LOGIN「少し失礼します」
それに気づいたのは桔梗のほうが早くて、彼女は俺から離れると少し急ぎ足で一人の女性のもとに向かった。桔梗の唇の動きから、掛けた言葉は『大丈夫ですか?』。声をかけられた女性はさっきまでの困り顔に安堵を浮かべる。桔梗が行くのが見えたのだろう。母さんや祖母さんは動かず、それまで通り、そこで談笑を続けていた。30分ほど前から、こんなことがよく起きている。異変を感じ取るのは桔梗のほうが早く、あちこちに行ってトラブルを解決し、そして俺のもとに戻ってくる。解決できたという顔は誇らしさよりも大事でなかったことを安堵していて、そんな桔梗の姿を俺は誇らしく感じる。数分前よりさらに俺を惚れさせる桔梗。そんな彼女が当たり前のように、俺のところにまっすぐ戻ってくる姿に嬉しくなる。「さっきからよく動き回って」「よく気がつくお嬢さんね」「気遣いも細やかで、蓮司さんもいいお嫁さんをもらいましたね」「はい、私には勿体ない女性です」俺たちの会話が聞こえたのだろう。少し離れたところにいた、過去に自分たちの娘を俺の嫁にと進めてきた夫婦が悔しげに顔を歪める。今日この場で桔梗を貶めるのは無理でも、いつかどこかでと桔梗の悪いところを探していたのだろう……ふんっ。「花嶺家のご長女の桔梗さんといえばあまりいい噂を聞かなくて、あの明美さんのお嬢さんがと思ったけれど」「どうしてこんないい子にあんな噂が流れたのかしら」「それは気になりますね」好奇心とは人を動かすエネルギーであり、ここに集う文化界の人たちのその好奇心はとても大きく、探究心は並外れている。噂には、それが流れて得をする者と損をする者がおり、誰が何のためにと考えると、“誰が”は得をした者であることが多い。「婚約破棄した相手が実は、は人気の設定。この場合、元婚約者はやり直してほしいと追いすがってくる」「蓮司、そんなジャンルも読むのか?」先日、初めて読んだ。 「武美の件で桔梗を不安にさせたとき、勉強しろって父さんに渡された。女はすごいぞ。愛想尽かしたらそれで終わり、冷徹なほど容赦なく、未練の“み”の字もない」「女がすごいなんて、うちの一族を見渡せば分かるだろ」確かに。 「朋美に、男は母親に似た女を選ぶのだと笑われた。もちろん桔梗になら尻に敷かれても足で踏まれても構わないがな」「同じことを和司小父さんが言ってた、だから結婚したんだって。話が逸れたけれど、桔梗さんはすで結婚している。夫は桐谷蓮司、桐谷家の後継者。どれだけ口惜しかろうと錦野家は指をくわえているしかない相手だ」「それを理解していたら、桔梗に会いたいなんて言わないだろう?」 俺の知る限り、錦野柾はプライドが高く、潔癖な完璧主義者なのか僅かでもケチがついたものは受け入れない。潔癖で、完璧主義……。 花岡社長は桔梗と錦野柾の婚約破棄の理由が錦野柾の心変わり、花嶺桜子の略奪愛だと説明したが、あの日俺が桔梗を穢したことが原因だったのではないかと思っている。 30歳を過ぎて結婚したり子どもが生まれたという友人が増え、独身者は彼らに結婚をしないのかと聞かれることが増えた。錦野柾は、婚約者が有名な『悪女』だったから結婚するのはやめたらどうだと、代わりに花嶺桜子と結婚すればいいと言われていた。花嶺桜子と、と言われるのは錦野柾はいくつものイベントに花嶺桜子を連れてきたからで、頻度も高く俺でさえも花嶺桜子の顔を知っていたくらいだった。錦野柾は花嶺桜子を『将来の義妹』と言っていたが、二人の間に漂う男女の空気にそれを信じる者はいなかった。 花嶺桜子は、俺の好みではないが、男受けする容貌をしている。銀座でトップクラスだっ
錦野家は資産家であるが、その資産を得た方法があまり褒められたものではないため国際的な評価が特に低い。花嶺家は貿易で名をあげ、諸外国とも交流があり、さらに花嶺家には錦野柾と釣り合う年齢の娘の桔梗がいて、錦野家にとってよい条件の相手だった。 錦野家の当主、錦野柾の祖父である錦野政一は多少汚い手は使ってもその商機を見る目は確かであり、だからこそ桔梗が幼いうちに孫の婚約者として確保したかった。真の狙いは桔梗の母親。桔梗と花嶺桜子は母親が違い、桔梗の母親の花嶺明美は西園寺家の娘。 西園寺家は人徳があり発展途上国に対して積極的な支援を行うなど慈善家として知られており、それは錦野家を助けるものだった。しかし、錦野政一が目をつけたのは花嶺明美の内助の功。どんな人物だったのかは、母さんによる「桔梗さんの母親よ」でなんとなく想像がついた。 桔梗がいると、それが家政婦という立場でも妻という立場でも全く同じ、桔梗がいるだけで家が安心できる場所になる。家政婦とは桔梗に会うまでは代わりに家事をしてくれる人というイメージだったが、「政」という字のつく仕事、家に秩序をもたらし、家を管理する仕事なのだ。桔梗がいる家に帰ると、俺はなにもしない。桔梗から与えられるもので満足できてしまう、それ以上に願うことなど思いつかない。任せて、委ねて、何も言わなくても俺は幸福で、リラックスして安心感に浸れる。そうできるように桔梗がしてくれていて、桔梗のおかげで俺は家の外でいいパフォーマンスができている。 そんな桔梗の母親、花嶺明美の内助の功はあの花嶺辰治を時代の寵児とまで言わしめた。俺には到底信じられないが、あの花嶺辰治が、その商機を見る目には驚かされると口々に称えられ、社交においては経済界と文化界を結ぶ架け橋だったという。花嶺明美に支えられていることに花嶺辰治は全く気づいていなかった。美しいだけで目立った才覚のない凡庸な女だと花嶺辰治は妻を笑い、花嶺辰治は何人もの愛人を抱え、その一人がいまの妻
「少し失礼します」それに気づいたのは桔梗のほうが早くて、彼女は俺から離れると少し急ぎ足で一人の女性のもとに向かった。桔梗の唇の動きから、掛けた言葉は『大丈夫ですか?』。声をかけられた女性はさっきまでの困り顔に安堵を浮かべる。桔梗が行くのが見えたのだろう。母さんや祖母さんは動かず、それまで通り、そこで談笑を続けていた。 30分ほど前から、こんなことがよく起きている。異変を感じ取るのは桔梗のほうが早く、あちこちに行ってトラブルを解決し、そして俺のもとに戻ってくる。解決できたという顔は誇らしさよりも大事でなかったことを安堵していて、そんな桔梗の姿を俺は誇らしく感じる。数分前よりさらに俺を惚れさせる桔梗。そんな彼女が当たり前のように、俺のところにまっすぐ戻ってくる姿に嬉しくなる。 「さっきからよく動き回って」「よく気がつくお嬢さんね」「気遣いも細やかで、蓮司さんもいいお嫁さんをもらいましたね」「はい、私には勿体ない女性です」俺たちの会話が聞こえたのだろう。少し離れたところにいた、過去に自分たちの娘を俺の嫁にと進めてきた夫婦が悔しげに顔を歪める。今日この場で桔梗を貶めるのは無理でも、いつかどこかでと桔梗の悪いところを探していたのだろう……ふんっ。 「花嶺家のご長女の桔梗さんといえばあまりいい噂を聞かなくて、あの明美さんのお嬢さんがと思ったけれど」「どうしてこんないい子にあんな噂が流れたのかしら」「それは気になりますね」好奇心とは人を動かすエネルギーであり、ここに集う文化界の人たちのその好奇心はとても大きく、探究心は並外れている。 噂には、それが流れて得をする者と損をする者がおり、誰が何のためにと考えると、“誰が”は得をした者であることが多い。
「桔梗、大丈夫か? 何か手伝うか?」台所で動き回る桔梗に声をかける。正直に言えば俺が台所で戦力になるとは欠片も思えないが、だからと言ってボーッと見ているのも気が引けてしまう。「大丈夫です。それよりも誠司の様子はどうですか?」「ぐっすり寝ているよ」俺の言葉に、良かったと笑う桔梗の顔はとても楽しそうだ。彼女の顔に陰りがなくなったことは喜ばしいが、これを引き出せたのが朋美や母さんであったことに悔しさを覚える。 「お兄、すっごくいい匂いがするんだけど」「食いたいならお前も参加しろ」「今日の参加者の前で食事をする勇気なんてないよ」ラスボスから始めず村人Aとの会話から始めなよと、ぼやく朋美に苦笑しつつも内心は同意する。 ―― お客様を選んでうちのお茶会に招待して、少しずつ桔梗さんという人を知ってもらいましょう。これが母さんの今回の計画。 桔梗には素行が悪いという噂と、婚約者のいる俺を寝取ったという不名誉な噂がある。桔梗を表に出しつつも、この噂を始めとして話題を完璧にコントロールし、なおかつ桔梗にとって好ましくないであろう人物を近づけない方法。それが桐谷邸でのお茶会の開催。参加者は俺たちが厳選し、桐谷家の当主である祖父・桐谷勝司の名前で招待状を出した。ここで俺たち夫婦を紹介し、少しずつ桔梗の人柄を知ってもらおうという作戦。祖母さんが威圧し、母さんが睨みをきかせている会場で桔梗に無礼な態度をとれる度胸のある者はおらず、その状態で桔梗がもてなせば絶対に堕ちるというのが祖父さんと父さんの意見だった。 社交には3つの派閥がある。財界・企業・投資家を中心としたこの国の金を握る経済界。国会議員や官僚その他に地方の名家を中心とした伝統や権威を背景にした政界。芸術家や大学教授など精神的権威を持つ文化界。この3つが基本的には対立し、均衡を保っている。
「朋美、今週の金曜日の夜の予定は空いているか?」「どうして?」取引先のセレモニーに呼ばれたのだと説明したら、朋美は奇妙な顔をした。「私?」「ああ。武美は外せない勉強会があるらしくてさ」「武美ちゃんねえ……武美ちゃんが無理なら秘書を連れていけば?」「そう思ったんだけど、武司にやめとけって言われた」なんだ?さっき武司にも「武美が無理だから秘書ってか……やめたほうがいいぞ」と言われた。 「お兄、マジで分かってないの?」「何が? 言いたいことがあるならハッキリ言え」「それじゃあ言うけど、桔梗さんと離婚するならお兄がこの家を出ていってね」「はあ?」「当たり前でしょう。桔梗さんは食の女神、誠ちゃんは癒しの天使。要らないのはお兄だけじゃん」「いや、そもそも離婚ってなんだよ」「離婚されるのも時間の問題だって言っているの。武司兄さんだって気づいているのに、なんで気づかないかな」 * 出社して武司に朋美とのやり取りを話したら、「マジで言ってる?」と武司に呆れられた。 「お前さ、イベントには桔梗さんじゃなくて武美や秘書を同伴しているだろう?」「当たり前だろう」 彼女は父親の花嶺辰治がきたあの日、彼女は頭痛を訴えて意識を失った。心療内科医に相談したら、何か記憶を揺さぶることがあったのかもしれないと言われた。彼女が病気、全てを忘れてしまった理由はあの夜だろう。だから、彼女が記憶を戻すなら、そのキッカケはあの夜に関係することに違いない。 彼女が全てを思い出す日がくることを、覚悟できていた……はずだった。でも、どこかで彼女はずっと思い出さないんじゃないかなと思っていた。あの日、彼女が思い出しかけたと知って、心底
1年にも満たない私の記憶の中で、蓮司さんに何度「無理はするな」と言われただろう。妊娠中や出産直後は、「無理はするな」は私を気遣ってくれる蓮司さんの優しさなのだと、「無理はするな」という言葉に素直に頷けた。何でとか、何のためにとか、無理な何かが分かっていたから。 でも、いまは?何が無理なのだろう? 子どもは生まれた。もう妊婦じゃない。誠司が生まれて6ヶ月もたった。出産後の回復は順調って言われたし、生理がくれば完全ではなくてもほぼ妊娠前の体に戻ると言われていた。その生理は、もう3ヶ月前に来た。 何もさせてもらえないわけではない。家の中でのことなら「無理はするな」という言葉でダメとは言わない。「無理はするなよ」と心配してくれるのは同じだけれど、私の希望を受け入れてくれる。 家に閉じ込められているわけではない。買い物だって、「無理はするなよ」と心配されて誰かが一緒にいくけれど自由に行っている。テレビをみていきたいお店があれば、蓮司さんが休みを取って一緒にいってくれる。 会社や桐谷家の対外的なお付き合いのときのことだけ「無理するな」と言われる。そして「武美がやるから大丈夫」と言う。武美さんが無理なら、「秘書がやるから大丈夫」。秘書さえも都合がつかない場合は「朋美が頑張るから大丈夫」。 頑張れば私だってと思うのは、私の奢りだろうか。 * 「ねえ」聞いたことのない声に振り返ると、見たことのない若い女性がいた。そういえば朋美さんが今日は友だちと家で課題をやると言っていた。彼女がその友だちだろうか。「どうかしましたか?」「朋美の部屋が分からなくなったのだけれど、どこかしら?」やはり朋美さんの友だちだったらしい。