結婚5周年のその日、夏見柚葉(なつみ ゆずは)は海外のデザインコンテストに出場するため、手続きのために役所の窓口へ向かった。 彼女は窓口で書類を受け取り、内容を確認して訂正を申し出た。「すみません、婚姻状況が間違っています。私は『離婚』ではなく、『既婚』です」 彼女の夫、夜月鷹真(やづき たかま)は、首都圏政商界でも有名な「狂気の御曹司」だ。独占欲が非常に強く、彼女が手放そうとしても、彼が許すはずがなかった。 ところが、担当者は何度もデータを照会した末、きっぱりと言った。「間違いありません。夏見さんと夜月さんは、3年前の今日、離婚手続きをされました。その日のうちに彼は再婚されました。お相手は須田染花(すだ そめか)という方ですが、ご存知ですか?」 柚葉は全身が硬直し、その場で凍りついたようになった。 「知っている」どころではなかった。
View More静真は部下に命じて、鷹真をレストランから追い出させた。ここはセレーヌ、彼のホームグラウンド。彼はもう二度と、柚葉を誰にも傷つけさせまいとしていた。鷹真は、当然諦めなかった。柚葉は会ってくれないとわかると、今度は全市を巻き込むような派手な愛の告白を繰り広げた。まるで、あの頃彼女を追いかけていた日々のように。だが今回は、柚葉の心は微動だにしなかった。彼女は知っていた。このままでは、いずれ自分の秘密が暴かれてしまう。だからこそ、自分の口から語ることを選んだ。彼女は記者会見を開いた。そしてかつて鷹真と結婚していたこと。彼の追っかけ女に襲われ、右手を切り落とされ、デザイナーとしての夢を絶たれたこと。それでも彼は、自分を守らずその女と結婚し、3年間も自分に嘘をつき続けたこと。その全てを、公にした。柚葉は袖をまくり上げた。その腕には、彼に傷つけられた痕が、痛々しく残っていた。彼女はまっすぐカメラを見つめ、静かに言った。「夜月鷹真、私たちは『ちゃんとした別れ』すらしていない。それは、もう二度とあなたに会いたくなかったから。あなたの顔を見るたびに、私は過去の傷を思い出す。『愛してる』なんて言いながら、あなたは一度も『本当の愛』を知らなかった。もし本当に私を愛しているなら、どうか私を自由にして。愛していないのなら、もう会う理由なんてどこにもない」その勇敢な言葉に、世間は彼女を全面的に支持した。それからというもの、鷹真が道を歩けば、正義感に燃えた市民から、ドーナツやティラミスを投げつけられるようになった。怒りっぽい彼にしては珍しく、そのすべてに黙って耐えた。彼は見たのだ。満身創痍の柚葉を。そして、そこから立ち上がり、自分の力で輝きを取り戻した姿を。ようやく彼は、自分がどれほど彼女を傷つけたのかを理解した。どれだけ後悔しても、もう戻れないのだ。もしかすると、彼女を手放すことが、彼にできる「最後の愛」なのかもしれない。そしてその日を境に、鷹真は人前から姿を消した。翌日、柚葉の元に、医師からの連絡が入った。彼女の義手は、パラメータの調整次第で、本物の手と遜色ない精度でデザイン作業が可能になると、彼女に教えた。数度にわたる治療と調整の末、彼女の右手は、ついに本物の手と変わらない精密な動作を取り戻した。こうして柚葉は、左右
彼がそう言えば、部下たちは当然逆らえなかった。「承知しました、社長」「秋月さんの才能と性格からしても、自由に活動する方がずっと合っている。俺は秋月さんの選択を応援したいし、全力でサポートするよ」柚葉は少し感動した。だが、それ以上に申し訳なさを感じていた。「朝倉社長、実は……以前、私が妹さんを助けたのは、本当にただの偶然で……これまでたくさん助けていただいて、本当にもう十分すぎるくらいよ」静真は一瞬目を見開き、そして苦笑した。いつもは冷たく澄んでいた瞳が、今は翡翠のように柔らかく、優しい光をたたえていた。「秋月さん、どうやら俺のことを少し誤解しているようだね。はっきりさせておきたい。俺は品のある、正常な男性だ。だから、秋月さんのような勇敢で強くて才能があって、優しくて可愛くてそれに美しい女性に、抵抗できるわけがない。君を初めて見た瞬間から好きになった。そしてその想いは、日を追うごとに深まっていった。公の立場でも、私的な気持ちでも、俺は君を助けたい。もし君がこれからも、俺にそうするチャンスを与えてくれるのなら、感謝してもしきれないし、一生をかけて守っていきたいと思っている」柚葉の顔がゆっくりと赤くなり、思わず笑いそうになった。どうしてこの人は、こんなに真面目な顔で告白を、ビジネスみたいに話せるんだろう?けれど不思議と、その率直さが心地よい。確かに彼は彼女を好きだと言った。だがそれは鷹真のように、所有したがる愛ではない。相手のありのままを尊重し、もっと輝けるようにそっと背を押す――それが静真の愛の形であり、柚葉がずっと夢見ていた愛の姿だった。……ただ、今はまだ、恋愛のことを考える余裕がない。静真は、彼女の戸惑いにすぐ気づいた。「大丈夫、突然すぎたね。無理に応える必要はないよ。今はただ君がしたいことだけを、思いっきりすればいい」柚葉の鼻が少しツンとした。彼女は静かにうなずいた。その時、「秋月さん、ここにいたのね。今日は優勝したのだから、みんなでお祝いしなきゃ!」礼香が満面の笑みで控室に飛び込んできた。「三人で行こうよ、ね?」柚葉は笑ってうなずいた。静真は、まるで奇跡の援軍でも見たかのように、妹に感謝の眼差しを向けた。三人は朝倉グループ傘下のミシュランレストランへ。柚葉はふと、前回ミシュランで食事した
ヴィヴィアンの言葉が落ちた瞬間、会場はざわめきに包まれた。柚葉は、まさかヴィヴィアンがこのような形で自分のプライバシーを暴露するとは思ってもみなかった。しかしこれは、彼女がいずれは乗り越えねばならない壁でもあった。彼女はもう3年前の、才能を見せ始めた天才デザイナーの夏見柚葉ではない。彼女は無名の左手デザイナー秋月だ。成功とは、ピラミッドの頂点に向かって登るようなもの。孤独で、挫折に満ちている。それでもいずれ通る道であるなら――彼女は決して逃げない。「私は元々、右手でデザインをしていました。ですが手の事故をきっかけに、3年かけて左手で一からやり直しました。過去の実績を語らなかったのは、それがもう過去のことですから。自分は新しい成功を生み出すと信じています。疑い、調査、挑戦――どれも受け入れます。今ここで再びデザインすることでも構いません。何でもどうぞ!」その声は柔らかくも、力強かった。ヴィヴィアンはすぐさま、二枚のスケッチボードを要求した。「口では何とでも言えるわ。だったら今すぐ描いてみなさい!」だが、彼女の目の前で――柚葉は左手と義手の右手、両手にペンを取り、何の迷いもなく、スムーズな線を描き出していった。同じデザイナーである彼女には分かる。この滑らかで迷いのない線を描くには、どれほどの努力と時間が必要か。ヴィヴィアンの顔色がさっと曇った。だが、これ以上言葉を発することはなかった。会場は一瞬、静まり返った。次の瞬間、割れんばかりの拍手が響き渡った。誰もが、絶望から這い上がり、再び立ち上がった彼女の勇気に感動していた。静真も口を開いた。「他人の優秀さを認めることは、時に難しいです。だがそれはきっと、ヴィヴィアンさんがこれから学ぶべき課題でしょう」この準決勝を通じて、柚葉は一躍、注目の出場者となった。そして決勝戦では、準決勝で発表したTシャツのデザインを、実際の衣服として完成させる必要がある。布地を選び、修正を重ね、幾度も試作を経て――ついに、彼女の一着が完成した。ところが決勝戦の前夜。突然、彼女に関するネガティブなニュースがSNSのトレンドに急浮上した。その内容は「朝倉静真と関係を持ったことで、裏から支援を受けている」という悪質な内容だった。柚葉の心はわずかに沈んだ。この噂はコンテスト
セレーヌデザインコンテストは世界中から参加者を募る大規模な大会で、出場者も各国から集まっていた。その中でも優勝候補として名が挙がっていたのが、地元セレーヌ出身の選手――ヴィヴィアンだった。彼女は「国民の初恋」と呼ばれる愛らしい顔立ちに、スーパーモデルのような抜群のスタイル、そして名家の出身という華やかなプロフィールを持っている。その圧倒的な条件から、多くのファンを魅了していた。彼女はあらゆる面で優れており、本来ならこのようなコンテストには出場しないはずだったが、密かに想いを寄せる相手のために、例外的に参加した――そんな噂が流れていた。柚葉も他の出場者たちと同じように、そんなヴィヴィアンに強い関心を抱いていた。だがヴィヴィアンはというと、どこか高慢で、人と話すときも決して目を合わせようとはしなかった。コンテストは順調に進み、残すは最後の一枠というところで、まだ登壇していないのは柚葉とヴィヴィアンの二人だけだった。主催者側は話題性を狙って、二人を同時にステージに上げるという演出を仕掛けてきた。柚葉は深く息を吸い込み、舞台に足を踏み出した。観客席はすでに満員だったが、過度な緊張はなかった。第一列に座る礼香がにっこりと応援してくれているのが見え、柚葉もつい微笑んでしまった。……だが、審査員席の中央に座る人物を見た瞬間、その表情が一瞬固まった。朝倉静真だった。まさか、彼がこのコンテストの審査員長だったとは。とはいえ、それも一瞬の動揺に過ぎなかった。柚葉はすぐに気持ちを切り替え、落ち着いた声で自らのデザインコンセプトを語り始めた。「私がデザインしたのは、一見シンプルなTシャツです。ですが、私はシンプルイズベストと思います。優れたデザインと適切な素材が合わされば、服は水のように自然で自由になります。その人の良さを最大限に引き出し、束縛されず、向上する力を与えてくれるはずです――」彼女は流暢なセレーヌ語で語っていた。かつて海外留学に備えてセレーヌ語を学び始め、その後も左手でデザインを続けながら練習を重ねてきた。今やその言葉は、まったく努力を感じさせないほど自然に聞こえた。彼女の誠実で力強いプレゼンテーションは、審査員のみならず多くの観客の心にも響いた。隣で立っていたヴィヴィアンは、鼻で笑うように軽く鼻息を鳴
違っていたのは、礼香が運よく傷つかずに済んだこと。もっと違っていたのは、彼女がその幼なじみに対して何の恋愛感情も持っていなかったことだった。「みんなは当然のように、私たちはそのうち付き合うものだと思ってたけど……私は全然興味ないわ。恋愛とかってめんどくさいじゃない?人間って、まずは仕事を頑張るべきだと思うの」そう言いながら笑う礼香には、いわゆる「お嬢様」らしさなどまるでなかった。服装も飾らず、自分が心地よいと思うものだけを身に着けていた。その瞬間、彼女全体がまるで光を放っているように見えた。柚葉は、思わず微笑んだ。心の底から、彼女の生き方に敬意を抱いたのだ。たくさんの個人的なことを話してくれた礼香は、やがて柚葉の義手に興味を持ち始めた。少しだけためらった後、柚葉は語り始めた。「礼香の話を聞いていて、ちょっと似てるなって思ったの。私はデザイナーだったんだけど、夫の熱狂的なストーカーに右手を切られて……これは義手よ。でも、あとになって気づいたの。夫はその女と付き合っているんだ。私が夢を追い続けるより、不完全なままで彼のそばにいてほしかったんだって。だから、私は逃げた。左手で、もう一度夢を追い始めたの」鷹真の正体と、自分が名前を変えたこと以外、柚葉はほとんどすべてを正直に話した。人と人との相性というのは本当に不思議なもので、彼女たちはまるで長年の親友のようにすっと心を通わせた。礼香は怒りを隠さず、「その男、最低!」と声を荒げた。同時に、そんな状況から立ち直った柚葉に、深い敬意を示した。「そっか、それで……他人に身元を知られたくなかったんだね」ふと思い至ったように礼香が言った。「秋月さん、今回セレーヌに来たのは、もしかしてデザインコンテストに出るため?」柚葉は一瞬驚いた顔をして、うなずいた。「すごいじゃん!」と礼香は目を輝かせた。「絶対、現地に応援に行くからね!」1週間後。柚葉の体はようやく落ち着いてきた。まだ傷跡は残っていたし、痛みもあったが、服を着てしまえば外見ではほとんどわからなくなった。礼香は何度も「うちに泊まって!」と勧めてくれたが、柚葉は丁寧に断った。彼女の誠意は疑っていなかったが、あれほどの大豪邸での生活は、今の自分には見合わないと思ったのだ。せっかく手に入れた新しい人生。その一歩一歩を、
鷹真は、光京市の上流社会で有名な御曹司。だが、その光京市政商界では、こんな言葉がささやかれていた。――「もし朝倉静真が国内にいれば、夜月鷹真はせいぜい第二位だ」鷹真のような狂気じみたカリスマとは対照的に、静真は典型的な名門エリート。冷静沈着で抑制の効いた振る舞い、そして端正な容姿と気品を兼ね備えていた。彼が率いる朝倉グループは、その資産と権力において夜月グループをも凌ぐと評判だ。ただ、近年は朝倉グループのビジネスの重心が海外に移っており、彼自身もあまり帰国しなくなっていた。「……実は、お願いしたいことが一つあるんです」柚葉は、乾いた唇をそっと舐めた。すぐさま、女の子が水を注いで差し出した。そのとき、部屋の外からノックの音が三度、響いた。入ってきたのは、一人の若い男性。高身長で整った顔立ち、清冷な雰囲気の中にも陽光のようなあたたかみがにじんだ。「お兄ちゃん!」と女の子が笑顔で紹介した。「彼が私のお兄ちゃん、朝倉静真です。私は朝倉礼香(あさくら れいか)です。あ、そうだ、あなたのお名前、まだ聞いてなかったですよね?命の恩人さん、何てお呼びすればいいですか?」「秋月(あきづき)でいいです」それは、柚葉が新たに名乗るために選んだ名前。夏のあとに来る、実りの秋。苦難を超えた自分に、希望を込めた名前だった。「秋月さん」静真が静かに口を開いた。低くて優しい声が、耳に心地よく響いた。「妹を助けてくださって、ありがとうございます。お願いは一つどころか千個でも、俺にできることなら、どうか何でも仰ってください」「お兄ちゃんがそう言うんだから、もう間違いなしですよ」と礼香が弾む声で言った。「この世で彼にできないことなんてないんですから!」もう迷う理由はなかった。「……私、今回国外に出たことで、身元や行き先を調べられるかもしれません。もし可能でしたら……私に関するすべての情報を秘匿していただけませんか?」「もちろん可能です」静真は穏やかにうなずいた。「秋月さんは、ここで安心して静養してください」その語り口はどこまでも淡々としているのに、不思議なほど説得力があった。まるで、彼の言葉だけで周囲の空気が変わるようだった。柚葉の胸にあったわずかな不安も、すっと消えていった。これで、鷹真がどれだけ探しても、彼女を見つけるこ
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