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いつかきっと明るい未来が訪れる

いつかきっと明るい未来が訪れる

By:  富貴Completed
Language: Japanese
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悠真との結婚式を目前にして、わたしは新婦の名前を、彼の初恋だった羽川にすり替えた。 すべては、ある事実を偶然知ってしまったから。 悠真がわたしと結婚しようとしていたのは、亡き父の遺言があったからにすぎなかった。 そして――五年付き合って一度も触れてこなかった理由は、わたしの心臓病を気遣っていたからじゃなかった。 ただ、彼は羽川のために自分を律していただけだった。 それだけじゃない。彼は、わたしに隠れて羽川ともうひとつの「家」を築いていた。 それを知った瞬間、すべてが馬鹿らしくなった。 だから、わたしは自分の持っていた株を全部売って、国外に渡って治療を受けることにした。

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Chapter 1

第1話

式の準備がすべて整った頃、わたしは静かに新婦の名前を羽川ひまり(はねかわ ひまり)に差し替えた。

お願い、と羽川が泣きながら頼んできたから、「悠真を返して」って。

それも、別にいいかなって思った。

だって彼らが「愛」を選ぶなら、会社は要らないよね?

わたしはすべての株を手放し、この街をあとにした。

でもさ――ふたりとも?

わたしの株がなければ、あなたたちの「真実の愛」なんて、案外脆いものじゃなかった?

「桃山さん、本当に……ご自身の名前を他人に差し替えるおつもりですか?」

「ええ」

ホテルのロビーを出た瞬間、わたしは見上げた青空に、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。

これでようやく――一生付きまとうはずだった影から、解き放たれたんだ。

結婚式の書類に記された「桃山夕凪(ももやま ゆうな)」の名前。

その欄を、わたしは丁寧に線で消し、代わりにこう書いた。

「羽川ひまり」と。

それは、ほんの数日前に羽川から届いたメッセージがきっかけだった。

彼女は、月城悠真(つきしろ ゆうま)の初恋だったらしい。

「もしあなたのお父様が、『彼女を支えてやってくれ』なんて言わなければ、悠真はきっとあたしを選んでいた。別れる必要なんてなかった」と。

……そう語る言葉に添えられていたのは、彼と一緒に映った数枚の写真。

――しかも、ベッドの上の、ね。

見た瞬間、ほんとに倒れそうになった。

ちょうど隣にホテルのマネージャーがいたから助かったけど、いなかったらたぶん、そのまま発作を起こしてた。

そして、目を覚ましたときには――すべてを悟っていた。

悠真が五年間わたしに触れなかったのは、病気を気遣った優しさなんかじゃなかった。

羽川以外に手を出さないって、そういう忠誠心だったのね。

もういいわ。そう思って、スマホを手に取った。

羽川にこの朗報を伝えた。

彼女にとってわたしは、恋路を邪魔する悪役だったらしい。

じゃあ、ヒロインの座は返してあげましょう。

……でもね、五年間の時間を、わたしは本気で生きてきた。

愛して、信じて、騙されて。

この胸の奥に沈んだ痛みは、簡単には抜けない。

しかも、わたしにはもう、彼らに仕返しする気力も体力もない。

だから――もう、いっそ全部捨ててここを離れようって思ったの。

わたしの名義で所有していた光耀グループの株式を、市場価格で全部売って。

そのお金で、海外の最高の医療を受けに行くの。

心臓病を、本気で治すために。

これからは――わたしの人生を、わたし自身のためだけに生きていく。

そう決めて、全部の手続きを終えた頃には、すっかり夜も更けていた。

家に戻ると、中は真っ暗。

きっと今日も悠真は、いつも通り遅くまで会社で仕事をしてるんだと思ってた。

だけど、玄関のドアを開けた瞬間――目の前に現れたのは、服が乱れて顔をこわばらせた男女だった。

……悠真と、羽川だった。

その場に凍りついた空気の中、わたしは彼の口元に残った口紅の跡をちらりと見て、できるだけ自然に声を出す。

「ただいま」

悠真は目を逸らして、わたしの目をまともに見ようともしない。

けれど口調だけは、いつも通り優しさを含んでいた。

「……ごめん、今日は帰ってこないと思ってて。だからひまりを呼んで、ちょっと仕事の話をしてたんだ。

お前も知ってるだろ、会社のことって本当に忙しくてさ。お前の体じゃ手伝わせるわけにもいかないし。

だから、他の人に頼るしかなかった」

――前だったら、こんな言い訳を聞いたら、わたしは罪悪感に押しつぶされてたと思う。

自分と父のせいで、彼に会社を任せて苦労させているって、そう思い込んでた。

だからこそ、わたしは全部我慢してきた。

たとえば、羽川を家に呼んで「仕事の話」をしてるとき、わたしは横でお茶を出してた。

会社でふたりが遅くまで残業してると聞けば、時間を見計らって差し入れを持っていった。

でも――この前、わたしが結婚を了承し、株をすべて彼に譲ると伝えたときから。

悠真はもう、自分がこの会社の本物の社長だと勘違いし始めた。

わたしに遠慮なんて、もう一切なかった。

まるで、わたしは羽川と彼の使用人だった。

……あのメッセージを羽川から受け取らなければ、わたしはずっとその世界に縛られたままだったかもしれない。

気づかせてくれたことには、感謝してる。たとえ、それが皮肉でも。

深く息を吸って、心の奥から疲れが浮かんでくるのを感じた。

もう――彼らの世話なんて、こりごり。

だから、ちょっとだけ親切なつもりで教えてあげた。

「……口元の、口紅。拭いておいたほうがいいわよ」

せめて、演技くらいはちゃんとやってほしい。

もう、あの人に恋してた頃みたいな、都合のいい幻想は消えてしまった。

悠真は一瞬固まったまま、指で唇を拭った。

手の甲にくっきりと赤い痕が残って、それを見た彼の顔が引きつる。

わたしはそのまま、キッチンに向かい、水を一杯くんで、頭を冷やそうとした。

たぶん――さっきの一言が、彼には効いたんだろう。

慌てた様子でキッチンまで追いかけてきて、言い訳の嵐を投げつけてきた。

「夕凪、違うんだ!ひまりとは何もない、ただの――ただの誤解なんだ!

……ただ、ちょっと口紅がついちゃっただけだ」

取り繕うように、そんな言い訳を口にする悠真を見つめながら、わたしは静かに思っていた。

この人は、父に恩を感じてくれてたんだろうか。

それとも、わたしを騙しているうちに少しでも罪悪感とか、情が芽生えたんだろうか。

――でも今なら、はっきりわかる。

そんなもの、何ひとつなかった。

この人はただ、わたしの会社が欲しかっただけ。

平然とした顔で黙っているわたしを見て、悠真は勘違いしたみたいだった。

いつものように、わたしが素直に信じると思ったのか。

まるで当然のように、口を開く。

「なぁ夕凪、どうせもうすぐ結婚するんだし、会社の株、全部俺に譲ってくれよ。

そもそも、お前の父さんが株の大半をお前に残したから、俺の意見が株主会で通らないんだよな。

今度の判断は、会社にとっても大事なんだ。お前にもわかるだろ?」

まただ――

「お前のため」を盾に、疲れたフリして、恩着せがましく、都合のいい理屈を並べる。

でも、もうわたしは前みたいには応じない。

「わたし、その株、売るから」

悠真の顔が、ピクリと動いた。

けれど無視して、淡々と続ける。

「もし欲しいなら、仲介業者を通して手続きして。連絡先はあとで送るわ。正規の流れでね」

本当のことを言えば、わたしだってつい最近まで信じてた。

彼の「苦労」は、てっきり会社の問題かと――

でも仲介業者から言われたの。

うちの会社はもう軌道に乗っていて、そんなに疲弊するはずがないって。

思い返すと、馬鹿みたいだった。

そう思ったら、つい笑いが漏れた。

その声に、悠真はようやく現実を直視したらしい。

ショックから抜け出した瞬間、怒りを露わにして怒鳴りつけてきた。

「夕凪っ!お前、いい加減にしろよ!会社の重大な話を、お前のくだらない嫉妬と一緒にすんな!」

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第1話
式の準備がすべて整った頃、わたしは静かに新婦の名前を羽川ひまり(はねかわ ひまり)に差し替えた。お願い、と羽川が泣きながら頼んできたから、「悠真を返して」って。それも、別にいいかなって思った。だって彼らが「愛」を選ぶなら、会社は要らないよね?わたしはすべての株を手放し、この街をあとにした。でもさ――ふたりとも?わたしの株がなければ、あなたたちの「真実の愛」なんて、案外脆いものじゃなかった?「桃山さん、本当に……ご自身の名前を他人に差し替えるおつもりですか?」「ええ」ホテルのロビーを出た瞬間、わたしは見上げた青空に、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。これでようやく――一生付きまとうはずだった影から、解き放たれたんだ。結婚式の書類に記された「桃山夕凪(ももやま ゆうな)」の名前。その欄を、わたしは丁寧に線で消し、代わりにこう書いた。「羽川ひまり」と。それは、ほんの数日前に羽川から届いたメッセージがきっかけだった。彼女は、月城悠真(つきしろ ゆうま)の初恋だったらしい。「もしあなたのお父様が、『彼女を支えてやってくれ』なんて言わなければ、悠真はきっとあたしを選んでいた。別れる必要なんてなかった」と。……そう語る言葉に添えられていたのは、彼と一緒に映った数枚の写真。――しかも、ベッドの上の、ね。見た瞬間、ほんとに倒れそうになった。ちょうど隣にホテルのマネージャーがいたから助かったけど、いなかったらたぶん、そのまま発作を起こしてた。そして、目を覚ましたときには――すべてを悟っていた。悠真が五年間わたしに触れなかったのは、病気を気遣った優しさなんかじゃなかった。羽川以外に手を出さないって、そういう忠誠心だったのね。もういいわ。そう思って、スマホを手に取った。羽川にこの朗報を伝えた。彼女にとってわたしは、恋路を邪魔する悪役だったらしい。じゃあ、ヒロインの座は返してあげましょう。……でもね、五年間の時間を、わたしは本気で生きてきた。愛して、信じて、騙されて。この胸の奥に沈んだ痛みは、簡単には抜けない。しかも、わたしにはもう、彼らに仕返しする気力も体力もない。だから――もう、いっそ全部捨ててここを離れようって思ったの。わたしの名義で所有していた光耀グルー
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第2話
わたしは、ぽかんとしてしまった。まさか――嫉妬してるって、本気で思ってるの?たしかに、昔のわたしを知ってる人なら、誰だってこう言うかもしれない。「桃山さんは、月城さんに夢中だったもんね」って。でも、わたしは、誰が相手でもきっと同じように接したと思う。恋人になった人には、惜しまず愛を注ぐって、ただそれだけだった。それに――今回の株の件は、感情とは全くの別物だった。なのに、その場にいた羽川まで、妙に焦った様子で口を挟んできた。「桃山さん、もしあたしの存在がそんなに気になるなら、会社辞めます。もう二度と、悠真の前に現れません。それで満足ですか?お願いだから、嫉妬に目を曇らせないで……」……何を言ってるの?だって、あんたには全部伝えてたはずでしょ。結婚式の新婦を羽川に変えたってことも、ドレスを彼女のサイズで作り直したことも。知ってるはずなのに――どうしてこんなことを?考え込む暇もなく、悠真がいきなりわたしのスマホをひったくって、目の前に突きつけてきた。その声は……これまで聞いたことがないほど冷たかった。「お前、スマホに登録してる仲介業者の連絡先――今すぐ消せ。今なら、まだ許してやれる。けど消さないなら、婚約も式も全部チャラにしてやるよ」わたしは黙って手を伸ばし、スマホを受け取った。そのまま、複雑な想いを込めた視線で悠真を見つめる。――削除したってまた追加すればいいだけなのに。……でも、この体のせいで、怒りは禁物。だから、わたしは、彼を刺激しないように、何も言わずに、ただ言われたとおりに操作した。一つひとつ、悠真の目の前で仲介の連絡先を削除していく。それを見届けた悠真は、ようやくホッとしたように息を吐いた。そして、声のトーンを少しだけ和らげて、こう言った。「夕凪、お前、変なこと考えるなよ。俺がお前を愛してなかったら、結婚なんかしようと思うわけないだろ。今日のお前の態度……正直、ちょっと傷ついたよ」そう言って、少しの間を置いてから――「俺とひまり、しばらく一緒に住むから。お前はここで、反省でもしててくれ。次からは、こんな真似しないようにな」羽川は悠真のあとをついて出て行こうとし、その前に――まるで何かを施すような口ぶりで、こちらに言葉を投げかけ
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第3話
「……サイン、する……」絞り出すように、わたしはそう言った。生きるために――この命を守るために、わたしは屈した。わたしの返答を聞いた悠真の表情が、ようやく少しだけ和らぐ。彼は温かい水を一杯くんできてくれて、薬を口元まで運んでよこした。さらには、小さな飴玉までそっと手渡してくる。……でもわたしは、そんな施しみたいな優しさに、何の反応も返さなかった。薬を飲んで、ほんの少し息が整ったその瞬間。わたしは我を忘れて、粉々になった額縁の方へと駆け寄った。胸の奥から溢れ出す悲しみは、もうどうにも止められなかった。震える手で、一片一片、床に散らばった写真の破片を拾い集める。そして、荷物の中から小さな袋を取り出し、丁寧にその中へと収めていった。あの写真は――母が、まだ生きていた頃のもの。父と三人で一緒に写った、たった一枚の思い出。母は、わたしが幼い頃に亡くなった。先天性の心臓病が再発して、帰らぬ人になった。当時の父は、やっと事業を始めたばかりで、まともな治療を受けさせる余裕すらなかった。母を看取った後も、そのことをずっと悔やんでいた。だからこそ――わたしにも心臓病の遺伝が見つかった時、父は昼夜を問わず働くようになった。わたしの命を守るために。あれは、彼の償いであり、贖罪でもあった。けれど、願いは届かなかった。無理を重ねた結果、父もまた身体を壊してこの世を去った。死の間際、彼は会社で最も信頼していた人に、わたしを託した。――それが、悠真だった。そして、彼がわたしにした「恩返し」が、これだった。わたしが悲しみに沈む中、彼はまるでそれを面白がるように、皮肉を口にした。「たかが写真じゃないか。そんなに大事かよ?」わたしは破片をきちんと袋に収め、彼を見上げた。もう、その目には何の感情も宿っていなかった。「母は写真を撮られるのが苦手だったの。父も仕事で忙しかったし……これは、わたしが両親と一緒に写った唯一の写真」悠真は、思わず目を見開いた。唇を引き結び、気まずそうに言葉をこぼす。「……そんなの、知らなかった」わたしは無言のまま、冷たくその視線を逸らした。もう、彼と言葉を交わす気にはなれなかった。だが――それが気に食わなかったのか、悠真
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第4話
外からは、もう何の音も聞こえなかった。ただの一言すら――冷たい返事さえも返ってこなかった。時間だけが、じわじわと過ぎていく。もうダメかもしれないと諦めかけたその時――ギィ――と、ドアが静かに開いた。……でも、そこに立っていたのは悠真じゃなかった。代わりに現れたのは、どこか複雑な表情を浮かべた羽川だった。彼女の手元には、きちんと整理されたわたしのスーツケースと、床に落ちたままだったスマホがあった。羽川は、それを無言でわたしの手に渡してきた。「てっきり、これは引き止めるための芝居かと思ってた……まさか、本当に出て行くつもりだったなんてね」わたし自身も、まさかこの瞬間に――かつての「恋敵」に対して、感謝の念が湧くとは思ってもいなかった。もし彼女が来てくれなかったら、わたしはきっと結婚式当日までこの部屋に閉じ込められたままだった。わたしは視線をリビングへと向ける。そこには、悠真の姿はなかった。テーブルの上には、まだ湯気の立つ料理が置かれていた。きっと、彼は羽川にわたしの食事を届けるよう頼んだのだろう。それを見て、わたしはようやくほっと息を吐いた。スーツケースのハンドルを握りしめ、スマホを手にして、ドアの方へと歩き出す。羽川の横を通り過ぎるとき、ふと足を止めて言った。「……ありがとう」羽川は鼻で笑う。「お礼なんていらないよ。むしろ、早く出てってほしいくらい」それから、彼女は一瞬目線をそらして、こう続けた。「ねえ、知ってた?……あたし、妊娠したの」わたしは、思わずその場で固まった。彼女はスマホを取り出して、すでに撮ってあった妊娠検査の診断書を見せてきた。「悠真の子よ。生まれた瞬間から隠れて生きるなんてイヤだった。あんたさえいなければ、あたしはもうとっくに彼と結婚してたの。だから、あのときメッセージを送ったのよ」「……こんなに早く、現実を理解してくれるなんて思わなかったけどね。でも、あんたって本当に――悠真のこと、好きだったんだね」その顔には、もはやかつてのような嫉妬の色はなかった。むしろ、ほんのわずかな同情すら含まれていた。わたしは視線を落とし、彼女のふっくらとしたお腹を見つめた。何も言い返さなかった。彼女には、わたしが悠真をどこまでも愛して、身を
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第5話
病院の中には、どこか息苦しくなるような消毒液の匂いが立ち込めていた。ひと通りの検査を終えた後、羽川のお腹の子は問題なしと診断された。医者は簡単な安胎薬を処方し、あとは「よく休んで、穏やかに過ごすように」とだけ伝えた。ずっと付き添っていた悠真は、その結果を聞いてようやく胸を撫で下ろす。深く長く、安堵の息をついた。……だが、そのとき。彼の脳裏に、さっき倒れた夕凪の――あの蒼白な顔が、一瞬だけよぎった。もしかすると、そんな彼の動揺や不安を察したのかもしれない。羽川が、なにげないふうを装いながら口を開いた。「悠真……桃山さん、わざとあたしを突き飛ばしたわけじゃないと思うの。たぶん、あたしたちが最近あまりにも近づきすぎてて……それで何か気づいちゃったんじゃないかなって。でも、こうやって彼女を家に置き去りにしてきて、大丈夫かな?」悠真は冷たい顔で吐き捨てるように答えた。「自業自得だ」わたしが彼の掌の外に出たことで、どう対処していいか分からなくなったのか。あるいは、ただ単純に――罰を与えたかっただけなのかもしれない。「結婚式の前に変なことされても困るしな。しばらく家で頭を冷やさせておくのもいいだろ」その言葉に、羽川は口元だけで笑った。「でも……もう株は全部手に入れたんだし、桃山さんってもう必要ないんじゃない?」「それに、結婚式のことも――」最後まで言い終わる前に、悠真が言葉を遮る。「式は予定通り挙げる」その口調には、もう以前のような優しさはなかった。目の奥にはどこか冷えきったものが宿っていて、ほんのわずかだが、非難のような色さえ感じ取れた。羽川は視線を落とし、その眼差しの奥に憎しみを隠した。――また、桃山夕凪。もう何の価値もないはずのあの女を、どうしてまだ悠真は手放さないの?だけど、たとえどれだけ不満があろうと、彼の前ではいつもの「理解ある女」の顔を崩さなかった。「じゃあ、今夜はうちに来ない?」その一言に、悠真の表情が一瞬だけ揺れた。視線は、羽川のお腹――柔らかくふくらみ始めたそこに落ちる。そして眉をひそめて尋ねた。「……平気なのか?」「平気じゃなかったら、あんたまさか桃山のところに行くつもり??あの子、心臓病で激しい運動は無理よ?」
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第6話
わたしが未練たらしく、彼の気持ちを期待していたわけじゃない。ただ――面倒なことが嫌いだっただけ。元カレとの関係を、いつまでもズルズル引きずるような真似はしたくなかった。彼にはもう、わたしの家の会社を手に入れ、愛する人と結婚するという結末が待っている。ならば、潔く終わるべき――そう思っていた。――にもかかわらず。式の当日。華やかなチャペルの中で、悠真は黒のタキシードを身に纏っていた。本来ならば、気品と風格をまとっているはずのその姿は――今はただ、携帯を握りしめて、何度も番号をリダイヤルする様が滑稽に映る。「……クソッ!」低く罵るような声とともに、悠真の目が鋭く閃いた。隣にいた秘書が、その凄まじい気迫に思わず身を竦める。そして、おそるおそる尋ねた。「ど、どうかされましたか、月城社長……?一体、何が……」悠真は鼻で冷たく笑い、怒気を隠そうともせず吐き捨てる。「今日が何の日か、あの女……まさか分かってないのか?いまだに姿を見せないなんて……!」秘書は一瞬ぽかんとした顔をしていたが、ふと、何かに気づいたように自分のスマホを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。だが――返ってきたのは、無機質な音声だった。「おかけになった電話番号は現在使われておりません――」その言葉に、秘書の顔色が真っ青になる。「し、社長……!この番号、使われていない番号です!」額から冷や汗がポタポタと流れ落ちる。――式当日に、新婦が行方不明だなんて、前代未聞じゃないか!「そんなはずがない!」悠真は声を荒げて、秘書からスマホを奪い取る。そして自分の目で、スクリーンを凝視した。「おかけになった電話番号は現在使われておりません――」その音声は、残酷にも現実を突きつけていた。チャペルには次々と招待客が到着してきていた。彼らは皆、この業界の重鎮たちばかり――一流企業のトップ、経済界のカリスマ、名門の後継者たち。そんな中で、新婦に逃げられるなんて事態――もしあの女が、式のこのタイミングでふざけて駆け引きでもしているのなら、悠真は――一生、許すつもりなどなかった。そんなことを考えているうちに、悠真の怒りはますます膨れ上がっていた。もう少しで理性を失いそうになったそ
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第7話
羽川が何か言おうと口を開いたそのとき――悠真は、冷たくホテルマネージャーに視線を投げつけた。そして、感情の欠片も感じさせない声音で命令する。「――式は中止だ。費用はすべて俺が払う」その言葉が終わるより早く、彼は手を上げて遠くにいる秘書を指差した。「後の処理は、お前がやれ」そう言い残し、踵を返してその場を離れようとした。焦った羽川は、とっさに彼の腕を掴んだ。目には涙が滲み、声は今にも崩れそうだった。「お願い、せめて……この子のために!生まれてくる子が、『愛人の子』なんて呼ばれるの、あなた平気なの!?」その言葉に、悠真の目が細く鋭くなった。鋭利な刃のような視線が、羽川の胸を真っすぐ貫いた。彼は無表情のまま、もう一方の手を伸ばす。そして、彼女がしがみついていた指を一つひとつ、力ずくで引き剥がした。「最初から言ってたはずだ。お前に『妻』の座を与える気はないって。今さら泣きついてきても、手遅れだ」そう言い放つと、悠真は一切振り返らず、その場を後にした。その背中を見送りながら、羽川は茫然と立ち尽くす。涙が次々と零れ落ち、止まらなかった。会場の片隅では、秘書が壇上に上がり、冷静な声でこう宣言する。「本日の結婚式は中止となりました。皆様、お食事はこのままご自由にお召し上がりください。ご祝儀は全額返金させていただきます」会場に集まった人々はざわめきながら、誰ともなく視線を羽川に向けた。その視線には、同情もあれば、軽蔑もあった。羽川はしばし俯いたままじっとしていたが――やがてゆっくりとウェディングドレスを脱ぎ捨て、悠真の後を追うように立ち去った。そのころ、家に戻った悠真は、すでに正気を失っていた。リビング、寝室、キッチン、バスルーム――あらゆる部屋を手当たり次第に探しまわり、クローゼットの中、ベッドの下――どんな隙間も見逃すことなく、狂気じみた勢いで荒らしていった。けれど――どれだけ必死に探しても、彼女の姿は、どこにもなかった。夕凪がこの家を出ていくとき、持ち出したのはほんのわずかだった。本当に大切にしていたものだけ。その他の荷物は、手つかずのまま、その場に残されていた。たとえば――彼女が丹精込めて整えていたアトリエも、そのまま。イーゼルの上に
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第8話
その言葉を聞いた瞬間、悠真は羽川の胸元に顔を埋めて、堪えていた涙を零した。その夜、ふたりは酒に溺れた。気がつけば、熱に浮かされたように求め合い――夜が明けるまで、何も語らなかった。翌朝、酷い頭痛に目を覚ました悠真は、ようやくわたしのことを思い出したらしい。「ひまり、俺……夕凪を探すよ。彼女、俺たちのために身を引いてくれたんだ。お前だって、わかってくれるよな?お前は会社に住んで、夕凪はここに住む。前みたいに、うまくやれるって思わない?」そう口にする彼の声はやけに優しくて、その目には夢でも見てるような色が浮かんでいた。バスローブ姿で髪を乾かしていた羽川の手が、ぴたりと止まる。けれど何も言わず、ゆっくりと頷いた。――と、その時。チリン、とスマホが鳴り響く。秘書からの電話だ。「社長、報告です。桃山さんの資産、すべて海外に移されていました。……それと、あの契約書……効力は、ないかと」ぽとり。悠真の手からスマホがベッドの上に落ちた。「……は?」目を見開いて、現実を受け入れられない彼のそばで、羽川も動揺する。「じゃあ、あのお金……全部、ダメってこと?」ギリッと歯を噛み締めた悠真は、次の瞬間スマホを力いっぱい床に叩きつけた!もう、愛だの後悔だの言ってる場合じゃない。彼の頭の中にあるのは、ただ一つ――「……夕凪……お前、まさか、俺を騙したのか」そして彼は気づいた。手元に残ったのは、何もない。むしろ、会社の資金から出した株購入の分も、自分で埋め合わせないといけない始末。大慌てで服を着て、会社へ向かう悠真。……その背中を、羽川はベッドの上から憎々しげに睨みつけていた。――けど、それはあの国の話。わたしが知ることも、興味を持つこともない。その頃、わたしはようやく手術室から戻ったところで、何人かの看護師と話して、しばらくはこの療養施設でお世話になることになったのだった。手術は無事に終わったけど、回復には時間がかかるらしく、しばらくはこの療養施設で過ごすことになった。ここでの生活は思っていたより穏やかで――看護師さんたちは、わたしが退屈しないようにと、いろんな世間話を持ち込んでくれる。ある日、そのうちの一人がぽつりと呟いた。「そういえばさ、光耀グル
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第9話
翔琉くんがここにいる理由も、そのうち自然と耳に入ってきた。どうやら――友達とレースしていて、事故ったらしい。幸い命には別状なくて、リハビリさえすれば元に戻るって話だったけど……たまに、落ち込んでふてくされてる彼を見ると、本当は相当こたえてるんだろうなって思う。「はぁ〜、退屈すぎて死にそう〜!」翔琉くんが、大げさに空を仰ぎながら声を上げる。そして諦めたように、お昼ごはんのトレイをわたしに差し出してきた。「夕凪姉、ホントすごいよ。こんなとこで一日中座ってられるなんて。オレなんかすぐ毛ぇ生えてきそう。でも兄貴が絶対出るなって言ってさー!もう、うるさすぎてイヤになる!医者も歩けるって言ってんのにさ!」手足をばたばた動かして騒いでる翔琉くんに、思わず笑ってしまった。「それ、ただの心配じゃない。お兄さんなりに、気を使ってるのよ」「ちがうもん!兄貴は昔からなんでもかんでも管理したがるの!心配とかじゃなくて、性格の問題!」そう言いながら、いつの間にかわたしの腕にぴったり抱きついてきて、全力で甘えてくる。ふと目をやると、翔琉くんの手首にいくつか細かい傷跡が見えた。それを見て、わたしはぽつりと言った。「……けっこう、昔の傷があるのね。そりゃ、お兄さんも心配するわけだ」その瞬間、翔琉くんがビクッと跳ねた。「えっ、えええっ!?ちょ、ちょっと待って、もしかして……オレの身体見たことある!?まさか……寝てるときに……!?」どんどん赤くなる耳、焦ったように自分の身体を抱える様子。わたしは、ため息混じりに彼の額をコツンと軽く叩いた。「バカね。手首にしっかり痕が残ってるのよ。服着ててもわかるわ」「なーんだ……そっかぁ……」翔琉くんはちょっとシュンとしながら、小声でぼそっと呟いた。「オレ、てっきり……夕凪姉がオレにその、変な気持ち持ってるのかと……」思わず口に含んでたご飯を吹き出すところだった。「何言ってるのよ、あんたまだ子どもじゃない」「子どもじゃないし!オレ、十九歳!もう立派な大人だよ!」「はいはい、十九はまだまだ子ども。お姉さんは、今年二十五なんだから」ちょっとからかうように笑いながら言うと――「なっ……!オレは子どもじゃない!ほら、オレのほうが背、高いし!」言い返す彼の顔
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第10話
わたしが現れると、翔琉くんの友達たちはすぐに彼をからかい始めた。「おっ!やっと彼女連れてきたんだな〜!」「今まで隠してたくせに!」調子のいい子がひとり、にこにこしながらわたしに手を差し出してきた。「よろしく、お義姉さん!」……が、次の瞬間、その手は見事に弾かれた。「ちがうから!そんなのじゃないって!」翔琉くんはその子を押しやりながら、やたら大きな声で反論していた。「まだ付き合ってないし!オレ、今アタック中なんだから、変なこと言うなよ!」友達とふざけ合っている最中も、彼の視線はずっと、わたしを追っていた。そんな真っ直ぐな熱に晒されるのは、初めてだった。ちょっと不思議で、でも……悪い気はしなかった。わたしは近くのベンチに腰を下ろし、レースを見守った。日が落ちて、空に夜の帳が下りる頃――遊び疲れた彼らは、ようやくひと段落したようだった。だけど、その中に翔琉くんの姿は見えない。あれ……どこに行ったんだろう?目で探し始めたその時、視界に飛び込んできたのは――一束の白い百合の花。その向こうに立っていたのは、笑顔を浮かべた翔琉くんだった。「ずっと渡したかったんだ。これ、夕凪姉にぴったりだと思ってさ。好きでしょ?いつもサインの横に、百合の絵を描いてたから」わたしの顔を覗き込むその瞳には、昔、わたしが憧れていた「愛」の色が宿っていた。……悠真も、かつてはそんな目でわたしを見たことがあった。でも、それは偽物だったし、すぐに壊れてしまった。一瞬だけ、心が揺れて――わたしはそっと花束を受け取った。「……ありがとう」こんな些細なことに気づいてくれる人がいるなんて。それだけで、なんだか胸がいっぱいになった。きっと、もう一度賭けてみることもできる。でも――わたしには、もう負ける余裕がなかった。だから、次の瞬間――翔琉くんがポケットから指輪を取り出して、わたしの前で片膝をついたその時。……わたしは、言葉に詰まった。翔琉くんは一瞬目を伏せたが、すぐに顔を上げて、冗談めかして笑った。「なーんてね、冗談冗談。焦らなくていいからさ!」他の人たちは、レースが終わったあとすぐに解散していった。まるでわたしたちに、わざと時間を残してくれたみたいに。街灯のぼんやりとし
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