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真夏の夜の別れ
真夏の夜の別れ
Author: 二ノ舞

第1話

Author: 二ノ舞
結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。

彼女は窓口で書類を受け取り、内容を確認して訂正を申し出た。「すみません、婚姻状況が間違っています。私は『離婚』ではなく、『既婚』です」

彼女の夫、夜月鷹真(やづき たかま)は、首都圏政商界でも有名な「狂気の御曹司」だ。独占欲が非常に強く、彼女が手放そうとしても、彼が許すはずがなかった。

ところが、担当者は何度もデータを照会した末、きっぱりと言った。「間違いありません。夏見さんと夜月さんは、3年前の今日、離婚手続きをされました。その日のうちに彼は再婚されました。お相手は須田染花(すだ そめか)という方ですが、ご存知ですか?」

柚葉は全身が硬直し、その場で凍りついたようになった。

「知っている」どころではなかった。

染花は鷹真の狂信的なストーカーだった。

5年前、彼女は二人の結婚式に乗り込み、会場で暴れて二十人の警備員に取り押さえられた。

4年前、彼のオフィスの机に全裸で横たわっていたところを警察に通報され、20日間の拘留を受けた。

3年前、それは柚葉にとって悪夢のような年だった。染花は鷹真に拒絶された怒りから、柚葉のスタジオに押し入り、彼女の右手を切り落とした。

鷹真はその話を聞くと目を真っ赤にして、「殺してやる」と怒り狂った。それを必死で止めたのが、ほかでもない柚葉だった。

その後、鷹真は染花を監禁し、毎日鞭で打ち、「俺の愛する人を傷つけた代償は、刑務所の何千倍もの苦しみだ」と言って彼女を罰した。

だが今、柚葉は聞かされた。右手を失ったその日、鷹真は染花と結婚したというのだ。そんな馬鹿な!

……

呆然とする彼女のもとに、鷹真からメッセージが届いた。

【柚葉、今日は俺たちの5周年記念日だ。あの女を懲りしめたら、すぐに君のもとへ帰るよ。愛してる】

画面を見つめながら、柚葉は茫然としていた。

この5年間、彼から届くメッセージには必ず「愛してる」の言葉が添えられていた。その愛は常に熱く、激しく、溢れんばかりだった。

彼女がただの無名デザイナーだった頃、兆の資産を持つ社長の彼は、初めて見た瞬間から恋に落ち、熱烈に追いかけてきた。

街を埋め尽くす花火、空輸された希少なバラ、超高額のジュエリー……毎日のように違う方法で愛を伝えてきた。

だが、彼女の心を動かしたのは、胃痛に苦しんだとき、彼が夜中に海外から飛んできてお粥を作ってくれたこと。

気分が落ち込んだとき、役員たちの前で会議を止めてまで、ジョークを披露してくれたこと。

同僚の嫉妬から硫酸をかけられそうになったとき、自分の背中が血まみれになりながらも彼女を守り、「怖がらないで」と優しく言ってくれたこと。

鷹真は他人には冷酷で暴力的ですらあったが、柚葉には限りない優しさと愛を注いでくれていた。

そんな彼が、本当に彼女を裏切るだろうか?

気がつけば、柚葉はタクシーに乗っていた。向かった先は、鷹真が染花を監禁しているはずの山頂の別荘だった。

庭から、微かに泣き声のような音が聞こえてきた。

少し近づき、紫藤の花の隙間から覗き込んだ彼女が目にした光景は、まさに雷に打たれるような衝撃だった。

鷹真はスーツ姿で背筋を伸ばし、手にした羽鞭で何度も染花の体を打っていた。

裸の染花はブランコに縛りつけられ、喘ぎ声を漏らしていた。

次の瞬間、彼は鞭を捨て、彼女の体に覆いかぶさり、激しく唇を重ねた。

二人の姿が重なり合い、彼の衣服はすべて脱ぎ捨てられ、汗が背中をつたって流れ落ちた。

柚葉の顔から血の気が引き、心臓が裂けるような痛みが走った。

さっきの「泣き声」は、満ち足りた喘ぎだった。

「鞭打ち」とは、ただの愛の戯れ。

「監禁」とは、愛の巣そのものだった。

柚葉は、揺れ続けるブランコを呆然と見つめた。それはかつて鷹真が彼女のために、1ヶ月もの時間をかけ、手に血豆を作りながら自ら作り上げたものだった。

あの時、彼は優しく言った。「俺の柚葉は、この世でただ一つの美しさにふさわしい。ブランコは柚葉だけのもの、俺の愛もまた同じだ」

だが今、ブランコも愛も、すべてが別の女に与えられていた。

彼女をほとんど破滅させた、憎むべき相手に。

柚葉は震えながら、血が滲むほど手を握りしめ、体中に広がる痛みに耐えていた。

なぜ?一体なぜ?

答えはすぐに明かされた。

動きが止んだブランコの上、染花は頬を紅潮させながら言った。「あなたって最高……夢みたい。私、本当にあなたと結婚できたなんて」

「それは当然の報いだ」鷹真はシャツを着ながら、淡々と続けた。

「3年前、俺が『柚葉を海外留学させたくない。ずっとそばにいてほしい』と口にした。それだけでお前はバカみたいに彼女の手を切り落として、彼女を二度とデザインできないようにしてくれた。そして自首までして、『刑務所で一生を終えてもいい』とまで言った。

冷たい俺でも、そんな無償の愛には心を動かされた。柚葉は堂々と俺の愛を受け取れるが、お前は別荘に隠すしかできない。だからせめて妻の立場だけでも与えたのさ」

柚葉は思わず後ずさった。胸をえぐられるような痛みが襲った。

かつて、ある若者が彼女を「翼の折れたエンジェル」と笑った時、鷹真はその舌を引き抜かせた。「柚葉を侮辱する者は、こうなる」と。

だが今、彼は彼女の翼を折ったその女を抱き、愛し、妻の立場を与えている。

「夏見さんにバレたらどうするの?」と、染花が心配そうに言った。「きっと受け入れないわ」

鷹真は落ち着き払って言った。「俺の柚葉への愛は変わらない。ずっと彼女を守る。彼女にバレることもない」

別荘から去る前に、彼は染花の指にピンクダイヤをはめた。

「えっ?」染花は驚きの声を上げた。「これって数日前のサザビーズの目玉商品じゃない!20億もするって……私なんかがつけていいの?」

「お前は俺の女だ。当然だよ」彼は啄むように彼女の唇をキスして、囁いた。「俺の妻、染花よ、3周年おめでとう」

黒いカイエンが遠ざかっていくのを見届けたあと、柚葉は呆然と山を降りた。

スマホが震え、彼女は無意識に画面を見た。

【柚葉、今帰宅中。君との5周年を過ごせるのが楽しみで仕方ないよ。愛してる】

柚葉はふいに笑い出した。涙が止まらず、胸が風に吹かれたように空虚だった。

彼は他の女と3周年を祝ったばかりで、今度は自分と5周年だって?

でも、そもそも5周年なんて存在しない。彼らはもう3年前に離婚しているのだ。

「愛」だって?鷹真の言う愛が、彼女の翼を折り、一生を縛るものなら――

そんな愛なんて、もう二度といらない。

鷹真は彼女には永遠にバレないと言った。でも、それは違う。彼は永遠に彼女を失うのだ。

柚葉は手に握ったセレーヌデザインコンテストの応募用紙をきつく握りしめ、踵を返して、二つの大事なことをやりに行った。
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