大学からほど近い、『目の前』と表現するのが妥当なくらいの立地で存在するこのコンビニは、朝から夜まで休みなく、閉店することなく、二十四時間営業し続けているようだった。
まぁ、こんな目の前に大学があるのなら、昼も夜も、それこそ丑三つ時の様な夜中も、学生をはじめとする多くの人が利用するのだろう。
そんな誰もが利用するコンビニで、僕はサンドイッチを二個と、ペットボトルの飲み物を二本買って、店の外に出た。
外に出ると、流石にあの薄着の格好ではない、その上から白い大きめのパーカーを、ワンピースのように着ている女の子。
あの綺麗な深紅髪の、得体の知れない女の子。
『佐柳』と呼ばれていた少女が、待っていたのだ
「あの......」
「......」
店の窓に貼られている、『バイト募集』のチラシを見ながら。
「佐柳さん?」
「えっ......?あぁごめんごめん。ありがとね、買って来てくれて......」
「あぁ、うん。それはいいんだけどさ......」
「ん?」
そのあとに続く言葉を、続ける筈だった言葉を、僕は少しだけ考えて、飲み込んだ。
「......いや、やっぱいい......」
そう言いながら僕は、足を前に動かした。
そしてそうすると、何かを言い掛けてやめた僕のことを不思議そうに見ながら、彼女は僕の横を歩く。
僕はそれを、なるべく気にしないようにしていた。
彼女が一体、どういう存在なのか......
その時はそういうことを、なんとなく、今は本人に聞いてはいけないように思えたのだ。
「やぁ遅かったね。待ちくたびれたよ~」
そう言いながら、『専門家』の男は机に座って、もう一つ別の机には、自分が買ってきたのであろう菓子パンと珈琲を置いていた。
どうやら僕等二人が買い出しから帰ってくるのを、彼は待っていたようだ。
しかしそんな彼を見て、少女は辛辣に言い放つ。
「別に、もう消えてくれててもよかったのに......」
その彼女の言葉に、男はまた、のらりとした口調で言葉を返す。
「まぁそう言うなよ、食事は皆でした方が楽しいじゃないか~」
そしてその言葉の最後に、男は僕の方を見て言った。
「君もそう思うだろ? 荒木 誠 君」
「えっ......」
男はたしかに、そう言った。
「ん?」
教えていないはずの僕の名前を、寸分の狂いもなく、躊躇いもなく、まるで初めから知っているように、僕にそう、呼びかけたのだ。
「なんで......僕の名前、知っているんですか?」
そう聞き返した僕の言葉には、その男はくらりとした口調で言葉を返す。
「あぁ、そうか。そりゃあそうだよね。昨日のあんな出来事、まともに覚えている筈がないか......」
そう言って、男は座っていた机から降りて、そして入り口で未だに立ったままの僕たちに向かって、手招きをしながら言う。
「まぁ、とりあえずこっちにおいでよ。食べながら話そう。昨日君に何が起きたのか、僕や佐柳ちゃんは一体何者なのか、全部教えてあげるよ」
そう言いながら、不敵に口元を緩ますその男の表情が、この時はなんだか妙に、化け物染みて見えたのだ。
『食事は皆でした方が楽しい』なんて言葉を、本当に信じていたわけではないけれど、それでも、こんなにも食べ物が喉を通らないといことも、予想していなかった。元々朝食は抜きがちな生活をしているとはいえ、それでも、自分が食べるために買ったサンドイッチくらいは、ちゃんと食べられると思っていた。
今は食事をはじめて三十分くらいだろうか......
未だに一つだけ、綺麗な手付かずのサンドイッチは、開けたフィルムのビニールの上で、倒れている。
ほんとうに、食欲がまるで湧かない......
「あんまり食が進まないかい?荒木君」
既に自分の菓子パンを平らげたその大人の大学生は、まるで僕の心の中を見透かしているような台詞を吐きながら、こちらを見る。
「えぇ、まぁ元々、朝食は抜きがちな生活をしていたので、多分そのせいだと思うんですけれど......」
「ハハッ、それはあまり良くないねぇ~。食事はちゃんとしないと、何処かで倒れてしまうかもよ?」
「それは......」
それは少し、大袈裟ではないのだろうか......
そういう風な言葉を言い掛けて、それでも、その言葉を飲み込む。
あながち、それが無いとも言い切れない。
なんたって今が、こんなわけのわからない状況に、なってしまっているのだから......
「そんなことよりも、説明してくれるんですよね。えっと......」
「あぁ、相模でいいよ。 |相模 宗助《さがみ そうすけ》、四十歳」
「四十歳!?」
聞き間違いだろうか、耳を疑った。
僕と同い年ではないにしても、明らかに年齢は二十代だと思っていたからだ。
その男の言葉に唖然としている僕に、隣に座る少女が口添えをする。
「気を付けた方がいいよ。そいつの顔面はマジでそれだから......」
「それを君が言うのかい、吸血鬼なんてのは、不老の最たる例だろうに」男の言葉に、少女は睨みつけるようにして無言を返す。
っていうか......今、なんて言った......
「えっと......吸血鬼って......一体......?」
その俺の言葉に、男はまた、口元を薄く緩めた表情で、彼の目の前に座る少女を、視線で示して返答する。「彼女のことだよ」
その視線の先には、当たり前だけど、『佐柳』と呼ばれているその少女しかいない。
そしてそれを肯定するように、彼女は僕から、視線を逸らす。
その様子を見ながら、男は少し呆れたような表情をしながら、「やれやれ」と言いながら、さらに続けた。
「彼女はね、世にも恐ろしいあの吸血鬼の、体質と性質を兼ね備えた、異端の生き物なんだ」
「吸血鬼の......体質と性質......?」
そう言いながら、僕はその少女を見て、「人間とは、違うのか?」と訊いてしまう。
そしてそんな僕を見て、男は返答する。
「うん、人間じゃないよ。まぁ正確に言うなら、
「つまり、お化けとか、妖怪とか......」
『化け物とか』と言おうとして、それを僕は飲み込んだ。
なんだかその言葉は、今は言ってはいけないような気がしたからだ。
けれどそれを、多分この相模という男は、僕よりも理解している。
だから理解しているその男は、さらに話を続ける。
「でも一応、姿形は人間だからね。だから僕は、彼女のような存在を、|異人《いじん》って呼んでいるよ」
そう言いながら、男は自分の飲みかけのコーヒー牛乳を飲み干して、飲み干した後にこう言った。
「まぁでも、いわゆる
化け物じみた顔面を持つその人は、さっき僕が飲み込んだ言葉を、いとも簡単に吐き出したのだ。
言葉の後の、数秒の沈黙。気まずい以外の何者でもないけれど、そんな僕たちの様子を見ながら、相模さんはまたそれを、弄ぶような声色で話を続ける。
「それでだ。荒木 誠 君。そんな話をどうして、君なんかにしたかって話なんだけれど......あと昨日の夜、君に何が起きたかって、話なんだけれどさ」
「あぁ、はい......」
そうだった、そういえばそれを、僕は訊かなくてはいけなかったのだ。
僕の記憶から抜け落ちてしまっている、昨日の出来事を、僕はこの人から訊かなくてはいけなかった。
それのために、わざわざこんな形で、朝食を食べているのだから。
まぁそれでも、相変わらずサンドイッチは、残ったままだけれど......
「もし君が、僕や彼女とはまったく関係のない、普通の人間なら、わざわざこんな話なんかしないんだ。異端の存在ってさ、関わらなければ関わらない方が、言ってしまえば無関係のままで居た方が安全だし、安心だから」
「はぁ、まぁそれはそうですよね......」
あれ、でもこの言い方だと、なんだかおかしくないか......
「うん、けれどね、荒木君」
まるでその言い方だと、僕がもう......
「君はもう......」
普通の人間ではなくなってしまっている様な......
「
「えっ......」
呆気をとられてというか、思いもよらないというか......
とにかくこのとき、僕はこの男から、何を言われているのか理解が出来なかった。
けれど相模さんは、さらにそのまま話を続ける。
「結論から言ってしまえば、今の君はもう、普通の人間ではなくて、異端の存在である、いわゆる異人になったんだよ」
その言葉に対しても、僕はどう反応を示するべきなのか、わからなかった。
わからなかったけれど、それでも、何か言わなくてはいけないような、そうしないと、思いもよらないこんな展開に、全て飲み込まれてしまう様な、そんな気もしたのだ。
だから僕は、自分が理解をするために、確認をするために、口を開いた。
「えっと......つまり僕は、死んでいるって......ことですか?」
そしてその、僕が吐いた言葉に対して、わざとらしく少女が笑う。
笑いながら、もう一つの事実を、僕に突きつける。
「ハハハッ......そんなわけないじゃん、私が助けたんだから」
「助けたって......どういう意味......?」
「どういう意味も、こういう意味もない。助けるために、私は君を異人にした。そうしないと、
「......」
どうすればいいだろうか......
言語としては日本語を話している彼女の言葉を、文章を、僕はこのときまるで、理解ができなかった。
そしてそれを見かねてか、相模さんがまた言う。
「まぁとりあえず。何が起きたのか、順序立てて説明しようか。もっとも......その時の当事者は、君と彼女の二人だけだけれどね」
順序立てて説明された内容はこうだった。あの晩、僕が散歩のコースとして歩いていた道の頭上、正確に言えば、すぐ傍にあった大学施設の屋上に彼女は居たらしく、僕と同じように、夜の散歩をしていたらしい。
しかしそこで、彼女は踏み外した。
漫画のようにバナナの皮で足を滑らせたとかでは決してなく、ただ単に、足がもつれてしまった影響でそうなったらしい。
しかも彼女は、屋上の淵の部分、少し身を乗り出せば飛び降りれるような所を歩いていたそうだ。
基本、大学施設の屋上は立ち入りができないようにされている。
禁止されているとかではなく、そもそも立ち入ることが出来ないのである。
一般の生徒が施設の階数を行き来する時に使うエレベーターでは、システム上入れないようにされているからだ。
もちろん、階段で行こうとすれば、そもそも扉に厳重な鍵が施されているから、入れるわけがない。
しかしそれは、
それこそ彼女のように、吸血鬼の異人の体質で授かった身体能力を用いて、
そんな彼女が、足がもつれたことで踏み外し、落ちてしまった。
そして丁度その位置に、タイミング悪く、僕の頭部があったというわけだ。
さすがに......
さすがに華奢な女の子だとしても、高い所から重力加速度的に落下速度が増した状態で、人間の頭に落下物の一番固い部分(彼女の頭)がぶち当たれば、それはミサイルに直撃したようなモノで、しかもその相手が、体質的に普通の人間よりも頑丈な吸血鬼であれば、普通の人間である僕の方がダメージを負うのは当たり前だ。
アニメや漫画のように、空から美少女が降ってくるというシチュエーションは、とても危険極まりないのである。
それこそ致命的な、絶命を余儀なくするほどのダメージを負うことになるのだから...... だから僕は、もうこの時には
しかしそこまで説明されたところで、加害者である彼女の言い訳が入る。
「いや、流石にこんな、完全に私の不注意の事故で、何の関係もない人間を殺してしまうのは気が引けたんだよね......だから......」
だから彼女は、彼女が持つ、吸血鬼の性質である『吸血』を上手く利用して、僕の『血』ではなく、『人間性』を吸い取ったのだそうだ。
そしてその代わりに、彼女の中にある『異人性』を、半分ほど僕に与えた。
吸血鬼の体質の一種である『不死身』を、このときの僕は、半分ほど彼女から貰い受けた。
その影響で僕は今、半分は人間で、半分は異人という、専門家から見ればかなり不安定な状態で、生かされているということなのだ。
しかしここまで聞いて、ようやく僕は声を大にしてこう言える。
覚えていないだけで、僕が何かやらかしたから、こういうことになってしまったのかと危惧していたが、これなら問題なくこう言える。
たとえ相手が、華奢で可憐な吸血鬼だとしても、僕は言ってやる。
「って......完全にお前のせいじゃねえか!!!」
閑話休題「さて、そんなわけだから、君は今後、僕に管理されながら生活をするわけだけれど、いかんせん、僕もずっと君の傍に居てやれるわけではない。これでも色々と忙しくてね」
「はぁ......」
傍に居て欲しいとは思わなかったけれど、それでもこんな身体になったのだから、不安がないといえば嘘になる。
そうなると、このゴールデンウィーク期間中は、大人しくしていた方がいいのだろう。
そんな風に考えていると、相模さんは思いもよらないことを言い出す。
「そこでだ、しばらくの間、少なくともゴールデンウィークの間は、君等は常に行動を共にするようにしていて欲しい」
「えっ......」
反射的に出た自分の反応の後、僕は少し間を置いて、言葉の意味を確認する。
「行動を共にって、それは一体どういう意味ですか?」
「どういう意味も、こういう意味もない。言葉通りの意味だよ」
そう言った後、相模さんは僕と僕の隣に座る少女を見比べて、話を続ける。
「僕から見れば、君もそうだけど、佐柳ちゃんも十分に不安定な状態だ。何が起きるかわからないし、何が起きても不思議じゃない。だから君たちには、互いを管理し、監視し合って欲しいんだ。」
その相模さんの言葉に、少女は意外にも同意する。
「......私は別にそれでもいいよ......っていうか、こんな専門家じゃなければ誰でもいい」
「ひどいな~そんなに嫌うなんて~おじさん傷ついちゃうぞ~」
わざとらしくおどける相模さんに、少女は冷ややかな視線を送る。
こういうときって、第三者である僕は、何を言えばいいのだろうか......
あぁ、何も言わないのが正解なのか?
「......」
うん、多分なにも伝わらねえな......
そんな風に思っていると、特に傷付いた様子がない相模さんが、さらに話を進める。
「あぁでも、『常に行動を共にしろ』とは言ったけれど、本当にずっと一緒に居る必要もなくて、なんて言うのかな......外で遊んだり、家以外の場所で過ごしたりする時は、必ず君達二人で行動して欲しいって......まぁそういうことだから」
「はぁ、まぁそれは流石にわかってますけれど......」
そう言いながら僕は少しだけ視線を外して、言葉を続ける。
「僕は特に、このゴールデンウィークに予定を立てていないので、問題はありません。でも......」
その僕の言葉で、少女は何かを察したのか、口を開く。
「私だって、別に予定があるわけじゃないよ......っていうか、昼間の予定なんて立てられるわけがなかったし......」
そう言いながら、彼女は僕の方を見る。
その彼女の視線で、彼女が何を言いたいのか、なんとなくわかってしまう。
あぁそうか
だってその頃の彼女にとって、太陽は文字通りの天敵なのだから......
一通り話し終え、残っていたサンドイッチも何とかお腹の中に収めて、時刻は既に、午前十一時近くを指していた。「それじゃあ早速だけど、今日から二人で行動するように、僕は別件でしなくてはならない仕事があるから、またそのうちに顔を見せるよ」
そう言い残して、相模さんは僕と彼女を二人、空き教室に残して、何処かに行ってしまった。
っていうか、なんだこの状況......なんだこの状況!?
ただでさえ大学では友達がいないのに、いきなりこんな女子と二人きりにされて、一体どうしろっていうんだ。
何を話せばいい?
何か話題は??
そんな風に、たぶん傍から見ればしょうもないこと(いや、僕にとっては一大事なんだけれど)に頭を巡らせている僕に向けて、少女はポツリと言う。
「あのさ......とりあえず、ここ出た方がいいよね?」
思いもよらない彼女の何気ない一言が、僕の思考を一瞬止める。
「へ?」
そして僕がそんな反応をしたから、彼女は驚いた様子で聞き返す。
「えっ?」
束の間の沈黙、ようやく思考が、再び動く。
「......うん、そうだね。そうしようか......」
僕、こんなに女の子と話せなかったっけ......
外に出た後、とりあえずどうすればいいいのか、今日一日をどう行動するべきか分からなかったから、それを彼女に尋ねようと試みる。「あの、佐柳さん......」
「琴音」
「えっ?」
「佐柳って名字、好きじゃないんだ。呼ばれるのも書くのも言うのも嫌い。だから下の名前で呼んでくれる?私も君のこと、誠って呼ぶから」
oh......
再び止まりかける思考よ、耐えてくれ......
「いや、いくらなんでもそれは、距離の詰め方がおかしくない?」
「そう?大学生って、皆そんなもんじゃない?」
皆そんなもんなの!?
友達居ねぇからわからねぇよ!!
「まさか誠、友達いないの?」
「......ちがう、作らないだけだ......」
「作れないの間違いでしょ?」
「......っ」
「あぁ、なんかごめん」
「謝られると、余計に辛いよ......」
「うん、ごめん......あっ......」
「今の絶対わざとだろ?」
「そんなことないよー、無意識だよー」
なるほど、どうやらこの吸血鬼は、無意識に人を殺せるようだ。
まぁ、今の僕はもう、人ではないらしいけれど......
そして、そんなしょうもないやり取りを終えた後、僕は再び、訊きたかったことを彼女に尋ねる。
「......それで今日はどうすればいいんだ?」
「どうすればって?」
「いや、僕は本当に今日は何も予定がないから、もし佐やn......」
「......」
一気に視線が怖くなるのは止めて欲しい......
「もし琴音さんが行きたい所とかあるなら、僕は付き合うけれど......」
そう言うと、琴音さんの表情は一気に明るくなった。
「えっ、マジで?」
表情豊かだな、この吸血鬼。
「マジで......っていうか、そうした方がいいって、あの人に言われてるし」
そう僕が言うと、彼女は携帯を取り出して、すぐさまSNSのアプリを開いて、そして何かを検索して、それを僕に見せた。
「じゃあ、ここ行きたい!」
「......」
その画面に映し出されていたのは、明らかに男が行くには場違いの、とても内装がオシャレな、パンケーキのお店だった。
どうやらこの吸血鬼は、いわゆる『イマドキの女子大生』らしい。
コンビニを後にして数分......いや、そんなに時間が経っていない筈なので、どんなに多く見積もったとしても、時間は数十秒といったところだろう。 僕から一方的ではあるけれど、友人とひとしきり、他愛ない話をして買い物を済ませてから、たったほんの数十秒歩いただけの帰り道...... だからまぁ、予想しようと思えば出来たは筈で、むしろこの場合、こんなことを言ってしまう僕の方がおかしいのかもしれないと、そんな風にも思ってしまう。 しかしながらそれでも......「あのさ......」 まさかまだ、変わらずにそれを携えて居るとは、まだ家に帰らずに、よりにもよって僕の帰り道に居るとは...... そんなこと、思わないじゃないか......「あら、偶然ね......」 そう言いながら、手元の包丁をこちらに見せて、しかしながら彼女自身はそれを全くと言っていい程に、それこそ、その鋭利な凶器すらも自分の身体の一部の様な扱いをしている。 だからきっと僕が、彼女が持つそれに対して多少なりとも気遣いをしたとしても、彼女はそれを、そのことをまったく、気にしない。 気にせずにまっすぐと、こちらを見据えて来る。「......」 何も話さず、何も喋らず、ただまっすぐと......「......」 さっき会ったばかりの、剝き出しの包丁を携えている女の子に見つめられていると、たとえその子の容姿が、一般的にとても綺麗な部類だとしても、その姿は恐怖の対象でしかない。 だから僕は、平然を装いながらも強引に、話を進めたのだ。「それで......こんな所で何してるんだよ?」 もしもこの言葉が、見知らぬ女の子に対してのモノだったら、まるで僕がナンパでもしている様に捉えられてしまうかもしれないが、しかし包丁を手に持っている彼女に対してなら、そんなことはないだろう。 そもそも、その話しかけた女の子が、さっき初めて知り合った女の子なのだから、そういう意味では、
殺人鬼...... 僕はこの言葉の意味を、もういつだったかも、どうしてだったかも忘れてしまったけれど、辞書か何かで調べたことがあって、そしてそこには、『むやみに人を殺す鬼のような悪人』と、書かれていたのだ。 まぁ人間の社会では、殺人というモノが最も重く、最も罪深い行為として認識されている以上、それをむやみに行うような輩は、鬼のような悪人と例えられても、そう言われたとしても、仕方がないのだろう。 人は殺せば息絶える...... そんな当たり前の現象が存在する以上、殺人と言われる罪がなくなることは、決してないのだろう。 しかしながらあくまで、それは『鬼のような悪人』と書かれていたのだ。 それはつまり、殺人鬼という言葉が、その殺人という行為をむやみに行う輩が、鬼のようなその輩が、あくまで人間であるという定義の上で、この言葉は成り立っているということになる。 まぁ、それもそうだろう...... 考えなくても当たり前のことだ。 今ここでこんなことを語っている世界には、人間以上に知識が発達した生き物は存在しないのだから、そんな生き物である人間は、逆に言えば、この世界で『罪』を犯すことができる、唯一の生き物なのだ。 しかしそうなると今度は、そもそも『罪』というモノが何なのかという話にもなってしまう。 もしもそれらが、善と悪の隔たりを決めることが出来る人間が、自らを戒めるために作った様なモノだとしたら...... 果たしてそれらは、明らかに人間とは特異的な違いを持つ者に対しても、当てはまるのだろうか...... 自らのその行為を罪と捉えることが、果たして出来るのだろうか...... あぁ、ダメだ...... こういう言い方をしてしまうと、自らの行いを罪だと自覚できる生き物は、後にも先にも人間だけだという話に、行き着いてしまう。 行き着いて、収束してしまう。 ゴールデンウィークの、急転直下な、あの黄金色の数日間を経て、人間とは程遠い『不死身』という体質になってしまった僕にとって、そういう収束の仕方はあまりにも、都合が悪い。 だからきっと...... これからするこの御話は、そういう都合が悪いモノを捻じ曲げて、引き裂いて、流血を流しに流して、殺されながら前に進む。 痛くて、苦しくて、重くて、辛い...... むせかえる程に酷い血まみ
この場所は、あまりにも寒かった。 時刻はとっくに、深夜を通り過ぎて朝日が昇る手前の時間だ。 これは相模さんからのアドバイスである。『家に帰り、夕食を済ませたら、布団で寝て、そして朝日が昇る直前に、それを持って、この場所に行けばいい、そうすれば君は、彼女に会える。そして彼女に会って、それを使って、君が決めたことを、やればいいさ』 そう言いながら渡された、新聞紙に包まれた物と一緒に渡された小さな紙切れには、ある場所が記されていた。 こんな所に、こんな時間に、女の子が一人で居るのは、それはあまりにもおかしなことだと、普通では考えられないことだと、そう思った。 けれど...... もしもその女の子が『吸血鬼の異人』という存在ならば、きっとそれは異常なまでに、正常な光景なのだろう。 月の姿は見えなくとも、空の冷たい空気と、彼女の姿があまりにも、それがあまりにも、似合い過ぎているのだから...... だからきっと、今彼女はこの場所に居て、然るべきなのかもしれない。 そう思いながら、階段を登り終えた先に視線を移すと、やはり彼女はそこに、風を感じるようにして立って居た。 そして僕は、そんな彼女に声を掛けた。「琴音さん、こんな所で何をしているの?」 その僕の声に気付いた彼女は、振り返り、少し驚いた表情をした後に、言葉を紡ぐ。「なんで......なんで君が、ココに居るの......?」「そんなの、決まっているでしょ?琴音さんを探しに来たんだよ......だからさ......」 そう言いながら、僕は彼女に一歩近づく。 しかしそうすると、彼女は二歩程退いて、僕が近づくことすら拒む。「ダメだよ......来ないで......」「どうして......?」「どうしてって......もう知っているでしょ?私は、人を殺したんだよ......」「うん、知っているよ......僕を刺した通り魔を、あの場で、殺したんでしょ?」 そう僕が言うと、彼女はまた二歩程後ろに退いて、そして僕とは視線を合わせずに、弱々しい声で言う。「そうだよ......殺したんだよ......今まではちゃんと、上手くやっていたのに、それなのに、それなのに私は、あの一瞬だけはどうしても......どうしても抑えられなかった......」「それはどうして......?」「......わ
相模さんが僕に手渡した紙切れは、新聞紙だった。 そしてそれが新聞紙であるならば、おのずとそれには、必然的に記事の内容が書かれていたのだ。 もっとも、このとき相模さんが僕に手渡した紙切れが、本当にただの、何も書かれていない白紙の新聞紙なら話は別だが、しかしそこには、見出しであるのだろう、色彩に富んだ大きな文字で、こう書かれていたのだ。『横浜の夜、吸血鬼あらわる!!連続通り魔を殺害か!?』 その紙切れを見て、そして相模さんの言葉を訊いて、僕は数秒、おそらく本当の意味で、息を吞んだ。「これって......」 そう言いながら、言葉を失う僕に向けて、相模さんは淡々とした口調で言葉を紡いで、僕に事の顛末を説明してくれた。 あのあと、僕が殺された直後に、相手の通り魔の男性は首を吹き飛ばされてしまったらしい、しかしそれを見た周囲の人間は、あまりにも起きたことが異端すぎて、あまりもその光景が異常過ぎていて、まるでそれが、映画か何かの撮影だと思い込んだ人間の方が多くて、すぐに警察や救急車を呼ぶことを判断できた者は、ほとんど居なかったらしいのだ。 しかしそれでも、誰が見ても明らかな首無し死体と、不意を突かれて刺された僕の醜態と、通り魔の首を吹き飛ばした吸血鬼の異人である琴音さんが、その場にそんなモノが三つも居れば、それこそ必然的に、その場はパニックの中心になり果てる。 そしてその場がパニックになった直後、琴音さんはその場から、人間では考えられないような身体能力を駆使して、姿を消したのだ。 そしてその結果が、この新聞記事である。 昨日のことを一通り話した相模さんは、その口調のまま僕に言う。「琴音ちゃんの状態は、謂わばバランスを保っていて、どちらにも倒れない天秤のような状態だった」「天秤......ですか......」「あぁ......片方には君から吸い取った人間性、そしてもう片方には、元からあった、吸血鬼の異人としての異人性だ。けれど君が刺されて殺された現場を、一番近くで目撃した彼女は、そのときの君の血液を、一番近くで目の当たりにした彼女は、彼女の中にあったその半分の吸血鬼の異人性を、一気に膨れ上がらせて、暴走したんだ」「......」 無言で俯いている僕は、そのときの彼の言葉でようやく、相模さんが言っていた、『自覚的であるべきだ』という言葉の意味を、言
矛盾が生じてしまう恐れがあるので、予め言っておくと、僕は彼女のことを、とても綺麗で特別な存在だと、それは間違いなく、今でも思っているのだけれど...... なんだろう、それはなんとなく、そう理解しているに過ぎないのだ。 欲求だとか、下心だとか、色気だとか、そういうモノをまだ、微かになんとなく感じることが出来る筈なのに...... それなのに、ただ綺麗なモノを、綺麗だなって...... 僕は彼女に対して、そういう風な気持ちにしか、ならないのだ。「ねぇ......」「えっ?」 考え込んでいたところに、不意に声を掛けられたから、一瞬だけ思考が鈍くなる。「誠、私に話があるって言ってたでしょ?何の話?」「あぁ、うん......」 一拍置いて、少しだけ言葉を考えて、話し出す。「昨日さ、あのあと相模さんに会ったんだ......」「えっ、アイツに会ってたの?」 そう言いながら、彼女の視線は厳しく、冷たく、鋭さを増す。「あっ......」 言葉選び大失敗。 彼女にとっては、名前を出すべきではない人の名前を、僕は真っ先に言ってしまったのだから...... しかしこの話は、やはりあの専門家である相模さんの名前を出さない事には始まらない。 だから僕は、その彼女の視線に臆せずに、そのまま話を続ける。「うん、昨日あの後の帰り道、偶然会って、そのあとファミレスで少しだけ話をしたんだ」「偶然?へぇーそれで?」 明らかに不機嫌な態度をとる彼女に、やはり僕はそのまま話を続ける。「うん、吸血鬼の異人がどういう存在で、そしてこれから先、琴音さんや僕が、どういう風になってしまう恐れがあるのかも、多分全部ではないけれど、粗方訊いたんだ」 そう言うと、彼女は少しだけ表情を真剣なそれにして、口を開く。「そう......それで、誠はそれを訊いて、怖くなっちゃったの?」 その彼女の言葉に、僕は何故か、とても素直に返事をした。「......うん、そうだね。怖くなった......」 そう言いながら、僕は彼女の視線を見つめる。 その見つめた視線に、彼女が合わせながら話してくれる。「そっか......そりゃそうだよね......」「うん......まだ全然、自分が人間ではなくなったなんてこと、ちゃんと自覚はしていないけれど、でも......それでも緩やかに、けれ
「......でも、琴音さんは別に、人間を襲うわけじゃないんでしょ?」 そう言った僕の声は、自分でも驚く程に小さくて、弱々しかった。 まるで、さっき相模さんが言ったようなことに、彼女が含まれていないことを確認するような言葉を選んでいて、それでいて声は明らかに、僕自身が言った台詞が、相模さんに肯定されることを願っているような...... 何かに縋っているような、そういう物言いを、僕はしていたのだ。 しかしそんな僕の気持ちとは裏腹に、相模さんはそれを、真っ向から否定する。「いいや、それは彼女も例外ではないよ。少なくとも吸血鬼の異人である彼女にとって、人間は