂い以前に、
たとえるなら、人間は肉を食べるけれど、それは豚や鶏や牛が殆どで、それ以外のモノを、たとえ同じような肉だとしても、食べようとはしない。
まぁ、人間の場合は生まれ育った環境に影響されるところもあるけれど、それでも、たとえばペットとして飼っている犬や猫、さらには同じ人間を、肉ではあるのかもしれないけれど、食べようとは思わない。
それが彼女にとっての、『パンケーキ』なのだ。
食後の紅茶を飲みながら、彼女は少しだけ、ため息交じりに口を開く。
「人間が食べているから、それが食べ物であることは理解できる。知識としても、小麦粉から作った生地や、果物から作ったソース、牛乳を原料としている生クリームやバター。それらが人の手によって、美味しいケーキになることも、理解はできる。でも......」
そう言って、一拍置いて、彼女は僕を見据えて言う。
「でもそれを、普段の私はどうしても、
けれど今の彼女は、僕の人間性を半分吸い取って生きている。
そしてそれが、普段よりも半分ほど、彼女のことを人間らしくしているということで、だから今の彼女は、普段の彼女よりも、パンケーキを食べ物として認識して、食べることが出来るのだ。
それを話した直後の、僕を見据えていた彼女の視線は、人間離れしたモノになっていて、そしてそれを感じたから、僕は彼女に訊いてしまった。「......じゃあ」
「ん?」
「じゃあ普段の、吸血鬼の異人である琴音さんは、一体何を食べ物だと認識しているの?」
そう尋ねた僕の言葉は、あまりにも稚拙だった。っというよりも、『なんでこんな当たり前のことを訊いてしまったのだろう』と、そう後悔するべきことである。
だって返答は、言わずもがな、あまりにも当然な回答だったからだ。
「そんなの決まっているだろ?」
そう言いながら、彼女の口元には、到底人間のモノとは思えない鋭い牙が、存在していた。
初めて正面で彼女のことを見据えたから、それは僕の視界に入ったのだろう。
けれど彼女は、そんなことは一切気にせずに、そのまま続きを僕に話す。
「人間の血だよ」
そしてそれはあまりにも、当然な回答だったのだ。
「けれどそれは逆に、誠にも当てはまることなんだよ?」そう言いながら、彼女は口元を少しだけ緩ませる。
その彼女の表情は、僕があまりにも見事に、その事実に気付いていないから、それを嘲笑していたのだ。
そして本当に気付いていない僕は、間抜けにもその彼女に尋ねてしまう。
「......それは、どういう意味......?」
「言ったでしょ?今の私は半分ほど、誠から吸い取った人間性を持っている。でもそれは、逆に言えば今の誠は、半分ほど人間性を失って、その代わりにその半分を、私から流し込んだ異人性で、補って生きているんだよ。だからきっと、いつもよりも、普段食べている人間の食事に、食欲を刺激されなかったんじゃないの?」
そう言われて、今までのことに少しだけ、納得した。
あぁ、そうか......
だからだったんだ......
だから僕は、朝食に買ったサンドイッチも、彼女が食べていたパンケーキも、そこまで食べたいと思えなかったんだ。たしかにそれなら、納得できる。
しかしそれだと、今度は別のことが気になるのだ。
いや、問題定義の括りとしては、もしかしたら一緒なのかもしれないけれど、それでもまだ、感覚的には人間側であるはずの僕は、やはりそれを別問題として捉えるべきである。
だから僕は、それを少しだけ、今までよりも丁寧な声色で質問した。
「じゃあ、もしかしたら今の僕は、人間の血を吸いたいと、そんな風に思ってしまうのか......?」
その僕の言葉は、もしかしたらそれを当たり前として生きてきた、彼女の生き方そのものを侮辱してしまう様な、そんな風な声に聞こえたかもしれない。
それを怖がって訊いてしまっている時点で、彼女にそう受け取られていても仕方ない。
しかしきっと、僕がそれに予め気付いていたとしても、僕は彼女に、こんな風に尋ねたのだろう。
けれど尋ねられた彼女は、そんな僕とは対照的に、あっけらかんとした声で言う。
「安心してよ、そんなわけないから」
「......ほんとうに?」
「ほんとうだよ。そもそも私も、普段から人間の生き血を吸って生きているわけじゃない。あの顔面詐欺の専門家に頼んで、専用の血液パックを送って貰って、それで補給してるの」
専用の血液パックって......
「えっ、そんなのがあるの?」
「そうだよ。それで補給して、吸血衝動を緩和する。そうしないと、私みたいな吸血鬼の異人なんて、こんな普通に暮らせないでしょ?」
そう言って、彼女はもう一度紅茶を口にする。
そしてその時の彼女の口元には、あの人間離れした吸血鬼の牙は、見事に姿を隠していて、まるでそうすることに、彼女自身が慣れている様な、そんな風に、僕には見えたのだ。
「...そうだろうな...きっと、柊ならもっと違った方法で、花影を救ってやれたのかもしれない...けれどさ、やっぱり言いにくいこともあるだろ?信頼しているからこそ、慕っているからこそ、花影にとってそれは、逆に言いにくいことだったんじゃないのかな...」 そう言いながら、僕は昨日の、あの花影の姿を思い出す。 あの狼の姿... そういえば、何かの講義...おそらく教養科目の文学だったかな... その講義で紹介された、あの有名な物語のワンフレーズ。 今思うとあれは、本当のことを言っていたのかもしれない。 だって花影の...あのときの花影の瞳は、たしかに綺麗な翡翠色をしていたように、そう思える。 しかしながら花影、それはハッキリ言って杞憂だよ... 今の僕には、どんなに親しくなろうとも、そんな風に誰かを想える気持ちは、花影のように誰かを想える気持ちは、この身体の影響なのかは知らないけれど、無いのだから。 だからこの、今僕の目の前で、黙り込んで座って居る彼女には、そして今、あのときの僕と同じように、病院のベッドの上で寝ている彼女には、とりあえずは第一に、身体よりも心のケアをして欲しいと、今は切に、そう思うのだ。 「いや~まさか本当に、全て俺が思い描いていた通りの結末になるとは思いもしなかったぜ~なんせこの目は、どんなに覗いても未来だけは、見えようがないからなぁ~」 そう言いながら下柳さんは、仕事場であるテントからは少し離れたところにある、飲み物を買うために向かった、設営されたステージが見える自販機の隣で、相変わらずの表情で、相変わらずの格好で、ピストルをクルクルと回していた。 しかしよく校内に入れたなぁ、この人... ピストル持っているのに... 「まぁでも、あの時は流石に、ビビりましたけどね...」 「あっ?あの時って...?」 「とぼけないで下さい。いくら夜だとはいえあんな住宅街ですることじゃないでしょう?まぁおかげで、花影も助かったんですけど...」 「あっ...なんだそのことか~なんだよ~まさか初めてか~?だったら悪かったなぁ~」 「思ってないでしょ...」 そう言いながら、心底、心の奥からため息をつく。 まったく...やはり異人の専門家という生き物には、今のところロクな者がいない。 そう思いながら、僕はあの夜、住宅街
「まったく...本当に馬鹿よね...」 昨日の事の顛末を聞いた柊は、そう僕に言いながら、何処かの屋台で購入したのであろう焼きそばに、舌鼓を打っていた。 そしてそんな彼女を見ながら、殺されたのは昨日の今日だけど、割と普通に動く身体を使いながら、僕は設営されたテントの下で、仕事をしていた。 ちなみに仕事内容は、来場者数の記録とパンフレットの配布 なので僕と柊は、休憩以外の数時間を、ほとんどこのテントの下で過ごして居るということになる。 まぁでも、休憩時間にはちゃっかりと、こうしてこの文化際を楽しんでいるのだ。 そして僕も、お昼ご飯として購入した焼きそばを食べながら、その彼女の言葉に応える。 「僕もそう思うよ...でもまぁ気持ちは、異人として生きて行かなければならないことを、それを強いられたことに対するアイツの気持ちは、なんとなく、わからなくもないんだよなぁ...」 そう言いながら、焼きそばを食べている僕を見て、また柊は言葉を返す。 「それがわかるのは、荒木君が結果的には沙織と同じ境遇で、それで今も異人であるからでしょう?けれど私は、そのことをとやかく言うわけではないのよ...」 「っというと...?」 「私が言いたいのは、どうして素直に、私を頼ってくれなかったのだろうって...あんな回りくどい事をしなくても、私は...」 そう言って俯きながら、柊の箸が止まる。 けれどもそんな彼女に、僕はそれこそ、わかり過ぎる程にわかるので、応えるのだ。
「だからさぁ、お前のしたことは、どういう理由があろうと、どういう意味があろうと、やってはいけないことなんだ。そんな自分の傷を他人に押し付けるような、そんなズルいこと...誰もしてはいけないし、するべきでもないんだ。だってそれは、紛れもなくお前のモノなんだから。その苦しさも、辛さも、見てられなさも、そんなモノも全部ひっくるめてお前なんだから。だから...」 そう言いながら、僕は一歩、花影に近づく。 「だからさぁ花影...もうこんなことはやめにしろよ。それでももし、誰かにそれをぶつけたくなったなら、そのときは僕にぶつけろよ。そのときは全部、暴言だろうが暴力だろうが、破壊だろうが殺戮だろうが、僕がお前のそれを、受け止めてやるさ」 そう言うと、目の前の、もはや狼と成り果てた彼女は、しかしその姿でもわかる程に、明らかな笑みを浮かべて... そしてこちらに飛びつく気満々に、足や腕、身体全体に力を溜める。 そして... 「へぇーそっかぁ...じゃあ先輩は、私のこの気持ちも、そして壊すことすらも、全部全部、たとえ死んでしまっても、受け止めてくれるんだぁー」 「あぁいいよ。僕でいいなら、僕なんかが役に立つなら、本望さ」 そう言いながら、僕はまるで彼女を受け止める様に両腕を広げる。 その姿を見た彼女はまた、ニヤリッと笑いながら言うのだ。 「そっかぁ...じゃあ...」 そしてその言葉の後に、次の言葉を彼女が言う瞬間、彼女は全部の溜めていた力を開放する。 「死んで」 そしてその言葉の後には、あの大きな、数々の現場に残されていた跡の、彼女の大きな爪が、僕の胸から上を全て薙ぎ払うようにして、放たれた。 そうされて意識が飛ぶ直前、僕の死体からは多量の鮮血が、講堂のあちこちにばらまかれるように、まき散らされて、目の前にある何もかもを、僕の血で汚して... そして月夜に、それは見事に、賢狼は事を成したのだ。
「それなら...わかりますよね...私の気持ちが、こんな姿に、何の前触れもなく成り果てて、もうどうしようもなくなって、それでも好きな人にはちゃんと見て欲しくて、でもその人は別の人と仲良さそうにしていて、それがたまらなく苦しくて、辛くて、見てられなくて、こんな馬鹿なことをしてしまう私の気持ち...あなたになら、わかりますよね?」 そんな風に言いながら、そんな姿に成りながら、それでも縋る様なその言葉に、僕は思いっきり、自分の言葉を彼女にぶつけた。 「わかるよ...わかる。自分がもう、どうしようもない者になってしまった後悔も、それをどうにかしたくてもどうにもならない歯痒さも、痛いほどよくわかる。けれどさぁ花影。そんなの、形や重さは人それぞれなんだろうけれど、みんなが抱えていて、当たり前のモノなんだ」 「当たり前...?」 その疑問符の言葉に対して、僕はさらに言葉を返す。 同じ異人の... 人とは決定的に違ったそれをもつ、そんな僕は、そんな彼女に言葉を紡ぐ。 「あぁ、僕達はこんな...こんなわけもわからない者になってしまったけれど、でもそれを赤の他人にわかってもらおうなんて、最初から無理な話なんだよ。たとえそれが、わかって欲しい大切な人だろうと、それを本当の意味で伝えることは、僕達にはできないんだ」 『できない』と、そう言いきった後に、何故だか僕は、泣きそうな気持ちになってしまう。 しかしそれでも、最後に僕は彼女のしたことを、ちゃんと叱らなければならないのだ。 一足早く異人になった僕には、それを言う義務がある。
そんな僕の言葉に、今度は彼女が鼻で笑いながら、言葉を返す。 「...うそばっかり...さっきはそんなこと、全然言っていなかったじゃないですか...はぁ、どうやら真面目に答えてはくれないようですね...まったく...困った人...それにたった数日交流しただけの人に、先輩面されたくはないモノです...」 「その言葉はブーメランだぜ、花影。僕もたった数日交流しただけの女の子に、後輩面されたくはないな...」 たとえそれが... 「たとえそれが...」 化け物だろうと... 「僕と同じ、異人であろうとさ...」 そう言われた瞬間、花影は不気味に短く、笑い出す。 「...フフッ」 そしてもう、全てを知られていることを悟ったのか、薄い赤渕の眼鏡をとって、そして明らかに、人ではない瞳に、人ではない姿に成り果てて、しかしそれでもハッキリと、柊のときとは違ってハッキリと、彼女の声で僕に言う。 「なーんだ、そういうことですか、荒木さん。あなたも私と同じで、壊れているんですね...」 そう言いながら、月灯りに照らされた彼女は、みるみるうちに狼の姿に姿を変えて、人を捨てていく。 そしてそれを見ながら、僕は自分が思っていたよりも穏やかな声で、彼女に対して言葉を紡ぐ。 「あぁ、そうかもな。僕ももう、お前と同じで人には戻れない様な、そんな者に、なったからさ...」
だからもう、僕はあの暗号には興味を持てないのだ。 たとえ次に、『さ』から始まるサークルが飛ばされて、『し』から始まるサークルが被害を受け、そこで『し』から始まる何かが壊されていようと... たとえ最後の現場で、例の満月カレンダーのような暗号が残されていて、そしてそれが今日の昼間に、全て塗りつぶされた、描かれ切ったそれが、壊された何かに貼られていようと... たとえその紙が、今回の文化際のパンフレットの最後ページの、僕と柊の名前が書かれているページの、コピーだと言われようと... それに十五夜の満月が描かれているということは、きっちりと十五番目まで、最後まで犯人が犯行を成功させたということを、意味していようと... そしてそれらを、全て花影がLINEで、僕と柊に教えてくれようと... もう、その暗号に対する興味も関心も... ついでに言えば、それを逐一LINEで伝える彼女の潔白性すらも... 既に失ってしまっているのだ。 「...なーんだ、もうそこまで、理解しているんですね...」 その彼女の言葉は、まるで取り繕うのをやめたような、それでいてもう、ただ単に話を前に進めたいだけの、そんなテキトウさすら感じてしまうような言葉に、僕は思えた。 「...」 「あれ...でも、じゃあいつから私が、犯人だと気付いていたんですか?」 この彼女の言葉に、僕はさっきまでの自分の言葉を、まるで何もかも忘れているような、そんなテキトウで、しかしながら適当な、そんな言葉で返す。 「最初から、なんとなくは気付いていたさ。僕はお前の先輩なんだぜ。だからお前が、どんなに面倒な手段を取ろうと、どんなに馬鹿げたことをしようと、見誤るわけがなだろう」 そんな僕の言葉に、今度は彼女が鼻で笑いながら、言葉を返す。