あの時、芙実は完全に追い詰められて、やっとの思いでうなずいた。「やり直したいんです。もう北都にはいたくありません。死んだことにしてほしいです」その日から、凪時は芙実のために「死亡偽装」の計画を立て始めた。正直に言えば、芙実さえ望めば、現実で嘉之と正面からぶつかって、力ずくで奪い取ることだって凪時にはできた。でも、芙実の気持ちを彼は尊重した。彼女が静かに姿を消したいというなら、誰にも気づかれないようにしてみせると心に決めた。この計画のために、凪時は何度も徹夜した。映像加工の技術から、トラックの衝突の演出、現場での役者との連携、偽装死に使う薬品の選定に至るまで、事故現場での不確定要素を徹底的に排除するため、全力を尽くした。念には念を入れて、スタントマンを使う案も出した。「プロの武術スタントに任せれば、絶対にバレません。誰にも見破られない自信があります」でも、芙実はきっぱりと首を振った。「嘉之は疑い深い人間なんです。私が直接やらなきゃ、きっと信じてくれないでしょう」どこか苦味の混じった声で、凪時は聞いた。「......君をそこまでさせる価値、あの男にありますか?」「嘉之のためじゃない。ただ、十年間の自分に、きちんとケジメをつけたいだけです」頑固で、そして勇敢な芙実のその姿を見つめながら、凪時は胸が締めつけられるような激しい鼓動を感じた。そして、おそるおそる口を開いた。「じゃあ、偽装死がうまくいったら......何か、見返りってありますか?」「欲しいものがあるなら、私にある限り、何だってあげます」「たとえば......君の人生とか?」「構いませんよ」帰国後、嘉之はすぐに報復に動いた。まずは、ここ数年でようやく息を吹き返した鈴木グループを、ビジネスで使い慣れた手段で徹底的に潰しにかかった。その結果、芙実の両親は追い詰められ、彼のもとに頭を下げに来た。「嘉之、おじさんとおばさんにどうしてほしいの?どうすれば許してくれる?」「今すぐ文乃と縁を切れ。これからは芙実を、文乃と同じように扱ってもらう」損得を天秤にかけた結果、両親はすぐにうなずいた。その直後、嘉之は文乃が持っていた芸能界の全てのリソースを取り上げ、完全に業界から締め出した。文乃が帰国した理由を、嘉之は最初から知って
凪時がカフェから出てきた頃には、もうすっかり日が暮れていた。芙実は彼のことが気になって、わざと運転手に車を少し離れた場所に停めさせ、じっとカフェの方を見つめていた。そんな彼女の視線に、人混みの中でもすぐ気づいた凪時は、満足そうに笑みを浮かべて、大股で彼女のもとへ歩いてきた。車に乗り込むと、運転手が芙実がどれだけ心配して待っていたかを伝えた。それを聞いた凪時は、長い眉をゆるめて優しく微笑みながら、ふっとため息をつきつつ芙実の頭を撫でた。あの日、彼が芙実を迎えに行った時と同じように、小指で彼女の頬を軽く突いて「バカ」と笑って言った。芙実は避けるどころか、その手を掴んで思いきり噛みついた。「いてぇ......」と凪時が小さく声を漏らした。「犬か、お前は?」と優しい声で笑った。芙実はますますムキになって、彼の小指にもう一度噛みつき、「今、またバカって言ったでしょ!」と挑発的に言った。そのとき、うっかり舌が指先をなめてしまった瞬間、凪時の全身にビリビリと電流のような痺れが走った。深く息を吐きながら、うずく身体を必死で押さえ込んだ。けれど、血管から筋肉、筋から骨の奥まで、まるで火花が散るように熱が広がっていく。芙実を傷つけたくない一心で、凪時はとっさに「急用ができた」と嘘をつき、車を降りようとした。だが、その腕を後ろからぎゅっと掴まれ、振り向いた先には、哀しそうな目でこちらを見つめる芙実の姿があった。「私、あなたの婚約者で、昔は仲良かったって言ってたよね?」そして一瞬ためらいながらも、意味ありげに続けた。「でも......一度も触れてくれない。それに、あのパーティーの男......なんだか見覚えがある気がするけど、どうしてかすごく嫌な感じがして......凪時、昔のこと、話してくれない?」その言葉に、凪時は顔を赤らめ、バツが悪そうに視線を落とした。「実はな......君とは、ずっと前から知り合いだったんだ」凪時が芙実と出会ったのは、嘉之よりもずっと前のこと。芙実が14歳のとき、初めて彼の学校に転校してきた。不良としての直感で、教壇でおどおどしながら自己紹介する少女を見た瞬間、「あ、いじめられるタイプだ」とすぐに分かった。そして案の定、すぐにクラス中に噂が広まった。山奥から連れ戻された鈴木家の迷子娘で
嘉之は、この現実を受け入れるのに二日かかった。芙実は死んでいなかった。それどころか、脳腫瘍の手術も驚くほど順調だった。ただし、自分に関する記憶だけは、すべて失ってしまっていた。そして、凪時の狙いは芙実だった。彼女の記憶喪失を利用して、婚約者だと偽り、一緒に暮らすように仕向けた。胸の奥から込み上げる怒りは、どうしても押し込めきれず、静かに燃え広がっていく。芙実が自分を憎んでいるのなら、それは仕方ない。たとえ一生許されなかったとしても、それは受け止められる。けれど、彼女がそんな最低な男に騙されているのは、どうしても許せなかった。宴会のあと、嘉之はわざわざ人を通じて、芙実をカフェに一人で来るように頼んだ。芙実は約束の時間ぴったりに現れた。生きている彼女の姿を目にした瞬間、ずっと詰まっていた胸の奥がふっと解放され、新鮮な空気を一気に吸い込んだような気がした。ようやく、自分が生き返ったように感じた。感情を抑えきれず、芙実の手にそっと触れようとした。「ふみちゃん......」けれど、その手は空を切り、芙実はあからさまに嫌悪を示して言った。「御村さん、節度を守ってください。私には婚約者がいます」その一言で、嘉之の中の怒りが一気に噴き上がった。「婚約者?中条なんて婚約者でも何でもない。お前の婚約者は俺だ!」「もしそれが本当なら、どうして私が目を覚ましたとき、そばにいたのは凪時だったの?」その問いに、嘉之は言葉を失った。どう答えればいいのか、わからなかった。芙実が目覚めたとき自分がそばにいなかったのは、彼女が自分への怒りから自殺を選んだから――そんなこと言えるはずがない。芙実が記憶を失ったのは、かつて脳腫瘍を患っていたせいだ――それも言えない。そして、芙実が病気だったことを知らなかったのは、自分がその頃、彼女の姉と関係を持っていたからだ――そんなこと、絶対に言えなかった。一つ、また一つ。芙実のそばにいられなかった理由は、数えきれないほどある。でも、それを語る勇気は、どうしても持てなかった。だから、嘉之は別の手段に出た。凪時に直接会いに行き、自分が持つすべて――株、資産、資金、関係書類の一切を差し出そうとした。「値をつけてくれ。芙実を返してほしい。俺の商業的な価値はお前が一番よく知ってるはずだ。どんな条件で
病状が良くなったからか、それとも、凪時がいつも丁寧に看病してくれたおかげか。宴会に出席したときには、体の痛みはかなり和らいでいるように感じられた。宴会場の冷房が芙実の体に堪えるんじゃないかと気にした凪時は、自分のスーツの上着をそっと彼女の肩にかけてくれた。この宴会は、南フランスと国内側との協力が成功したことへの感謝の意を示す場だった。凪時はグラスを片手に、会場を歩きながら人々と和やかに笑い合っていた。芙実は彼の後ろについていくのも気が引けて、スーツを羽織ったまま、こっそりとあちこちで食べたり飲んだりしていた。でも、なぜだろう。宴会場に入ってからずっと、どこかから強い視線を感じてならなかった。芙実はその視線の主を探して、周囲をさりげなく見渡した。そして、人波の向こうで、嘉之の視線とぴたりとぶつかった。彼の顔がサッと青ざめていくのが見えて、芙実は遠くからそっとグラスを持ち上げ、礼儀正しく乾杯の仕草をした。澄んだ液体が、豪華で複雑なシャンデリアの光を受けて、グラスの中で小さく波紋を描いていた。嘉之は、この人生で再び芙実が生きて目の前に現れるなんて、思いもしなかった。手首に刻まれた無数の傷痕が、うずくように痛んだ。こみ上げる感情を必死に押さえ込み、嘉之はできる限り穏やかで紳士的な態度を保とうとしながら、芙実のもとへと向かおうとした。ちょうどそのとき、凪時が芙実のそばに戻ってくる。彼は芙実の頬にクリームが付いているのに気づき、小声で何かささやいたかと思うと、親しげに彼女の鼻先をつまんだ。芙実は恥ずかしそうに頬を赤らめて目をそらすが、凪時に顔を正面に向けられ、鼻先のクリームを軽くキスして拭き取られた。嘉之は、1メートルほど離れたところで立ち尽くしていた。隣には誰もいない。手首の痛みはますます強くなっていく。日夜思い続けた彼女が、今や別の男の腕に抱かれている。その光景に胸が締め付けられるような痛みが襲ってきた。だがすぐに、彼の顔から失望の色が消えた。代わりに、まるで失った宝物を再び手にしたような、そんな表情に変わっていった。そして、そのまま一直線に芙実へと駆け寄り、彼女を力強く抱きしめた。まるで、そのまま自分の中に取り込もうとするように。だがその瞬間、芙実の隣にいた男――凪時が立ちはだかり、彼女を背中に庇って隠し
死ぬって、こんなに痛いことなんだ――そう思い知らされた。トラックがぶつかってきたあの瞬間、芙実の身体には内臓が引き裂かれるような激痛が走った。「ふみちゃん、ふみちゃん......」耳元に響くやわらかな呼びかけが、まるで別の世界から届いているかのように遠く感じた。芙実は眉をひそめた。「ふみちゃん、目を覚まして!ふみちゃん!」その声が何度も耳元で繰り返されるうちに、ぼんやりとしか聞こえなかった音が、次第に輪郭を持ちはじめる。病院のベッドの上で、まぶたがわずかに動いた。必死に目を開けると、汗が全身をびっしょり濡らしていた。記憶が少しずつ戻ってくる。でも、どこか何かが欠けているような、そんな感覚が残る。半年後。南フランスの小さな島にて。人気ケーキ店の前には、角を曲がるほどの長い列ができていた。凪時には理解できなかった。暑いとはいえ、どうして女の子たちはこんな甘ったるいものにここまで夢中になれるのか。それよりも納得いかないのは、自分みたいな金持ちの坊ちゃんまで、こんな真夏にクーラーの効いた別荘を出て、わざわざ炎天下で並ぶ羽目になっているという現実だった。「芙実ちゃん、この行列に付き合ってあげたんだから、夜のパーティーにはちゃんと来てよね」「行かない」「なんでさ?」「凪時、うるさい」芙実は怒ったように大きな瞳で、目の前の婚約者をにらみつけた。目覚めてからずっと、自分の記憶のいくつかが抜け落ちていることに芙実は気づいていた。そんな彼女に凪時は優しく言った。「心配しなくていいよ。君は国内で大きな交通事故に遭ったんだ。そのせいで、記憶が少し飛んじゃってるだけ」「でも大丈夫。思い出せなくても問題ないよ。君が覚えていればいいのは、たった一つだけ」意味深な笑みを浮かべながら、ゆっくりとまばたきをして、芙実に向かって言った。「君が僕ともうすぐ結婚するってこと。僕が君の婚約者だってことさ」婚約者......?芙実の顔色がさっと青ざめた。確かに、婚約者がいたような記憶がぼんやりと残っている。けれどそれを思い出そうとすると、胸の奥がなにか大きな、形のない手で締めつけられるような苦しさに襲われる。芙実は、その原因を凪時に求めた。きっと以前、彼にひどいことをされたから、こんなにも「婚約者」と
嘉之はページをめくり続けた。何度も、その日記を読み返していた。少女の頃から彼に憧れを抱いていた芙実。そして、ひと月前、彼が仲間と話す声をドア越しに聞いて、絶望した芙実。家に引きこもり、ただ天井を見つめるだけの日々。やがて、絶望の果てに嗚咽を漏らしながら崩れ落ちていった。「芙実、もう......これ以上耐えられない......芙実、助けてほしい。お願い、助けてくれ」嘉之は、あの頃のように芙実に救ってほしいと願った。だが返ってくるのは、まるで死を思わせるような静けさだけだった。糸の切れた操り人形のように立ち上がった嘉之は、台所へ向かい、包丁を手にして浴室へと歩いていく。睡魔が理性をかき消すなか、彼の脳裏をよぎったのは、数年前の記憶――芙実を鈴木家から連れ出したあの瞬間。かつては傲慢な御曹司だった彼。初めて家が破産し、地下室に住むことになった。そして初めて知った、自分が育った華やかな都市の下に、こんなにも息苦しくて狭い世界が存在するという事実。地下室で芙実と共に過ごした日々。冬になると、芙実の指は赤く腫れ上がっていた。そのたびに胸が痛んだ。だが、プライドが邪魔をして素直に手を差し伸べられない。だから彼は、芙実が眠っている隙に、そっと掌で彼女の指を包み、冷えを少しでも和らげようとしていた。あの時の、胸が締めつけられるような痛み――それはいまでも鮮明に蘇った。「いつか必ず、この子を幸せにする」そう心に誓ったはずだった。けれど、いまの自分は......死が近づく中で、嘉之はほんのわずかに口角を上げた。この数日、芙実は一度も彼の夢に現れなかった。だけど、死んだらきっと会える気がしていた。罵られても、殴られても、たとえもう一度死ぬことになったとしても、それでも構わない。すべて受け入れる覚悟はできていた。仲間たちが駆けつけた時、嘉之はすでに失血で意識を失っていた。血の匂いが充満する浴槽の中、彼はスマホと日記帳を胸に抱えていた。それは、芙実が彼に託した最後の遺物。嘉之は、それらを丁寧にプラスチックで包んでいた。自分の血で芙実のものを汚したくなかったのだ。洗面所の中が見えた瞬間、仲間の何人かは驚愕のあまり、思わず声を上げそうになった。だが、その中でも冷静だった小林平次(こばやし へいじ)がすぐに救急車
スマホ一台と、日記一冊。それが、芙実が彼に遺した最後の形見だった。ああ、違った。もうひとつ、彼女が遺したものがあった。婚約指輪だ。でもそれは、嘉之に渡すためのものじゃなかった。文乃に返すためのものだった。嘉之にとって、この結婚は「代わり」でしかなかった。だから、彼女にはもう必要なかったのだ。嘉之も、そして指輪も、本当に想っていた相手のもとへ返された。嘉之は、長い間ずっとためらっていたが、ようやく覚悟を決めて、日記を開いた。芙実がこの世界に遺していった、唯一の痕跡をゆっくりとめくっていく。---2014年12月23日車で八時間かけて、ようやく北都に着いた。人生で初めて、大きな街に来た。お巡りさんが教えてくれた。私が誘拐されたあと、お父さんとお母さんは、ひとりの女の子を引き取ったらしい。......お姉ちゃん、か。村にいた同い年の花ちゃんにもお姉ちゃんがいて、いつも花ちゃんが親に叩かれそうになると、そのお姉ちゃんが守ってくれてた。あの頃、すごくうらやましかった。でも、もううらやましくなんかない。だって、私にもお姉ちゃんができたんだもん!すっごく楽しみ!12月24日お姉ちゃん、すごくキレイな人だった。いかにも大切に育てられてきたって感じで、裕福な家庭のお嬢様って雰囲気があった。それに比べて私は、犬にも猫にも嫌われて、ずっと邪魔者扱いされてきた。まるで陰気なネズミみたい。うぅ。でも、大丈夫!今はお父さんもお母さんもいるし、お姉ちゃんもいる。私だって、きっといつか、他の子みたいに家族に大事にされる日が来る。そのときは、私も......お姫様になれるよね。※「お姫様」と書かれた文字には、大きなバツ印がつけられ、上から強く消された跡が残っていた。2015年1月誰も、私のことなんか好きじゃない。養父と養母は、ただ私を「買って」引き取っただけ。でも、弟が生まれたらもう、私なんていらなくなった。本当の両親のもとに戻ったはずなのに、そこにはもうお姉ちゃんがいて、私を好きになってくれなかった。......お姉ちゃん。お姉ちゃんも、私のことが嫌い。私は、誰にも必要とされてない......ただのゴミ。2015年3月お母さんはいつも、私がお姉ちゃんと物を取り合ってるって怒る。
救急車のサイレンが団地中に響き渡った。文乃は血の海に倒れ、虚ろな瞳を浮かべていた。嘉之は無表情のままソファに横たわり、血に染まった手でタバコに火をつけた。煙を胸の奥に吸い込み、じわじわと痛みが広がっていくのを待つように。まるで自傷行為みたいに、それから、ゆっくりと吐き出した。立ち込める煙が、その顔をうっすらと覆った。さっき、嘉之は文乃と激しく言い争った。怒りに目を赤く染めた嘉之は、文乃をテーブルの角に突き飛ばした。妊娠中の腹部に衝撃を受けた文乃は、苦痛の叫び声をあげ、その場で下腹部から血を流し始めた。彼女は嘉之のズボンの裾に縋りつきながら、必死に訴えた。「嘉之、嘉之!お願い、早く......病院に連絡して、今すぐ!このままじゃ......私たちの子どもが......!」でも、嘉之は冷たい目で彼女を見下ろしたまま、何の感情も見せずにその手を蹴り払い、再び火をつけたタバコを吸い始めた。一本のタバコが燃え尽きる間、嘉之は黙ったまま、血まみれで苦しむ文乃の姿、絶望に打ちひしがれ、最後にはすべてを諦める様を、ただ見つめていた。この惨状を前にして、まったく感情が動かなかったわけじゃない。ただ、その感情は文乃に向けたものではなかった。嘉之の頭の中には、芙実のことしかなかった。あの日、芙実もこんなふうに、一人きりで手術台に横たわって、絶望していたのかもしれない。彼女の叫び声を聞きつけた助手が急いで救急車を呼んだが、もう手遅れだった。担架に乗せられた時には、すでに胎児の命は助からなかった。嘉之はすぐさま芙実の寝室の掃除を命じ、作業員が片づけを始めるのを見届けてから、隣の部屋へと向かった。もし文乃がいなければ、気づけなかったかもしれない。芙実がこの部屋で、まだ産まれてもいない我が子のために、たくさんの服を用意していたことに。あの頃、芙実が流産した時期、嘉之は文乃とのデートの言い訳を必死に考えていて、そんなことに目を向ける余裕なんてなかった。ぽたぽたと、温かい涙が衣服の上に落ちていく。嘉之は顔を両手で覆い、その惨めな姿を隠した。「大丈夫だよ、ふみちゃん......オレが全部、取り戻してみせるから」姉の悪意ある挑発も、自分の裏切りも。すべてを終わらせたその日には、この命に代えてでも、ふみちゃんに償おうと決めていた。
文乃は御村家の家を一通り見て回り、芙実の持ち物が思っていたほど多くないことに気がついた。いや、「多くない」なんてものじゃない。正確に言えば、芙実がここで暮らしていた形跡がまるでない。女性用のスリッパもなければ、歯ブラシや歯磨きセットといった基本的な生活用品すら見当たらない。この家の持ち主が芙実と親しい間柄だったと知らなければ、最初から芙実なんて人間は存在しなかったんじゃないかとすら思える。たぶん嘉之は、死んだ人の持ち物を不吉だと感じて、全部まとめて捨ててしまったんだろう。でも、それならそれで都合がいい。わざわざ自分で片づける手間が省けたわけだから。「引っ越し業者さん?今朝連絡した者だけど。住所を送るから、私の荷物をすぐに運んできて」電話を切ると、文乃は家の中を見て回りながら、一番気に入った部屋を選び始めた。そしてすぐに、二階の日当たりのいいベッドルームが目に留まった。この家の持ち主が特に大事にしていたらしく、内装も家具も最高級の素材で統一されている。しかも、大きなガラス窓から朝日が差し込み、部屋全体が明るく照らされていた。ただひとつ残念なのは、その部屋の装飾がどこか上品で柔らかく、ひと目で「女性が住んでいた部屋」だとわかってしまうこと。文乃はその雰囲気に、思わず吐き気を催した。すぐさま階下へ降り、物置からペンキの缶を持ち出すと、その中身を壁やベッド、床へと乱暴にぶちまけた。真っ赤なペンキが部屋一面を血まみれのように染め上げ、ようやく彼女は動きを止めた。明日には業者を呼んで、この部屋を完全にリフォームするつもりだ。芙実の痕跡を、跡形もなく消し去るために。ベッドルームを出ると、文乃は隣の部屋に足を向けた。そこはおそらく、赤ちゃん用の部屋として設計されたのだろう。先ほどの主寝室ほど広くはないが、光がしっかり入り、あたたかく優しい雰囲気に包まれていた。文乃はすっかり気に入ってしまった。部屋の中を見ていると、衣装棚の中に未開封の服がずらりと並んでいるのを偶然見つけた。サイズは小さいものから大きいものまであり、生まれて間もない赤ん坊から十七、八歳くらいの少年まで、成長に合わせて用意されたもののようだ。文乃は心の中で、ふっと笑みをこぼした。嘉之とあの死んだ女の間に子どもがいないことは、彼女も知っている。ということ