パンケーキを食べに行った次の日
ゴールデンウィーク二日目である今日は、朝からあまり天気が良くなく、一日中雨が降り続く予報が、テレビから聞こえていた。
時間の節目になり、番組が変わる。
そしてまたその番組では、前の番組でも報道していたことを、報道する。
特に見ているわけでもないテレビ、朝起きて身支度をするときの時計代わりである。
これはこれで案外便利だ。
こちらの要望に関係なく、今イチオシのスイーツだったり、芸能人の不倫疑惑や、新しい映画の完成披露試写会、政治家の汚職、ゴールデンウィークにおすすめのテーマパークの情報、通り魔の事件や強盗、交通事故、その他諸々。
そんなモノばかりがひっきりなしに、テレビから流れ込んでくる。
そして僕はそれらの大半に、まったくと言っていい程に興味が持てないから、身支度に集中出来るのだ。
それにしても......
昨日琴音さんからされたあの話が、まだ自分の心の中に引っ掛かっている。
琴音さんの説明通りなら、僕は現状、半分ほど人間ではなくて、人間の生き血を吸いながら生きる、吸血鬼になってしまっているのだ。
それでも、琴音さんは生き血を吸うことはないと言っていたから、大丈夫だと言っていたから、きっと大丈夫なのだろう。
なにか根拠があるわけでも、信頼とかがあるわけでも、そういう目には見えない大切なモノは、正直言ってないけれど......
それでも、少なくとも僕をこんな風にしたのは彼女なのだから、こんなことを話せるのは、彼女だけなのだから......
僕はどうなってしまっても、あの吸血鬼の異人の少女 佐柳琴音 を信じるしかないのだろう。
そんな風に考えながら自分の顔を洗っていると、傍に置いていた携帯電話にメッセージが届いていた。
画面を確認すると、そこには昨日、連絡先を交換したばかりの彼女の名前があった。
彼女とはそう、佐柳琴音 その人である(人ではないけれど......)。
『今日見に行きたい映画があるんだけれど、一緒に来てくれない?』
なんだか遠慮がなくなったように思える送られたそのメッセージの文面からは、肯定以外の返事が出来そうにない雰囲気が漂っていた。
まぁ実際、僕はそれを断れないのだけれど......
このゴールデンウィークの期間中は、外出の時は琴音さんと行動を共にするように、あの専門家から言われている。
それは不安定な存在である僕たちが、各々の場所で何かしらの問題を起こさないようにするための措置だ。
けれどどちらかと言えば、僕よりも彼女の方が、問題を起こしてしまう可能性は大きいのだろう。
なんせ元々異人で、専門家に管理されていたのは、彼女の方なのだから。
『いいですよ』と僕は返信する。
そして雨が降りしきるゴールデンウィーク二日目の外に、僕は折りたたみ傘を広げながら、いつものように歩き出した。
横浜駅には最近、駅から一歩も外に出ずに映画館に向かうことができる施設が建設された。それ以外にも様々な飲食店や書店、アパレルに家電量販店、お土産なんかにも使えそうなお菓子やケーキ、総菜、さらには野菜や果物なんかのお店もあるくらいで......
お金さえあれば、全ての買い物が駅から外に出ることなく完結できるのだ。
しかしながらその『お金』が著しく乏しい大学生という人種は、結局は行き慣れた外のお店の方に行ってしまうそうで......
まぁその話は、僕の話ではないのだけれど。
そもそも僕は、普段あまり買い物はしないし、ましてや今回のように、誰かと映画を嗜むこともしない。
だから知らなくて当然なんだけれど......
「あのさ、琴音さん」
「ん?なに?」
不思議そうにワザとらしく首を傾げながら、彼女は笑顔でこちらを見る。
そんな彼女に対して、僕はため息交じりに言葉を紡ぐ。
「僕はどちらか言えば無趣味な方だから、ヒトの趣味に対して何かを言うことは基本しない。だけど今回に限って言えば、さすがに訊かずにはいれないんだ。だからまぁ訊くけれど......」
「うん」
「......なんでこれが見たいの?」
そう言いながら、僕は彼女が見たいと言っていた映画を指差した。
そしてその指差した先には、恋愛でもなければミステリーでもなく、またアニメーション作品でもなければ、特撮でもない。
もちろんハートフルなコメディでも、情熱的な人間ドラマでもない。
そこに書かれていた作品は......
『ルージュ~血の彷彿~』
呪いの人形が主人公達を次々と残忍な殺し方で屠っていく、スプラッターとホラーを掛け合わせたような、そんな映画だったのだ。
「今Twitterで流行っているんだよ、この映画。だから見てみたいかな~って思って」
「いや......だって琴音さん......」
言い掛ける僕に、彼女は被せる様に言う。
「あっ、もしかしてホラー苦手だった?」
「あっ......いや、そういうわけではないけれど......っていうかこれ、ホラーっていうか、スプラッターの要素の方が強いよね?」
そもそも普段が吸血鬼の琴音さんは、どちらかと言えばホラー側な存在だろうに、そんな彼女が、一体どういうつもりでこの映画を見るんだ。
しかも......
「だから結構......グロイですよね、これ......」
「うん、血がいっぱい出るね!」
嬉しそうに言いやがる......
「もしかして美味しそうとか思いませんよね?」
「えーそんなことないよーぜんぜんそんなことなーい」
そんな風に、まるでそう思っていたことを隠す気がない彼女が棒読みで言葉を返すから、僕はつい言ってしまう。
「この中途半端吸血鬼め......」
まぁそれは、僕も同じなんだけれど......
二時間ほどの、鮮血が縦横無尽に飛び回る映画を堪能した後、僕たちは近くにあるファミレスで食事をすることになった。夕飯というには早く、昼食というには遅すぎるような時間帯だけれど、なんせ長時間、一つの映像作品に集中していたのだ。
だからまぁ、少しくらいは、空腹を感じる。
席に着いて、タッチパネルで注文を済ませ、それぞれドリンクバーから飲み物を用意した後、互いにそれぞれの飲み物を一口飲んで喉を潤してから、一拍間を置いて、僕は彼女に尋ねた。
「それで、どうでしたか?お目当ての映画は」
「うーん、内容はあんまりかなー」
さいですか......
「でも映画館で映画を見れたこと自体は、とても面白かったし、贅沢だった」
「贅沢って......まぁたしかに、二時間の映像に二千円近く払っているんだから、その気持ちはわからなくはないけれど......」
そう僕が言い掛けたところで、琴音さんは否定する。
「あぁ違う違う、そういうことじゃなくて......」
「ん?」
「お金のことってよりも、時間とか、設備とか、マナーとか、そういうこと」
「えっと......」
どうしよう、話の意味が少しわからない。
「......つまり、どいうこと?」
そう僕が尋ねると、彼女はまた一口ドリンクを飲んで、そして言う。
「つまりさ......私でも誠でも、毎日何かしら、やらなくてはいけないことに追われてて、そういうことを連絡したりするために、携帯とかって持ってたりするけれど、その携帯の電源を完全に切って、二時間、音響やら映像やらの機材が整った部屋で、ただひたすら、映画の世界に没頭できるって......それってかなり、贅沢なことじゃない?」
その彼女の言葉を聞いて、僕は『あぁ、そういうことか』と納得してしまった
「.....たしかに、そうかもしれないね」
つまり彼女は、考えることが多い今の世の中で、そういうことを一切合切すべて思考の外側にどかして、一つの『映画』という映像作品に、二時間近く費やせるあの空間そのものが贅沢だと、そう言っているのだ。
けれどそれだと......
「でもそれだと......わざわざあんな映画じゃなくても良かったんじゃないの?ぶっちゃけ、殺し方と鮮血の飛び散り方が凄かっただけで、内容はあまり面白くなかったよ」
本当にぶっちゃけたな、僕よ......
「でも世間的には、アレは結構絶賛されているらしいよ?」
からかうような表情で、彼女はそう言う。
だからそれに対して、僕は表情を変えないで返答する。
「それはまぁ、世の中何が流行るかなんて、わかったモンじゃないからね。『流行り物は廃り物』ってことだよ」
そんな風に、僕は自分が知っている言葉を彼女に言った後に、自分のドリンクを一口飲みながら、少しだけ考える。
この言葉は、あまり良い意味ではないよな......
結局、この日はただ本当に、映画を見ただけで終わった。ファミレスで食事をした後に、その店前で解散した。
まぁ、そもそも付き合っている恋人同士でもなければ、友人と言えるほど時間を共有していない、なんと言えばいいのかもわからない、怪しい間柄の僕たちは、その日の予定が終了したら、すぐに解散する方が、何かと都合がいい。
それを別に、僕は彼女に言ったわけでも、彼女が僕に言ったわけでもないけれど、それは多分、お互いに少なからず、そう思っているのだろう。
だから昨日のパンケーキも、そして今日の映画も、彼女の目的が達成されれば、そこで僕たちは解散したのだ。
そして解散後、家路に着いた僕は、自分が生活をしているアパートに続く、暗くて不気味な夜道を歩いていたところだった。
横浜の駅前とは、打って変わって街灯が少なく、そして住宅街だからなのだろう。
不自然なまでに静かで、暗い。
故郷である九州は、もっと早い時間にこのくらいの暗さと静けさになるけれど、それは周りに何もないから、当たり前だ。
けれどこの場所は、こんなにも様々なモノが混在しているのに、そのはずなのに、こんなにも音がしなくて、光がない。
それがとても、不気味に思えて仕方なかった。
それにまさか、こんな不気味な夜道の途中で誰かと会うことも、予想していなかったのだ。
っというよりも、予想出来るはずがない。
「やぁ荒木君、随分と遅かったねぇ。待ちくたびれたよ」
そう言いながら、その男は住宅街にある階段の手すりに腰掛けて、こんな暗い夜道でも、どんな表情をしているのかわかる程に、声を弾ませる。
そしてその声は明らかに、僕のことをからかっている様な、けれどそれでいて、観察している様な、そんな風に聞こえたのだ。
「......相模さん、でしたっけ?」
「覚えててくれたんだ、うれしいね」
「そりゃ、忘れませんよ。だって......」
「ん?」
「だって貴方は、僕と琴音さんの、ある意味では命綱のような、そういう役割の人なんですから......」
そう、この人は専門家だ。
琴音さんのような存在の、異人と言われている者達を管理する専門家。
僕がこんな、わけのわからない状況に陥っても、それを冷静に分析できる専門家。
だから今は、ある意味で色々なことが、この人頼りなのだ。
「命綱か......僕はそんな大層な役回りでは、本来ないんだけれど、でも今の君からしたら、天変地異のような今回の状況に見舞われた君からしたら、僕のことをそう見えていても、仕方ないのかもね」
そう言いながら、男は自分が腰掛けていた階段の手すりから離れる。
そして手すりから離れた男は、そのままの空気で続きを言う。
「まぁ、とりあえず現状を知りたいから話がしたいんだけれど、立ち話もなんだからさ......」
そう言って、まるで「付いて来い」と言わんばかりに、僕に視線を向ける。
そして僕はその視線を、無下に断るわけにもいかないのだ。
一日の内に、しかもそれほど時間を置かずして、ファミレスに行ったことがある人は、一体どれほどいるだろうか......いや、もしかしたらこの事象自体は、案外そんなに珍しくもないのかもしれない。
ファミレスという場所は、特に値段が張る所でもなければ、行きづらい雰囲気の所でもない。
もしもそんなファミレスが存在したら、それはただの『レストラン』で、『ファミリー』を枕に据えること自体、間違っているのだから。
それなら、こう付け加えればどうだろうか......
『人間離れした人間達と、別々のタイミングで、一対一で』
うん、これならきっと、僕ぐらいしか当てはまらないだろう。
連れて来られたファミレスで、とりあえずそれぞれドリンクバーと、摘まむための食べ物を二、三品注文し終えたら、注文を終えた時の空気のまま、何か大切な話しを始める雰囲気を作るわけでもなく、それこそ、日常的な世間話をするような空気で、彼は話し始めた。「それで、半分とはいえ異人になったわけだけれど、その後の調子はどうだい?何か変わったことや、不都合なことはあるかい?」
「えっと......そうですね......」
唐突に尋ねられたその質問に、少しだけ戸惑いながら、昨日と今日の記憶を再確認する。
「そうですね、別に昨日の今日なので、そこまで変わったり、不都合なことがあったりするわけでも、ないですけれど......」
「けれど?」
「まぁ、強いて言うなら、食欲がないくらいですかね......」
そんな風に、僕はまるで内科の問診でもしているかのような言葉を、恐る恐る口にする。
「あーそっか、まだ異人になってそこまで時間が経っていないから、その程度の影響があるくらいなのか。じゃあわざわざ、今日君に会わなくても良かったかな」
そう相模さんが言った所で、タイミングよく食べ物が運ばれてくる。
ポテトフライと、ほうれん草のソテーと、小さなピザ。
これ、まさか僕も食べなくてはいけないのだろうか......
「あの......」
「ん?」
「僕、もう今日は夕飯を済ましているんですけれど......」
そんな風に恐る恐る言う僕に、相模さんは何事もなかったかのように返答する。
「あぁ、知っているよ」
「えっと......だったらこの料理......」
「あーこれね。これは僕が食べるために頼んだだけだから、そんなに気にしないでいいよ」
そう言いながら一口、相模さんはほうれん草のソテーを口にする。
「あーそうなんですか、じゃあ、そうします」
そう言って、僕はドリンクバーから持ってきた紅茶を一口飲み込む。
なんだろ、食べなくてもいいと言われたことに安堵したからだろうか、少しだけ落ち着いてしまう。
そもそも一度夕飯を食べた後に、もう一度ファミレスに来るなんて......
アレ......
さっきの会話、何かおかしくないか......?
だって......
「あの......相模さん......」
「ん?どうしたんだい?」
「なんで僕が、
そう尋ねた僕の声に、彼はそのまま、不敵な表情を変えぬままこう言った。
「まぁ、それが仕事だからね」
食事をしながら相模さんは、まるで決まりきった言葉を復唱するように、まるでそうすることが当たり前のように、言葉を紡いだ。「知っていると思うけれど、僕の仕事は、人間の姿形をしながら、人間とは明らかに異なった性質や体質を持つ者、いわゆる『異人』を、専門的な知識を駆使して、管理することだ」
「つまり......ずっと監視していたんですか......?」
「いいや、それはないよ」
「だって......」
「こう見えてもなかなか忙しくてね、さっきまでは本当に、別件の仕事を片付けていたところだ」
そう言って一口、飲み物を飲み込んだ彼は、続けて言う。
「だから僕は昨日や今日、君が佐柳ちゃんとどんなことをしていたのか、それは知らないし、知る由もなければ、別に知りたいとも思わない。誰が好き好んで、こんな初々しい若い男女の間柄を監視するなんていう、無粋なことをするというのかね、荒木君」
「......」
いや、貴方なら好き好んでやりそうだから、僕はそれを疑ったんだけれど......
そう思いながら、未だに底が見えないこの人に、僕は少しばかりの苛立ちを覚え始めていた。
なるほど、こんな調子の人だから、琴音さんは嫌っているのだろう。
なんとなく、納得できた。
しかしこの人は、僕にそんな風に思われていることを知らずに、そのまま話を続ける。
「それに僕の仕事は、
「大変って......どう大変なことになるんですか......?」
「そんなの、決まっているでしょ」
「......」
どうもピンと来ていない僕に対して、相模さんは顔色を変えずに言う。
「まぁ最悪、死ぬだろうね」
「えっ......」
言い切った相模さんの表情は、言う前とは本当に何も変わらない。
そしてそれを聞かされた僕の表情は、見えなくとも強張っていることが理解できた。
そして僕のその表情を見て、相模さんは言う。
「あのさ荒木君。君はまだ実感が持てていないから、無理もないのかもしれないけれど、異人っていうのは、本来はかなりヤバい存在なんだ」
「ヤバイって......でも......」
「『人を殺してはいけない』『人を死なせてはいけない』、そんなのは所詮、人間である僕達が同族を絶滅させないための理屈だ。それに人間だって、自分達の都合で、色々な生き物を殺すじゃないか」
そう言いながら、相模さんは皿にわずかに残ったフライドポテトを、フォークで刺して、そしてそれを口に運ぶ。
その彼の姿が、些か怖く思えた。
しかし彼は、ただ食事をしているだけのだ。
コンビニを後にして数分......いや、そんなに時間が経っていない筈なので、どんなに多く見積もったとしても、時間は数十秒といったところだろう。 僕から一方的ではあるけれど、友人とひとしきり、他愛ない話をして買い物を済ませてから、たったほんの数十秒歩いただけの帰り道...... だからまぁ、予想しようと思えば出来たは筈で、むしろこの場合、こんなことを言ってしまう僕の方がおかしいのかもしれないと、そんな風にも思ってしまう。 しかしながらそれでも......「あのさ......」 まさかまだ、変わらずにそれを携えて居るとは、まだ家に帰らずに、よりにもよって僕の帰り道に居るとは...... そんなこと、思わないじゃないか......「あら、偶然ね......」 そう言いながら、手元の包丁をこちらに見せて、しかしながら彼女自身はそれを全くと言っていい程に、それこそ、その鋭利な凶器すらも自分の身体の一部の様な扱いをしている。 だからきっと僕が、彼女が持つそれに対して多少なりとも気遣いをしたとしても、彼女はそれを、そのことをまったく、気にしない。 気にせずにまっすぐと、こちらを見据えて来る。「......」 何も話さず、何も喋らず、ただまっすぐと......「......」 さっき会ったばかりの、剝き出しの包丁を携えている女の子に見つめられていると、たとえその子の容姿が、一般的にとても綺麗な部類だとしても、その姿は恐怖の対象でしかない。 だから僕は、平然を装いながらも強引に、話を進めたのだ。「それで......こんな所で何してるんだよ?」 もしもこの言葉が、見知らぬ女の子に対してのモノだったら、まるで僕がナンパでもしている様に捉えられてしまうかもしれないが、しかし包丁を手に持っている彼女に対してなら、そんなことはないだろう。 そもそも、その話しかけた女の子が、さっき初めて知り合った女の子なのだから、そういう意味では、
殺人鬼...... 僕はこの言葉の意味を、もういつだったかも、どうしてだったかも忘れてしまったけれど、辞書か何かで調べたことがあって、そしてそこには、『むやみに人を殺す鬼のような悪人』と、書かれていたのだ。 まぁ人間の社会では、殺人というモノが最も重く、最も罪深い行為として認識されている以上、それをむやみに行うような輩は、鬼のような悪人と例えられても、そう言われたとしても、仕方がないのだろう。 人は殺せば息絶える...... そんな当たり前の現象が存在する以上、殺人と言われる罪がなくなることは、決してないのだろう。 しかしながらあくまで、それは『鬼のような悪人』と書かれていたのだ。 それはつまり、殺人鬼という言葉が、その殺人という行為をむやみに行う輩が、鬼のようなその輩が、あくまで人間であるという定義の上で、この言葉は成り立っているということになる。 まぁ、それもそうだろう...... 考えなくても当たり前のことだ。 今ここでこんなことを語っている世界には、人間以上に知識が発達した生き物は存在しないのだから、そんな生き物である人間は、逆に言えば、この世界で『罪』を犯すことができる、唯一の生き物なのだ。 しかしそうなると今度は、そもそも『罪』というモノが何なのかという話にもなってしまう。 もしもそれらが、善と悪の隔たりを決めることが出来る人間が、自らを戒めるために作った様なモノだとしたら...... 果たしてそれらは、明らかに人間とは特異的な違いを持つ者に対しても、当てはまるのだろうか...... 自らのその行為を罪と捉えることが、果たして出来るのだろうか...... あぁ、ダメだ...... こういう言い方をしてしまうと、自らの行いを罪だと自覚できる生き物は、後にも先にも人間だけだという話に、行き着いてしまう。 行き着いて、収束してしまう。 ゴールデンウィークの、急転直下な、あの黄金色の数日間を経て、人間とは程遠い『不死身』という体質になってしまった僕にとって、そういう収束の仕方はあまりにも、都合が悪い。 だからきっと...... これからするこの御話は、そういう都合が悪いモノを捻じ曲げて、引き裂いて、流血を流しに流して、殺されながら前に進む。 痛くて、苦しくて、重くて、辛い...... むせかえる程に酷い血まみ
この場所は、あまりにも寒かった。 時刻はとっくに、深夜を通り過ぎて朝日が昇る手前の時間だ。 これは相模さんからのアドバイスである。『家に帰り、夕食を済ませたら、布団で寝て、そして朝日が昇る直前に、それを持って、この場所に行けばいい、そうすれば君は、彼女に会える。そして彼女に会って、それを使って、君が決めたことを、やればいいさ』 そう言いながら渡された、新聞紙に包まれた物と一緒に渡された小さな紙切れには、ある場所が記されていた。 こんな所に、こんな時間に、女の子が一人で居るのは、それはあまりにもおかしなことだと、普通では考えられないことだと、そう思った。 けれど...... もしもその女の子が『吸血鬼の異人』という存在ならば、きっとそれは異常なまでに、正常な光景なのだろう。 月の姿は見えなくとも、空の冷たい空気と、彼女の姿があまりにも、それがあまりにも、似合い過ぎているのだから...... だからきっと、今彼女はこの場所に居て、然るべきなのかもしれない。 そう思いながら、階段を登り終えた先に視線を移すと、やはり彼女はそこに、風を感じるようにして立って居た。 そして僕は、そんな彼女に声を掛けた。「琴音さん、こんな所で何をしているの?」 その僕の声に気付いた彼女は、振り返り、少し驚いた表情をした後に、言葉を紡ぐ。「なんで......なんで君が、ココに居るの......?」「そんなの、決まっているでしょ?琴音さんを探しに来たんだよ......だからさ......」 そう言いながら、僕は彼女に一歩近づく。 しかしそうすると、彼女は二歩程退いて、僕が近づくことすら拒む。「ダメだよ......来ないで......」「どうして......?」「どうしてって......もう知っているでしょ?私は、人を殺したんだよ......」「うん、知っているよ......僕を刺した通り魔を、あの場で、殺したんでしょ?」 そう僕が言うと、彼女はまた二歩程後ろに退いて、そして僕とは視線を合わせずに、弱々しい声で言う。「そうだよ......殺したんだよ......今まではちゃんと、上手くやっていたのに、それなのに、それなのに私は、あの一瞬だけはどうしても......どうしても抑えられなかった......」「それはどうして......?」「......わ
相模さんが僕に手渡した紙切れは、新聞紙だった。 そしてそれが新聞紙であるならば、おのずとそれには、必然的に記事の内容が書かれていたのだ。 もっとも、このとき相模さんが僕に手渡した紙切れが、本当にただの、何も書かれていない白紙の新聞紙なら話は別だが、しかしそこには、見出しであるのだろう、色彩に富んだ大きな文字で、こう書かれていたのだ。『横浜の夜、吸血鬼あらわる!!連続通り魔を殺害か!?』 その紙切れを見て、そして相模さんの言葉を訊いて、僕は数秒、おそらく本当の意味で、息を吞んだ。「これって......」 そう言いながら、言葉を失う僕に向けて、相模さんは淡々とした口調で言葉を紡いで、僕に事の顛末を説明してくれた。 あのあと、僕が殺された直後に、相手の通り魔の男性は首を吹き飛ばされてしまったらしい、しかしそれを見た周囲の人間は、あまりにも起きたことが異端すぎて、あまりもその光景が異常過ぎていて、まるでそれが、映画か何かの撮影だと思い込んだ人間の方が多くて、すぐに警察や救急車を呼ぶことを判断できた者は、ほとんど居なかったらしいのだ。 しかしそれでも、誰が見ても明らかな首無し死体と、不意を突かれて刺された僕の醜態と、通り魔の首を吹き飛ばした吸血鬼の異人である琴音さんが、その場にそんなモノが三つも居れば、それこそ必然的に、その場はパニックの中心になり果てる。 そしてその場がパニックになった直後、琴音さんはその場から、人間では考えられないような身体能力を駆使して、姿を消したのだ。 そしてその結果が、この新聞記事である。 昨日のことを一通り話した相模さんは、その口調のまま僕に言う。「琴音ちゃんの状態は、謂わばバランスを保っていて、どちらにも倒れない天秤のような状態だった」「天秤......ですか......」「あぁ......片方には君から吸い取った人間性、そしてもう片方には、元からあった、吸血鬼の異人としての異人性だ。けれど君が刺されて殺された現場を、一番近くで目撃した彼女は、そのときの君の血液を、一番近くで目の当たりにした彼女は、彼女の中にあったその半分の吸血鬼の異人性を、一気に膨れ上がらせて、暴走したんだ」「......」 無言で俯いている僕は、そのときの彼の言葉でようやく、相模さんが言っていた、『自覚的であるべきだ』という言葉の意味を、言
矛盾が生じてしまう恐れがあるので、予め言っておくと、僕は彼女のことを、とても綺麗で特別な存在だと、それは間違いなく、今でも思っているのだけれど...... なんだろう、それはなんとなく、そう理解しているに過ぎないのだ。 欲求だとか、下心だとか、色気だとか、そういうモノをまだ、微かになんとなく感じることが出来る筈なのに...... それなのに、ただ綺麗なモノを、綺麗だなって...... 僕は彼女に対して、そういう風な気持ちにしか、ならないのだ。「ねぇ......」「えっ?」 考え込んでいたところに、不意に声を掛けられたから、一瞬だけ思考が鈍くなる。「誠、私に話があるって言ってたでしょ?何の話?」「あぁ、うん......」 一拍置いて、少しだけ言葉を考えて、話し出す。「昨日さ、あのあと相模さんに会ったんだ......」「えっ、アイツに会ってたの?」 そう言いながら、彼女の視線は厳しく、冷たく、鋭さを増す。「あっ......」 言葉選び大失敗。 彼女にとっては、名前を出すべきではない人の名前を、僕は真っ先に言ってしまったのだから...... しかしこの話は、やはりあの専門家である相模さんの名前を出さない事には始まらない。 だから僕は、その彼女の視線に臆せずに、そのまま話を続ける。「うん、昨日あの後の帰り道、偶然会って、そのあとファミレスで少しだけ話をしたんだ」「偶然?へぇーそれで?」 明らかに不機嫌な態度をとる彼女に、やはり僕はそのまま話を続ける。「うん、吸血鬼の異人がどういう存在で、そしてこれから先、琴音さんや僕が、どういう風になってしまう恐れがあるのかも、多分全部ではないけれど、粗方訊いたんだ」 そう言うと、彼女は少しだけ表情を真剣なそれにして、口を開く。「そう......それで、誠はそれを訊いて、怖くなっちゃったの?」 その彼女の言葉に、僕は何故か、とても素直に返事をした。「......うん、そうだね。怖くなった......」 そう言いながら、僕は彼女の視線を見つめる。 その見つめた視線に、彼女が合わせながら話してくれる。「そっか......そりゃそうだよね......」「うん......まだ全然、自分が人間ではなくなったなんてこと、ちゃんと自覚はしていないけれど、でも......それでも緩やかに、けれ
「......でも、琴音さんは別に、人間を襲うわけじゃないんでしょ?」 そう言った僕の声は、自分でも驚く程に小さくて、弱々しかった。 まるで、さっき相模さんが言ったようなことに、彼女が含まれていないことを確認するような言葉を選んでいて、それでいて声は明らかに、僕自身が言った台詞が、相模さんに肯定されることを願っているような...... 何かに縋っているような、そういう物言いを、僕はしていたのだ。 しかしそんな僕の気持ちとは裏腹に、相模さんはそれを、真っ向から否定する。「いいや、それは彼女も例外ではないよ。少なくとも吸血鬼の異人である彼女にとって、人間は