LOGIN安人は母のその言葉に、胸がいっぱいになった。「母さん、分かってくれるだけで、本当に心強いよ」「あんた、母親の私に遠慮なんていらないのよ。忘れたの?桜ちゃんは私がこの目で見て、選んだ嫁なんだから。それに、私があれこれお膳立てしなかったら、あんたは今もまだ独り身だったかもしれないのよ!」「うん、心配かけたね」安人は時間を確認した。「そろそろ桜のところに戻らないと、また連絡するよ」「ええ、ええ、早く行ってあげなさい。何かお母さんに手伝えることがあったら、いつでも電話してくるのよ」「分かった」電話を切り、安人は息を深く吸い込んだ。立ち上がるとズボンの埃を払い、階段の踊り場から出て行った。……そして、安人は病室のドアを開けると、寧々はすぐに立ち上がり、彼に恭しく頭を下げた。「碓氷さん」中に入った安人は、ベッドで眠り続ける桜に目を向けた後、寧々に言った。「向かいのビジネスホテルに、古川が君と夏帆さんの部屋を取った。先にホテルに戻って休んでくれ。ここは俺が見てるから」本当は寧々も離れたくなかった。桜のそばにいてあげたかった。でも、安人がいる以上、自分がここにいても邪魔になるだけだろうと思った。そこで寧々は頷いた。「では、夏帆さんとホテルに戻ります。もし桜が目を覚ましたら、お手数ですが古川さんに、ご連絡いただけますか」安人は静かに「ああ」とだけ答え、「さあ、もう行きなさい」と言った。寧々は頷くと、桜を一瞥し、病室を出て行った。ドアが閉まると、安人はベッドのそばに腰を下ろした。彼は手を伸ばし、桜の青白い顔をそっと撫でた。この数日で、彼女はすっかりやつれてしまい、もともと小さかった顔が、さらに小さくなったように思えた。安人はこうしてベッドのそばに座り、ただ彼女を見つめたまま、夜が明けるまで見守った。東の空が白み始めた頃、ベッドに横たわる桜のまつ毛が、かすかに震えた。安人ははっと顔を上げ、桜の手を少し強く握った。「桜?」桜は美しい眉をひそめ、ゆっくりと目を開けた。まだ少し腫れた目で安人を見つめる。「夢を見ていたみたい。夢の中で、康弘さんが男の子の手を引いてて…二人は遠くへ行ってしまうの。私がいくら呼んでも、追いかけても、振り向いてくれなくて……」それを聞いて、安人は息を呑んだ。その瞬間、彼はま
安人は電話に出た。「母さん」「安人?」受話器の向こうから聞こえて来るのは同じくらい重々しい綾の声だった。「桜ちゃんは……今、どんな様子なの?」安人は苦しげに喉を鳴らし、不意に手で赤く腫れた目を覆った。「先生の話だと、自然流産だそうだ。もう妊娠7週目を過ぎていた」綾は深くため息をついた。「あの子とは縁がなかったのね。母さん、あなたが辛いのは分かってる。でも、今一番大事なのは桜ちゃんよ。身内を亡くしたばかりで、その上こんなことになるなんて……あの子のショックは大きすぎるわ。あなたがしっかり慰めて、気持ちのケアをしてあげないと」安人は低く、一言だけ返事をした。親子は電話越しに、しばらく黙り込んだ。少し経ったあと、綾が再び口を開いた。「母さんもこれは事故だって分かっている。あなたはいつもしっかりしているから、こんなことが起きて自分を責めているでしょう。でも、人生には時々、こういう予期せぬことが起こるものなの。これも運命からの試練だと思ってなんとか乗り越えないと」そんなことは、安人も分かっていた。当初、桜の体が生まれつき弱いと分かった時から、安人は心の準備をしていた。しかし、実際に我が子を失うという現実に直面して、安人は自分が思っていた以上にショックを受けているのだった。あれは桜と自分の最初の子で、二人の愛の結晶だった。もし、あの子が生まれてきていたら、桜に似ていただろうか?安人がずっと黙り込んでいたので、綾はさらに言葉を続けた。「あなたたちはまだ若いから。子供は、またきっと授かるわよ」だが、安人は眉をひそめた。自分と桜は本当に、また子供ができるのだろうか。彼には確信が持てなかった。もし桜の体調が良くならなければ、それは二人が自分たちの子を持つことができないという意味になる。本当を言えば、安人はどうしても子供が欲しいというわけではなかった。しかし、結婚して子供を産むというのは、ほとんどの家庭が直面する現実だ。彼も桜に一生真実を隠し通すことはできない。家族にも、もちろん隠し通すことはできないだろう。今日まで、安人はまだ早いと思っていた。そこまで急いで桜の体調について、家族に打ち明ける必要はないのだから。しかし今、母の言葉を聞いて、安人はふと思った。この機会に、母に正直に話すべきかもしれない、と。
安人は唇を引き結び、神妙な面持ちになった。もう一度検査をすれば、桜が自分の体のことを知ってしまうかもしれない。安人は、その事実を桜に知られたくなかった。「検査は彼女の体が回復してから、北城に戻って受けさせます。でも、彼女が生まれつき受精しにくい体質であることについては、秘密にしてもらえませんか。彼女に余計な心配をかけたくないんです」それを聞いて、木下主任はすぐに事情を察した。産婦人科で長く働いてきたが、自己中心的で身勝手な男はたくさん見てきた。安人のように、ここまでパートナーのことを思いやれる男性は、本当に珍しい。彼女は真剣に頷いた。「碓氷さん、ご安心ください。春日さんには、余計なことは何も言いませんから」「ありがとうございます」安人は礼を言うと、検査結果を持って木下主任の診察室を後にした。実はこのあまりにも突然の出来事に、安人自身も、まだこの悲しい事実を受け止めきれていなかった。気持ちを整理するには、少し時間が必要だった。安人は一人で非常階段へ向かい、すぐに仁に電話をかけた。電話口で、安人は桜の状況を仁に伝えた。話を聞き終えた仁は、深いため息をついた。「どうしてこんな時に妊娠させたんだ?言ったはずだぞ。あの子の体では、普通に妊娠するのは難しい。たとえ運良く授かったとしても、無事に産むことはできないと。どうしてお前は気を付けなかったんだ?安人、お前はいつも慎重なのに、今回はどうかしてる」安人は目を閉じ、重々しく答えた。「予想外のことなんです。結婚前に妊娠させるなんて、考えていなかったんです」電話の向こうで、仁は黙り込んだ。確かに、どんな対策をとっても、絶対ということはないからな。仁は仕方なさそうにため息をついた。「運命のいたずらとしか、言いようがないな」安人は目を開けると、勇気を振り絞って再び頼んだ。「おじいさん、彼女のために、流産後のケアに使う漢方薬を処方してください。明日、彼女を連れて北城に帰るので、薬は北城に送ってもらえませんか」「わかった。わしも年をとったからな。でなければ、私が直接行ってあの子を診てやるんだが……まあ、まずは漢方薬で体を整えなさい。それと、流産後のケアの時期に、あまり泣かせてはいけないぞ。体に障るからな」「はい、わかりました」電話を切ると、安人はその大きな体
こうして、地元の人たちと安人の助けもあって、康弘の葬儀は無事に終わった。火葬が終わったあと、桜は康弘の骨壷を抱え、村役場の職員たちと一緒に、山の中腹にある納骨堂へ向かった。この村では、親族が余りいない人が亡くなると、骨壷が納骨堂に安置されることになっていた。桜は、康弘の骨壷を彼の父親と母親の隣に置くと、これで家族三人がまた揃ったように思えた。そして、納骨堂から出てくると、どんよりとした空からしとしとと小雨が降ってきた。桜の涙は頬を濡らし、彼女の視界をぼやけさせた。心身ともに疲れ果てたのだろう。山を下りる途中、桜はついに力尽きて気を失ってしまった。安人は彼女を背負うと、急ぎ足で山を下りていった。突然、寧々が小さく悲鳴をあげ、恐怖に引きつった顔で地面を指差した。「桜さん!桜さんが」すると、ぬかるんだ道には、点々と血の跡が残っていた。安人は息を呑んだ。夏帆がすぐに駆け寄ってきて、自分の上着を脱いで桜の身体にかけた。彼女は周りを見渡すと、「騒がないで、とにかく早く車へ!」と声を潜めた。安人もすぐに事の重大さに気づき、山を下りる足を速めた。一緒に見送りに来た地元の人たちが見たのは、安人に背負われ気を失った桜の姿だけだった。血の跡には気づかず、悲しみのあまり倒れたのだと思い、誰も深くは考えなかった。みんな、康弘と桜が二人きりで、本当の親子以上に仲睦まじく暮らしていたことを知っていたから。そしてこの何日間か、桜がほとんど眠らず、食事もろくにとっていないのを見ていたから、いつ倒れてもおかしくないと思っていた。地元の人たちは誰もがため息をつき、康弘の死を悼むと同時に、桜のことを不憫に思った。まさかこの日、桜が人生で最初の子供を失っていたなど、誰も知らなかった。それは、彼女と安人の初めての子供だった。予期せず授かった、小さな命。その命は、静かにやって来て、そして静かに去っていった。……M市民病院、特別病室。手術を終えた桜は、そのまま病室へと移された。安人はすぐに病院に手を回し、桜の入院が外部に漏れないようにした。担当する医療スタッフは病院の中心メンバーに限られ、秘密を厳守することが徹底された。桜は今や時の人だから、このM市でも彼女に注目している人は少なくないはずだ。流産は、誰もが予想
「全部、確認した。サインしていいよ」安人が小声で言った。桜はペンを握ると、震える手で同意書に自分の名前をサインした。春日桜。自分の名前をまさかこんな形で書くことになるなんて、桜はこれまで思ってもみなかった。すぐに、職員が書類を持って外へ出ていった。その間、安人は新太に、空港までの霊柩車とプライベートジェットの手配をさせた。康弘の葬儀は、やはり故郷で執り行うべきだろうと思ったから。一方、桜は康弘のそばに歩み寄り、そっと白い布をめくった。康弘は目を閉じて、安らかな顔をしていた。でも、その不自然なまでの白さが、彼の死を物語っていた。桜の視線は、ゆっくりと剃り上げられ、まだガーゼが巻かれたままの彼の頭へと移った。彼女はそれを見つめているうちに、ふっと唇を歪めて笑った。「どうして、康弘さんが一番自慢にしてた髪の毛、全部剃っちゃったの」そういう彼女は口の端が悲しげに歪み、こらえきれなかった涙が、またぽろぽろとこぼれ落ちた。そして涙の雫は、康弘の青白い顔に落ちた。桜は、慌てて康弘の顔にかかった涙を拭った。「康弘さん、今夜の公演、大成功だったんだよ。私、本当に有名になったんだ。これでもう胸を張ってみんなに言える。私は役者なんだって。康弘さんの娘は、ただの顔だけの女優じゃない、立派な役者なんだって。やっとあなたを堂々と北城に迎えることができると思ったのに。あともう少しだったのに……どうして、待っててくれなかったの?お金も稼いだのに。大きな家を建ててあげるつもりだったのに。どうして……待っててくれなかったの……あなたがいなくなったら、もう誰も私のために漬物を作ってくれない。あなたがいなくなったら、私は一人だけになっちゃう……まだ一度も、お父さんって呼んであげてないのに。私が主演女優賞をもらったら、お父さんって呼ぶのを聞きたいって言ってたじゃない。私が成功するまで時間かかったから?もう待っててくれなくなったの……」桜はとりとめもなく話し続け、最後にはもはや言葉が混乱していたのだった。霊安室はひどく冷え込んでいた。安人は桜の体がもたないことを心配し、なだめるようにして彼女を外へ連れ出した。しかし霊安室を出ても、桜の体は寒さで震えが止まらなかった。安人は彼女の両手を自分の手で包んで温めた。「新太にプライベート
夜空から、いつの間にかまた雪が舞い落ちていた。もう2月も終わりに近づき、春は目前だった。本来なら、こんな雪が降る季節じゃない。もしかしたら、神様も「桜、北城の雪はきれいなんだろうな」と言っていた、あの実直な男を覚えていてくれたのかもしれない。あれは、もう何年も前のことだ。あの時、桜はなんて答えたんだったっけな。思い返すと、彼女は確かそう答えたようだ。「康弘さん、来年の冬、雪が降ったらこっちに呼ぶから。しばらくこっちに泊まってもらえれば、スキーにも連れて行ってあげられるわよ。氷の彫刻も見に行こうね!」あの時、康弘は嬉しそうに頷いて、楽しみにしていると言った。それなのに、次の年も、そのまた次の年も、桜はその約束を果たせなかった。桜は、自分がみじめで苦しい状況にいることを康弘さんに知られるのが怖かった。だから、その約束を一年、また一年と先延ばしにしてしまったのだ。康弘も、桜が芸能界で言うほど華やかで順調な生活を送っていないことに、きっと気づいていたのだろう。だから、ここ数年、北城の雪について自分から口にすることはなかった。康弘はいつだって真心を以て人と付き合ってきた。そして、一生謙命、真面目に働き続けてきた。いつも差し出すばかりで、自分のために何かを求めることはほとんどなかった。そんな彼は生まれて初めて故郷を出て北城のような大都会に来たのに、この街の雪を見ることもなく、桜に最期に立ち会ってもらうこともなかった。彼はこうして、桜が夢を託したこの街で、その短く質素な生涯を閉じた。静かな車内で、桜はドアに身を寄せ、窓の外に舞い落ちる綿雪を眺めていた。ひらひらと舞う雪は、まるで声なき別れのようだった。涙が静かにこぼれ、桜の心も次第に空っぽになっていくようだった。この時彼女は自分がなんて親不孝者なんだろうと思った。康弘のために家を建てるという約束もまだだし、雪を見せるという約束も果たせなかった。娘として、本当に親不孝だ。しかし、今となっては、自分を責めても、後悔をしても、どうしようもないのだ。一方、安人は桜の隣に座り、彼女が黙りこくっている姿を見て、胸を痛めたが、どうすることもできないでいた。死という別れの前では、人の力も権力も、あまりにも無力だ。安人は、使える限りのあらゆる手を尽くした。それでも、康弘
そんなに改まった雰囲気にするのか?音々は真剣に頷いた。「何でも聞いてください。正直にお答えします」「うちは三代続いて一人っ子なんだ。俺は古い考えの男だから聞きたい。もしあなたと輝が結婚したら、子供は何人作るつもりなんだ?」音々は言葉に詰まった。何人?「おじいさん!」輝は眉をひそめて雄太を見た。「子供を作るかどうかは、私と音々の問題だよ。口出ししないでよ」「いや!これだけはちゃんと答えてもらわんと!でないと、結婚は認められないぞ!」「認められないなら、音々と駆け落ちする!」音々は何も言えなくなった。なんだか話がおかしくない?急に結婚の話になるなんて。「
一方で、北城だ。午前9時、輝と音々はアトリエに到着した。輝には修復しなければならない骨董品があった。史也が人に頼んで送ってきたもので、かなり急ぎの仕事だった。そのため、輝は数日間、忙しくなる予定だった。音々は特にすることもなかったので、綾が開いている絵画教室を見に行くことにした。偶然にも、綾も今日は絵画教室にいた。音々を見て、綾は驚きながらも、温かく自分の個人オフェスへと案内した。「何か飲む?」「何でもいいですよ」音々は部屋を見渡した。壁には絵画教室の生徒たちが描いた絵とともに、綾が描いた絵も飾られていた。音々は絵のことはよく分からなかったが、飾られている絵はど
そんな日々は、娘が10歳になるあの夏まで続いた。あの日、芽沙は工場での夜勤中、真夜中に自宅が火事になった。義理の両親たちは皆逃げ出したというのに、10歳の娘のことを誰も思い出さなかったのだ。知らせを受けて帰宅した芽沙を待っていたのは、黒焦げになった娘の遺体だけだった。彼女は泣き叫び、気を失ってしまった。病院で目を覚ますと、義理の両親たちは既に芽沙の娘の葬儀を済ませていた。芽沙の母親は、悲しみを堪えながら彼女に、まずは体を治して、それからまた子供を望めばいいと言った。そうすれば、義理の両親たちもきっと態度を改めてくれるはずだからと彼女の母親は説得していた。そう言われた芽沙は人生で初めて母
「輝、本気なの?」輝は音々のすらりと美しい首筋にキスをしながら言った。「本気だよ」音々は黙り込んだ。確か輝との関係は落ち着いたけど、でもちゃんと付き合い始めてまだ2週間ちょっと。今、子供を考えるのは......少し早い気がするのだ。だけど、男の人って夢中になると、つい舞い上がって愛し合う時に大胆なことを言っちゃうものだし......そう思いながらも音々は彼の思いに水を差したくなかったので、優しく言った。「子供はもう少し後で考えよう。今は、お願いだから、起き上がって」輝は顔を上げて言った。「つまり、承諾してくれたってこと?それじゃ、約束だからな、後から覆すなよ!」音々







