LOGINその時、真紀は夕食の準備を終えると帰っていった。桜と安人は、誰にも邪魔されずに二人きりで夕食をとった。新婚夫婦のような、穏やかで甘い時間が流れる中、食事を終えた桜は、少し休んでからヨガウェアに着替え、リビングでトレーニングを始めた。明後日には初公演が控えている。だから、彼女は一瞬たりとも気を抜けないのだ。そして、彼女がトレーニングをしている間、安人は書斎で仕事をしていた。9時ごろ、桜はトレーニングを終えたが、安人はまだ書斎から出てこなかった。桜はしばらく待ってみたが、彼がまだ出てこないので、先に部屋に戻ってシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びて出て来ると、ベッドの上でスマホが震えていた。またあの知らない番号からだった。桜は一瞬ためらったが、通話ボタンを押した。すると、電話の向こうから、陰気でしゃがれた男の声がした。「桜か、俺だ」桜は息をのみ、スマホを握る手にぐっと力が入った。彰人だ。よくも、電話をかけてこられたものだ。「今どこにいるの?人を殴って逃げて、警察に指名手配されてるって分かってるの?!」「逃げなきゃ捕まるだろ!」彰人は怒鳴った。「お前たち親子のせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!お前たちがいなければ、俺は翠に弱みを握られることもなかったし、一文無しで追い出されることもなかった!全部お前たち親子のせいだ!」そう言われ、桜はあまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず鼻で笑った。「それで?今さら電話してきて、まさか私にお金でもせびる気?」「海外に高飛びする予定だ。お前が金を用意してくれ!」「お金なんてないわ」桜はきっぱりと断った。「ふざけるな!」彰人は怒鳴った。「お前が安人にとり入っているのは知ってるんだ!あいつが京子のために専門家チームを手配してあげたから、京子は一命をとりとめたんだろ!どうせ安人は金持ちなんだから、お前が頼めばいくらでも出してくれるはずだ!」「たとえ彼がくれると言っても、私からは絶対に頼まない」桜の声は氷のように冷たかった。「どうして私があなたにお金を渡さないといけないの?あなたは父親として、これまで私に何をしてくれた?プライドを捨ててまで、あなたのためにお金を無心できるわけないでしょ?それに、あなたは今、指名手配中の犯罪者よ。手助けしたら共犯になっちゃうじゃない」
「はい、わかりました」電話を切ると、桜はなぜかざわつきが収まらない胸をなでて、ため息を一つこぼした。きっと公演が近いから、緊張しているだけ。だから、余計なことばかり考えてしまうんだわ。寧々と康弘は実家にいるんだから、何かがあるわけないじゃない?そう思って、桜はスマホを置いて、スーツケースからロボット犬を取り出したあと、ベッドのそばにある窓の前にそれを置いた。すると、ベッドの上に置かれたスマホが震え始めた。桜は立ち上がって、ベッドに歩み寄ってスマホを手に取った。知らない番号からだった。桜は眉をひそめて、電話に出るべきか迷った。その時、玄関のインターホンが鳴った。夏帆がドアを開けに行った。「あ、碓氷さん……桜様は部屋にいます。どうぞお入りください」外の物音に気づいて、桜はスマホを置いてすぐに部屋を出た。スマホは鳴り続けていたが、やがて自然に切れた。……リビングでは、トラちゃんが安人の姿を見つけるとすぐに駆け寄った。そして、まんまるな頭を安人のズボンの裾にすりつけて、にゃーにゃーと甘えた声で鳴いた。トラちゃんのその情けない姿を見て、桜は呆れながらも笑ってしまった。「トラちゃん、そんなに甘えちゃって。安人に毛がいっぱいついちゃうでしょ!」そう言って、桜はトラちゃんのそばに歩み寄ってしゃがみこみ、その頭を指でつんつんと突いた。トラちゃんはもう、すっかり安人を自分の飼い主だと思っているようで、桜にからかわれても、彼に甘えるのをやめなかった。桜は仕方なく、トラちゃんを追い払った。そして、安人の高そうなスラックスに、びっしりと猫の毛がついているのを見て、桜はやれやれと首を振った。「野田さんが夕食を作ってくれている」そう言われ、彼の言葉に隠された意味を、桜はすぐに理解した。桜は夏帆を見て、少し気まずそうに言った。「夏帆、今夜は戻らないかもしれないんだけど、一人で大丈夫?」夏帆は頷いた。「はい、私は大丈夫です。桜様は、碓氷さんと安心してデートしてきてください!」桜は思わず、返す言葉がなくなった。……それから、桜は安人と一緒に、28階の彼の部屋へ向かった。キッチンでは、野田さんが忙しそうに料理をしていた。今回、桜は何も持ってこなかった。なぜなら、安人がここにすべて用意してくれて
そして、ウェストコートレジデンスに帰ってきた桜は、見慣れた部屋を眺めていると、ふと寧々に会いたくなった。寧々は実家に帰ってから、なんだか忙しいみたいだった。桜が時々電話をかけても、いつも出なくて、後で「忙しかったの」とラインを送って来るだけだった……最初は、桜も特に気にしていなかった。でも、もう2週間も経って、寧々のお父さんの容体も落ち着いたはず。なのに、どうしてまだそんなに立て込んでいるのだろう?一方、トラちゃんは夏帆が見慣れないからか、少し警戒している様子で、彼女の周りをぐるぐる回って、しきりに匂いを嗅いでいるのだった。それを見て、桜はしゃがんで、そのまん丸い頭を撫でてやった。「寧々ちゃんは実家に帰ったの。いつ戻ってくるか分からなくてね。夏帆さんは、私の新しいアシスタントよ。これからここに一緒に住むから、仲間なんだよ。威嚇しちゃだめ」「にゃーん」トラちゃんはとても賢い猫で、桜の言葉をいつもちゃんと分かっているみたいだ。桜は立ち上がると、夏帆の方を向いた。「主寝室の隣が、前に寧々が使ってた部屋なの。その隣はずっと空いてるゲストルームだから、そこを使ってくれるかな?」「はい、どこでも大丈夫です」夏帆は答えた。「では、先に荷物を部屋に運びますね」「ええ、そうして」夏帆がゲストルームに入っていくのを見届けてから、桜も自分のスーツケースを主寝室に運び込んだ。しばらく留守にしていたのに、部屋は変わらず綺麗に片付いていた。きっと安人が、事前に家政婦の真紀に頼んで掃除を済ませてくれていたのだろうと桜は気が付いていた。シーツや布団カバーは取り替えられたばかりで、部屋には爽やかなアロマの香りが漂っていた。北城での公演が終わると、次の巡業先はJ市だ。これからの二ヶ月、彼女は劇団と共に全国を飛び回ることになる。桜は心待ちにしていたが、同じくらい緊張もしていた。それに、あの京子の件も引っかかっている。どういうわけか、胸騒ぎが止まらず、落ち着かなかった。この気持ちを誰かに打ち明けたかった。でも、安人にはもう十分助けてもらっている。彼も忙しいのに、これ以上心配をかけたくはなかった。そう思って、桜は、寧々に電話をかけてみた。しかし、寧々はやはり電話に出なかった。彼女は寧々にラインを送った。「まだ忙しい?北城での
そう言われ、桜は言葉を失った。夏帆は言った。「冗談ですよ。テコンドー以外に自分に合う仕事が見つからなくて、最終的にアシスタントを選んだんです。こういった護身術はタレントを守ることにも繋がると思いまして」それはそうかもしれない。夏帆の理由は完璧なものだったから、桜もそれ以上踏み込まなかった。……一方、咲希は公演を降板したものの、昴は安人の機嫌を損ねないように、結局CMスポンサーから撤退することはしなかった。それだけでなく、安人は個人的な名目で追加出資をしたので、これは劇団全体にとって、まさにこの上なく有難いことだった!そして、公演が目前に迫り、桜はなんとか気持ちを切り替えた。咲希が去った途端、劇団の雰囲気はすぐに元に戻った。みんな、これから始まる全国ツアーをとても重要視していて、一人ひとりが最高のコンディションで臨んでいた。一週間後、京子は完全に命の危機を脱し、集中治療室からVIP個室へと移された。その一週間で、北城では多くの出来事が起こった。咲希は不倫が暴露されたうえ、度重なる整形の失敗で顔が潰れてしまったことが報道された。そして、金吾は不正取引の容疑で逮捕され、確たる証拠によって、彼の株や資産は凍結され、死刑判決が下される見込みだ。前田家も内部紛争が収束され、翠が咲希の叔父と手を組み、彰人を会社から追い出し、前田グループは勤によって引き継がれた。彰人が会社を去ったあと、翠はまとまったお金を手に入れ、世間の批判を浴びて顔を損傷した咲希を連れて、海外へ移住した。一方、彰人は京子に怪我を負わせた後、その日の夜に逃亡し、今も行方が分かっていない。京子は一命を取り留めたが、もともと体が弱かったところに、彰人から酷い暴力を受けたのだから、命は助かったものの、意識はまだ戻っていないのだ。病院によると、このまま植物状態になる可能性が極めて高いらしい。桜もこの結果は、安人が全力を尽くしてくれたからだと分かっていた。そして母である京子の生命力にも自信があった。今のこの状況は、むしろ自分と京子にとって、ある種の緩和期間なのかもしれない。北城巡演の2日前、つまり4日に、桜は由美子や劇団のメンバーと一緒に北城へ戻ってきた。安人はこの数日とても忙しかったので、新太に空港まで桜を迎えに行かせた。空港を出ると、桜
桜の記憶の中で、母の京子という存在はまるで呪いのようだった。生まれてから今まで、その「京子」という呪いは、ずっと彼女を苦しめ続けていた。彼女も抵抗しようとした。それでも、血の繋がった親子関係を、桜は断ち切れなかった。だから、京子にひどく罵られ、暴力を振るわれた時には、もし京子が死んだら、この最悪な人生も少しはマシになるんじゃないかって、そんな邪な考えさえ抱いたこともあった。だけど、いざ京子が危篤だと聞いた途端、桜は頭の中が真っ白になった。それを見て、安人がスマホを受け取った。彼は病院の担当者と状況を確認すると、静かに電話を切った。「大丈夫だ。古川に行かせて対応させるから」安人は自分のスマホのロックを解除すると、連絡先から新太の番号を探して電話をかけた…………それから、安人は全ての手配を終えると、桜の頭を優しく撫でた。一方ぼうっとしていた桜はゆっくりと顔を上げ、じっと彼を見つめたが、その目には戸惑いが満ちていた。そして彼女はぼそっと言った。「あの人、死んじゃうのかなあ?」その声は、静まり返ったこの部屋でなければ聞き取れないほどか細かった。安人は彼女の震える手を握った。「安心して。もう古川を病院に向かわせた。専門の医療チームも向かっているから、きっと全力でお母さんを助けてくれるはずだ」それを聞いて、桜はぱちりと瞬きをした。「私も向かった方がいいかな?」「もうすぐ本番だろう」安人は彼女の頬に触れた。「君が行っても何もできないし、手術の同意書は古川が対応できるさ。俺を信頼してくれるなら、この件は俺に任せて。君はここで本番の準備に集中するんだ」もちろん、桜は安人を信頼していた。実際のところ、あまりに突然の出来事で、彼女はどうしたらいいか分からなかったのだ。そんな時に安人がそばにいて、動揺している自分に代わって全てを手配してくれた。そのおかげで、桜の心にあった不安や焦りは、すっと和らいでいった。「安人、ありがとう」桜は腕を広げて彼に抱きついた。安人も、その勢いで彼女をそっと抱きしめた。「ここに残るよ。あなたの言う通り、私が北城に戻ってもできることは何もないから」桜は目を閉じ、静かな声で言った。「生と死は運命だもの。どんな結果になっても、受け入れるよ」そう言って、彼女は落ち着いているように見え
「病院に何の用です?まさか、ご懐妊ですか?お腹の子は片桐さんのですか?」「片桐さんが不正取引の容疑で警察の聴取を受けていますが、この件について何かコメントはありませんか?」「前田さん!片桐さんとは、合意の関係だったんですか?それとも彼に無理強いされたんですか?」ひっきりなしの質問攻めに咲希は、何がなんだかさっぱりわからなかった。北城に戻った彼女は、顔の怪我を治療するため、病院に来ていたのだった。美容外科の先生によると、鼻のプロテーゼが破損したため、再手術が必要だとのことだ。でも咲希は国内の医療技術を信用できず、当初手術を受けた海外の病院へ行こうと考えていた。しかし、病院の入口には大勢の記者が待ち構えていて、無数のカメラが彼女に向けられるなんて、想定外だった。それに、今日は急いで来たせいで彼女はアシスタントを連れていなかった。だから、突然大勢の記者に囲まれると、彼女にはなすすべがなかった。しかも、この記者たちは明らかに誰かに仕組まれていた。彼らは一斉に押し寄せ、カメラを構えて咲希をぐるりと取り囲んだ。現場はひどい混乱状態で、そのとき突然、誰かが咲希の背中を押した——「きゃあ——っ!」咲希は悲鳴をあげて地面に強く倒れ込んだ。何が起きたかわからないうちに、今度は指を踏まれてしまった……さらにもみ合っていると、誰かにマスクを剥ぎ取られ、咲希の顔が一瞬にして無数の高画質なレンズの前に晒されてしまったのだ!その瞬間、無数のフラッシュが一斉に焚かれた——咲希は顔を覆ってパニックになりながら叫んだ。「撮らないで!あっち行って!もうやめてよ、これ以上撮ったら訴えるから!」だが、記者たちが彼女の脅しに構うことはなかった。彼らは金で雇われているのだ。高額な報酬をもらったからには、今日こそ咲希をとことん叩き潰さなければ。こうして、1時間もしないうちに、咲希の腫れあがった整形顔の写真は、またたく間にネット中に拡散された!#片桐プロデューサーの枕営業リストに、女優・咲希の名前も!#咲希、整形で入れたプロテーゼが破損、再起不能か!?……こうして咲希が窮地に立たされている頃、前田家でも大規模な洗い直しが始まっていた。いとこの前田勤(まえだ つとむ)が、彰人の汚職の証拠を公の場で公開するのと同時に、一族の重鎮
蛍は、浩平と詩乃の前で立ち止まった。若い彼女は、ふとした表情も笑顔も、まるでフィルターがかかったみたいにキラキラして見えた。その若々しくてハリのある整った顔を間近で見て、詩乃はさらに劣等感を募らせた。彼女はとっさにスカートの裾をぎゅっと握りしめ、全身をこわばらせた。「ちょうどよかった。紹介するよ、こちらは俺の妻だ」浩平は、詩乃の肩をそっと抱き寄せた。「我妻詩乃というんだ」蛍は詩乃に視線を移すと、キュッと口角を上げて、天真爛漫な笑顔を見せた。「あなたが浩平さんの奥さんなんですね。これからは詩乃さんって呼んでもいいですか?」そう聞かれて、詩乃はなんとか平静を装い、蛍にうなずき、
音々は医師に尋ねた。「彼女のこの状況は、胎児に何か影響があるのでしょうか?」「今のところ問題はなさそうです。前回の生理とエコー検査の結果から、妊娠6週目と5日です。胎児の心拍と胎芽も確認できています」そう言うと、音々は詩乃の方を向いて尋ねた。「あなたはどうするつもりなの?」詩乃は首を横に振り、今にも泣き出しそうだった。それを見て、音々はため息をつきながら、「先生、彼女の体に問題がなければ、もう家に帰っても大丈夫ですか?」と尋ねた。「はい、大丈夫です。今のところ胎児は安定しています。出産する予定であれば、12週目に病院で妊婦健診を受けてください。もし、そうでない場合は、体への
由理恵は眉をひそめ、浩平を見つめ、深く息を吸い込んだ。「浩平。蛍の前でおかしなことは言わないでちょうだい。お願いだから、ね?」浩平は冷たく鼻を鳴らした。「ああ、分かった。蛍は関係ない。彼女のことは言わないでおこう。だが......あなたには今日、必ず帰ってもらうから」由理恵は呆然として、「何を言ってるの?」「今日、あなたは一人で帰れば、蛍はここに残って契約通り映画の撮影を続けられる。最初に約束した通り、俺が彼女をデビューさせてやる。それが兄である俺からの、彼女への償いだ。だが、由理恵さん、よく聞け。俺は一生あなたを母親とは認めない。今後、二度と俺の実の母親と名乗って目の前に現れ
音々の言葉を聞き、浩平は電話での詩乃の返事を思い出していた。彼女の声は、少しも怒っているようには聞こえなかった。だから浩平は思ったんだ。詩乃は平気なふりをしているだけで、本当は気にしているんじゃないかって。そんな疑問を胸に、彼は新人女優である蛍を連れて町に戻った。実は、蛍を紹介するとき、浩平はわざと意地悪なことをしていた。詩乃がどんな反応をするか、見たかったんだ。でも詩乃は、いつも通り物分かりが良くて、とても自然に振る舞っていた。朝ごはんの時も、ずっと話しかけてくる蛍を相手に、浩平は相槌を打ちながらも、詩乃の様子を横目で窺っていた。すると、詩乃は静かにうつむいて







