LOGIN漢方診療所のなかには独特な薬の香りが漂っていて、薬剤師たちが忙しく動き回っていた。もうすぐ閉まる時間だというのに、待合室はまだ人でいっぱいだった。桜の隣に座っていた女性二人は知り合いのようで、一緒に診察と薬をもらいに来ていた。二人はこの土地の方言で話しているので、桜にはなにを言っているのかさっぱりわからないでいた。彼女はただ、忙しそうに薬を調合している薬剤師たちをじっと見ているしかなかった。薬剤師たちは処方箋にさっと目を通しただけで、すぐに内容を覚えてしまうようだった。薬を準備する手際もとても良かった。ほどなくして、仁の弟子が診察室から出てきて、桜のそばに来た。そして、少し屈んで言った。「春日さん、先生がお呼びです。どうぞ中へ」桜ははっと我に返り、頷くと、立ち上がって彼の後について診察室に入った。診察室に入ると、仁が彼女に手招きした。「こっちへおいで」桜はそばへ歩み寄り、横にあった椅子に腰かけた。仁は桜を見ながら言った。「君の体に大きな問題があるわけじゃない。でも、小さい頃に水に落ちたのが原因でね、少し体質がこじれている。それが少し厄介な症状になっているから、じっくり養生する必要があるね。もしかして、君はいつも生理痛がひどいんじゃないのか?」桜は頷いた。「はい、最初の3日間が痛くて……特に1日目が一番ひどいです。あと、とくに寒がりです」「やっぱりそうか」仁は言う。「少し貧血気味でもあるな。じっとしていると、すぐに眠たくなったりしないか?」桜はぶんぶんと首を縦に振った。彼女は信じられないという目で仁を見て言った。「北条先生、すごいです!どうして分かるんですか?」仁は笑った。「こんなことで驚くのか?漢方医学は根本から治すことを大切にするんだ。それにしても君はこんなに若いのに、この俺より体が弱っとるぞ」桜は言葉に詰まった。「でも、大したことじゃない。今からちゃんと養生すれば大丈夫。俺が出す薬とは別に、簡単な体操も組み合わせるといい」「体操、ですか?」「うむ。今どきの若者がやるヨガみたいなもんだ。難しくはないよ。安人くんたちも、子供の頃はみんな俺と一緒にやっていたからな。彼もまだ覚えているはずだから、教えてもらうといい」そう言っていると、安人がドアから入ってきた。仁は顔を上げて、安人に言った。「おお
その時、小さな男の子が風車を手に、楽しそうにこちらへ走ってきた。桜が写真を撮り終え、立ち上がって数歩後ろに下がった。すると、さっきの男の子がすごい速さで走ってきて、止まりきれずにぶつかりそうになった。その瞬間、安人が大股で近づき、ぐっと桜を自分の方へ引き寄せた――引っ張られた桜はよろけて、安人の胸に倒れこんでしまった。その瞬間、爽やかな木の香りがふわりと鼻をかすめた。桜は一瞬呆然として、はっと顔を上げると、安人の深い眼差しと目が合った。この時、安人はまだ桜の腕を強く掴んでいて、大きな手は、桜の華奢な腕をすっぽりと包み込んでいるのだった。そして、服の上からでも、その手のひらの温もりが伝わってくるようだった。すると、桜は自分の頬がまた熱くなっていくのを感じた。胸が高鳴り、ドキドキが止まらなかった。しかし、桜はそれでも内心のトキメキを抑えようと、平静を装って、そっと一歩後ろに下がった。一方、安人は、もう遠くへ走り去った男の子に目をやり、それから桜の手を離した。「さっき、男の子にぶつけられそうになったんだぞ」安人は桜を見つめ、低い声でそう説明した。桜はこくりと頷き、恥ずかしくて安人の顔が見れずにうつむいた。「ありがとうございます」そう言われ安人は、彼女をじっと見ていた。夕暮れ時だった。夕焼けが、桜の頬を染めたのかもしれない。もともと整った綺麗な顔立ちが、今はほんのり赤らんでいて、いっそう魅力的だった。それを見つめる安人の眼差しが、さらに深くなった。「そろそろ、引き返そうか」「え?」桜ははっと顔を上げた。不思議そうに安人を見つめる。「漢方診療所には行かないんですか?」「行くよ」安人は彼女を見て、口の端を少し上げた。「通り過ぎちゃったんだ」桜は言葉を失った。しまった、楽しすぎて夢中になってた。「ごめんなさい。久しぶりに外に出たものですから。つい、はしゃいじゃって……」「大丈夫だよ。ここまで来たんだから時間は気にしない」安人は言った。「でも、これ以上進むと観光地から外れちゃうから。まず漢方診療所へ行って、診察が終わったら屋台が並ぶ通りを案内するよ」屋台が並ぶ通りに行けると聞いて、桜は一瞬でぱあっと顔を輝かせた。「はい!ありがとうございます、碓氷さん!あなたって本当に優しいですね!」安人は苦
桜が車から降りると、すぐに使用人の大野が出迎えて来るのが見えた。「安人様、どうして急にいらしたんですか?大旦那様にはご連絡を?」「いや、伝えてない」安人の声は低かった。「友人を連れてきたんだ。おじいちゃんに診てもらいたくて」そう言われ大野の視線が、すぐに桜に向けられた。桜は車を降りたばかりで、マスクもサングラスもしていなかったので、大野の目に彼女の整った素顔がハッキリと見えた。そこで、安人が桜に紹介した。「おじいちゃんの世話をしてくれている人だ。おじいちゃんと同じくらいの年だ。うちの若い者はみんな大野さんと呼んでいる」その言葉を聞いて、桜はすぐに大野に丁寧にお辞儀をした。「こんにちは、大野さん。春日桜と申します」大野はネットニュースなどをあまり見ないので、当然、桜のことは知らなかった。ただ、桜のあまりの美しさに息をのんだ。「なんて綺麗な子なんでしょう!」大野はちらりと安人に視線を移した。その目には、温かい笑みが浮かんでいた。「安人様がわざわざ連れてきて大旦那様に会わせるくらいだから、ただのお友達じゃないんでしょう?」「この子は恥ずかしがり屋なので、からかわないで」安人の答えは曖昧だった。肯定も否定もしなかった。すると、大野は、桜を安人の好きな子だと思い込んだ。そして密かに、たとえまだ付き合っていなくても、いずれはそうなるに違いない、と思ったのだった。一方、桜は、安人のその答え方を黙認と受け取った。どうやら今回は、恋人のフリをするのに協力してほしいということらしいと思った。安人はまず二人の荷物を大野に預けた。それからすぐに桜を連れて、漢方診療所にいる仁を訪ねた。仁は毎日漢方診療所にいるわけではない。でも、火曜日は必ずいる。今日はちょうど火曜日だった。家から漢方診療所までは、歩いて数百メートルの距離だ。あの漢方診療所は、仁が引き継いでから評判がどんどん良くなった。彼は弟子を数人とり、育て上げたあと、人手が足りてからは、健康増進のサービスも始めたらしい。そしてここ数年、観光客が増えるにつれて、漢方診療所の経営もどんどん上向いていった。仁の弟子たちはみな優秀だ。今ではもう一人で診察できるほどだ。だから特別な症状で仁自ら診る必要があるとき以外、ほとんどの時間は弟子たちが漢方診療所を切り盛りして
桜は、安人がそこまで自分のことを考えてくれるなんて思ってもみなかった。彼女は呆然と安人を見つめ、その優しさに胸が大きく弾んだ。そして、その衝撃のあとには、胸いっぱいの感動が詰まったようだった。安人と出会った最初の日から、彼はいつも自分を助けてくれた。あれほどの家柄なのに、安人の気遣いは押しつけがましくなく、親しみやすかった。気高くクールな彼が、自分のような取るに足らない存在を助けようとしてくれる。桜は、安人が普通の金持ちとは違うと思った。彼は、ほとんど完璧と言っていいくらいだったから。こんな素敵な男性に出会って、何も感じずにいるなんて無理だった。これまで誰かを好きになったことはなかった。家庭環境のせいで、自分は誰も好きになれないとずっと思っていた。だから、人と深い関係になることには、いつも不安を感じてしまう。誰かと新しく関係を築くのが、本当は少し怖かった。だから、安人を好きになりかけていると気づいたとき、桜には新たな悩みが生まれた。自分が安人にふさわしくないことは分かっている。この気持ちに応えてもらえるなんて、望むべくもなかった。でも、安人はあまりにも魅力的すぎた。容姿も性格も、すべてが桜を惹きつけてやまない。桜は知っていた。安人を好きな女性はたくさんいて、自分もその中の一人に過ぎないのだと。そんな中、安人が契約上の彼女に自分を選んだのは、彼のことを好きにはならないと思ったからだろう。安人には彼自身に特別な感情を抱かない女が必要だったんだ。だとしたら、自分に優しくしてくれるのは、今のパートナーという関係だからだろうか?彼女がそう思い巡らせていると、交差点で、黒いベントレーがゆっくりと停まった。安人は、ぼーっと自分を見つめている桜のほうに顔を向けた。そして、彼は口角を上げると、桜の額を軽く指ではじいた。「いたっ」桜は小さく声をあげ、弾かれた場所を押さえて我に返ると、眉をひそめて恨めしそうに安人をにらんだ。もともと綺麗な瞳だが、少し悔しそうに潤んだその目は黒く輝いていて、まるで愛らしい小動物のようだった。安人は少し眉を上げて、低い声で言った。「桜さん、どうしていつも人の顔を見てぼーっとしているんだ?」そう言われ、桜はとたんに気まずくなった。彼女は窓の外に目をそらしながら、「ち
何時間かのフライトを終え、飛行機は南城空港に到着した。桜は飛行機を降りると、まず荷物を受け取った。そして、安人に電話をしようとスマホを取り出したら、充電切れで電源が落ちていたのだ。桜は言葉に詰まった。急いで家を出てきたから、充電を忘れただけでなく、充電器まで忘れてしまった。ここ数年、外出する時はほとんど寧々か他のスタッフが一緒だったから、彼女が一人で遠出することは滅多になかった。こんなにがっつり変装していると、誰かに充電器を借りるだけでも、バレたりしないかと考えてしまうのだ……そう思って桜が途方に暮れていると、大きな手がポンと彼女の頭を叩いた。桜はきょとんとして、振り返った。すると、サングラスのレンズ越しに、安人の整ったハンサムな顔が見えた。「碓氷さん!」桜は嬉しさのあまり声を上げた。「どうして私を見つけられたんですか?スマホの充電が切れちゃって、連絡できなくて困っていたんです!」安人は彼女が手にしているスマホに目をやり、苦笑した。「もし俺が見つけていなかったら、どうするつもりだった?」桜は少し考えて、前のインフォメーションカウンターを指差した。「あそこで、充電器を借りるしかありませんでしたね」それを聞いて、安人はくすりと笑った。「万が一、アンチにでも出くわしたらどうするんだ?」桜は言った。「……痛いところを突きますね!」「まあいい。ここは人が多いし、君のその格好は目立ちすぎる。早くここから離れよう」桜はうなずいた。それから安人は彼女の手からスーツケースを受け取ると、「行こう」と言った。安人は背が高く足が長いから歩くのが速い。桜は隣で、必死に早歩きしないと追いつけなかった。すると少し歩いたところで、安人はちらりと隣の桜を見て、わずかに足を止めた。次の瞬間、彼の歩くペースがゆっくりになった。安人の歩くペースが落ちたのに気づいて、桜は思わず彼を見上げた。安人はまっすぐ前を見つめている。その滑らかな顎のラインといい、横顔までもが息をのむほど魅力的だった。桜は、安人が持つクリーム色のスーツケースに目を向けた。取っ手には彼女お気に入りのひよこのぬいぐるみが付いている。スーツを着こなす上品な男とのすごいギャップだ。それを見て桜の心はまた甘い気持ちで満たされて、マスクの下で思わず口元が緩ん
桜は一瞬考え込んだ。「そうかもね。下に持って行って、誰かが拾ってくれるか見てみる?」「これはブーゲンビリアですよ。北城じゃ欲しがる人なんていないですよ」寧々は呆れて首を振りながら桜を見た。「部屋を片付けるって言ってたのはどこの誰でしょう?結局、あれもこれも捨てられないんじゃないですか!」「えへへ」桜はバツが悪そうに笑った。「もったいない精神が染みついちゃってて!」「それはただ、モノを捨てられない癖ですよ!」そう言われ、桜は返す言葉もなかった。「もういいです。元の場所に戻しておきますから。あとは花自身の生命力にかけるしかありませんね!」桜は唖然とした。こうして寧々がブーゲンビリアを元の場所に戻してくると、桜が小さなスーツケースを引き、すっかりお出かけの格好をしているのが目に入った。「桜さん、どこかに出かけるんですか?」「さっき碓氷さんから連絡があって、どこかに連れて行ってくれるんだって」寧々は驚いた。「二人で……恋人同士として?」桜は少し顔を赤らめた。「たぶん……あっ、そういえば聞くの忘れてた!碓氷さんは、古川さんを迎えに来させるって言ってただけで」寧々は一瞬言葉を失い、そして尋ねた。「それじゃあ……夜、寝る時はどうするつもりなんですか?」「え?」桜の顔は一気に真っ赤になった。「あくまで恋人の振りなんだから、人前でそう見せてるだけだよ。夜はもちろん、別々の部屋に決まってるでしょ!」「でも、怪しまれないようにって言って、同じ部屋に泊まろうって言われたらどうしますか?」「……さすがにそれはないと思うけど」桜は言葉を濁した。だが、寧々の頭には「迫られる桜の姿」が浮かび、たちまち目が潤んだ。「桜さん、ちゃんと自分の身は守ってくださいね。もし、もしどうしても避けられなかったら……痛っ!」桜は近づいて寧々の腕をぱしんと叩き、彼女をにらみつけた。「もう、変な想像しないでよ!たとえ碓氷さんと同じ部屋に泊まることになっても、どうせスイートルームなんだから!スイートルームなら部屋はいくつもあるし、最悪ソファだってあるんだから!」「……ほんとですか?」「当たり前でしょ!」桜は言った。「それに、私は碓氷さんを信じてる!あの人は人の弱みにつけ込むような卑怯な人じゃないもの!」寧々は叩かれた腕をさすりながら言った。「
病院に着き、綾がエレベーターに乗り込んだ途端、背後から足音が聞こえた。エレベーターの鏡には、誠也の姿が映り、綾は唇をぎゅっと噛み、彼を無視した。誠也は乗り込み、綾に一目やったが、そのまま彼女の後ろに立った。続いて六、七人が乗り込んできて、エレベーターの中は一気に混雑した。前にいた恰幅の良い女性に押されて、綾は数歩後ずさりせざるを得なかった。綾の背中が、男の逞しく広い胸に、時折触れる。誠也は綾より頭一つ分ほど背が高く、彼の身体からほのかにミントの香りが漂ってきた。この香りは、彼女にとって馴染みのあるもので、いくつかの情景が脳裏に浮かんできた。過去5年間、自分も一般的な
午後に突然恩師からメールを受け取り、綾は意外さよりも、感動の方が大きかった。彼女は恩師がとっくに自分を見限ったのだと思っていた。写真を見終えると、綾は勇気を振り絞って恩師に電話をかけた。電話は3回鳴り、繋がった。綾はスマホを強く握りしめ、声が詰まった。「先生......」「近藤先生は重要なお客様を接待中です」「......」綾は唖然とした。「君が綾だろう?」電話の向こうの男の声は傲慢だった。「磁器の彫刻仏像の写真を見たか?」相手が誰かは分からなかったが、恩師の代わりに電話に出られる人間ということは、恩師が信頼している人物なのだろう。「見ました」綾の声は穏やか
彼女は確かに辛い思いをしていたが、それは母親のせいではないと分かっていた。元々母はそんなに自分の意見を持てる人間じゃなかったから、何もはっきりしない状況で世論の影響を受け、それで心配のあまり冷静さを失ってしまうのは仕方がないことだと、彼女もよくわかっていた。母親をなだめ終えると、綾は向きを変え、ドアの外にいる遥を一瞥し、次に冷たい視線を誠也の顔に向けた。「誠也、私がネットで声明を出すことに同意したのは、あなたがあの時助けてくれた恩を返すためよ」綾の声は冷め切っていた。「でも、もし事態がここまで発展すると知っていたら、私はむしろ恩知らずな人間で居たかったわ」誠也は彼女を見て、彼女
綾の体にかけられていた毛布が、雪が積もる地面に落ち、体が冷たい空気に包まれ、彼女は身震いした。「悠人がおもちゃを投げつけた時、お前はとっさに腹部を守ったよな」綾は息を呑んだ。誠也が、そこまでよく見ていたとは思わなかった。さすが父親だね。遥が妊娠していた時、彼は相当勉強したのだろう。しかし今更、自分が妊娠していようがいまいが、誠也には関係ないはずだ。綾は、子供を諦める決意をしていたし、この世に生まれてこない子供のことなど、誠也が知る必要もない。綾は落ち着きを取り戻し、誠也を見上げた。二人の視線が交差する。誠也の黒い瞳は鋭く、綾の心を見透かそうとしていた。綾は視