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社長との逢瀬、誰にも言えぬ
社長との逢瀬、誰にも言えぬ
Author: Hare Ra

第1話

Author: Hare Ra
バンッ!

「仕事、仕事って、毎日毎日そればっかりじゃないか!」

栗原耕平(くりはら こうへい)は苛立ちを隠そうともせず、妻である栗原聖羅(くりはら せいら)を怒鳴りつけた。

拳を乱暴に叩きつけると、食卓に並べられた皿や茶碗、コップまでもがガタガタと悲鳴のような音を立てる。妻が毎朝のように「働きたい」とせがんでくることに、耕平はとっくに我慢の限界を迎えていた。生活に困っているわけでもないのに。

「でも……退屈なのよ、家にいるだけじゃ」聖羅はすがるように答える。

彼女の口から出る理由は、いつだって同じだった。家にいることに飽きた。ただそれだけだ。

「お前は働かなくていい!妻の役目は家を守ることだけだ!」耕平はますます声を荒らげた。

「でも……」

「行ってくる!」

聖羅の言葉をすぐに遮ると、耕平はカバンを掴み、足早に家を出ていった。

用意しておいた朝食には、結局ひと口も手を付けなかった。

聖羅は、夫の車が走り去ったあとをぼんやりと見つめ、それから手つかずの食卓へと視線を移した。

重いため息がこぼれ落ちる。胸の奥が、ちくりと痛んだ。働きたいなんて、言うべきではなかった――そう後悔してしまう自分がいる。

2年前まで、彼女はある会社でマーケティングのスーパーバイザーとして働いていた。けれど結婚と同時に、夫の望みで仕事を辞めたのだ。

最初のうちは、専業主婦としての生活も決して悪くないと思えていた。けれど時が経つにつれ、逃げ場のない退屈さが静かに心を蝕んでいった。

そのうえ耕平は、彼女が自分らしく過ごす余地さえ与えてくれない。美容サロンに行くことも、一人でカフェに腰を下ろすことさえ許してはくれなかった。

たまたま旧友たちと顔を合わせれば、誰もが誇らしげに自分のキャリアの話をする。それなのに、自分はどうだろう?

聖羅は大学も出ていて、まだ20代半ばだった。卒業後は1年ほど働いたものの、そのまま結婚という鳥籠に閉じ込められてしまった。

孤独は日を追うごとに深くなっていく。結婚して2年になろうとしているのに、子供にもまだ恵まれていない。もし子供さえいれば、この胸をふさぐ寂しさも少しは紛れるだろうに。

「はぁ……もっと早く気づくべきだったわ。仕事を辞めるべきじゃなかった」ひとりごちると、聖羅は力なくソファに身を投げ出し、ぼんやりとテレビをつけた。

そうやって、彼女はいつも空っぽの1日をやり過ごしているのだ。

――プルルル!プルルル!

突然、テーブルの上のスマホがけたたましく鳴り響いた。まるで「早く出ろ」と急かすような響きだ。

聖羅はけだるげにスマホを手に取り、画面に浮かぶ夫の名前を確認してから、緑色の通話アイコンをスワイプした。

「もしもし」

抑揚のない声で応じると、電話の向こうから耕平の低い声が返ってきた。

「今、家にいるか?」

「ええ、いるけれど」

「今夜、立花さんがうちに来る。うまい料理を用意して、家も隅々までちゃんと片付けておけよ。絶対にサボるなよ!」

まただ、と聖羅は思う。耕平の口から出るのはいつも命令ばかりで、まるで自分が家政婦にでもなったかのような気分にさせられる。

結婚する前の彼は、あんなに優しくて辛抱強い人だったのに。今ではすっかり別人のようになってしまった。

いまの彼にとって「良い妻」とは、料理も家事も夜の営みも完璧にこなし、そのうえ文句一つこぼさない都合のいい女のことらしい。

「聖羅、聞いてるのか?」すぐに返事をしない妻に、耕平が苛立った声で問いかける。

「ねえ、あなたの上司がうちに何しに来るの?」聖羅は意を決して尋ねた。

「いいから、言われた通りにしろ。余計なことは聞くな。俺に恥をかかせるなよ」

無機質な音を残し、電話は一方的に切られた。

聖羅は壁の時計に目をやった。時刻は午後2時だった。そろそろ掃除と料理に取りかからなければ間に合わない。

気を引き締めると、聖羅は台所に立ち、手際よく料理を作っていった。相手は夫の会社の上役だ。品数もそれなりに見栄えよく揃えなければならない。幸い、冷蔵庫の中身はまだ豊富にあり、わざわざ買い出しに走らずに済んだことだけが救いだった。

準備に追われるうちに額には汗がにじみ、気づけば全身がじっとりと汗ばんでいる。

なんとか料理を作り終えると、聖羅は着替える余裕もなく、薄手の白いホームドレス姿のまま大急ぎで家の掃除に取りかかった。

「もう、なんでいつも急に言うのよ」

食卓のテーブルクロスを新しいものに取り替えながら、聖羅は思わず愚痴をこぼす。

「耕平ったら、料理の準備がどれだけ大変か分かってないんだから。ほら見て、もう5時じゃない」

聖羅はほてった顔に浮いた汗を、ティッシュで軽く押さえるように拭った。

ピンポーン!ピンポーン!

まだ準備がすべて片付いていないというのに、不意に玄関のチャイムが鳴り響いた。

「あ、荷物が届いたのかな」

聖羅の頬が思わずゆるんだ。

2日前にネットで注文しておいたスキンケア用品が、ちょうど今日の夕方に届くはずだったのだ。夫から許しが出ないサロン通いの代わりに、彼女はせめてもの贅沢として、自宅でのスキンケアだけは欠かさず続けていた。

「はーい、いま開けます」

着ていたホームドレスの裾で無造作に手を拭い、台拭きを肩に掛けたまま、聖羅は作業の手を止めて玄関へと向かう。

家の中に縛られている彼女にとって数少ない楽しみである荷物の開封を心待ちにしながら、弾むような軽い足取りで歩いていった。

ギィ。

無防備にドアを開ける。

けれど、目の前に立っている人物の姿を捉えた瞬間、聖羅は息を呑み、その目を大きく見開いた。

見慣れた宅配業者ではない。そこに立っていたのは、隙のない身なりで、洗練された雰囲気をまとった大人の男だった。

夫の上司、立花祐樹(たちばな ゆうき)――しかも、夜に来ると言っていたはずなのに。どうしてこんな時間に?

あまりの驚きに、聖羅は思わずその場に縫い付けられたように動きを止めた。

「た、立花、さん……?」震える声で、聖羅がどうにか言葉を絞り出す。

しかし、玄関先に立った祐樹は何も答えない。彼は瞬きをすることさえ忘れたかのように、彼女の姿をただじっと見つめていた。

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