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第2話

Author: 絵空事
再び目を覚ました時、琴子の周りには数人の研修医が立っていた。その中には夕菜の姿もある。

琴子は身を起こし、震える声で問う。「ここで何をしているの?」

一人、真面目そうな青年が口を開いた。「先生が、あなたを教材にして説明するから先に来いって……」

隣の学生が肘で突き、冷笑を浮かべた。「余計な説明なんかいらないだろ。恩を盾に居座ってる女に、そんな親切する必要ないんだよ」

琴子の顔色が青ざめる。以前なら気にも留めなかっただろうが、今は違う。確かに彼らの言葉は間違っていない。自分が恩を盾に知樹の側に縛りつけられているからだ。

「そうだよ。もし彼女がいなければ、先生は自分の本当の愛を追えるのに」そう言いながら、視線は中央に立つ夕菜へ向かう。言葉の意図は明らかだ。

夕菜が困ったように俯くのを見て、琴子の胸が鋭く刺された。

すると一人が軽く手を打ち、嘲るように言った。「もしかして彼女の母親も、娘を先生に嫁がせるために、自ら身を捧げたんじゃない?だって先生みたいな家柄、努力したって一生届かないだろ」

他の人々も口々に嘲笑が重なる。「なるほどな。やっぱり母娘そろってろくでもない。母親なんて腹黒すぎる」

琴子の手が強く握りしめられる。自分が何を言われても構わない。非があるのは自分だと自覚し、それを受け入れる覚悟はできていた。

しかしあの時、母を汚す言葉は絶対に許せなかった。母が罪を被ったのは恩義のためであり、ほんの少しも見返りを求めてのことではなかった。

周囲の非難はますますエスカレートしていった。琴子は母がそんな風に誹謗中傷されるのを許せず、勢いよく立ち上がると、最も酷く言った者を平手で打とうとする。

その瞬間、傍らにいた夕菜は、知樹がまさに入って来ようとしているのを視界の隅で捉えると、素早く一歩前に出てその人の前に立ちはだかった。

パシン。頬に赤い跡が浮かんだのは、夕菜の方だ。琴子は動きを止め、愕然とする。

知樹がドアに入った瞬間、目に飛び込んできたのはこの光景だ。彼は二歩大きく前に踏み出し、夕菜を抱き寄せると、琴子を強く押しのけた。

怒声が病室に響く。「琴子、何をしているんだ」

琴子は呆然と彼を見上げる。これまで一度も、彼がこんな声をぶつけてきたことはなかった。

しかし知樹は彼女を見ようともせず、夕菜を気遣いながら部屋を出て行った。

十分後、彼が戻ってきて最初に口にしたのは「夕菜に謝れ」

琴子は顔を背け、沈黙した。

「甘やかしすぎたな」知樹の声は冷たく鋭い。

全身が強ばり、目に熱がこみ上げる。彼女は必死に訴える。「先に『恩を楯にしてる』って言ったのはあの人たち。母が罪を被ったのも、あんたの家に取り入るためじゃない。それに夕菜を打つつもりはなかった、彼女が勝手に前に出ただけ!」

だが知樹の目に迷いはなく、吐き捨てるように言った。「彼らの言葉は間違っていないだろう」

その瞬間、琴子の瞳が大きく揺れる。信じられない。胸の奥に押し込めてきた悲しみと屈辱が溢れ出す。

そうだ。彼はずっとそう思っていたのだ。

だからこそ何度も自分を傷つけ、結婚を先延ばしにしてきた。すべては責任でしかなかった。

彼女はうつむいて、自嘲気味に口元をわずかにゆがめた。「わかった。謝りに行く」

琴子は崩れ落ちそうな体を引きずりながら、知樹の後を追って彼のオフィスへ向かう。

扉を開けると、椅子に一人で座る夕菜の姿が目に入る。琴子は一瞬立ちすくみ、過去を思い出す。

以前、彼女が知樹の退社時間に合わせて迎えに来たいと言うと、彼は用事があって遅くなると言い、自分はオフィスで待っていてもいいと伝えた。

しかし彼は「オフィスは重要な書類ばかりだ。誰かを一人で中に残すわけにはいかない」と拒んだ。

だが今、夕菜は堂々と彼の部屋に一人で座っている。男の原則など、好きな相手の前では意味をなさない。

胸を抉る痛みを押し殺し、琴子は夕菜の前に立ち、頭を下げた。「ごめんなさい。さっきは手が当たってしまったの」

夕菜は驚いたふりをして口元を覆い、声を上げる。「奥さん?」

知樹は夕菜のそばに歩み寄り、彼女の頭を撫でながら、少し不満げに言う。「まだ結婚していない。そう呼ぶ必要はない」

他の人が琴子を「奥さん」と呼んでも否定しなかった彼が、夕菜の言葉だけは訂正する。愛する人の口からその呼び方を聞きたくないのだろう。琴子の胸に苦味が広がる。

夕菜は従順に頷き、呼び方を変えた。「杉田さん、そんなに気にしないでください。私はもう許しました」

寛大さを見せるその仕草に、ようやく知樹は琴子を解放した。「帰って休め」

爪が掌に深く食い込み、琴子は背を向けて部屋を出る。だが数歩進んだところで人にぶつかり、そのまま床に倒れ込む。痛みが全身に走り、冷や汗が滴り落ちる。

背後のオフィスから、知樹の声が優しく響いた。「顔はまだ痛むか?薬を塗り直そう」

こらえていた涙が堰を切り、床に滴り落ちる。声を漏らさぬよう口を押さえたが、震える肩が彼女の悲しみを物語っていた。

翌日、知樹は交流のために他の病院へ出向いた。同行したのは夕菜ただ一人。

その後も琴子の病室には次々と研修医が現れる。

「先生は夕菜を連れて遊びに行ってる」

「また一緒に食事してるらしい」

「人気観光スポットを一緒に巡ってるんだって」

かつて彼が一度も琴子にしてくれなかったことばかりだ。

琴子は一言も返さなかった。だが心は引き裂かれるほどの痛みに満ち、やがて瞳に淡い光が宿る。

知樹、あなたを自由にする。

退院したその足で、琴子は婚約を解消するために、新田家の本邸へ向かう。
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