ログインこうして、桜が病室から出てきた時も、京子の罵声はまだ続いていた。九死に一生を得たばかりだというのに、京子の桜を罵る言葉は容赦なく辛辣だった。一方、後から出てきた新太が、「桜さん」と声をかけた。桜は足を止め、振り返った。すると新太は彼女を見つめ、「社長が地下駐車場でお待ちだとおっしゃっていました」と言った。桜は頷いた。「わかりました。古川さん、いつも面倒をかけてすみません」「とんでもございません。社長の指示で動くのは私の仕事ですから」桜は新太に軽く会釈すると、エレベーターに向かった。……地下駐車場。桜がエレベーターから出て来ると、そこには、黒のマイバッハが停まっていた。桜はまっすぐその車へ向かった。すると、助手席の窓がゆっくりと下りた。運転席に座っていた安人が、彼女を見て言った。「とりあえず乗って」桜は頷くと、助手席のドアを開けて乗り込んだ。ドアが閉まり、安人は桜を見て、尋ねた。「大丈夫か?」桜は彼の方を見ずに俯いたまま、自分のつま先を見つめて言った。「うん……大丈夫。ちゃんと言ってきたから。親としての扶養義務は果たすけど、もう二度と会いに来ないって」安人は手を伸ばして彼女の頭を撫でた。「君がよく考えて決めたことなら、それでいい」「うん、ちゃんと決めた」桜の声はか細い。「私たちには親子の縁がなかったみたい。もう無理するのはやめるわ」彼女が口ではそう言っていても、安人は知っていた。母親の愛を求めない人間などいないのだ。京子がどんなに酷い母親でも、桜を産んだことには変わりない。愛情に飢え、情に流されやすい桜がそんな決断をするのは、きっと胸が張り裂けるほど辛いに違いない。「明日の夜は初日だろ。緊張してるか?」安人はさりげなく話題を変えた。「ちょっとだけね」桜はむかむかする胃のあたりをさすった。「家に帰って休みたいの。ちゃんと元気になって、明日の公演は万全の態勢で臨みたいから」「わかった。じゃあ、今すぐ帰ろう」「うん」……ほどなくして、マイバッハはウェストコートレジデンスの地下駐車場に停まった。桜はシートベルトを外し、安人に顔を向けた。「あなたは今日、会社に行かなくていいの?」「いいんだ」安人はシートベルトを外し、手を伸ばして桜の頬に触れた。「顔色が悪いな。どこ
「じゃあ、明日の初日の公演、やっぱり来られない?」「ごめんね、まだヘルパーさんが見つからなくて、それで」「大丈夫だよ」友達を困らせたくなくて、桜はわざと明るく言った。「全国ツアーで何回も公演があるんだから、そのうちの一回には来れるでしょ」「そうだね!じゃあ、わたしはこれで」「うん」電話を切ると、桜はネットニュースを開いた。なんと、そこには彰人が逮捕されたというニュースが、トップ記事で表示されていた。桜はその記事をじっと見つめた。話がうまく進みすぎているようで、どこか不自然に感じた。胸の中にぼんやりとした推測が浮かんだ。でも、それ以上深く考えたくはなかった。桜はスマホをしまい、車を降りてエレベーターホールへ向かった。エレベーターの中で、桜は27階と28階のボタンの前で少し迷ったけど、結局27階のボタンを押した。……この数日間で、あまりにも多くのことが起こりすぎていた。京子が重傷を負って入院したかと思えば、彰人に脅迫され、そして彼は予想外に逮捕された。桜の心は激しく揺さぶられ、頭の中はぐちゃぐちゃだった。明日は初日の公演だ。こんな精神状態で舞台に立てないことは、彼女自身が一番よく分かっていた。早く気持ちを切り替えないと。自分一人のせいで、みんなが何か月もかけてきた準備を台無しにするわけにはいかない。そう思っていると、エレベーターが27階に到着した。桜はエレベーターを降り、鍵を開けてドアの中に入った。部屋の中は、しいんと静まり返っていた。夏帆はいないみたいだ。ドアが開く音を聞きつけて、トラちゃんが自分の寝床から飛び出してきた。「にゃーん、にゃーん」ぽっちゃりした体で桜の足元に駆け寄ると、丸い頭をすりすりとこすりつけてきた。桜はドアを閉めてしゃがみ込み、トラちゃんを抱き上げて部屋の奥へと歩いた。リビングのカーペットまで来ると、桜はゆっくりと腰を下ろした。30分だけ、と彼女は自分に言い聞かせた。気持ちを落ち着かせるのに、30分あれば十分だった。トラちゃんは彼女の気持ちを察したのか、膝の上で大人しく丸くなり、目を閉じてゴロゴロと喉を鳴らした。猫が喉を鳴らす音は、聞いているだけで癒される。桜はトラちゃんを抱きしめながら、その背中を優しく撫でた。数分後、スマホが震えた
桜が目を覚ますと、もう翌日のお昼12時だった。カーテンが全部閉められた部屋は、薄暗く静かだ。桜は目をこすり、時間を確認すると、驚いてベッドから飛び起きた!まずい、彰人との約束の時間に遅れちゃう!桜は布団をめくり、靴も履かずにウォークインクローゼットへ駆け込んだ。自分の立場を考えて、桜はわざわざ黒のカジュアルな服を選んだ。着替えを終えると、彼女は帽子をかぶり、慌てて部屋を出た。リビングでは、安人がソファに座って雑誌を読んでいた。ドアが開く音を聞いて、彼はゆっくりと顔を上げた。二人の視線が合うと、桜は思わず立ち止まった。一方、安人は彼女を上から下までちらりと見てから、彼女の目を見つめながら尋ねた。「出かけるのか?」「うん」桜は頭をフル回転させながら答えた。「事務所に、ちょっと来るように言われて」「そうか?」安人は表情を変えずに言った。「送っていこうか?」「いいよ!」桜は慌てて断った。「あなたは仕事で忙しいのに、迷惑かけられないわ。自分で運転して行けるから」「夏帆さんがいるだろう?」安人は少し眉を上げた。「君は今、輝星エンターテイメントが特に力を入れているタレントなんだから、普段の外出でもアシスタントを連れて行った方がいい」「そっか。じゃあ、夏帆さんに声をかけてくるね」桜は引きつった笑いを浮かべながら、背中に冷や汗を滲ませた。片や、安人は彼女をじっと見つめ、少ししてから、淡々と答えた。「じゃあ、早く行ってこい」「うん!」桜は頷いた。「じゃあ、行ってくるね!」「気をつけてな」「分かってる」桜は玄関で靴を履き替え、安人に手を振ると、そそくさと出て行った。彼女はあまりにも慌てていたので、空気がおかしいことには全く気が付いていなかった。玄関のドアが開いてから、すぐにまた閉まった。安人は固く閉ざされたドアを睨みつけ、その端正な顔に冷たい表情が浮かんだ。実は、例の件は彼がとっくに片付けていたのだ。彼がここで桜を待っていたのは、彼女が自分から打ち明けてくれることを期待していたからだった。しかし彼を差し置いて、桜は大きなリスクを冒してでも、彼に隠れて動こうとしているのだ。安人は当然がっかりした。彼女なりに考えがあってのことだと分かってはいたが、やはり胸の中はモヤモヤしていた。二人が付き
大粒の涙が布団に落ちる。彼女はうなだれたまま、声も立てずに静かに泣いていた。その姿はとても痛々しかった。それを見て安人は、これ以上彼女に飲ませてはいけないと思った。彼はグラスを取り上げようとしたが、桜はそれを拒んだ。桜は両手でグラスをぎゅっと抱きしめ、「あなたが作ってくれたのに、無駄にできない!」と言った。そう言って、彼女は泣きじゃくりながらグラスを離さないので、安人は諦めるしかなかった。「桜、もう酔ってる。部屋に戻って寝よう」桜は首を横に振った。「酔ってない。それに寝たくないの。寝たら、夢を見ちゃうから」その言葉を聞いて、安人は胸が詰まる思いだった。先ほど、新太からファイルが送られてきた。それは、彼女が13歳の時に地元のチンピラに襲われそうになった事件の報告書だった。もしあの時、康弘の到着が少しでも遅れていたら、桜の人生はめちゃくちゃにされていただろう……当時、桜は必死に抵抗したため、足の骨を折られ、体中にも暴行による無数のあざが残った。桜の無残な姿を見て、普段は温厚で真面目な康弘は初めて激昂した。彼は病院を出ると家にあった包丁を持ち出し、チンピラの家に乗り込んで相手を半殺しにしたのだ。それによって、チンピラは重傷を負い、片腕はほとんど動かなくなった。事件は大事になった。誰もが康弘は悪くないと思っていたが、チンピラ一家のしつこい嫌がらせには敵わなかった。桜がチンピラに傷つけられたのは明らかだったが、現場の証拠は不十分だった。それに、チンピラ一家はとっくに母親の京子に接触していたのだ。そこで、京子は金のために、チンピラ一家との示談に応じた。その後、チンピラ一家はやり手の弁護士を雇い、逆に康弘を殺人未遂で訴えた。康弘は完全に不利な状況に追い込まれた。チンピラ一家は、康弘が賠償金を払うなら示談にすると持ちかけてきた。京子は受け取った金を返す気など毛頭なく、結局、康弘は全財産をはたいて買った漁船を売るしかなかった。その後、桜は長い間入院し、リハビリをしながらカウンセリングを受けていた。そして彼女が退院した後、康弘も京子もその事件について口にすることはなかった。一方、チンピラ一家のあまりに非道なやり口は地元の人たちの怒りを買い、毎日のように非難された。結局、耐えきれなくなった一家は、桜が入院
安人が書斎から出てきたとき、桜はソファに座ってぼんやりしていた。リビングは静まり返り、安人はゆっくりと彼女の後ろに立った。そして、大きな手で、桜の頭に触れた。桜はまつ毛をかすかに震わせて振り向くと、安人の深い眼差しと目が合った。「珍しく時間ができた。少し飲まないか?」そう言われ桜は少し意外そうに聞いた。「お酒ですか?でも私、あまり強くないんです」「それなら少しだけでいい」安人は口の端を上げた。「ホットワインでも作ろうか?」「作れるんですか?」「難しくはない」安人は眉を少し上げた。「調べたんだ。材料なら、家に全部そろってる」「ほんとですか!それなら!」桜は立ち上がった。「私も手伝います」「ああ」と安人は頷いた。……キッチンで、安人は冷蔵庫からリンゴとオレンジを取り出しながら桜に言った。「ワインセラーから赤ワインを一本取ってきてくれないか」「どんなものがいいですか?」「なんでもいい」安人の声は穏やかだった。「君の好きなものを選んでくれ」桜はワインのことはよく分からなかった。でも、安人のワインセラーにあるものならきっと安くないはずだ。「一番安いのはどれでしょう?」安人はリンゴの皮を剥く手を止め、桜を一瞥した。「どれも貰い物だ。気にせず適当に選べ」「あ、はい」桜は唇を結び、キッチンから出ていった。安人は彼女の後ろ姿を見つめ、静かにため息を漏らした。……それから、安人は、赤ワインをまるまる一本、鍋に注いだ。この前大晦日に、彼女が飲んだ甘酒に比べてこのアルコール量は実に倍以上あった。桜は安人も一緒に飲むのだと思い、特に気にも留めなかった。安人はまず一杯分のホットワインを注いで桜に手渡した。「少し熱い。リビングで冷ましてから飲みなさい」「はい!」桜はグラスを両手に持って、キッチンを出ていった。安人は残りのホットワインをもう一つのグラスに注いだ。彼がもう一つのグラスを手にキッチンから出ると、桜はすでにソファに座って、一人でホットワインを飲み始めていた。温かいホットワインが身体に染み渡り、桜の張り詰めていた神経がすうっと解きほぐされていく。良いワインで作ったホットワインは、やはり香りが格別だ。フルーツのフレッシュな甘みに砂糖の甘さが加わり、大晦日の夜に飲んだ甘酒よりずっ
でも、安人にじっと見つめられて、桜は少し後ろめたい気持ちになった。彼女はまつ毛をかすかに震わせ、ぎこちない表情で言った。「そんなに私を見て、どうしたの?」「桜、前に言ったこと、覚えてるか?どんな時も、お前には無条件で俺を信じてほしい」桜はきょとんとした。安人はどうして、急にこんなことを言うんだろう?もしかして、彼、知ってるの?「あなた」だが、桜の言葉は、スマホの着信音に遮られた。安人のスマホだった。安人は着信表示に目を落とし、すっと目を細めた。そして、彼はスマホを持って立ち上がった。「海外の取引先からだ。書斎で受けてくる」「うん」こうして、安人はスマホを持って、再び書斎に入っていった。桜はその背中を見ながら、膝の上の両手をぎゅっと握りしめた。手のひらには汗が滲んでいた。きっと安人はまだ知らないはずだと、桜はなんとか自分に言い聞かせた。彰人も、直接安人に連絡するほど馬鹿じゃないだろうから。そう思いながら、桜はソファの上で体を丸めた。そして、明日のことを考えると、彼女は気が気じゃなかった。多分、今夜は眠れないだろうな、と彼女は思った。安人は鋭い人だから、自分がこんなに張り詰めていたら、きっと何か気づかれてしまう。……一方、書斎。安人は窓の前に立っていた。スマホから寧々の声が聞こえてきた。「安人さん、私、もう限界です。桜と私は仲が良すぎるから、いつまでも電話に出ないわけにはいかないし……それに、彼女、今日はもう疑い始めてるみたいなんです。三浦さんのところにまで電話をかけたって。このままじゃ、いつかバレちゃいます!」「初日は明後日だ」安人は言った。「海外の医療チームもここ何日かで北城に着く。古川が手配した人間も明日にはM市に着くから、もう少しだけ頑張ってくれ。少なくとも、康弘さんの容態が少し良くなるまで待ってから彼女に知らせないと。今の状況で話したら、彼女が耐えられないかもしれない」「お気持ちは分かります。桜にとって康弘さんは、何よりも大切な家族ですもんね。もしものことがあったら、彼女はきっときっと耐えられないはず。だから、隠しておくのが一番安全だっていうあなたのやり方は、私も賛成です。でも、彼女のことも分かります。私がこうして避け続けるのは、根本的な解決になりません。い
月明かりの下、柔らかな風が女性の繊細な頬を撫でた。女性は美しい指先で琵琶の弦を弾いた。すると、優雅な旋律が夜の闇に響き渡っていた。荒井はしばらく聴いていたが、はっと我に返って言った。「これは、『おじいちゃんの絵筆』ですか?」綾もこの曲を弾けるなんて。荒井は思わず携帯を取り出し、このシーンを録画した。綾は何年も琵琶に触れていなかったため、最初は少しぎこちなかったが、次第に調子を取り戻していた。この曲は番組スタッフの多くを引き付けた。監督はアシスタントに目を向けた。アシスタントはすぐにジンバルを取り、監督に手渡した。監督はこの瞬間を記録しようと、ジンバルを使
夜8時半、誠也は西園寺館に戻った。悠人は宿題を終えたところだった。車の音を聞き、顔を上げて柚に言った。「お父さんが帰ってきたみたいだね?」「ええ」柚は悠人の頭を撫でて微笑んだ。「下に降りて、お父さんに会いに行こう」「うん!」悠人と柚が1階に降りると、誠也はすでにソファに座っていた。「お父さん!」悠人は誠也の目の前に駆け寄った。眉間を押さえていた誠也は、動作を止め、顔を上げて悠人を見た。そして、軽く口角を上げた。「宿題は終わったのか?」「うん!」悠人は眉をひそめた。「お父さん、どうしたの?仕事で疲れてる?」「大丈夫だ」誠也は隣の場所を軽く叩いた。「少しの間、隣に座
誠也は彼女を放した。「綾、余計な真似はするな」誠也はテーブルの上の食事に視線を向け、「お前の態度が良ければ、要求は考えてやる」と言った。綾は両手を握り締めた。やはり、誠也を騙すのは簡単ではなかった。しかし、今の綾には、誠也を怒らせる勇気はなかった。彼女はゆっくりと足を動かし、一歩一歩、小さなテーブルへと向かった。その度、鎖が床を擦る音が響いた。その音は、綾に深い屈辱感を与えた。彼女は食欲が全く無かった。「さあ、食べろ。全部、お前の好きなものだ」誠也は彼女の向かい側に座り、黒い瞳を微笑ませながら言った。「早く食べろ。冷めたら体に良くない」綾は目の前
彼は片手で鎖を掴み、もう片方の手でネクタイを外した......綾は背筋が凍った。足首の痛みをこらえ、歯を食いしばりながらベッドの反対側へ這っていった。誠也は冷たく唇をあげた後、鎖を緩め、彼女に這わせてあげた。綾がやっとのことでベッドの端にたどり着いた瞬間、足首にまた激痛が走った。「あああ――」誠也が鎖をぐいっと引っ張ると、綾は両手で必死にベッドの縁を掴んだ。足首はまるでちぎれそうなほど痛んだ。パニック状態の綾の視線は、ナイトテーブルの上にあったランプに注がれた。誠也は片手でジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを外し始めた。一つ、二つ、三つ......綾は振り







