Share

第5話

Author: 栄子
遥は悠人を放し、隣のソファからたくさんのプレゼントを持ってきた。

「これは全部母さんがあなたに買ってきたのよ。気に入るものがあるか見てみてくれる?」

悠人の目が輝いた。「アイアンマンだ!」

「悠人、好き?」遥は彼の頭を撫でた。「これは限定版なのよ。母さんが何人もの友達にお願いして探してもらって、やっと手に入れたの」

「ありがとう、母さん!」悠人はアイアンマンを受け取り、明るい子供の声が家中に響き渡った。「母さん、大好き!」

遥はようやく泣きやみ笑みを浮かべた。「悠人、やっと私のことを母さんと呼んでくれるようになったのね」

「お父さんがさっき教えてくれたんだ。母さんは僕を産むためにすごく苦労したんだって」

悠人はアイアンマンを置き、ティッシュを一枚取って遥の涙を拭いた。「母さん、ごめんね。午前中は怒鳴ったりして。これからはもうあんなことしないから」

その言葉を聞き、遥の涙はさらに激しくなり、ますます痛々しく見えた。

「悠人は悪くないわ。母さんが悪いのよ。母さんはこれから、全力で良い母さんになるように努力するわ」

「母さんは悪くないよ!」悠人は自分から遥を抱きしめた。「お父さんが言ってた。母さんはずっと僕を愛してくれてるって。これからは僕も母さんをちゃんと愛するから!」

遥は誠也に視線を向け、涙はさらに激しく流れ落ちた。「ありがとう、誠也」

誠也は歩み寄り、自分のハンカチを彼女に差し出した。「当然のことをしたまでだ。もう泣くな、悠人が心配する」

「そうだよ母さん、そんなに綺麗なのに泣かないでよ。泣くとブスになっちゃうよ!」

その言葉を聞き、遥は誠也のハンカチを受け取り、涙を拭いた。「うん、母さんはもう泣かないわ」

母と子が再会を果たし、心温まる甘い時間が流れた。

悠人はたくさんのプレゼントをもらい、プレゼントを抱えてソファに座り、遊び始めた。

遥はそばに座って、優しい眼差しで彼を見守っていた。

誠也は隣の一人掛けソファに座り、うつむいてスマホで仕事の処理をしていた。

遥は彼の方を向き、少し躊躇った後、小声で尋ねた。「二宮さんのことは、どうするつもりなの?」

その言葉に、誠也は顔を上げ、淡々とした表情で言った。「きちんと処理する」

「二宮さんはこの数年、悠人をとてもよく世話してくれた。正直に言って、私は彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいよ」

「それはお前のせいではない」誠也の声は低かった。「悠人はもともとお前の子だ」

「そうだよ母さん!」悠人はおもちゃの山の中から顔を上げ、甘えるように言った。「僕は母さんが産んだんだもん。僕と母さんが会うのは当たり前だよ!それに、母さんはこんなに綺麗だし、お父さんが言ってたよ、僕がこんなに可愛いのは全部母さんが綺麗だからだって!」

「お世辞が上手ね!」遥は彼の鼻先をつついた。「綾母さんの前ではそんなこと言っちゃダメよ。彼女、怒っちゃうわよ」

「大丈夫だよ!」悠人はとても自信満々だった。「彼女は僕のこと怒ったりしないもん!」

誠也が電話に出た。仕事の電話だった。

彼は立ち上がった。「先に事務所に戻る」

「ええ、仕事頑張って。悠人が一緒にいてくれるから」遥は少し間を置いて尋ねた。「じゃあ、夕食には戻ってくるの?」

誠也は唇を結んで少し考え、答えた。「仕事が終わり次第、戻る」

「じゃあ、運転には気をつけてね」

「お父さん、バイバイ!」

誠也は淡々と応じ、背を向けて去っていった。

深夜、工房の修復室にはまだ灯りがついていた。

腰まである長い髪をかんざしでまとめ、白く細長い首筋を露わにしている。鼻の上には保護ゴーグルをかけ、白い手袋をはめた両手で道具を握っている。

彼女はうつむき、真剣な眼差しで、文化財の最終修復を行っていた。

他のスタッフは皆帰宅し、フロア全体が静まり返っている。ただ綾が作業する際の、かすかな音だけが響いていた。

人生がうまくいかない時ほど、仕事は怠ってはならない。

この数年、世間の冷たさを目の当たりにしてきて、綾は次第にある道理を理解するようになった。人の性根は見極め難く、人の心は測り難い。努力すれば確実に手に入れられるのは、お金と仕事だけなのだと。

5年前、北城に残って悠人の世話をするために、彼女は恩師の推薦を断った。恩師は激怒し、彼女との連絡を絶った。

それは綾にとって、今でも最大の心残りだった。

恩師の指導と期待に応えられなかったという思いが常にあり、だからこの5年間、彼女は空いた時間を利用して資料を買い、研究を重ねて自己研鑽に励んでいた。

大学卒業後、ローンを組んで工房を開いた。

今に至っては、工房は軌道に乗り、彼女が受ける仕事の報酬も次第に高くなっていた。

彼女個人の貯金は、彼女と母親が残りの人生を心配なく暮らすのに十分な額になっていた。

実は、すべてが良い方向に向かっていたのだ。

手放さなければならない人、留めておけない人については、距離を置くことを学べば、それも成長なのだろう......

最後の修復作業を終え、綾は文化財を容器に入れた。

個人のオフィスに戻り、彼女はコップ一杯のぬるま湯を一気に飲み干した。

コップを置き、彼女は机の上のカレンダーに目をやった。

ペンを取り、カレンダーの今日の日付に×印をつけた。

残り8日。母親が出所する日だ。

天気予報によれば、その日は晴れるらしい。

ブーブー――

ポケットの中のスマホが震えた。

誠也からだった。

綾は少し眉をひそめ、深呼吸を一つして、通話ボタンを押した。

「いつ戻る?」スマホから誠也の低い声が聞こえてきた。

綾は時間を見た。午前2時だった。

彼女は少し疲れていた。もう30分も車を運転して帰りたくはなかった。

凝った首筋を揉みながら、彼女は冷ややかに言った。「何の用?」

「悠人がお前に寝る前の絵本を読んでもらおうと待っている」

綾が首を揉んでいた手が止まった。

昼間、誠也が悠人を抱いて遥を慰めていたことを思い出すと、胸の中に嫌な気持ちがこみ上げてきた。

「今日は帰らないわ」彼女の声は平坦で、感情がこもっていなかった。「あなたが寝かしつけてあげて」

言い終わると、綾はすぐに電話を切った。

しかし、次の瞬間、誠也がまたかけてきた。

綾は少しイライラし、スマホの電源を切って机の上に放り投げ、休憩室のドアを開けて中に入った。

修復師が残業して徹夜することはよくある。だから、工房を改装した当初、彼女は個人のオフィスの中に休憩室を一つ設けていたのだ。

休憩室にはバスルームがあり、日用品や着替えなども揃っていた。

時には、忙しすぎると悠人を連れてきて、まず悠人を寝かしつけてから、残業に取り掛かることもあった。

だから、この休憩室には悠人の生活用品も置いてあった。

綾がシャワーを浴びてパジャマに着替え、寝ようとした時、外から突然子供の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。

「母さん!母さん、開けてよ――」

綾ははっとした。

悠人?

彼女はオフィスから出て、急いで工房の入口へと向かった。

ガラスのドア越しに、誠也が泣きやまない悠人を抱きかかえ、彼女を見ていた。

悠人の体にはダウンジャケットが羽織られていたが、その下はパジャマだけだった。

素足のままで、靴下一枚履いていなかった。

北城の冬の夜は、外気温が氷点下30度近くになることもある。

悠人はあんなに抵抗力が弱いのに、万が一風邪をひいたらどうするの!

綾は少し腹を立て、前に進み出てドアを開けた。「こんな夜更けにどうして彼を連れ出すの......」

「母さん!」

悠人は誠也から離れ、綾に向かって飛びついてきた。

綾は思わず手を伸ばして彼を受け止めた。

悠人は綾の首にしっかりと抱きつき、彼女の首筋に顔をうずめてわんわんと泣き出した。

「母さん、僕のこといらなくなっちゃったの!うわーん、母さん、僕を捨てないで......」

綾は眉間をわずかに寄せ、顔が少し青ざめた。

もう痛まなくなっていたはずの下腹部が、突然また鈍く痛み始めた......
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Comments (1)
goodnovel comment avatar
Miho
…喘息持ちじゃなくても辛い寒さ。てか、今、何時?
VIEW ALL COMMENTS

Latest chapter

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第1534話

    颯介の話では、海外で大ヒットした映画をリメイクした大作らしい。公開されれば、間違いなくバカ売れするだろうってことだ。しかし、安人は映画への投資に興味はないし、芸能界にはもっといい印象がなかった。優希が言ったように、彼はきっと堅物でつまらない男なんだ。芸能界のイケメンや美女を見ても何も感じないし、アート系の映画と商業映画の違いを理解するのも面倒だった。あの業界はごちゃごちゃしすぎてるし、そこで稼ぐ必要もない、と安人は思っていた。しかし颯介は言った。「これはカーレースの映画ですよ。菊地もあなたの会社が新しく開発した電気自動車をメインで使いたいみたいです。つまりあなたは広告スポンサーになれるわけです。この映画の主演は菊地の会社のエース俳優ですし、ヒロインはまだ決まっていませんけど、間違いなく業界トップクラスの女優になります。あなたは芸能界に興味ないから分からなくても当然ですけど、これだけは言っておきます。トップスターがもたらす宣伝効果を、絶対になめてかかっちゃいけませんよ」それを聞いて、安人の心は、たしかに揺らいでいた。今や国内の電気自動車メーカーは多すぎる。だから、消費者の選択肢が増えれば増えるほど、広告がすごく重要になってくるんだ。考えた末、安人は颯介と一緒に昴に会いに行くことにした。直接くわしい話を聞いてから、最終的な判断をしようと思ったからだ。一方、安人がようやく折れたのを見て、颯介はすぐに彼を連れて昴の事務所へと急いだ。15分後、颯介と安人は昴の事務所に到着した。二人はそのまま役員専用のエレベーターで上の階へ向かった。しかし、エレベーターのドアが開くと、安人たちが降り立った目の前から、騒がしい声が聞こえてきた……社長室の外に人だかりができていて、何やら騒がしく、女性同士が激しく言い争う声が響いていた。すると安人は足を止め、颯介を見た。「菊地社長の事務所は、ずいぶんと活気のある職場のようですね」一方、颯介は何も言えなくなった。なんてこった。よりによって、安人にこんな場面を見られてしまうなんて。「たぶん社員同士のちょっとしたトラブルでしょう。菊地はいないのかもしれません。電話してみるから、少し待っててください」颯介がスマホを取り出し、電話をかけようとしたその時だった。悲鳴が聞こえたかと思うと、人

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第1533話

    哲也は呆然と優希を見つめた。「本気なのか……もう俺のことなんて、どうでもいいってことか?」「法律では、夫婦が長年別居していれば、離婚が認められるのよ」優希は哲也を見つめ、正直な気持ちを伝えた。「哲也、あなたに2年の猶予をあげる。これが私たちにとって最後のチャンスよ。この2年間、私たちは別居しよう。親権は私が持つけど、あなたはいつでも子どもに会っていいわ。でも、私たちはもう夫婦でも恋人でもないの」それを聞いて哲也は、体の横でこぶしをきゅっと握りしめた。「じゃあ……また、あなたを口説いてもいいのか?」その言葉を聞いて、優希は口の端を少しだけ上げた。そんなことを言う哲也はわざと確かめているように見えたから。でも、ここまで話したからには、もう遠回しな言い方はやめて、はっきりと告げることにした。「私を諦めたくないなら、努力してみればいいわ。でも、今度はそう簡単に口説かれないかもしれないわよ。とりあえずこの2年間は昔の情を一切考えたくないの。それであなたと将来を共にできるか、私の理想のパートナーになれるかで判断する。だから、あなたにとって、この2年はすごく大変だと思うわ」それを聞いて、哲也の暗く沈んでいた瞳に、再び光が宿った。彼は理解した。優希がくれたのは、2年間の査定期間だ。つまり、この2年の間に、もう一度彼女にアプローチできるということだ。「優希、ありがとう……」哲也は喉を鳴らし、目頭が熱くなった。「こんなにがっかりさせたのに、まだチャンスをくれるなんて。優希、今までの俺は弱すぎた。これからは変わる。ちゃんと病院にも通うよ。そして、ちゃんとしたパートナーになれるように頑張る!もうあなたと子どもたちに辛い思いはさせないから」その真剣な誓いを聞いて、優希は穏やかに微笑んだ。「哲也。本当の愛って、お互いをより良くするものだと思うの。私たち二人とも、もっと成長できるといいわね」「分かってる」哲也は唇の端を上げ、瞳を潤ませた。「優希、本当にありがとう」……こうして春が過ぎて夏になり、哲也が戻ってきてから、あっという間に半年近くが過ぎた。最近、安人が家に帰ると、いつも哲也がいるのだ。二人の子は哲也にべったりで、「パパ、パパ」と呼び続け、夜も泊まっていってほしがるほどだった。それで安人は何度か嫌味を言ってみた。結

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第1532話

    こうして子供たちの楽しそうな声が、少し気まずい空気を和ませた。「みんな、外に突っ立ってどうしたの?」綾が家から出てきて、庭にいる数人を見て、にこやかに尋ねた。そう言われ、哲也は綾に軽く頭を下げて挨拶した。「母さん、久しぶり」「本当にお久しぶり。無事に帰ってきてくれて良かったわ」綾は哲也を見て、親しみを込めた笑顔を崩さなかったし、少しも彼を疎むようなそぶりは見せなかった。「さあ、中に入って。誠也がお茶を淹れてるから」哲也は頷いた。「ありがとう、母さん」すると傍らで、安人が冷ややかに言い放った。「よく言うよ。離婚したくせに、母さんなんて呼んでいいと思ってるのか!」哲也は黙り込んだ。その言葉を聞いた颯介は、ちらりと哲也に目をやり、先に家の中へ向かった。「二宮さん、旦那さんのお茶のいい香りがここまで漂ってきますね。お言葉に甘えて、一足先にご馳走になってもいいですか」「颯介さん、そんなに畏まらないで。さあ、どうぞ」綾は颯介を先に家の中へ案内した。こうして庭には、三人が残された。「お兄ちゃん、もうやめて」ついに見かねた優希はため息をついて言った。「先に中に入ってて」「俺を追い払って、哲也とよりを戻すつもりか?」そう言って安人は目を細めた。その視線は、刃物のように鋭かった。すると優希は仕方なさげに言った。「彼と少し話したら、すぐ中に入るから」安人はこめかみを押さえた。「あなたは、いつだって俺の言うことを聞こうとしないんだから!」そう言われ、優希は唇を引き結び、困った顔で安人を見つめた。こうなると、安人もそんな彼女の様子に敵わず、仕方なさげに手を振った。「好きにしろ」そう言うと、安人は冷たい表情のまま家の中へ入っていった。そして、哲也のそばを通り過ぎる時、彼は冷たく睨みつけた。一方、哲也は目を伏せ、小さな声で、「ごめん」と呟いた。安人は足を止めた。「哲也、俺に言わせれば、謝ってばかりいるのは無能な人間のやることだ」彼は哲也を、冷え切った目で見つめた。哲也は喉を上下させたが、安人の言葉には何も言い返せずにいた。一方今の彼の姿を見て、安人もこれ以上言っても無駄だと思った。そして、優希が後ろから彼を促した。「お兄ちゃん、早く中に入って」結局、安人は鼻を鳴らし、家の中へ入っていった。……

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第1531話

    「では、取り次いでくれる?とても大事な用件があるから」警備員は頷いた。「はい、少々お待ちください」……それから、警備員は、哲也が訪ねてきたことを誠也に報告した。誠也は特に驚かなかった。少し考えると、警備員に門を開けるように言った。こうして鉄の門がゆっくりと開き、ファントムが邸宅の庭へと静かに入ってきた。そして哲也は車を停め、ドアを開けて外に出た。その時、鉄の門が再び開き、黒のマイバッハがゆっくりと入ってきた。哲也が振り返ると、その車のナンバーが目に入り、彼の表情が少し固まった。マイバッハはファントムの隣に停まり、運転席と助手席のドアが同時に開き――安人と颯介が、左右からそれぞれ車を降りた。颯介の姿を見て、哲也は眉をひそめた。だが、彼が反応する前に、後部座席のドアがまた開いた。優希が先に車を降り、車内に向かって手を振った。「おうちに着いたわよ。早く降りてらっしゃい!」彼女の言葉が終わると、双子が次々と、手足を使ってマイバッハから這い出してきた……そして結翔と日向は車を降りるとすぐに哲也の姿を見かけた。「パパ!」「パパ!」そう叫びながら、双子は、わくわくした様子で哲也のもとへ駆け寄っていった――哲也もしゃがみこんで腕を広げ、二人の息子をしっかりと抱きとめた。「パパ、やっと帰ってきたんだね!結翔はとっても会いたかったよ!」「パパ、どうしてずっと帰ってこなかったの?日向ね、パパは鳥になっちゃって、僕たちを置いて飛んでいっちゃったのかと思ったよ!」彼らは口々にそう言った。子供らしい無邪気な言葉だったけど、父親への心からの思いが込められているのが伝わった。そう感じて哲也は胸がいっぱいになり、たまらなく愛おしくなって、二人の息子をぎゅっと抱きしめた。彼は息子たちの頭にそれぞれキスをすると、声は低く、少し詰まっていた。「ごめんな。パパが悪かった。もう遠くへは行かないから。これからはずっと一緒にいてあげるからな?」「ほんと?やったー!パパ、最高!」「パパ、もうそんなに無理しなくていいんだよ。結翔はちゃんとご飯も食べるし、お勉強もがんばるから。おじさんがね、結婚しないから、将来は会社を結翔にくれるって言ってたんだ。そしたら結翔がいっぱいお金を稼いで、パパとママを食べさせてあげる。

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第1530話

    「優希は本当に素敵な子だし、まだ若いのに。もし二人が離婚したら、言い寄ってくる男はたくさんいるはずよ。それに、哲也はあんな状態だから……彼女が他の男性を選んだとしても、仕方ないことよ」「もしそうなったら、それは哲也に縁がなかっただけだ」大輝は少し間を置いてから、妻の頬にそっとキスをした。「俺みたいに幸運な男はそういないさ。こんなダメな亭主でも、あなたみたいな良い妻がいるんだからな!」「何よ、自慢してるつもり!」真奈美は彼をちらりと睨んだ。「あなたのそのダメなところまで哲也がそっくりなのよ!だから哲也をダメにしたのはあなたよ!」「はいはい、俺が悪かったよ」大輝は彼女を抱きしめ、ため息をついた。「幸い、心優は女の子だ。俺の悪いところは受け継がないだろうさ」「心優ももう24歳よ。やっぱり心配だわ……」「子供たちには彼らの人生があるさ」大輝は優しく妻の背中を撫でた。「俺たちももう年だし、子供が大人になったら、親が口出しできることも少なくなる。どうにもならないことで悩み続けるより、俺たち夫婦二人で世界でも見に行かないか」真奈美はきょとんとして、彼を見上げた。「また旅行に行きたいの?」「ああ。哲也が戻ってきたからな。子供たちも父親である彼がいるなら、俺たちが祖父母としてでしゃばることもないだろう」大輝は分析するように言った。「俺たちが旅行に行けば、碓氷さんたちもこっちに気を使わなくて済む。彼らが哲也に腹を立てているのは当然だ。俺たちがいない方が、哲也も自分の力で彼らと向き合わざるを得ないだろう」それを聞いて真奈美は呆れて笑った。「父親としてそれでいいわけ?」しかし、大輝は至ってあっけらかんとしていた。「息子の反省に付き合って地下室で3日間も一緒に過ごしたんだぞ。それでもまだ足りないのか?俺ほどいい父親はいないだろ!」それを聞いて、真奈美は言い返せなかったので、彼と口論するのをやめた。……一方、哲也は階下でしばらく待っていたが、両親は降りてこなかった。それで、母親がしばらくは自分を許してくれないだろうと、彼は悟っていた。そして時間を確認してみると、哲也は結局その場を立ち去った。……それから、石川家を出た哲也は、そのまま車で梨野川の邸宅へと向かった。帰国した日、彼は裁判所まで駆けつけ、優希に会うことができた。

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第1529話

    哲也が無事に戻ってきた。これは、関係する家族みんなにとって、本当に嬉しい知らせだった。でも、嬉しくても、お説教や罰を免れることはできなかった。哲也は石川家に戻るなり、罰として地下室で反省させられた。今回ばかりは、真奈美も息子の哲也をかばおうとはしなかった。だって、今回の哲也のやったことは、本当にひどすぎたから。真奈美は今でも、思い出すだけで心臓が縮む思いがしたのだ。ただ、哲也は無事に戻ってきたとはいえ、まだ体は万全ではなかった。それで高齢の楓は孫のことが心配で、大輝に「罰も形だけでいいから、もうやめさせてあげて」と頼んだ。だが、大輝は今回は哲也を厳しく罰すると心に決めていた。楓の言葉を聞くと、顔をしかめて言った。「俺だって若い頃、無茶をした時は反省させられたじゃないか?それに俺の時は反省だけじゃない。張り倒されたりもしたんだ。あいつはただ反省してるだけ。なのに、そんなに心配することがあるのか?俺が若い頃は、そんなに心配してくれなかっただろ?」「昔と今とじゃ話が違うでしょ!」楓は怒って、彼の腕をパンと叩いた。「そう言われると思い出した。これも全部、あなたの育て方が悪かったからよ!あなたも罰を受けて!地下室へ行って、一緒に反省して!」それを聞いて大輝は言った。「……お母さん、とんだとばっちりだよ!」「さっさと行って!」楓は彼を睨みつけた。「行かないなら、すぐにお父さんを呼んで、また張り倒してもらうからね!」「行く!行くよ!」大輝は、殴られるのが怖いわけではなかった。ただ、高齢の真司が自分を殴ろうとして興奮し、腰を痛めては大変だと思ったのだ。どうせ、この家で自分の立場はペット以下なんだ。こうして、大輝と哲也の親子は、地下室で3日間も一緒に反省させられることになった。3日後、彼ら親子は地下室から出てきた。哲也は顔色が悪かったが、まだ若いだけあって、足取りはしっかりしていた。一方、父親の大輝は関節を痛めたのか、足を引きずっているのだった。息子に肩を貸してもらう姿は、なんとも情けないものだった。それを見た真奈美は、大輝のことを心配する一方で呆れてものも言えないようだった。そしてそう思いながらも、彼を支えながら光風苑へと戻った。一方、哲也も両親の後ろを、何も言わずに付いて行った。その間、真奈美は、一度

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第613話

    北城。綾が失踪した翌日、輝は警察に通報しようとした。しかし、警察署の前に着いた途端、音々が駆けつけた。輝が車から降りた瞬間、音々は彼に抱きつき、そのまま車内へ押し戻した。「バン」という音と共に、車のドアが閉まった。我に返った輝は、怒り任せに音々を突き飛ばした。「中島、頭がおかしくなったのか!私から離れろ!」音々は、片足をセンターコンソールに、もう片足を床につけた、なんともぎこちない体勢になっていた。そして、その体勢は輝の長い脚の間に挟まれているような形だ――ランドローバーといえど、運転席に大人が二人も座れるほど広くはない。この曖昧な姿勢に、輝は苛立った。その

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第582話

    若美は頷いてから、もう一度尋ねた。「じゃあ、また海外に行かれたりします?」要は綾の方を見て、「いいえ、その予定はありません。これからは北城にずっといますので」と言った。綾はケーキの最後の一口を食べ終え、空になった皿を持って立ち上がった。「じゃ、ゆっくりしてて、私は先に失礼します」綾が帰るのを聞いて、若美は慌てて追いかけようとした。「綾さん、ちょっと待ってください......きゃっ!」綾は若美が自分を呼ぶ声を聞いて立ち止まった。しかし、勢い余ってぶつかってしまい若美はそのまま悲鳴を上げて椅子に座っていた要の方へ倒れていった。綾はとっさにテーブルにつかまり、何とか体勢を崩さずに

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第594話

    午前10時、桃子は社長室のドアをノックし、ボディーガードの面接に来た男を連れてオフィスに入った。「二宮社長、こちらがボディーガードの面接に来た桜井さんです」綾は山積みの書類の中から顔を上げた。男は背が高く、170センチの桃子が小さく見えるくらいだった。黒いトレーニングウェアを着て、マスクと帽子を深く被っていた。目以外は、すっかり覆い隠されていた。桃子は面接資料を綾に手渡した。綾は手渡された資料に目を落とした。桜井健太(さくらい けんた)、38歳。国際的な警備会社に10年間勤務し、その後、事故による怪我で退職。腕前は確かで、独身。24時間待機可能。しかし、この

  • 碓氷先生、奥様はもう戻らないと   第616話

    綾は目の前が真っ暗闇だった。若美に支えられながら、前へ進んだ。何も見えない。2階から1階まで、何度も壁にぶつかり、倒れそうになるのを若美が支えてくれた。裏庭の出口まで来ると、若美はドアを開けて、綾を押し出した――綾はハッとした。何が起こったのか理解する間もなく、背後を誰かが支えてくれた。男の逞しい腕に抱きかかえられ、聞き覚えのある声が頭上から聞こえた。「二宮社長、私です」健太。綾は驚きを隠せなかった。「どうしてここに?」「綾さんの目が見えなくなったんです」若美は焦燥した声で言った。「あの漢方が原因だと思います。早く連れて帰って、治療してあげてください」「分かりま

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status