「もうやめて……もう何も言わないで……頭が割れそう……隼人……隼人……」「千璃ちゃん!」刑務所から戻ったばかりの隼人は、別荘の門をくぐった瞬間、その光景を目にした。瑠璃が苦しそうに彼の名を呼び、瞬が彼女の手を握っていた。隼人はすぐに車を停め、雨の中を駆け出し、大股で駆け寄ると、呻き声を漏らす瑠璃を力強く抱きしめた。「千璃ちゃん、俺はここにいる、怖がらないで、大丈夫だから……」彼は彼女をしっかりと胸に抱き締め、苦しそうな表情を見るたびに、心が千々に裂かれていく思いだった。激しい怒りが湧き上がり、血の気を帯びた冷たい瞳が瞬に向けられた。唇から漏れたのは、氷のように冷たい言葉だった。「……出て行け。二度と俺の妻に近づくな。今すぐ消えろ」だが、瞬は怒ることもなく、かえって皮肉な笑みを浮かべた。その冷え切った黒い瞳が、蒼白な瑠璃の顔を一瞥し、続いて隼人の殺気に満ちた視線とぶつかる。彼は何も言わなかった。ただ一瞬の笑みを残して、その場を立ち去った。瞬がいなくなると、隼人の全身から冷気がすっと消え、代わりに彼女だけに向ける優しさと温もりがあふれ出た。「千璃ちゃん、怖くないよ。俺がそばにいるから。何があっても、守るから」腕の力を少し強めて、彼女を包み込む。その心臓は、不安と焦りで激しく鼓動していた。瑠璃は眉を寄せ、目を閉じたまま、記憶の深い底から――失ったはずの断片的な映像が静かに浮かび上がってくる。その夜は静かだった。深夜、ようやく彼女はゆっくりと意識を取り戻した。いつ自分が気を失ったのかは思い出せなかった。目を開けて少し体を動かすと、右手が何かに握られているのを感じた。視線を向けると、隼人が彼女のベッドの傍にいた。彼は両手で彼女の手を握っており、その手はずっと離されていなかったのだろう。手のひらにはぬくもりと、少しの湿り気が残っていた。瑠璃は身を起こし、水のように感情の浮かばない瞳で隼人の眠る横顔を見つめた。整った輪郭、深く整った眉と目。その顔立ちは、彼女の瞳に静かに映り込んでいた。しばらくそのまま見つめたのち――瑠璃は彼に握られていた手を、すっと引き抜いた。その動きにすぐ反応して、隼人は目を開けた。彼は彼女が目覚めたことに喜びの表情を浮かべ、再び手を握ろうとした。「千璃ちゃ
瑠璃はしゃがみ込んで、瞬よりも先に地面に落ちた物を拾い上げた。「どうして、これをあなたが持ってるの?」彼女の眉間は深く寄り、澄んだ瞳には疑念と驚きが浮かんでいた。瞬は静かにその七色の貝殻を瑠璃の手から取り上げ、大切そうに手のひらで包み込んだ。「十数年前、四月山の海辺で、ある小さな女の子がこの貝殻を俺にくれたんだ。『お兄ちゃん、ずっと幸せでいてね。できれば、ずっと一緒にいられますように』って」そう言いながら、瞬は瑠璃を見つめた。その眼差しには、どこか切ない哀愁が滲んでいた。「でも十数年後、その女の子は別の男を愛していた」「な……何を言ってるの?」その言葉を聞いた瑠璃は、ぱっと目を見開いた。目の前の整った顔立ち、鋭くも優しい目元――脳裏には、つい先日、蛍が刑務所で彼女に向かって叫んだ言葉がよみがえってきた。「そんなはず……あるわけない!」彼女は強く否定した。思い出したくなかった。蛍の言葉に心を乱されたくなかった。瞬は傘を横に投げ捨て、瑠璃の方へと歩み寄った。「瑠璃……」「来ないで!」彼女は一歩下がり、その瞳は鋭く光を放っていた。「私は記憶を失ってるけど、あのときのことだけははっきり覚えてる。あの男の子は、あなたじゃない。隼人よ!」瞬はその言葉に傷ついたように視線を落とした。だが、反論はしなかった。ただ、静かに、ゆっくりと語り始めた。「十八年前、俺と隼人は目黒家の祖父と一緒に、四月山の海辺へ行った。彼らにとっては、楽しい家族旅行だったかもしれない。でも俺にとっては、違った。その直前、俺の両親は仕組まれた事故で亡くなった。たった一日で、俺は親を失った孤児になった。その日、俺は海辺に座って、果てしない海を見つめていた。死にたかった。本当に、そこに飛び込んで、両親のもとへ行きたかった。でも――そのとき、一人の女の子がそっと俺の隣に座って、貝殻をくれたんだ。『お兄ちゃん、ずっと幸せでいてね』って。その笑顔が、あまりにも優しくて、まぶしくて……その瞬間、この世界にまだ、光があることを知った。……その女の子が、君だったんだ。瑠璃」瞬はその日、その時、その光景を、丁寧に、心を込めて語り終えた。そのまま視線を彼女の顔に固定し、深い想いを込めて見つめた。瑠璃は呆然と立ち尽くし、その瞳には知らず涙
蛍の胸には、切実な期待が渦巻いていた。「俺が人生で心を動かされたのは、たった一人の女だけだ。その人の名は千璃ちゃん。お前みたいな陰険で残酷な女に、男が惹かれると思うか?」「……っ!」蛍は苦笑した。拳を握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込め、目には嫉妬と憎しみが溢れていた。「ふふ……その答え、十分よ。これでもう、死んでも死にきれないわね!」彼女は唇を強く噛みしめた。皮膚が裂け、血が滲んでもなお、放そうとしなかった。隼人は、その醜く歪んだ姿にもう興味もなく、苛立ったように口を開いた。「お前と話している暇はない。言いたいことがあるなら、さっさと話せ」顔を背ける隼人の横顔を見て、蛍は苦しげに笑い、皮肉混じりに呟いた。「隼人……私、明日には死ぬのよ?それなのに、どうして一度も私の目を見てくれないの?昔はよく言ってくれたじゃない。『君は世界で一番優しくて美しい女の子』って……」その言葉を聞いた隼人の目には、あからさまな嫌悪の色が浮かんだ。「千璃ちゃんと勘違いしてなければ、そんな言葉をお前に向けるはずがない。蛍――死ぬ間際まで俺を不快にさせるな」「……不快?」蛍の顔色が一変した。彼女はガシッと鉄格子を掴み、怒りに震える声を吐き出した。「私は不快よ!でもね、不快なことをしてきたのは全部、あなたのためだった!私はあなたのために、自分の尊厳も何もかも捨てたのに、どうして一度も私を見てくれなかったの!?どうして、こんなにもあなたのそばにいたのに、一度だって私に触れてくれなかったの!?」その言葉を聞いた隼人の表情がわずかに揺らいだ。……肌を重ねたことがない。彼はそれを予感していた。だが、今この女の口からはっきりと聞いたことで、確信に変わった。……その頃、別荘の書斎では、瑠璃が一枚のデザイン画を描き終えて、祖父の様子を見に行こうとしていた。立ち上がり、ふと無意識に窓の外を見ると、いつの間にか細かな雨が降り始めていた。雨足は弱いが、空はどんよりと灰色に染まっていた。瑠璃は急いで祖父の部屋に行き、窓を閉めに向かった。だが、窓を閉めかけたとき、視界の端に見覚えのある人影が映った。黒い傘を差し、別荘の門をくぐって入ってくる男――彼女はすぐに玄関へと向かい、ドアを開けた瞬間、ちょうどノックしようとしていた男
蛍の鋭い叫び声が耳を突いた。瑠璃の心が一瞬強く揺れたが、足を止めることはなかった。彼女が何の反応も見せないのを見て、蛍の目は血走り、さらに狂ったように叫び始めた。「瑠璃!あんたはずっと勘違いしてたんだ!あの少年と結ばれたと思ってたかもしれないけど、隼人はあの子じゃない!違うのよ!だからこそ、あの男は約束なんて覚えてなかった。だからこそ、冷酷にあんたを踏みにじれた!辱められた!あんたは彼が私をあんたと勘違いして優しくしてたって思ってるんでしょ?違うのよ、あれは本気だった!彼は本当に私を愛してたの!今、あんたに優しくしてるのも――全部私の復讐のためよ!瑠璃、あんたはあの少年を探し続けて、結局心も身体も全部間違った相手に捧げたの!本当の約束の相手を裏切って、よく隼人と幸せそうにできるわね!ハハハハ――!」瑠璃は静かに刑務所の門を出た。それでも、蛍の狂ったような叫び声が耳の奥に残っていた。いつの間にか握りしめていた両手をゆっくり開き、深く息を吐いた。――私は、蛍の言葉に惑わされちゃいけない。隼人があの男の子じゃないなんて、ありえない。もし違うなら、なぜあの頃のことをそんなにも詳しく知っていたのか?それに、彼の名前は確かに隼人だった。瑠璃の記憶は、そこだけは決して曖昧じゃなかった。だから――これは、死を目前にした蛍が、わざと彼女と隼人の仲を裂こうとしているのだ。そんな手には乗らない。瑠璃はすぐに別荘へ戻った。祖父はまだ庭の車椅子に座っていた。瑠璃の姿を見つけると、「うーうー」と声を発して必死に彼女に訴えかけてくる。その目には心配の色が浮かんでいた。「おじいさま……」瑠璃は急いで近寄り、膝をついてそっと手を握った。「心配かけちゃったね、私は大丈夫ですよ」……その頃、隼人は君秋を学校に送り届けた後、すぐに別荘へ戻ってきた。家に入ると、瑠璃は書斎で静かにデザインを描いており、祖父は部屋で休んでいた。何もかもが、穏やかで平和な光景だった。隼人は胸をなで下ろし、静かにキッチンで紅茶を淹れ、カップを手に取って書斎へ向かった。そのとき――ポケットの中でスマホが振動した。見知らぬ番号だったが、数秒見つめたのち、彼は通話ボタンを押した。すると、電話の向こうから聞こえてきたのは、蛍の声だっ
「バカだな。お前は俺の妻なんだ。心配したり、不安になるのは当たり前だろ?」隼人のその一言に、瑠璃の笑顔はさらに柔らかく甘くなった。その後、隼人は南川先生を呼び、瑠璃に異常がないことを確認した上で、彼女を連れて帰宅した。だが、帰り道――隼人の脳裏には、昨夜瞬が言った言葉がずっと残っていた。二日?二日後に、瞬は一体何をしようとしているのか。わからない。けれど、何が起ころうとも――彼は瑠璃を絶対に手放すつもりはなかった。別荘に戻ってから、隼人は優しく彼女に言い聞かせた。「この二日間は、絶対に家の中で大人しくしていてくれ。外には出ないで」瑠璃は素直に頷いた。だが翌朝、隼人は君秋を学校に送るため、家を離れることに。天気は澄みわたる快晴。瑠璃は車椅子を押して、祖父を庭へ連れて行き、日向ぼっこをさせていた。自分はその隣に座り、画材を取り出して絵を描こうとしたそのとき――スマホが鳴った。意外にも、電話の相手は警察だった。明日、蛍の死刑が執行されるという。そして、彼女の最後の願いは、瑠璃に一目会いたいというものだった。隼人の「家から出るな」という言葉を思い出し、瑠璃は一度は断ろうとした。だがその時、ちょうど別荘の門前に一台のパトカーが停まり、警察官が二人降りてきて、そのまま中へと入ってきた。「四宮蛍が、どうしてもあなたに伝えたい大事なことがあると言っています」そう言われたが、瑠璃は、彼女と話す必要など一切感じていなかった。けれど、その二人の警官は半ば強引に瑠璃を車に乗せてしまった。祖父は、それを目の前で見ていながらも、声を上げて止めようとしたが、力及ばず――どうすることもできなかった。こうして瑠璃は、刑務所へと連れて行かれた。蛍は独房に収監されていた。以前のようにボロボロな姿ではなく、ある程度身なりを整えていたが、若さや生気はすでに失われていた。その顔を見た途端、瑠璃の脳裏には、かつて彼女が自分を陥れ、苦しめた場面が次々と浮かび上がった。瑠璃は落ち着いた様子で、美しい瞳を見開き、皮肉を込めた声で言った。「刑務所にいながら、まだこんな強引なことができるなんてね。わざわざ私を呼びつけて、最後の面会だなんて」蛍はその言葉を無表情で聞いていたが、突如として狂ったように笑い始めた。しばら
「なぜって?」瞬の唇の端に、何とも言えない含み笑いが浮かんだ。「かつて俺が瑠璃をあの世の淵から引き戻したんだ。なら、今の彼女が誰を愛し、誰を憎むかだって、俺が決められる」隼人は腕の中にいる彼女を見下ろし、そっと優しくその顔を見つめた。だが次の瞬間、目を上げた彼の瞳には、まるで氷の針のような鋭さが宿っていた。「誰にも、千璃ちゃんの気持ちを操ることはできない。瞬……いつか千璃ちゃんは、きっとお前の本性を見抜くだろう」瞬はくすっと笑いながら答えた。「そんな日は来ないよ」そう言って、彼は隼人に数歩近づいた。車のライトの下、その端整な顔立ちはいつの間にか影を帯び、冷たい闇に包まれていた。「隼人、残された二日間を大切にしろよ。君が瑠璃と一緒に過ごせる最後の時間だからな。やがて、君は彼女を完全に、そして永遠に失う」そう言い残して、瞬は踵を返した。道の脇で運転手が車のドアを開けて待っており、彼はそのまま何の躊躇いもなく車に乗り込み、颯爽とその場を去って行った。隼人は追おうとはしなかった。今、彼の目にも心にも映っているのは――瑠璃だけだった。彼は急いで瑠璃を抱きかかえ、病院へと向かった。その頃、南川先生はちょうど仕事を終えて病院の外に出ようとしていたところだった。だが、前方から隼人が切迫した表情で瑠璃を抱えて走ってくる姿を見て、すぐさま中へ引き返した。道中、隼人は彼女が突然倒れた経緯を説明し、南川先生はそれを聞いて驚愕した。「瞬って……彼、前は瑠璃を救ったんじゃなかったのか?どうして今になって、こんなことを?」「彼が狙ってるのは俺なんだ」隼人はそう断言し、重苦しい視線を眠ったままの瑠璃に落とした。「南川先生、もし彼女が目を覚ましたら……どんな状態になってると思う?」「確実なことは言えない。でも高い確率で、また君を深く愛している人格に戻ってると思う」その答えを聞いた隼人の顔に、少しも喜びの色は浮かばなかった。実のところ、数日前から彼は瑠璃の言動に明らかな変化を感じ取っていた。あの日、雪菜が老人虐待の犯人であることを暴いた瑠璃の姿。その目の強さ、あの自信に満ちた気迫――それは後の彼女のものでしかなかった。彼はあえて黙っていた。もっと長く一緒にいたかったから。彼女がどの人格であっても、愛してくれても