登入青木はすぐに結人を抱き取った。「はい、それでは先に入っていますね」場の空気がおかしいと察した青木は結人を抱きかかえ、高崎夫妻から距離を取るようにして部屋の奥へと消えていった。「話は家に帰ってからにしよう。ここは他人がいて話しにくい」武司は三久を見て高圧的に言った。「まさか、お母さんの直感がここまで当たるとはな。最初から、お前に何か特別な縁を感じていたそうだ。さあ、早く帰ろう。お母さんは何もかも準備して待っているんだ」久留美がこくこくとうなずく。「荷物は全部置いていって構わないわ。子どもさえ連れて、私たちと一緒に帰ってきなさい」「どうぞ、お掛けください」三久は二人にソファを勧めた。お茶を二杯、二人の前に差し出した。武司と久留美は視線を交わし、そのあとでようやく腰を下ろした。「この何年か、私たちはあなたに本当にすまないことをしたわ。あなた……もし不満があるなら、何でも言ってちょうだい。何があっても、私たちと一緒に帰ってきてくれさえすれば!」久留美は三久へ身を乗り出した。三久は背筋をぴんと伸ばして座り、淡々とした口調で告げた。「高崎社長、久留美さん。申し訳ありません。DNA鑑定は受けておりません。お二人は何か勘違いをなさっていると思ったからです。高崎家にもう一人娘さんがいたなんて、これまで一度も聞いたことがありません。それに私は、施設長が西戸市の山の中で拾ってくださった捨て子です。仮にお二人が本当に娘さんを失われたのだとしても、それは私ではありません」仮に二人の娘である自分が迷子になったのだとしても、人さらいに遭ったのだとしても、さらわれたのだとしても、西戸市の山の中に捨てられるはずがない。「そこにはきっと誤解があるのよ。だからあの人たちは、あなたを西戸市に捨てたの。殺せば犯罪になるから、ただ、私たち母娘を引き裂きたかっただけなのよ!」久留美は迷いなく言い切った。三久は一瞬、黙り込んだ。「久留美さんのおっしゃる『あの人たち』とは、どなたのことですか?」「家の恥は外に晒せないけれど、あなたも高崎家の人間だから話すわ。あなたの叔父さん一家よ。あの聡子はね、自分の産んだ子が健康ではなく、幼いうちに亡くしたことで私を妬み、あなたをさらって、遠い遠い場所へ捨てたの!」言いながら、久留美の目に
昼食のあと、結人はいつものように眠ろうとはしなかった。あーうーと舌足らずな甘えた声を出しながら、小さな腕を思い切り伸ばして体をよじらせている。「日に日に大きくなりますねえ。もう抱っこをせがむようになって」青木は三久の顔色を窺ったが、喜んでいるのか沈んでいるのかは読み取れなかった。それでも、結人のことなら話しやすいだろうと、なんとか気まずい空気を和ませようと話題を探していた。三久はソファに深くもたれかかり、ぼんやりと結人を眺めていた。「ん」と短く鼻を鳴らす。それが青木への返事だった。「三久さん、あまり思い詰め……」突然、インターホンのチャイムがけたたましく鳴り響き、青木の言葉を断ち切った。三久は反射的に背筋を伸ばし、玄関を振り返った。「梨々香さんが帰ってきたんじゃないですか?」青木はすぐに立ち上がる。「私が開けてきますね!」「待って!」三久は鋭く呼び止めた。「まず、誰か確かめてから」青木は顔をほころばせ、玄関へ向かいながら言う。「梨々香さん以外に誰がいるっていうんです?三久さんは深川にほかのお友達もいないでしょう。あんなに仲のいいお二人ですもの。多少ぶつかったって、すぐに元通りになりますよ。梨々香さんだって」二人のそばにこれだけ長くいるのに、青木は洲人のほかに友人らしい人物を見たことがなかった。結人の誕生祝いの日に訪れた由樹と龍太郎も、それほど親しい間柄には見えなかったのだ。おそらく急に声をかけられ、その場を賑やかにするための数合わせだったのだろうと推測していた。青木は梨々香が戻ってきたのだとすっかり思い込み、確かめもせずにドアを開けた。「りり……」言い終える前に、ドアの外に立つ見知らぬ女に言葉を遮られた。「どちらさまですか?」「早坂三久さんに会いに来たの」久留美は青木を上から下までジロジロと見ると、ふと何かを思いついたように、自身のバッグから分厚い札束を取り出した。「あなた、産後ヘルパーさんでしょう?今すぐ荷物をまとめて帰ってちょうだい。もうこの子の世話は結構よ」青木は目を丸くした。差し出された札束を見つめたまま、頭の中が真っ白になる。その甲高い声が耳に届き、三久の心はスッと冷え込んだ。ソファから立ち上がり、玄関へ向かおうとする。すると、あーうーと声を漏らして
「梨々香、あなたと大和はお父さんとお母さんのすべてなの。私たちにとって、何より大切な存在なのよ。ほかのものは何もいらない。でも、あなたたちを危険な賭けに巻き込むことだけは――」梨々香が強引に言葉を遮る。「復讐なんてしなくたっていい。でもせめて、あの頃何があったのかは知りたいの。二人はあんなに争いごとを避けて生きてきたのに、どうしてあの人たちはそんな酷いことをしたの?そんなふうにみ……とにかく、何があったのか分からないうちは、あたしは絶対に行かない」聡子の顔にありありと焦りの色が浮かぶ。恒雄は静かに箸を置き、真剣な眼差しで告げた。「どうしても知りたいというなら、お父さんが調べよう」「うん」梨々香は短く頷いた。「それと、みくちゃんもいずれ高崎家に戻るって言ってたよね。あれ、どういう意味?」恒雄は腕を上げ、腕時計に目をやる。「おそらく、いまごろはもう誰かが向かっているはずだ」梨々香の顔がすっと曇る。「あの子の話はやめましょう。さあ、ごはんにしましょう」三久の話が出た途端、聡子はあからさまに表情を曇らせた。「ちょっとお手洗い」梨々香は席を立ち、足早にトイレへ向かった。ドアを閉めるなりスマホを取り出し、洲人へ電話をかける。ところが、何度コールしても洲人にはいっこうに繋がらなかった。ギリッと歯を食いしばり、梨々香は由樹宛に短いメッセージを打ち込む。【みくちゃんとゆいを助けて。でないと、あんた一生後悔するよ!】……明日には摩美が深川へ到着する。彼女は由樹に内緒で、哲朗へ電話をかけていた。「小林、私の電話を無視する気かと思っていたわ」哲朗の額にじっとりと冷や汗がにじむ。「摩美さん、ご冗談を」――電話に出ないなんてとんでもない。今夜の着信から逃げ回ったところで、どうせ明日には摩美本人が深川へ乗り込んでくるのだ!「これだけ時間を与えたのに、何も掴んでいないなんて信じられないわ」摩美が問い詰めているのは、三久のお腹の子と由樹との関係についてだった。哲朗はしどろもどろになりながら、しばらくしてようやく絞り出すように答えた。「確かに、少しだけ掴んだ事実はあります。ただ、確たる証拠はなくて……その、早坂さんの出産予定日から妊娠時期を逆算すると、ちょうどその時期に、酒井社長
梨々香は結局行ってしまった。蒼汰と身分証以外は、何一つ持たずに。ベビーシッターの青木は三久のもとに残り、世話を続けてくれている。昼食を作り終えると、ドアをノックして声をかけてきた。「三久さん、お昼ができましたよ」三久は午前中ずっと部屋に引きこもっていた。頭が鉛のように重い。梨々香が出ていったせいなのか。それとも、聡子のあの言葉のせいなのだろうか。――私も、高崎家の人間……だとしたら、私はいったい誰なのだろう。いいえ、そんなことはどうでもいい。今の私はゆいの母親。ただ、ゆいの母親というだけだ。「三久さん、何があったにせよ、ごはんは食べないと。でないと、ゆいちゃんはどうなるんです?」青木は事の顛末を知らない。朝方、外から言い争う声が聞こえてきたものの、気を使って部屋から出なかったのだ。しばらくすると梨々香が入ってきて、眠ったばかりの蒼汰を抱き上げて出ていってしまった。詳しい事情は何も話さず、ただ「みくちゃんのそばにいてあげて」とだけ言い残していた。おそらく彼女は、もうここへは戻ってこないのだろう。喧嘩でもしたのだろうか。梨々香はもともと騒がしい性格だが、今回はどう見てもただ事ではなかった。青木の目にも、彼女が本気であることは明らかだった。カチャリとドアが開き、三久が部屋から姿を現した。ベビーラックを押すその穏やかな表情の下には、いまにも砕け散りそうな感情が押し隠されている。「分かりました。少しゆいを見ていてもらえますか。顔を洗ってきます」青木はベビーラックを受け取り、洗面所へ向かう三久の背中を見送る。「梨々香さんと何があったのか私には分かりませんけどね。出会いがあれば別れもあるって言うじゃないですか。お二人はお友達であって、血の繋がった姉妹じゃないんです。いつか離れる日が来るのも、決して不思議なことじゃありませんよ」ジャーッと流れる水音に青木の声が混じり、三久の耳へと届く。両手ですくった冷たい水に熱い涙が混じり、顔を濡らした。どれほどそうしていただろう。洗面所から戻ってきたとき、三久の目元は先ほどよりも赤く腫れていた。「……もう大丈夫です。ごはんにしましょう」ベビーラックを受け取り、ダイニングへと向かう。お昼が近づき、空が晴れてきた。窓から差し込む陽射しが、食卓を柔らかく照らし出
「事情が複雑なの。私たちにとって、真相なんてどうでもいいのよ。あなたと弟の無事より大事なものなんて、何一つないんだから!梨々香、お父さんがもう全部手配してくれたわ。あとは、あなたが帰ってくるのを待つだけなのよ!」聡子は、梨々香がこのままどこかへ行ってしまうのではないかとひどく怯えていた。すがるように娘へと歩み寄り、涙ぐんだ瞳で訴えかける。「お父さんとお母さんと一緒に、おうちに帰りましょう?ね?」梨々香は、すっとその手をかわした。「やだ。この何年もの間、あたしは外で苦労して辛い思いをして、本来ならあたしのものだったはずのものを全部奪い去られてきた。そんなの、納得できるわけない。高崎家には帰る。でもそれは、失ったものを取り戻すためだよ!」「梨々香、お前が思っているほど簡単な話じゃないんだ」恒雄がなだめるように口を挟む。「お父さんが不甲斐なくて、お前に申し訳ないことをした。そう思ってくれていい。だがな、お父さんは本当に、もう古い話を蒸し返して危ない橋を渡りたくないんだ。ただ、家族みんなで穏やかに、仲良く暮らしたいだけなんだよ」胸が張り裂けんばかりに涙をこぼす妻の姿に、恒雄もまた深く胸を締めつけられていたのだ。「あたしは……」「梨々香」意地を張る彼女を見かねて、三久がそっと声をかける。「高崎さんの言うとおりよ。家族が揃うことより大切なものなんてない。過ぎたことは、もう過ぎたこと。海外に出て、子どもにもっと良い教育を受けさせてあげられるなら、それに勝ることはないじゃない」「行かない」梨々香は横目で三久をにらんだ。「あたし、絶対に行かないから!」娘がここまで海外移住を拒絶するとは、聡子には予想外だった。胸を痛め、自分を責めながらもすべがなく、すがるような視線を夫へ向ける。見かねた恒雄のほうが、妥協した。「分かった。それなら、海外移住はひとまず見送ろう。まずは家に帰ろう。お前の弟もずっと待ってるんだ。な?」「だったらみくちゃんも連れてく」梨々香は再び、ぎゅっと三久の腕を掴んだ。高崎夫妻との再会。その光景を、三久はこれまで幾度となく思い描いてきた。興奮と歓喜、そして嬉し涙。自分はその傍らで静かに彼女の幸せを喜び、見届けるだけで十分だった。ただ一つ、自分まで一緒に連れて帰ろうとするだな
「梨々香、お父さんと一緒に家に帰ろう。な?」恒雄は慈しむような眼差しで梨々香を見つめた。「弟が家で待ってるぞ。うまいものをたくさん用意させたんだ」聡子もこくこくと何度もうなずく。「お父さんとお母さんで、あなたと子供を一緒に連れて帰るわ」梨々香に子どもがいることは、これまで一度も隠してこなかった。娘が未婚のまま身ごもり、母親になったと知って、恒雄はいっそう胸を痛めている。すべては、この長い年月、娘を守ってやれなかった己の責任なのだと。「あたし、その……ごめんなさい。まだちょっと慣れなくて、急には呼び方を変えられなくて」梨々香は二人を受け入れてはいたものの、「お父さん」「お母さん」と呼ぶことには未だ抵抗があった。「構わないわ。ゆっくりでいいのよ。こうして家族が揃ったんだから、時間はいくらでもあるわ」聡子の顔を寂しさがふっとよぎる。けれどそれはすぐに消え去った。母親なのだ。この子は、お腹を痛めて生んだ、血を分けた我が子なのだ。二十年以上も会えずにいたせいで、娘がどんな姿に育っているのか、思い描くことすらできなかった。一方の梨々香にとって「母親」とは、ただの記号にすぎない。具体的な姿を伴わず、だからこそ、いっそう遠い他人のように感じられるのだろう。「ああ、ゆっくりでいいぞ」恒雄は部屋をぐるりと見回した。視線が三久に向けられたとき、わずかに眉をひそめる。それからもう一度、口をひらいた。「梨々香、話があるなら家に帰ってからにしよう」聡子もうなずく。「梨々香の子供は?」「まだ寝てる。青木さんがついてくれてるから」梨々香は廊下の突き当たりの、固く閉ざされたドアを指さした。「その前に、ちょっとだけ話をさせてほしいの」聡子はちょうど赤ちゃんを抱こうと子ども部屋へ向かいかけていたが、梨々香の言葉に足を止め、恒雄を振り返った。夫婦は視線を交わし、そろって梨々香へと向き直る。「言ってごらん」恒雄と聡子は立ったままだった。腰を据えて話をする気などさらさらなく、一刻も早く梨々香を連れて帰りたい。そんな焦燥感がありありと滲み出ている。「二人とも、どうぞ座って」梨々香はソファの上の小さなおもちゃをどけた。夫婦はもう一度顔を見合わせ、ようやく腰を下ろす。三久はきびすを返してキッチンへ向かった。お
リビングにいる全員が反応する間もなく、二階から足音が響いた。由樹の母、酒井摩美(さかい まみ)が急ぎ足で降りてきた。五十近いとは思えない、三十代にしか見えないほど若々しい体型だ。真紅のショールを羽織っただけで、氷点下の外気も厭わず玄関へ向かった。眩しいほどのヘッドライトが消え、三久の目にようやく全体が映った。由樹と並んで車を降りてきたのは、千歳だった。三久の前ではいつも澄ました顔をしている摩美が、千歳に親しげに腕を組まれたまま笑っている。由樹は穏やかな顔でトランクを開け、いくつかの紙袋を取り出しながら、ふたりが話し込むのを静かに待っていた。絵に描いたような理想の家族の光
千歳が社長室に戻ると、哲朗が手際よく航空券の手配を進めているところだった。「由樹さんは?それ、何の予約?」「社長は休憩室にいらっしゃいます。海外支社で急ぎの対応が必要になりまして、社長ご自身が現地へ向かうことになりました」哲朗が言い終わる前に、千歳はバッグからパスポートを取り出して突き出した。「私の分も取って。一緒に行くから」「え……っ?」有能な哲朗も思わず目を見張った。千歳はさも当然といった顔で、「何?由樹さんの許可がないと動けないの?」この半年、由樹の行くところには必ず千歳がいた。哲朗はそれもそうだと納得し、パスポートを受け取った。「承知しました」
児童養護施設の出身で、これほどの出世を果たしたのは三久だけだった。ずば抜けた成績で、国内トップクラスの大学へ全額免除で入学したのだ。由樹と出会ったのは、その頃だ。名家の御曹司たちが集まる華やかな輪の中でも、彼はひときわ別格で、自然と視線が吸い寄せられた。この二年間の結婚生活と、夜ごとの温もり――それだけで、一生分の思い出としては十分だと思っていた。なのに、お腹の中に命が宿ってしまった。産むことをためらう気持ちは、三久にはなかった。この世界でただひとり、血の繋がった尊い存在なのだから。由樹に奪われるのが怖かった。でも一方で、淡い期待もあった。もしかしたら由樹は、最愛の千歳を怒
深夜、早坂三久(はやさか みく)はSNSに生まれたばかりの赤ちゃんの写真を投稿した。【ついにママになりました。男の子で〜す!】一時間も経たないうちに、半年前に離婚した元夫・酒井由樹(さかい ゆき)がドアを叩くなんて、思いもよらなかった。ドアを開けた瞬間、由樹の暗く沈んだ表情が目に飛び込んでくる。ただそれだけで、この2DKの安アパートが、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥った。「……なんで来たの」三久はドアノブをきつく握りしめたまま問いかけた。由樹は何も答えない。無言のまま上がり框の手前で、磨き上げられた高級な革靴が、玄関の古びた花柄タイルを硬く叩き、ひどく場違いな







