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真夏の夜の別れ

真夏の夜の別れ

By:  二ノ舞Completed
Language: Japanese
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結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。 彼女は窓口で書類を受け取り、内容を確認して訂正を申し出た。「すみません、婚姻状況が間違っています。私は『離婚』ではなく、『既婚』です」 彼女の夫、夜月鷹真(やづき たかま)は、首都圏政商界でも有名な「狂気の御曹司」だ。独占欲が非常に強く、彼女が手放そうとしても、彼が許すはずがなかった。 ところが、担当者は何度もデータを照会した末、きっぱりと言った。「間違いありません。夏見さんと夜月さんは、3年前の今日、離婚手続きをされました。その日のうちに彼は再婚されました。お相手は須田染花(すだ そめか)という方ですが、ご存知ですか?」 柚葉は全身が硬直し、その場で凍りついたようになった。 「知っている」どころではなかった。

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Chapter 1

第1話

結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。

彼女は窓口で書類を受け取り、内容を確認して訂正を申し出た。「すみません、婚姻状況が間違っています。私は『離婚』ではなく、『既婚』です」

彼女の夫、夜月鷹真(やづき たかま)は、首都圏政商界でも有名な「狂気の御曹司」だ。独占欲が非常に強く、彼女が手放そうとしても、彼が許すはずがなかった。

ところが、担当者は何度もデータを照会した末、きっぱりと言った。「間違いありません。夏見さんと夜月さんは、3年前の今日、離婚手続きをされました。その日のうちに彼は再婚されました。お相手は須田染花(すだ そめか)という方ですが、ご存知ですか?」

柚葉は全身が硬直し、その場で凍りついたようになった。

「知っている」どころではなかった。

染花は鷹真の狂信的なストーカーだった。

5年前、彼女は二人の結婚式に乗り込み、会場で暴れて二十人の警備員に取り押さえられた。

4年前、彼のオフィスの机に全裸で横たわっていたところを警察に通報され、20日間の拘留を受けた。

3年前、それは柚葉にとって悪夢のような年だった。染花は鷹真に拒絶された怒りから、柚葉のスタジオに押し入り、彼女の右手を切り落とした。

鷹真はその話を聞くと目を真っ赤にして、「殺してやる」と怒り狂った。それを必死で止めたのが、ほかでもない柚葉だった。

その後、鷹真は染花を監禁し、毎日鞭で打ち、「俺の愛する人を傷つけた代償は、刑務所の何千倍もの苦しみだ」と言って彼女を罰した。

だが今、柚葉は聞かされた。右手を失ったその日、鷹真は染花と結婚したというのだ。そんな馬鹿な!

……

呆然とする彼女のもとに、鷹真からメッセージが届いた。

【柚葉、今日は俺たちの5周年記念日だ。あの女を懲りしめたら、すぐに君のもとへ帰るよ。愛してる】

画面を見つめながら、柚葉は茫然としていた。

この5年間、彼から届くメッセージには必ず「愛してる」の言葉が添えられていた。その愛は常に熱く、激しく、溢れんばかりだった。

彼女がただの無名デザイナーだった頃、兆の資産を持つ社長の彼は、初めて見た瞬間から恋に落ち、熱烈に追いかけてきた。

街を埋め尽くす花火、空輸された希少なバラ、超高額のジュエリー……毎日のように違う方法で愛を伝えてきた。

だが、彼女の心を動かしたのは、胃痛に苦しんだとき、彼が夜中に海外から飛んできてお粥を作ってくれたこと。

気分が落ち込んだとき、役員たちの前で会議を止めてまで、ジョークを披露してくれたこと。

同僚の嫉妬から硫酸をかけられそうになったとき、自分の背中が血まみれになりながらも彼女を守り、「怖がらないで」と優しく言ってくれたこと。

鷹真は他人には冷酷で暴力的ですらあったが、柚葉には限りない優しさと愛を注いでくれていた。

そんな彼が、本当に彼女を裏切るだろうか?

気がつけば、柚葉はタクシーに乗っていた。向かった先は、鷹真が染花を監禁しているはずの山頂の別荘だった。

庭から、微かに泣き声のような音が聞こえてきた。

少し近づき、紫藤の花の隙間から覗き込んだ彼女が目にした光景は、まさに雷に打たれるような衝撃だった。

鷹真はスーツ姿で背筋を伸ばし、手にした羽鞭で何度も染花の体を打っていた。

裸の染花はブランコに縛りつけられ、喘ぎ声を漏らしていた。

次の瞬間、彼は鞭を捨て、彼女の体に覆いかぶさり、激しく唇を重ねた。

二人の姿が重なり合い、彼の衣服はすべて脱ぎ捨てられ、汗が背中をつたって流れ落ちた。

柚葉の顔から血の気が引き、心臓が裂けるような痛みが走った。

さっきの「泣き声」は、満ち足りた喘ぎだった。

「鞭打ち」とは、ただの愛の戯れ。

「監禁」とは、愛の巣そのものだった。

柚葉は、揺れ続けるブランコを呆然と見つめた。それはかつて鷹真が彼女のために、1ヶ月もの時間をかけ、手に血豆を作りながら自ら作り上げたものだった。

あの時、彼は優しく言った。「俺の柚葉は、この世でただ一つの美しさにふさわしい。ブランコは柚葉だけのもの、俺の愛もまた同じだ」

だが今、ブランコも愛も、すべてが別の女に与えられていた。

彼女をほとんど破滅させた、憎むべき相手に。

柚葉は震えながら、血が滲むほど手を握りしめ、体中に広がる痛みに耐えていた。

なぜ?一体なぜ?

答えはすぐに明かされた。

動きが止んだブランコの上、染花は頬を紅潮させながら言った。「あなたって最高……夢みたい。私、本当にあなたと結婚できたなんて」

「それは当然の報いだ」鷹真はシャツを着ながら、淡々と続けた。

「3年前、俺が『柚葉を海外留学させたくない。ずっとそばにいてほしい』と口にした。それだけでお前はバカみたいに彼女の手を切り落として、彼女を二度とデザインできないようにしてくれた。そして自首までして、『刑務所で一生を終えてもいい』とまで言った。

冷たい俺でも、そんな無償の愛には心を動かされた。柚葉は堂々と俺の愛を受け取れるが、お前は別荘に隠すしかできない。だからせめて妻の立場だけでも与えたのさ」

柚葉は思わず後ずさった。胸をえぐられるような痛みが襲った。

かつて、ある若者が彼女を「翼の折れたエンジェル」と笑った時、鷹真はその舌を引き抜かせた。「柚葉を侮辱する者は、こうなる」と。

だが今、彼は彼女の翼を折ったその女を抱き、愛し、妻の立場を与えている。

「夏見さんにバレたらどうするの?」と、染花が心配そうに言った。「きっと受け入れないわ」

鷹真は落ち着き払って言った。「俺の柚葉への愛は変わらない。ずっと彼女を守る。彼女にバレることもない」

別荘から去る前に、彼は染花の指にピンクダイヤをはめた。

「えっ?」染花は驚きの声を上げた。「これって数日前のサザビーズの目玉商品じゃない!20億もするって……私なんかがつけていいの?」

「お前は俺の女だ。当然だよ」彼は啄むように彼女の唇をキスして、囁いた。「俺の妻、染花よ、3周年おめでとう」

黒いカイエンが遠ざかっていくのを見届けたあと、柚葉は呆然と山を降りた。

スマホが震え、彼女は無意識に画面を見た。

【柚葉、今帰宅中。君との5周年を過ごせるのが楽しみで仕方ないよ。愛してる】

柚葉はふいに笑い出した。涙が止まらず、胸が風に吹かれたように空虚だった。

彼は他の女と3周年を祝ったばかりで、今度は自分と5周年だって?

でも、そもそも5周年なんて存在しない。彼らはもう3年前に離婚しているのだ。

「愛」だって?鷹真の言う愛が、彼女の翼を折り、一生を縛るものなら――

そんな愛なんて、もう二度といらない。

鷹真は彼女には永遠にバレないと言った。でも、それは違う。彼は永遠に彼女を失うのだ。

柚葉は手に握ったセレーヌデザインコンテストの応募用紙をきつく握りしめ、踵を返して、二つの大事なことをやりに行った。
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第1話
結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。彼女は窓口で書類を受け取り、内容を確認して訂正を申し出た。「すみません、婚姻状況が間違っています。私は『離婚』ではなく、『既婚』です」彼女の夫、夜月鷹真(やづき たかま)は、首都圏政商界でも有名な「狂気の御曹司」だ。独占欲が非常に強く、彼女が手放そうとしても、彼が許すはずがなかった。ところが、担当者は何度もデータを照会した末、きっぱりと言った。「間違いありません。夏見さんと夜月さんは、3年前の今日、離婚手続きをされました。その日のうちに彼は再婚されました。お相手は須田染花(すだ そめか)という方ですが、ご存知ですか?」柚葉は全身が硬直し、その場で凍りついたようになった。「知っている」どころではなかった。染花は鷹真の狂信的なストーカーだった。5年前、彼女は二人の結婚式に乗り込み、会場で暴れて二十人の警備員に取り押さえられた。4年前、彼のオフィスの机に全裸で横たわっていたところを警察に通報され、20日間の拘留を受けた。3年前、それは柚葉にとって悪夢のような年だった。染花は鷹真に拒絶された怒りから、柚葉のスタジオに押し入り、彼女の右手を切り落とした。鷹真はその話を聞くと目を真っ赤にして、「殺してやる」と怒り狂った。それを必死で止めたのが、ほかでもない柚葉だった。その後、鷹真は染花を監禁し、毎日鞭で打ち、「俺の愛する人を傷つけた代償は、刑務所の何千倍もの苦しみだ」と言って彼女を罰した。だが今、柚葉は聞かされた。右手を失ったその日、鷹真は染花と結婚したというのだ。そんな馬鹿な!……呆然とする彼女のもとに、鷹真からメッセージが届いた。【柚葉、今日は俺たちの5周年記念日だ。あの女を懲りしめたら、すぐに君のもとへ帰るよ。愛してる】画面を見つめながら、柚葉は茫然としていた。この5年間、彼から届くメッセージには必ず「愛してる」の言葉が添えられていた。その愛は常に熱く、激しく、溢れんばかりだった。彼女がただの無名デザイナーだった頃、兆の資産を持つ社長の彼は、初めて見た瞬間から恋に落ち、熱烈に追いかけてきた。街を埋め尽くす花火、空輸された希少なバラ、超高額のジュエリー……毎日のように違う方法で
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第2話
柚葉が最初にしたことは、国内すべての身分情報の抹消申請だった。二つ目のことは、新しい身分でデザインコンテストへの応募をやり直すこと。3年前、染花が彼女の右手を切り落としたとき、切断された手をそのまま野犬の餌にし、接合の望みは完全に絶たれた。その日を境に、鷹真は狂ったように彼女を哀しみ、千億円を投じて、ほぼ完璧な義手を作らせた。日常生活には不便はなかったが、精密な作業――彼女が最も愛したデザインは、もうできなかった。夢が潰え、柚葉は三度も自殺を図り、何度も夜明けまで涙を流した。それでも最後は歯を食いしばり、左手でやり直す決意をした。その道は過酷だった。千日以上にわたって、左手には無数のタコができた。そしてようやく、彼女はセレーヌデザインコンテストの最終選考に残ることができた。本当は鷹真には内緒で、驚かせようとしていたのだ。彼が愛した彼女は、どんな運命にも屈せず、立ち上がり続けてきたことを伝えるために。でも今はただ、告げなくてよかったと安堵するばかりだった。もし彼に早く話していたら、きっと左手まで失っていたかもしれない。彼女はスマホの画面を見下ろした。【身分抹消申請を受理しました。手続き完了まで営業日で10日ほどかかります】10日後、彼女はセレーヌへ発ち、もう二度と戻らないつもりだ。どれほど鷹真が執着しようと、身分を抹消した人間を見つけることはできない。夕暮れが迫る頃、柚葉は別荘に戻った。屋敷の中は張り詰めた空気、まるで戦場のような混乱。鷹真は全ての使用人を縛り上げ、冷たい声で柚葉の行方を問い詰めていた。彼女の姿を目にした使用人たちは、まるで赦しを得たように安堵の息をついた。鷹真もまた、ようやく緊張を解いたように彼女を強く抱きしめた。「柚葉、どこに行ってたの?すごく心配したんだ」柚葉の身体が一瞬こわばったが、最終的には平静を装って答えた。「買い物してたら、時間を忘れちゃって」鷹真は困ったように彼女の髪を撫でた。「これからは夫を連れて行ってね。荷物持ちも支払いも、いつでも出動するよ」夫?柚葉の胸がチクリと痛んだ。3年前から、彼は既に自分の夫じゃなくなったのに。「今日は俺たちの5周年記念日だよ。夫からのプレゼント、見てくれる?」鷹真は柚葉の手を引き、裏庭のヘリポートまで連れて
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第3話
「コトン――」指輪が柚葉の指から滑り落ちた。鷹真は心ここにあらず、頭の中は染花のことでいっぱいだから、指輪を間違えて着けたことにすら気づいていなかった。彼はチップ入りの女性用リングを持ち去り、本来監視用の男性用リングは柚葉のところに置いていった。少しの間ためらった末、柚葉はそのリングのスイッチを押した。「ごめんね、あなた……私だって、うつ病なんてなりたくなかった。でも、ここに3年間も閉じ込められて、もう本当に気が狂いそうなの……」染花のすすり泣く声がリングから漏れた。「私のことなんて気にしないで。今日はあなたと夏見さんの5周年記念日でしょ?そばにいてあげて……私は頑張って乗り越えるわ。どうせこの3年もなんとか我慢してきたんだし……」「馬鹿なこと言うな」鷹真の低く、威圧感のある声が続いた。「俺はお前の男だ。お前が病気なら、放っておけるわけがない。行こう、少し外に出よう」「ほんとに?」染花は嬉しそうに言った。「夢みたい……私、本当にここから出られるの?」「俺がお前に嘘をついたことあるか?今すぐ行こう」聞き覚えのあるプロペラの音が響き始め、柚葉は、彼らがヘリに乗ったことがわかった。彼女は思い出した――3年前、右手を失って絶望していた自分を、鷹真が慰めようとあらゆる手を尽くしたことを。あのとき彼はこのヘリを買い、雲の上へ連れ出しながら、優しく語りかけてくれた。「柚葉、見てごらん。どんなに巨大な建物も、上から見るとこんなに小さく見えるのだ。人生の困難も同じさ。どんなにつらくても、俺が一緒に乗り越えるよ」その言葉を、柚葉は信じてしまった。けれど、今になってわかった。あの「困難」は、彼が与えたものだったのだ。空に再びヘリが現れたとき、柚葉は一瞬、自分の目を疑った。だがそれは現実で、ついにそのヘリは隣の別荘へと降り立った。指輪から鷹真の声が聞こえた。「染花、今まで外に出る機会はなかったけど、実は記念日のプレゼントをずっと用意してたんだ。この山荘はお前のものだ。今日はここで、1日一緒に過ごそう」染花の歓喜に満ちた笑い声が響く中、柚葉のスマホに鷹真からメッセージが届いた。【柚葉、今クライアントとプロジェクトの打ち合わせ中だ。明日の夜には戻るよ。それまで自分で楽しんでね。何か必要ならすぐ夫に言って。愛
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第4話
翌日、鷹真は時間通りに戻ってきた。彼の手には、40億円の価値がある「シースター」ネックレスと、世界に一着しかない「星光ダイヤモンド」のドレスがあった。「柚葉、今日は5周年記念日を改めて祝おう。すべての人に、俺たちの幸せを証明してみせるよ」その口調は優しかったが、いつものように反論の余地を与えないものだった。柚葉は黙ってドレスに着替え、彼の驚嘆のまなざしに導かれて、その場を後にした。晩餐会は夜月グループ傘下の七つ星ホテルで開催された。華やかに装飾された宴会場には、高級な衣装に身を包んだ人々が集い、セレブたちがひしめいていた。ただ――すべてのウェイトレスはドレスを着用し、仮面をつけていた。鷹真は無表情で彼女たちを一瞥すると、柚葉に説明した。「柚葉、今夜の主役は君だ。脇役たちには仮面をつけさせた方が、主役が目立つのだ」柚葉は、何かに気づいたように顔色を失った。何か言おうとした矢先――周囲から賞賛の声が飛び交った。「さすが夜月さん、相変わらず愛情深くて気が利くわね。奥さんって本当に幸せ者!」「結婚5周年の贈り物は、1千億円の豪邸だって聞いたよ」「夜月さんは言ってたよ、『愛は年々増すばかり、贈り物もどんどん豪華になる』って」その時、不意に布の裂ける音が響いた。「す、すみません……」一人の仮面をつけたウェイトレスが、震えるように立ち上がった。彼女のドレスは太ももの付け根まで裂け、美しい脚があらわになっていた。だが、客たちは誰一人それを楽しむ余裕などなかった。全員が静まり返った。鷹真が「愛妻狂」であることは有名なのだ。こんな場で雰囲気を壊すようなことをしたら……彼は狂ってしまうだろう。誰もが心の中で、この不運なウェイトレスの冥福を祈った。案の定、鷹真の声は氷のように冷たかった。「ついてこい」「柚葉、ウェイトレスへの教育が行き届いてないようだな。ちょっと彼女を躾けてやる、すぐ戻るよ」そう穏やかに言い残すと、彼はウェイトレスの手首を掴み、無理やり上階へと連れて行った。少しして、柚葉も後を追った。三階の角、会議室の扉はわずかに開いていた。そこにいたのは、さきほどの「ウェイトレス」。彼女は会議テーブルに座り、長く滑らかな脚を鷹真の腰に巻きつけていた。仮面は外され、横に静かに置かれていた
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第5話
柚葉が再び目を覚ましたのは、病院だった。鷹真は目を赤くし、罪悪感に満ちた表情で言い訳した。「柚葉、君を守りたかったんだ。ただ、あの時は焦ってたせいで、間違って別の人を助けてしまった」彼は繰り返し柚葉の手にキスを落とし、まるでその手を通じて、自分の愛と痛みを伝えようとしているかのようだった。だが、彼は忘れていた。それが義手であることを。柚葉はその手に何の温もりも感じず、ただ彼の言葉の嘘くささに吐き気すら覚えた。彼女は冷たく問った。「そのウェイトレス、どうするつもり?」彼女ははっきりと見ていた。あのシャンパンタワーの崩壊は、決して偶然ではなく、染花が故意に仕組んだものだと。鷹真の表情が一瞬止まった。そして平然と答えた。「確かに彼女の不注意だった。もう命じてあるよ。今後、世界中どこでも、彼女がウェイトレスとして働けないように手配した」柚葉は一瞬呆然とし、そして急に笑った。その笑顔は、心の奥に細かな亀裂を生み、痛みが容赦なく入り込んできた。須田染花はもともとウェイトレスなんかじゃない。まるで「猫になれないようにする」とでも言わんばかりの滑稽な処罰。本当に笑えるわ。彼女の笑顔を見て、鷹真も安心したのか笑みを浮かべ、その後も献身的に世話を続けた。点滴の進行を気にかけ、自ら彼女の傷を丁寧に手当てし、瑞々しいライチをむいて彼女の口元まで運び、種を自分の手のひらに吐き出させた。通りすがりの医者や看護師たちは、柚葉の「幸運」に羨望の眼差しを向けた。――あの特別の着信音が鳴るまでは。鷹真は一瞬ためらい、平然を装って言った。「柚葉、会社でちょっとした用事があるから、行ってくるね」彼が完全に姿を消すと、柚葉は指輪の受信スイッチを入れた。すると、もう一つの病室から、染花の声が響いた。染花も入院していたのだ。ただし、彼女の点滴を心配する様子はなく、傷の手当ても不要だった。というのも、彼女の擦り傷などとっくに治っていたのだ。鷹真はライチをむいて与えることもせず、むしろ「果肉を体にのせろ」と命じ、自らそれを舐めとって食べつくした。柚葉はもう耐えきれず、スイッチを切ろうとしたその時――「お願い、またあの別荘に閉じ込められたら、私のうつ病はもっとひどくなるわ。私は枯れてしまう、本当に……お願い、あそこには戻り
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第6話
その後の一日中、染花は大人しく掃除をしていた。鷹真は彼女に一瞥もくれず、ずっと柚葉のそばにいた。夜になり、彼は優しく牛乳を差し出した。「柚葉、傷がようやく癒えてきたところだし、これを飲んでよく眠ってね」柚葉はすぐに気づいた。彼女はこっそり牛乳を捨て、飲んだふりをした。案の定、その夜彼女が「熟睡している」のを確認すると、鷹真は彼女の額にキスをしてそっと起き上がり、ドアを開けた。「ねぇ、ホントに夏見さんの目の前でイチャイチャしていいの?」染花の嬉しそうな声が聞こえた。「バカだな、俺がお前に約束して破ったこと、ある?」柚葉のまつげがピクリと震えた。目を開け、窓の反射に映る光景を見ると――鷹真は染花を壁に押しつけ、少しずつキスを深め、やがて彼女と一つになっていった……手のひらを強く握り締め、爪が食い込み痛みを感じても、心はもう何の痛みも覚えなかった。彼には、もう悲しむ価値はないから。翌朝早く、鷹真は出勤し、柚葉は部屋にこもってデザインの作業に集中した。染花に会いたくなくて、朝食も昼食もメイドが部屋まで運んできた。夜になってまたノックの音がした。ドアの外に立っていたのは、染花だった。彼女はトレイを手に、挑発的で得意げな口調で言った。「夏見、この前ホテルの会議室で、外にいるあんたの姿、見えてたわよ。あんなにプライドの高かったあんたが、片手を失ってから、すっかり意気消沈になったみたいね?よく我慢できたわ。ま、無理もないか。今のあんたはただの役立たず。鷹真に養ってもらってる身じゃ、何も言えないわよね」染花の姿を見るだけで、吐き気を催すほどの嫌悪感が湧き上がった。柚葉は冷たく問い返した。「……結局、何が言いたいの?」「言いたいのはね、どれだけあんたが我慢しようと意味ないわ、鷹真は私のものになるってこと。私は少しずつあんたを追い詰めて、逃げ場がなくなるまで追い込んで、消えてもらうわ。鷹真は、私だけのものよ!」柚葉は拳を握りしめたが、結局その頬を打つのはやめた。こんな女を殴っても、自分の手が汚れるだけ。彼女にされたこと、傷つけられた心。その代償は別の方法で、倍にして返す。もう関わりたくないと、ドアを閉めようとしたその時、聞き覚えのある足音が廊下に響いた。すると、染花は瞬時に可憐な顔を作り、後ろに倒れ込
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第7話
ミシュラン認定の本格的なフレンチディナー。八十八階から見下ろす川の景色も、実に魅力的だった。けれど、目の前の鷹真が落ち着かず、何度もスマホを見ているのを見て、柚葉は、料理の味すら感じなかった。柚葉は知っている、彼が待っているのは、染花からの「無事帰宅報告」のメッセージ。だって彼らは、夫婦なのだ。やがて、専用の着信音が鳴ると、鷹真は待ちきれずに電話を取った。普段は余裕たっぷりの彼が、焦るあまりスピーカーモードを押してしまった。電話口から聞こえてきたのは、震える染花の絶望的な声。「誰かに拉致された……どこへ連れて行かれるかもわからない……でも、夏見さんに嫌われてるなら、このまま消えるのがあなたたちのためよね……きゃっ!」通信はそこで途切れた。鷹真はすぐさまかけ直すが、二度とつながらなかった。不安を抑えながらも、なるべく穏やかな口調で尋ねた。「柚葉、君があの女をどこに連れて行ったんだ?もし怒りをぶつけたいなら、俺に言えばいいじゃないか。自分の手を汚す必要なんてない」「もう一度言うわ」柚葉はフォークを置き、冷静に言い返した。「私じゃない」次の瞬間、彼女の手首が乱暴に掴まれた。「染花はうつ病を患ってるんだ!そんなショックに耐えられるわけがない!」鷹真の口調は冷たく、怒気すら含んでいた。「柚葉、もうやめてくれないか?君は確かに片手を失った。でも、彼女だって多くのものを失ったんだ。もう彼女を追い詰めるのはやめてくれ」その言葉に、柚葉は呆気に取られ、やがて目に涙が滲んだ。染花が「多くのものを失った」って?人を傷つけても、庇ってもらって刑務所にすら入らなかった彼女。望む男の「妻」になり、豪邸で3年間も甘やかされて暮らし、今では自由の身になっている。一体、誰が可哀そうで、誰が誰を許していないというの?柚葉は涙を堪えながら、一つ一つ言葉を絞り出した。「私はやってないって言ってるでしょ。それに――たとえこの手が義手でも、痛みはちゃんと感じるの」その瞬間、鷹真は彼女の手首が真っ赤に腫れていることに気づいた。慌てて手を離し、優しい声に切り替えた。「すまない、柚葉……君が衝動的になってないか、心配で……そうだ、俺が送ったペアリングは?どうしてつけてないの?」柚葉は呆れたように冷笑した。いつも彼女の行動を把
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第8話
柚葉は必死にもがき、説明しようとした。しかし口はガムテープでしっかりと塞がれ、体中はきつく縛られて動けなかった。鷹真は鞭を手に取り、目の前でもがく女性を見つめていた。彼女の呻き声と必死の抵抗に、なぜか一瞬、まぶたがピクリと跳ねた。薄暗い個室の中で、ふと頭をよぎった。彼女は、柚葉に似ている。「あなた……ありがとう。私の仇を討ってくれて。このオーナー……本当に私を酷く拷問したの……ううっ……」染花が涙ながらに鷹真の腰にしがみついた。それで彼の疑念はすっかり払拭された。柚葉は普段、ドレスなど着たことがなかった。髪も、彼が好きな長いストレートを大切にしていた。今、目の前にいるこの短髪でドレス姿の女――どう考えても、彼が愛する柚葉ではない。そう思い込んだ瞬間、鷹真の瞳からすべての情が消えた。代わりに、残虐な狂気が宿った。「俺の妻を傷つけた罰、千倍万倍にして返してやる!」「バシッ!」鞭が空気を裂き、女の背中に叩きつけられた。一発目――柚葉の背筋が跳ね、逆剥けた皮膚から血がにじんだ。叫び声をあげたが、口は塞がれ、声にならなかった。二発目――瞳孔が一気に収縮し、傷口は焼けたように熱く、呼吸が詰まった。三発目――唇を噛み切り、体が痙攣しながら丸まり、痛みが骨にまで染み渡った。……九十九回目の鞭が終わる頃には、彼女の意識は朦朧とし、全身血まみれ、もはや抵抗の力すら残っていなかった。ただ震え、無意識に痙攣していた。朦朧とした意識の中で彼女は思い出した。鷹真はかつて、染花を罰すると言っていた彼女を縛り、鞭打つと。けれど、彼は約束を破った。今、彼の手によって縛られ、鞭打たれ、地獄を見ているのは、柚葉なのだ!その時、鷹真の声が聞こえた。「染花、あのオーナーは何人の男をお前にいじめさせた?」「……十人」「よし。じゃあ、この女には十倍返しだ」彼は冷酷に部下に命じた。「一番汚い乞食を百人集めろ。あと、この女に薬を飲ませろ」そして、彼女の顎を靴で蹴り上げた。「俺の妻を傷つけるとはな……この世に生まれたことを後悔させてやる!」仮面が床に叩きつけられ、外れた。「鷹真……」柚葉は最後の力を振り絞って叫んだ。「もし傷つけた相手が私だったと知ったら、あなたは後悔するのか……」けれど、血で濡れた言葉は、ただのすすり
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第9話
「あなた、この3日間すっごく幸せだったわ。あなたって本当に優しいのね」染花は鷹真の腕にしなだれかかりながら別荘に戻り、目を細めて嬉しそうに笑った。後ろには、彼女がショッピングで買い漁った高級ブランド品を抱えた数人のボディーガードたち。隣には、彼女がひと目で恋に落ちた理想の男性。鷹真と婚姻届を出したその瞬間から、染花は「これ以上何も望むことはない」と思っていた。ただ一つを除いて――それは、別荘の外に出られないということ。でも今では、その唯一の不満すらなくなった。染花は、自分こそが世界で一番幸せな女だと信じて疑わなかった。鷹真は無言だったが、唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。彼は染花を二階のテラスに連れて行き、薄く唇を開いた。「俺がお前に尽くしてるけど、お前はどうなんだ?」染花はすぐさま甘えるように彼の胸に抱きつき、情熱的に応えた。「もちろん私もあなたに尽くすわ。愛してる。ずっとずっと愛してるの。毎日、昨日よりもっと好きになってる!」そう言って彼女はつま先立ちになり、鷹真の唇にキスを落とした。鷹真は彼女の腰を引き寄せ、そのキスに応えた。もともと彼のキスは上手だったが、今日のキスはとくに長かった。まるで――最後のキスであるかのように。染花が息できなくなるほど、顔を真っ赤にして苦しげになるまで、彼はようやくその唇を離した。そして、腫れた彼女の唇を指先で優しくなぞった。「そんなに俺を愛してるなら、何でもしてくれるよな?」「もちろんよ」染花は蕩けるように頷いた。「じゃあ、さっそく……私、どんな体位でも大丈夫。これまでみたいに、あなたが好きなようにして……」「俺が言ってるのはそういうことじゃない」染花は一瞬きょとんとし、鷹真の表情をうかがった。そのとき、ある可能性が脳裏をよぎり、全身が喜びに震えた。彼女は声を震わせながら、おそるおそる尋ねた。「あなた……もしかして夏見さんのこと、やっぱり許せなくて……でも自分では手を出したくないから、また私にやらせたいの?もちろんやるわ。私は昔、すごく臆病だったけど、あなたのためなら彼女の腕を一本切り落とすくらい、もう平気だったもの。今も同じよ。あなたが望むなら、何だってできるわ」染花はよく分かっていた。鷹真という男は、表面は優しく理知的でも、本質は冷酷で
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第10話
「確かにお前は報われるべきだ。でもその期限は、たった3年だ。お前が刑務所行きになっても構わず、俺のために柚葉を引き留めてくれた。それに感謝して、この別荘で暮らさせ、3年間の結婚生活を与えた。俺としては、これ以上ないほど公正だと思ってる。今、お前は自由だ。あのとき柚葉に傷を負わせた件も、誰も追及しない。お前には金も渡す、これから一生困らないだけの額をな。それは柚葉を引き留めてくれたお礼だ」鷹真の声は穏やかだったが、染花には分かっていた。その優しさは、決して自分のためではない。なぜなら彼の口からは「柚葉」「柚葉」と、あの女の名前ばかりがこぼれていたから。だけど、染花は諦められなかった。彼女は本気で鷹真を愛していたし、何よりこれ以上ないくらい豪奢な生活にすっかり慣れてしまっていた。簡単に手放せるわけがなかった。「お願い……私を捨てないで。私、本当にあなたを愛してるの。あなたがいなきゃ生きていけないの……私たち一緒にいる時、あなたも幸せだったでしょ?もっと尽くすわ、なんでもするから……」鷹真は無言のまま、ただ彼女をじっと見つめた。たしかに、楽しかった。染花は命すら惜しまないような勢いで、何でもしてくれた。あの奔放さと刺激は、最高だった。柚葉といるときは違った。柚葉のことを深く愛していたからこそ、大切にしすぎて、彼女を汚したくないと思っていた。だから、柚葉といるときはいつも、優しくて抑制的だった。自分の快楽より、彼女を満たすことばかりを考えていた。白バラのような柚葉、赤バラのような染花。両方を手に入れ、何の問題もなく共存できるのなら、それが一番だ。だが、染花の依存は日に日に強まり、柚葉は彼女のことを激しく嫌っている。今はまだ柚葉が真実を知らない。それでも、すでに染花を捕まえ、痛めつけるような行動に出ている。いつもは野良猫さえ気にかける優しい天使が、彼女のせいで理性を失った。それならば、もう染花には、完全に消えてもらうしかないのだ。一時の刺激なんて、真実の愛には到底敵わない。染花との関係を断ち切るなら、今だ。「いや……やだ……お願い、あなた……私、本当にあなたのためならなんでもするの……お願いだから、私を捨てないで……」かつて染花は、自分こそが鷹真の愛を勝ち取ったと信じていた。けれど今、彼女はあの頃
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