INICIAR SESIÓN「蓮司さん?」
誠司が久しぶりに夜泣きをし、あやしていたら目が冴えてしまって、ホットミルクでも飲もうかとキッチンに行ったら蓮司さんがいた。
暗い中、開けた冷蔵庫の中の光だけに照らされた蓮司さんの顔は端正な顔立ちが災いしてちょっとだけホラーだ。
「桔梗、ただいま」
今日は酒席があるからと言っていたから、顔には出ていないけれど軽く酔っているみたい。
いつもより少し反応が遅い。
それでも蓮司さんは『ただいま』と、私の『おかえり』より先に言ってくれる。
「お帰りなさい」
先に『ただいま』と言ってもらえることが嬉しい。
どちらでも同じではないかと、人に言ったら笑われてしまいそうだから蓮司さんにも言うつもりはなかったけれど、いつだったか「ただいま」を聞きたくて「おかえり」が遅くなってしまって、どうしたのかと尋ねる蓮司さんに理由を話した。
それ以来、蓮司さんは必ず先に「ただいま」と言ってくれる。
「ただいま」は“あなたのところに帰ってきた”という意味で、あなたのいる場所が自分の帰る場所なのだと言う意味がある。
安心できる言葉。
それを教えてくれたのも蓮司さんなのだけど、これは言っていない。
*
生まれたばかりの誠司と共に退院した日、蓮司さんとお義父様とお義母様、そして朋美さんまで病院に来てくれた。
先生は「素敵な家族ですね」と言ってくださったけれど、状況が状況だけに『家族』と私が言ってしまっていいのかという戸惑いがあった。
入院中に入籍していたけれど書類上の名前が変わっただけという感覚で、結婚したのだという実感はなかった。
大所帯だから迎えの車は2台。
お義母様が誠司を抱いてお義父様と1台目の車に向かったので、2台目に私たちは乗った。
朋美さんも一緒で、どれだけ誠司に会いたかったか、誠司への贈り物が子ども部屋にところ狭しと置いてあると、基本的に言葉数の少ない私たちの代わりに朋美さんがいろいろ話してくれた。
蓮司さんは「うるさくてすまん」と言っ
連れていかれたのは8畳ほどの部屋。動かない私の体は男に人形のように運ばれる。意識はあるのに、体に力が入らない。これは、意図的。ソファに横たえられると、背中に柔らかいクッションの感触を感じた。この先の嫌な想像にゾッとする。「やめ……て……」白州と名乗った男の私を見下ろす目は、まるで玩具を見つけたようなもの。喜びと、残忍さがチラついている。「いやあっ」せり上がった恐怖に押されて喉から声が出る。涙が盛り上がるのを感じる。 「ああ、とても素敵だ。その怯えた表情……あはあ、堪らない」男は恍惚とした表情を浮かべると、スーツの内ポケットからお酒の携帯瓶を出した。男は私の目の前でその瓶を揺らす。瓶の中の液体はほんのりと琥珀色を帯びていた。男がふたを開けると、飲み口を私に寄せる。甘い香りに、スパイスのような刺激。「飲み給え」男はそう言うと私の顎を強く掴み、口の中に瓶の飲み口を深く差し込む。「んぐっ!」喉が詰まって、反射的に吐き出そうとしたのに、私の反応を分かっていたように男は瓶の底を頭のほうに押した。慣れた手口。反った首が気道を確保して、得体のしれない液体は喉を下って体の中に入っていく。とろりとした甘さ微かな苦味。「げほっ!」男が瓶の飲み口を口から外すと、ずっと我慢させられた咳が出た。喉が痛い。生理的な涙の滲む目に、男が満足気に空の瓶を振るのが見えた。「おお、ちゃんと飲めたな。うんうん、こうすれば君の体を傷つけずにすむし、お互いに気持ちいい」男の指が帯締めに触れる。結び目の中心に指がかけられ、力を込めて引くと一瞬苦しくなり、絹のこ
「素敵な絵ですね」和美お義祖母様に誘われてきた日本画の展示会場で、私は1つの絵に魅せられたように目を奪われた。隣りにいるお義祖母様も納得したように頷く。「石川明梗の作品ね。彼はまだ若いけれどすでに名の知れた日本画家なの。彼の絵はどれも素晴らしいけれど、私は彼の美人画が特に好きね」「そうなのですね」私が相槌を打つと、お義祖母様は私の絵を見比べて笑った。「どこか桔梗さんに似ているわ」「そう、でしょうか」美人画に描かれた人に似ているなんて、美人だと間接的に言われた気がして照れくさい。それが憧れて目標としている女性の一人であるお義祖母様なら尚更だ。 「桔梗さん?」「お義祖母様、私はもう少し……」お義祖母様が楽しそうにフフッと笑う。「とても気に入ったのね。素敵な出会いは大切にしなくてはね。私はのんびりと他の作品を見ているから、満足したらいらっしゃい」お義祖母様の気遣いに感謝して、また絵に向き直る。美しい。そして――懐かしい。なぜだろう。初めて見るはずなのに、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。まるで忘れていた誰かに再会したよう。夢の中のような朧げで、でも何かを掴んだような感覚。絵の中の女は椅子に座り、うつむき加減で顔は見えない。薄紅の小袖に墨色の帯、髪は結い上げられて白い襟足が無垢でありながら艶めかしく際立っている。目元は伏せられ、唇は閉じて、その僅かな表情とも言えない表情には言葉にならない、切なく儚げな感情が見える。静かで、凛としていて、ああ、そう、誰かを待っているような寂しさを感じる。傍にいたい?だからここから離れられないの?心が、絵の中に引き込まれていくよう……。
恋をすると人は綺麗になると言うが――。「予想はしていたけれどこれほどとは……」佳孝の畏怖混じりの感心に深く同意する。凄みのある美しさといえばいいのか、毎日これに晒されている桐谷蓮司に軽く同情した。 「どうしたの?」不思議そうに首を傾げる仕草は嫋やかで、黒髪が揺れて華奢な首筋が顕になる様子に同じ女の感覚を持つ私でさえドキリとしてしまう。百合めいた感覚というのか、目をそらすべきと本能は言うのに、目をそらしてホッとしても、気づけばまた桔梗を目で追っている。 桔梗は、よけい危うくなった気がする。これまでの桔梗はどこか“張りつめた美しさ”があって、誰にも触れられたくないと願う花のように他人を拒絶していた。でも今は、摘み取られることを心待ちにしているような芳しさがある。健康な身体で性欲のある者には堪らないだろう。隣で佳孝が目で『これ、外に出して大丈夫?』と訴えてくる……正直、この匙は桐谷蓮司に投げつけたい。お前のせいだ! 「蓮司さん、珈琲のおかわりは?」幸いなのはこれが向けられているのは桐谷蓮司だけであること。私や佳孝に向けるものと、桐谷蓮司に向ける眼差しは違う。ほんの少しまぶたが長く閉じて、次に開かれた目は甘やか。話しかける声はしっとりとした尾を引き、唇のわずかに揺れが艶めかしい。恋を知った桔梗は、強烈だ。健康的な身体で、健全な性欲もあり、桔梗に惚れている桐谷蓮司には堪らないだろう。 媚びているわけではない。肌を寄せるでもなく、甘えた言葉を発するわけでもない。振られたという事実と、桐谷蓮司の妻であるという現実とを合わせて、せめて桐谷蓮司の妻と名乗って恥ずかしくないように努力しようとでも思っているのだろう。その努力が、努力家の桔梗らしいその結果は
「なんで俺たちが呼び出されるわけ?」佳孝と一緒にスタッフに案内された個室に入ると、中にいた桐谷蓮司が顔を上げた。顔色も表情も素面だが、桐谷蓮司の前に置かれたボトルが今日おろした新品ならかなり飲んでいることになる。「花岡社長、滝田さん。なにを飲む?」私と佳孝は互いの顔を見て、肩を竦めるとまだ扉の前にいたスタッフにそれぞれのお酒を注文した。 それにしても、桔梗の夫となったこの桐谷蓮司とこうしてお酒を飲む仲になったことに驚かされる。それもこれも――。「相変わらずいい男だなあ」佳孝のせい。この滝田佳孝は私のパートナーで、普段は完璧に同性愛者であることを隠している。でも桔梗とこの桐谷蓮司にはすぐにバレた。桔梗には性的なものを感じないという理由で、逆に桐谷蓮司には性的なものを感じたという理由で。桐谷蓮司はこの見た目だから男にも好意を寄せられることが多く、何となく分かるようになったという。私も一応この見た目だから言い寄られることが多いから、何となく分かるのもわかる。 あの日、桔梗のことで話したいことがあると桐谷蓮司に言われ、心配だから一緒に行くという佳孝の提案を受け入れたのが間違いだったのか。勘がいいところも桐谷蓮司は桔梗に似ていて、桐谷蓮司に見惚れた佳孝に私がムッとした一瞬を逃さず、私たちの関係に気づいた。ただ、私がトランスジェンダーとは気づいていないようだけど、それは桐谷蓮司にとってはどうでもいいらしい。私から見て桐谷蓮司は桔梗にしか興味がなく、私が桔梗にとってそういう相手でなければ脅威なしと見なしてそれ以上の興味はない。桐谷蓮司にとって私たちは桔梗に関する情報源、ただそれだけ。だから今回の呼び出しも桔梗絡み――。「桔梗に、好きだと言われた」……なに、これ?ラブコメ? *「難しいとこだよね〜。俺は桔梗ちゃんの想いを受け入れればいいに一
「アレを使えば俺でもインスタントラーメンを作れるから桔梗は寝て……「多分、無理ですよ」」 被せ気味に否定してしまった……落ち着こう、まずは蓮司さんの空腹を満たさないといろいろ先に進まない。 それに、実際に無理なの。 タッパーといい、インスタントラーメンといい、名家と言われる桐谷家にこういう物があることには驚いたが、納得できる理由がある。 桐谷家とその一族には「まずい料理しかできない」という呪いがかかっている。 蓮司さんが言っているアレ、朋美さんが買った電子レンジでインスタントラーメンが作れるという調理器具。 今日の午前中、まさに今の蓮司さんと同じ顔をして朋美さんは材料を用意し、説明書を熟読し、私が見ている限りミスなく準備を終わらせた。 「温めてスープの粉を入れようとしたのですが、スープの粉が入った袋が調理台の上からなくなっていたのです」 「どうして?」 「理由はさっぱり。あのときキッチンにいたのは私と朋美さんだけで、捨ててしまったのかと思ってゴミ箱も確認したのですが、ありませんでした」 「ホラーじゃないか」 呪いはホラー・サスペンスのジャンルに分類される。 完全に呪われている。 そして、漏れなく呪われている。 誠司用のご飯を作るため、ブレンダーで材料を混ぜていたときお義母様が手伝いたいと仰った。 失礼だけど、ブレンダーのスイッチを押すだけだから大丈夫だろうと思って渡したら――。 「ブレンダーが壊れたんです」 「予兆は?」 「ありません。最初の数秒は普通に動いていたんです。お義母様が……」 あ……。 ――ばあばが美味しいものを作ってあげる。 ブレンダーが壊れる直前、お義母様はそう仰った。 ――美味しくできるかな。 朋美さんは電子レンジを覗き込みながらそう言っていた。 「まさか……美味しいものを作ろうとすると呪いが発動するのでしょうか?」 まさか……でも、蓮司さんはハッとした。 「ラーメンの味変で成功したことがないのはそういう訳か」 そんなレベルなの? 「美味くなるかと思って入れるからか……でも、それ以外にどう思う?」 「それは……筋金入り、としか……」 「こんな筋金いらん。この呪いが誠司まで……」 今度は落ち込んでしまったわ。 蓮司さん、もしかして結構酔っているのかしら。 でも、落ち込む蓮司さんには申し
前の私と今の私は同じだけど、私の感覚的には別の人。前の私は例えるなら本の中の登場人物。前の私に起きたことは理解しているけれど、そのときに感じたことが書かれていないので出来事が羅列されているだけ。自分のことなのに他人事で、国語の問題のようにそのときの私の気持ちを推測している。恋なんて、感情的なものはまるっと抜けている。前の私が蓮司さんを好きだったのでは……でも、その先は?なにがどうなって誠司を授かったのか、前の私の恋物語は白紙の状態。その答えを持つ蓮司さんは目の前にいるのだから聞ける環境にあるのだけど、その質問は私への感情を問い質すことに等しい。いまの蓮司さんの雰囲気から、好意は持たれていると思う。でも恋情はどうだろう。答えを知りたいけれど、知るのが怖い。私を好き、なんて聞ける人は猛者だ。 * 「冷蔵庫を覗いて、どうしたのです?」「ずっと話の相手をしていたら飯を食いっぱぐれた。何かないか探していたんだが……ないな」冷蔵庫の中にはいくつもタッパーが入っているが、どれにも家族の名前が書いてあり、蓮司さんの言う通り『蓮』に丸印がない。 桐谷家は食い意地が……いえ、食に対してとても情熱的だ。どの食べ物もきっちり公平に分ける。食べ切れないときはタッパーに入れて日付と名前をつけて保管する。そんな冷蔵庫の中を知らない人が見たら桐谷家の実態に幻滅したのちにドン引きするに違いなく、家族会議により冷蔵庫をもう1台購入して外見はお義父様が趣味のDIYで棚に偽装した。だからいま蓮司さんがゴソゴソ漁っているのは偽装された新しい冷蔵庫のほう。 「朋美のやつ、きっちり食っているな」くそっと蓮司さんが毒づく。タッパーに書かれた日付は解禁日。生ものはその日のうち、生もの以外は翌日までが名前を書いた人の所







