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車の窓越しに、蒼汰の泣き声が漏れ聞こえてくる。青木さんがどれだけあやしても一向に泣き止まない。梨々香は仕方なく車へ戻った。その隙に三久はタクシーを拾い、まっすぐ高崎家へと向かう。久留美は三久が来ることを予期していたようで、彼女が高崎家の門前でチャイムを鳴らすと、応対に出た使用人がすぐに訊ねた。「早坂様でいらっしゃいますね?」「はい」三久は頷いた。「久留美さんはいらっしゃいますか」「ええ、茶室にいらっしゃいます。ご案内いたします。こちらへどうぞ」使用人は三久を屋敷の奥へ案内した。三久は玄関で靴を脱ぎ、バッグを手にしたまま廊下を進む。やがて茶室の前まで来ると、使用人が静かに障子を開けた。久留美は畳の上に姿勢よく座っていた。炉にかけられた茶釜から静かに湯気が立ち、室内にはほのかな茶の香りが漂っている。「三久さん、よくいらしてくれたわね」久留美は三久の姿を見るなり立ち上がり、歩み寄って手を取ろうとした。三久はさりげなくそれを避け、冷ややかで素っ気ない眼差しを向ける。「私が何のために来たか、もうおわかりですよね」久留美は一瞬固まったあと、差し出した手を引っ込めた。「ええ、わかっているわ。でもこんなに早く来てくれるとは思わなかった。まあ、座って」三久は茶席の前に立ったまま、動こうとしなかった。「おっしゃりたいことがあれば直接どうぞ」取り合ってもらえないことに、久留美の顔にわずかな落胆がよぎった。彼女は元の場所へ戻って座り直すと、茶を一服点て、三久の前へ差し出した。「実はね、私には昔、娘がいたの」そう言いながら、三久の様子を窺うように見つめる。だが三久の表情に変化はなく、この衝撃の告白に驚いた様子など微塵も見せなかった。「それは私には関係のないことです」「関係あるのよ」久留美はすぐさま言葉を継いだ。「あの子は、今どこでどうしているのかもわからないの。あなたを見ていると、あの子を思い出してしまって。だからどうしても、あなたに良くしてあげたくなるの」三久の眉間には、今にも固く結ばれてしまいそうな皺が刻まれていた。もし久留美が「あなたは長年行方知れずになっている私の娘ではないか」とでも言ったのなら、まだ筋が通ると思えただろう。だが実際にはそうではなく、ただ彼女を見ると高崎家の
「はぁ?高崎家の人たち、頭おかしいんじゃないの?」梨々香はソファの上に立ち上がり、天井に向かって疑問を投げかけた。久留美がヴェリア産後ケアセンターに部屋を予約していたと三久から聞かされ、梨々香はしばらく言葉を失っていた。彼女はまだ理解が追いつかない様子で言った。「本当に、タダで部屋を予約してくれたっていうの?」「間違いないわ」三久は頷いた。梨々香は白目を剥く。目の白さがいっそう際立った。「親切な人は見たことあるけど、あそこまで親切の押し売りみたいなことする人なんて初めて見た。お金が余りすぎて使い道に困ってるわけ?」よく言うではないか。金持ちほどケチで、損得勘定にはシビアだと。もし金持ちが誰彼構わず親切にしていたら、助けを求めてくる人間など際限なく現れる。だからこそ、金持ちは目立たないように振る舞う。一人に気前よくすれば、それを見た別の人間まで寄ってくるのを恐れて。三久が知る限り、高崎家は深川の社交界でそう評判が良いわけではなく、慈善家としての評判を殊更気にする様子もなかった。つまり、高崎家の人間が根っからの善人だとは考えにくい。親しくもないのに親近感を覚えるだとか、紫織に代わって詫びと埋め合わせをしたいだとか、そうした言い訳はどれも筋が通らなかった。「まあいいわ。とにかく断ったんだし、もう考えるのはやめる」考えても仕方がないと、三久はきっぱり思考を打ち切った。梨々香はソファの上から降り、改めて腰を下ろす。「よし、予定日もどんどん近づいてきてるんだし面倒なことは考えないの。妊娠後期は楽しく過ごさなくちゃ。さ、支度して。今日は行きたがってた産後ケアセンターを予約しに行くわよ」産後ケアセンターの件で、二人はその後も数日間、押し問答を続けることになった。結局は三久が押し切り、郊外にあるあの施設を予約することになる。三久はバッグを手に立ち上がり、上着を羽織ると、青木と蒼汰を連れて車に乗り込んだ。三久が上着を着ているあいだに、梨々香はこっそり彼女のバッグからカードを抜いて脇へ置き、代わりに自分のカードを忍ばせておく。道中、蒼汰は眠ってしまった。マナーモードにしてあった三久のスマホが震え出す。声を落として応答した。「もしもし、早坂三久様でいらっしゃいますか」「はい」「本日、
「そういうお名前の妊婦さんがいらっしゃったような気がします」龍太郎は表情を崩さなかった。「お知り合いですか?」久留美は頷いた。「高崎家の遺伝性疾患の兆候がないかどうか、覚えていらっしゃいます?」紫織ははっとして久留美を見た。「お義母さん、それってどういう意味ですか?」「あなたは黙っていなさい」久留美は釘を刺すような目で紫織をちらりと見てから、また龍太郎へと視線を戻した。龍太郎は数秒黙り込んでから、ゆっくりと首を横に振る。「担当している患者が多すぎまして。そういう方がいたことは覚えていますが、詳しい状況までは」久留美は声を落とした。「次の検診は、いつ頃の予定です?」「そろそろかと。妊娠後期は検診の頻度も上がりますので」「では、その時に確かめておいてくださらない。高崎家の遺伝性疾患が、お腹の子に遺伝している可能性がないかどうか」久留美は先ほどの封筒をもう一度取り出すと、龍太郎のポケットへ押し込んだ。「わかり次第、すぐに知らせてね」「申し訳ありませんが」龍太郎は真剣な顔つきになった。「私にも、越えられない一線というものがあります」ポケットから封筒を取り出すと、久留美に差し出した。「今日のことはなかったことにします。それ以上は、私にはどうにもできません」「もう遅いわ」久留美は封筒を受け取ろうとしなかった。「さっきあなたが言ったこと、全部録音させていただいたの。今さら前言を撤回しても手遅れよ。あなたの医師としてのキャリアがこのまま終わるかどうかはあなた次第」このお金を受け取り、良心に背いて久留美のために働くか。それとも、良心には恥じることがなくても、汚名を着せられてこの業界を追われるか。賢い人間なら、どちらを選ぶべきかなど考えるまでもない。龍太郎が渋々ながらも仕方なく動くこと自体、久留美にとっては何の問題でもなかった。むしろ弱みを握っておくほうが、彼女にはよほど安心できることだった。龍太郎はその場から動かなかった。紫織はベッドから起き上がって身なりを整えながら、龍太郎の手の中の封筒を睨みつける。今にも目から火花が散りそうだった。結局、龍太郎はその封筒を受け取った。「ご連絡をお待ちしていますわ」久留美はそれだけ言い残すと紫織を見た。「行きましょう」
紫織は身体を強張らせ、緊張を隠しきれない様子だった。「その検査には医学的な適応と正式な手続きが必要です。個人的な依頼でお引き受けすることはできません」龍太郎は迷いなく答えた。久留美はバッグを開け、厚みのある封筒を取り出して差し出した。「それは、何とかお願いできませんか」中には、かなりの額が入っているようだった。かなり思い切った額だ。龍太郎は封筒に一度だけ目をやると、すぐに久留美へ視線を戻した。「紫織さんは、もう妊娠七ヶ月を過ぎていますよね。これまでの健診では、その病気について検査を受けてこなかったのですか」久留美はわずかに表情を曇らせた。「高崎家では、この病気のことを外部に知られたくないのです。それに、必ず遺伝するとは限りませんから、これまでは様子を見ていました」「ですが、今になって検査を?」龍太郎が問い返すと、紫織が思わず口を挟んだ。「この子たちは絶対に大丈夫です!」その顔にはいつもの高慢さはなく、焦りと緊張ばかりが浮かんでいた。久留美がすぐに言葉を継いだ。「ただ、念のため確かめておきたいだけです。この子たちは、高崎家にとって大切な跡取り候補ですから」龍太郎はしばらく二人の顔を見つめた。「もし検査の結果、遺伝していることが分かったら、どうなさるおつもりですか」紫織の表情が一瞬強張った。「そんなこと、あるはずありません」久留美は紫織をちらりと見てから、再び龍太郎へ向き直った。「今、高崎家はいろいろと世間の注目を集めています。この件が外に漏れるのは避けたいんです。秦先生は深川に来られて、まだ日が浅いでしょう。もしお引き受けいただけるなら、高崎家としてできる限りの支援はさせていただきます。今後、深川で困ることがないようにいたしますわ」懐柔であり、同時に脅しでもあった。もし龍太郎が承諾しなければ、高崎家には彼を深川に居づらくさせる手段もあるということだ。その言葉の裏にある脅しを察した龍太郎は、しばし考え込んでから言った。「……少し、考える時間をいただけますか」久留美は頷くと、バッグから検査申込書を一枚取り出した。「私たちは先に検査室へ行っていますから。秦先生のお気持ちが決まったら、そのままいらしてください」もし龍太郎が来なければ、それは高崎家を敵に回すと
三久はトーク画面をじっと見つめていた。息を潜めるようにして、由樹からの返信を待つ。何度も画面を確認したが、新しいメッセージが届くことはなかった。やがてスマホの画面も暗くなり、由樹からの返信は、それきり来なかった。三久はスマホの画面を消し、暗闇の中に身を沈めた。しばらく寝返りを打ち続け、ようやく眠気が訪れる。翌朝早く、三久は電話の音で目を覚ました。目も開けないまま枕の下に手を伸ばしてスマホを取り、応答する。「もしもし、早坂三久様のお電話でしょうか」「はい。どちら様ですか」「こちら、ヴェリア産後ケアセンターでございます。ご予約内容の確認でお電話いたしました。8月28日がご出産予定日と伺っておりますので、二週間前を目安にご入居のご案内をさせていただきます。ご入院の準備もあらかじめお済ませいただければと……」電話の向こうの柔らかな女性の声が、丁寧に説明を続ける。三久は遮った。「すみません、お電話番号をお間違えではないかと思います。私、そちらに予約した覚えはありませんが」「こちらは高崎久留美様よりご予約をいただいております。料金もすでにお支払いいただいておりますので、当日はそのままお越しいただければ結構です」スタッフはそのまま、入居手続きの流れを説明し続ける。三久は最後まで辛抱強く聞き終えた。眠気はすっかり吹き飛んでいた。起き上がるのも待ちきれず、そのまま久留美へ電話をかけた。久留美はほとんど間を置かず応答した。「三久さん?」たったひと言に喜びと驚きが滲んでいた。「先ほどヴェリア産後ケアセンターからお電話があって、そちらでお部屋をご予約くださったと伺いました」三久は前置きなく本題に入った。「ええ。紫織と出産時期がほとんど同じだから、あなたの分もと思って予約しておいたの。この間あなたが一度来てすぐ帰ってしまったでしょう。もしかしてお金のことを気にしているのかと思って」久留美の声は慈しみに満ち、まるで面倒見のいい年長者のようだった。「申し訳ありません。そのご厚意には甘えられません」「まあ、そんなに急いで断らないで」久留美は言葉を遮った。「私だって、誰にでも理由もなく親切にするわけじゃないの。あなたと紫織のあいだには、良くないことがいろいろあったでしょう。だから和
「そろそろ行くぞ」龍太郎は由樹の肩を軽く叩いた。「これ以上ぐずぐずしてると、記者が来るぞ」百栄の代表であり、酒井家の後継者。そのどちらの肩書きだけでも、深夜に海辺で酒を飲み、警察まで駆けつけたとなれば、マスコミにいくらでも脚色されて、面白おかしく記事にされかねない。由樹が立ち上がると、黒いシャツが風を孕んで大きく膨らんだ。風に向かって立つと、今度はシャツが引き締まった腰にぴたりと張りつく。「世話をかけたな。もう戻る」身を翻すと、振り返りもせず岸のほうへ歩き出した。この一帯にはタクシーが走っておらず、警察官たちはそのまま由樹と龍太郎を送り届けてくれた。パトカーを降りると由樹は上着を羽織り、振り返りもせず別荘の中へと入っていく。後ろからついてきた龍太郎が、ふいに声を立てて笑い出した。「早坂三久って、本当にただ者じゃないな」笑い声が消えるより早く、ドアがぴしゃりと閉められる。その勢いに龍太郎はびくりと肩を震わせた。鼻先が扉まであと一センチというところだった。「明日、高崎家の人間が来るからまた連絡する」ドア越しにそう声をかけると、龍太郎はその場を後にした。……警察官たちは由樹を家まで送り届けたあと、三久に電話をかけ直した。「ありがとうございます」三久は相手に礼を言った。「この件は社長の評判にも関わりますので、どうか内密にお願いできますでしょうか」「酒井さんにこちらで何かあれば、我々としても責任問題になりますから。早坂さん、ご連絡ありがとうございました」警察官のほうも事情を弁えているようだった。電話を切ると、三久は理紗に安心するようメッセージを送り、それから食卓へと戻る。その頃には洲人はすっかり酔いが回っていて、テーブルを叩きながら目を見開き、昔、由樹がしでかしたひどい話について熱弁を振るっていた。「そうちゃんも寝る時間だし、もうお開きにしましょ」三久はテーブルへ歩み寄り、片づけ始める。「もういいから」梨々香が立ち上がり、三久の背中を押しやった。「この酔っ払いを連れて帰って。あとはあたしと青木さんでやっとくから。早く行きな」洲人が一体どんな余計なことを言ったのか、梨々香の機嫌をここまで損ねている。三久は洲人の腕を引いた。「早く行きましょ」洲人はふらつ
三久は思わずダウンジャケットの前を合わせ、まだ平らな腹を隠した。「出ていたよ。年のせいか、今年は特に寒くて」席に着きながら、さりげなく話題をそらす。「私のパソコンを使いましょうか?車から取ってきますが」「俺のを使え」由樹がノートパソコンを三久の前に滑らせた。スクリーンセーバーには古い写真が映っていた。男女の後ろ姿。男のほうは一目で由樹だとわかる。女の体型は、千歳に似ていた。三久はそちらを見ないようにしてファイルを開き、機械的に議事録を打ち始めた。仕事の上では、三久と由樹の呼吸は完璧に合っていた。彼が一つ視線を向ければ、どの項目を指摘して後で重点的に確認すべき
リビングにいる全員が反応する間もなく、二階から足音が響いた。由樹の母、酒井摩美(さかい まみ)が急ぎ足で降りてきた。五十近いとは思えない、三十代にしか見えないほど若々しい体型だ。真紅のショールを羽織っただけで、氷点下の外気も厭わず玄関へ向かった。眩しいほどのヘッドライトが消え、三久の目にようやく全体が映った。由樹と並んで車を降りてきたのは、千歳だった。三久の前ではいつも澄ました顔をしている摩美が、千歳に親しげに腕を組まれたまま笑っている。由樹は穏やかな顔でトランクを開け、いくつかの紙袋を取り出しながら、ふたりが話し込むのを静かに待っていた。絵に描いたような理想の家族の光
千歳が社長室に戻ると、哲朗が手際よく航空券の手配を進めているところだった。「由樹さんは?それ、何の予約?」「社長は休憩室にいらっしゃいます。海外支社で急ぎの対応が必要になりまして、社長ご自身が現地へ向かうことになりました」哲朗が言い終わる前に、千歳はバッグからパスポートを取り出して突き出した。「私の分も取って。一緒に行くから」「え……っ?」有能な哲朗も思わず目を見張った。千歳はさも当然といった顔で、「何?由樹さんの許可がないと動けないの?」この半年、由樹の行くところには必ず千歳がいた。哲朗はそれもそうだと納得し、パスポートを受け取った。「承知しました」
児童養護施設の出身で、これほどの出世を果たしたのは三久だけだった。ずば抜けた成績で、国内トップクラスの大学へ全額免除で入学したのだ。由樹と出会ったのは、その頃だ。名家の御曹司たちが集まる華やかな輪の中でも、彼はひときわ別格で、自然と視線が吸い寄せられた。この二年間の結婚生活と、夜ごとの温もり――それだけで、一生分の思い出としては十分だと思っていた。なのに、お腹の中に命が宿ってしまった。産むことをためらう気持ちは、三久にはなかった。この世界でただひとり、血の繋がった尊い存在なのだから。由樹に奪われるのが怖かった。でも一方で、淡い期待もあった。もしかしたら由樹は、最愛の千歳を怒