Masuk大輝の額には血管が浮き出て、背中の傷は手当てが遅れたせいで炎症を起こしていた。彼は突き刺すような痛みに耐えながら、繰り返した。「俺は小林さんとは本当にそういう関係じゃない。誤解は必ず解くから、真奈美を笑いものにはさせない。彼女の誇りを取り戻してやる」「今更そんなことを言っても遅い。どんなにうまく火消しをしたところで、一度ついたスキャンダルは世間から完全に消えることはない。真奈美に与えた傷は消えないんだ。大輝、まだ分からないのか?お前が真奈美に与えた傷は、もう償えないんだよ」「お父さん、言いたいことは分かる。でも、もうここまで来てしまったんだ。真奈美を諦めることなんてできない。何とかして事態を収拾する。今回のことは......」大輝は目を閉じ、深呼吸をした。「とにかく、俺は離婚しない」「ふん!」隼人は首を横に振った。「離婚しないだと?随分自信があるんだな!俺たちは、もうお前の肩を持つことはない。これからは真奈美の決断を尊重するつもりだ。ついでに、最後に警告しておく。小林さんとは完全に縁を切れ!」大輝は唇を固く結んだ。この件に関しては、隼人に何も答えなかった。だが、隼人は息子の沈黙を承諾と受け取り、それ以上何も言わなかった。......正午、楓は隼人が病院に行った隙に、薬と食事を持ってこっそり大輝の様子を見に行った。楓もまた、真司から大輝の味方をするなと厳しく言われていた。石川家の男たちは普段は妻の言いなりだが、重要なことになると主導権を握るのはやはり男たちなのだ。大輝が反省させられるのは今回が初めてではない。しかし、こんなにひどい仕打ちを受けるのは初めてだった。楓は近づくとすぐに、大輝の背中の鞭の痕を見た。傷口は見るも無残で、楓は一目で涙が溢れ出た。「大輝......」大輝は声を聞いてハッとなり、振り返った。「おばあさん、どうしてここに?」楓は近づき、かがんで大輝の顔に触れ、震える声で言った。「顔色が悪いね。痛かった?」「おばあさん、心配かけてごめん」大輝は胸が痛んだ。36歳にもなって、まだ家族に心配をかけている。こんなにも自分が情けないと思ったのは初めてだった。「大輝、どうしてこんなバカなことを......」楓は、やはり孫を不憫に思った。大輝は初孫だが、幼い頃は両親と過ごす時間が
その日は午前4時。雷雨がおさまり、静かな雨が降り続いていた。すると、石川家の先祖代々祭られた敷地内から、鞭で打つ音が響いていた。真司と楓は部屋に座っていた。二人とも高齢で耳が遠くなっていたため、はっきりとは聞こえない。それでも、自分たちが見守ってきた孫が、今夜は激しい叱責を受けていることを感じていた。若葉から電話があった。詳しいことは話さなかったが、大輝が真奈美を病院送りにしたとだけ伝えられた。そして、二人は絶対に止めに入らないようにと念を押された。病院送りになるほどの事態。二人は何が起こったのか分からなかったが、今は孫を庇うべき時ではないと二人は感じていた。その夜、大輝は36回も鞭で打たれた。隼人は言った。「36発の鞭は、お前が36歳の立派な大人であることを思い知らせるためだ!男は30歳で身を立てるというのに、お前はどうだ?大輝、この鞭で目が覚めて反省しないなら、今後、石川家はお前を勘当するから!」そう言うと、隼人は鞭を投げ捨て、踵を返して去っていった。大輝は背中を丸め、鞭で裂けた傷の痛みで汗びっしょりだった。うつむいた大輝の目は充血していた。背中の痛みではなく、今夜真奈美にした仕打ちに対する後悔の念からだった。そして、彼の心の中である声が響いた。こんなことするべきじゃない。本当に間違っていた。大輝は目を閉じ、荒い息をつきながら、心は迷いの中に沈んでいった。......明けかた、雨は上がり、東の空が白み始めた。石川家の先祖代々祭られた敷地の入口にあった彫刻が施された扉が開かれた。隼人は入ってきた。彼はまずご先祖に線香をあげ、それから振り返り、床に膝をついた大輝を見下ろした。大輝はまだ膝をついている。背中の傷はそのまま、赤く腫れ上がり、かさぶたができていた。楓は5時過ぎに、こっそり大輝の様子を見に来ようとしたが、居間にいた隼人に見つかってしまった。すると、親子で口論になり、楓は怒って自分の部屋に戻った。6時過ぎに若葉から電話があった。真奈美の熱は下がったが、まだ意識は戻っていないとのことだった。隼人は若葉に病院で真奈美の看病をするように言い、自分は家で大輝を見張ると伝えた。やはり若葉は杏のことが気になっていたようで、隼人に大輝から話を聞くように頼んだ。実際のところ隼人も気になった
「理由は聞かないでくれ」若葉はあまりの怒りで笑えてきた。「言えないのか?大輝、この際はっきり言ったらどうなの?!さもないと明日、小林さんに会いに行くからね!弁護士を連れて、400億円を吐き出させてやるから!石川家の金が、あんな女に流れるなんて許さない!」「お母さん、何も知らないくせに、変に首を突っ込まないでくれ!これには色々複雑な事情があるんだ。俺がなんとかするから」「あなたがなんとかする?」若葉はベッドに横たわる真奈美を指さし、怒りで目が充血していた。「これが、あなたのやり方?愛人に400億円も貢いで、自分の嫁を病院送りにするなんて!大輝!真奈美は一体どこが悪かったの?!哲也を産んで、一人で彼を育てて、あなたには文句一つ言わずに尽くしてきたでしょ!たとえ真奈美が好きじゃなくても、息子を産んでくれたんだから、彼女を尊重し、愛してあげるべきじゃない!なのに、こんな酷いことを!」それを言われ大輝はますます息苦しさを感じた。そして、ベッドに横たわる真奈美を見つめ、彼の心の中は大混乱だった。今夜のことは、確かにやりすぎた。自分が悪いと分かっていた。特に、真奈美の心拍が止まった時は、本当に焦った。ただ、真奈美が強すぎるように感じて、彼女の強引さに耐えられなかった。ましてや、離婚という言葉は聞きたくなかった。彼女の棘は、全て自分に向けられていた。愛していると言ったのは彼女の方なのに、自分の意思に反して哲也を産んだのも彼女なのに......あの頃の自分の目には、手段を選ばず、強引で冷たい真奈美しか映っていなかった。そんな彼女が嫌だった。だから、彼女を従わせたかった。棘を捨てさせ、結婚当初の、自分の腕の中で大人しくしていてくれていたようにして欲しかっただけなのに。どうしてこんなことになってしまったんだ?真奈美が倒れるまで、彼女がそこまで自分に拒んでいたなんて気が付かなった。あの瞬間、抑え込んでいた感情が、恐怖とともに心の奥底から湧き上がってきた。......「私がここで様子を見てるから」若葉はベッドの脇に腰掛け、冷たく言った。「お父さんが外で待ってるから、あなたはもう家に帰りな。今回はさすがにやりすぎよ。だから、たとえあなたがお父さんからどれだけ叱られようと、私は止めない。あなたの肩をもったりしないから」
真奈美は昏睡状態だった。体は冷たかった。しかし、額は熱かった。若葉はすぐに部屋を出て、深刻な顔つきで言った。「病院に行かなきゃ。高熱よ」それを聞いて、大輝の顔色が変わった。彼はすぐさま部屋に入ろうとしたが、若葉に止められた。「まだ、なにかをするつもりなの?」「俺が車まで運ぶから、病院に連れて行こう」大輝は母親を見ながら、喉仏を動かした。「お母さん、本当に反省してるんだ」「今さら、そんなこと言ったって遅い!」若葉は大輝の頬を平手打ちした。「真奈美が許してくれるかどうかは分からないけど、今のあなたには彼女に近づく権利もないから!」「叩くのも、怒鳴るのも、病院へ連れて行ってからにしてくれ」大輝も事態の深刻さに焦りを募っていた。すると、隼人は深くため息をついた。「まずは病院に連れて行くのが先決だ」若葉は涙を拭った。大輝が部屋に入ると、若葉は彼が乱暴に真奈美を扱って苦しめないよう、ずっと見守り、注意していた。......車に乗ると、若葉は大輝と同じ車に乗り込もうとした。大輝は真奈美を抱きかかえたまま、何も言わずに従った。道中、親子は黙っていた。そして、若葉は時々涙を拭っていた。隼人は別の車を運転し、彼らの後をついて行った。病院に着くと、すぐに婦人科で検査を受けた。移動中、若葉は裕也の父親・黒崎健吾(くろさき けんご)に電話した。石川家と黒崎家は昔から親交があり、健吾は信頼できる女性医師を手配し、真奈美の治療に当たらせた。検査の結果、軽い裂傷が見つかった。山下主任は、若葉と同じくらいの年齢だった。「激しい行為は女性の体に大きな負担をかけるんです。それに、彼女には他にも痣がいくつか見られます」山下主任はため息をついた。「若気の至りとはいえ、自分のことだけでなく、奥さんをいたわる気持ちもちゃんと持たないと」それを聞いて、若葉は大輝の腕を強く叩いた。「この人でなし!この人でなし!」大輝はうつむいて黙っていた。山下主任は彼の態度が少し反省しているように見えたので、こう言った。「数日入院して様子を見ましょう。熱は風邪によるものと思われますが、一番の問題は体の機能が弱っていることです。以前の入院記録を見ましたが、熱射病に貧血、退院してまだ数日なのに......こんな状況での性行為は、本当
びしょ濡れの服が肌に張り付き、ひどくみすぼらしい姿だったが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。部屋に戻ると、大輝は真奈美の体を確認した。抵抗した際にどこかにぶつけたのだろう、真奈美の口元は切れ、肘にはいくつか痣が出来ていた。大輝は真奈美の首についた掴まれた跡を見て、自分の頬を強く叩いた。しかし、頬の痛みも、彼の後悔の念を和らげることは出来なかった。自分がしてしまったことに、ただただ呆然とするばかりだった。一体、なぜあんなに我を忘れてしまったのか......真奈美は意識を失い、顔色は悪く、このままではいけないと大輝は思った。すぐに病院へ連れて行かなければ......大輝は部屋から出てきて、ドアを静かに閉めた。山田執事は駆け寄り、大輝の頬を平手打ちした。「これは、聡様の代わりにあなたへのお見舞いです!」山田執事は目を赤くして言った。「石川社長、お嬢様にはもう身寄りがいないと思っているでしょうが、私が生きている限り、彼女を守ります!気が済まないならかかってきなさい!そして今日限り、新井家の敷居は二度と跨がせません!」大輝は頭を下げたままだった。執事に平手打ちされるなど、彼にとってこれ以上の屈辱はないはずだ。普段なら、こんな仕打ちを黙って受け入れないだろう。しかし、今日のこの平手打ちを、彼は甘んじて受け入れた。「運転手に車を手配お願い。彼女を病院へ連れて行く」山田執事は息を呑んだ。「一体、お嬢様に何を......」言葉を詰まらせ、山田執事の声はそこで途切れた。びしょ濡れの大輝の姿を見て、全てを察したのだろう。みるみるうちに、山田執事の目は怒りで赤く染まった。「あ、あなたは......」大輝は目を閉じ、拳を握りしめ、何も言わなかった。事ここに至っては、何を言い訳にしても通らないということが分かっていたからだ。その時、庭から車の音が聞こえてきた。そして、慌ただしい足音が近づいてきた。大輝の両親が到着したのだ。「大輝!」若葉は急いで駆け寄り、びしょ濡れの大輝と、彼の様子を見て、胸騒ぎを覚えた。そして、蹴破られた寝室のドアに目をやった。嫌な予感がますます強くなり、若葉はドアを開けて中へ入っていくと、体が硬直した。ベッドに横たわる真奈美を見て、信じられないといった様子で口元を
真夜中の空は墨かかったように黒かった。すると静まり返っていた夜に、突如、幾筋もの稲妻が夜空を切り裂いた。雷鳴が轟き、土砂降りの雨が降り出した。真奈美の叫び声は、雷鳴にかき消された。パラパラ。大粒の雨が窓ガラスを叩きつけた。バスタブに水しぶきが上がり、真奈美の濡れた長い髪は大輝に掴まれた。細い手首は大きな手で捕らえられ、バスタブの硬い縁に押し付けられた。叫び声は遮られた――その瞬間、死を予感させるような絶望感が、再び真奈美を襲った。目尻から涙がこぼれ落ち、心臓は激しい鼓動の後、急に止まったように感じた。耳鳴りがひどくなり、世界が一瞬にして静寂に包まれた。そして、その晩激しい風雨が街に降りしきった。大輝の一方的な情欲によって始まった欲情の果て、散らかった部屋には粉々に砕け散った女の尊厳だけが残っていた。大輝が真奈美の様子がおかしいことに気づいたときには、彼女は既に気を失っていた。女は呼吸を止め、胸も上下していない。大輝の頭は真っ白になった。次の瞬間、正気に戻った。「真奈美!」女は、砕け散るようにバスタブに倒れていた。バスタブの中の水は冷たかった。大輝が手を離すと、女の体は水中に滑り落ちた。水は彼女の口と鼻を覆った......大輝は驚き、慌てて真奈美をバスタブから引き上げた。真奈美は反応がない。唇は紫色に変色し、口元は血が滲んでいた。それを見た大輝の瞳孔は大きく収縮した。彼はこんな結末は望んでいなかったはず......彼は慌ててバスタオルを引きちぎり、彼女をしっかりと包み込み、バスタブから抱き上げた。そして、すぐに床に寝かせ、人中を刺激し、心臓マッサージと人工呼吸を始めた......「しっかりしろ、真奈美......こんな冗談はやめてくれ、目を覚ませ――」大輝は震える声で彼女の名前を呼んだ。「ゴホッ――」咳き込むと、真奈美は呼吸を取り戻し、ゆっくりと目を開けた。大輝はすぐに手を止め、彼女を起こしながら言った。「大丈夫だ、もう大丈夫だ......」真奈美は目を開けているが、その瞳の奥は空虚だった。視界はぼやけているが、頭の中には、断片的で遠い昔の記憶が蘇ってきた。「大輝、私は一体何がいけなかったの......どうしてこんなひどいことをするの