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社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない
社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない
作者: 花野めい

第1話

作者: 花野めい
深夜、早坂三久(はやさか みく)はSNSに生まれたばかりの赤ちゃんの写真を投稿した。

【ついにママになりました。男の子で〜す!】

一時間も経たないうちに、半年前に離婚した元夫・酒井由樹(さかい ゆき)がドアを叩くなんて、思いもよらなかった。

ドアを開けた瞬間、由樹の暗く沈んだ表情が目に飛び込んでくる。ただそれだけで、この2DKの安アパートが、一気に氷点下まで冷え込んだような錯覚に陥った。

「……なんで来たの」

三久はドアノブをきつく握りしめたまま問いかけた。

由樹は何も答えない。無言のまま上がり框の手前で、磨き上げられた高級な革靴が、玄関の古びた花柄タイルを硬く叩き、ひどく場違いな音を響かせた。

ここへ来るのは、これが初めてではない。由樹は迷う素振りすら見せず、真っ直ぐに三久の寝室へと向かった。

あとに残された彼の特別補佐、小林哲朗(こばやし てつろう)が、分厚い書類の束を三久へと恭しく差し出す。

「早坂さん、お久しぶりです。社長の顧問弁護士が徹夜で作成した、親権に関する協議書です」

三久は書類を受け取り、ぱらぱらとページをめくる。

【酒井家の長男は、酒井家で養育されるものとする】

びっしりと無機質な文字が並ぶページの中から、三久はその冷酷な一文だけを、正確に目に焼き付けた。

やっぱり。由樹は親権を争うつもりなのだ。

一応の情けはあるらしく、子どもが三歳になるまでは母親である三久が育てることも認めると記されている。

もっともそれは、三久がすべての条件に同意すればの話だが――拒否するなら、今すぐ力ずくで連れて帰るという言外の脅しが透けて見えた。

胸の奥が、じわりと焼け焦げるように痛んだ。その鈍い痛みは、血液に乗ってゆっくりと手の先まで伝わっていく。

呆然と立ち尽くしているうちに、由樹が寝室から戻ってきた。

「あの子は?」

彼と結婚した二年前から、三久はとうに知っていた。この男は口数が少なく、そして氷のように冷たいのだと。

それでも、由樹は彼なりに誠実ではあった。ある夜の過ちで体を重ねてしまったことに重い責任を感じ、自ら結婚を申し出てきたほどに。

三久がその提案を承諾したのは、彼に対して六年間も抱き続けた、切実な片想いがあったからだ。

なのに今この瞬間だけは、その美徳であるはずの口数の少なさが、これほどまでに腹立たしく感じられたことはなかった。

労いの言葉もないの?

哲朗は複雑な眼差しで三久を見つめていたが、重苦しい空気を察して静かに部屋を出て行き、背後でドアをそっと閉めた。

狭い部屋。息が詰まるほど静かな夜。

三久はふいに、くすりと自嘲するように笑った。重い沈黙を自ら破るように。

「……何の話?」

由樹はリビングの真ん中に、背筋をすっと伸ばして立っている。

薄暗い裸電球の光が頭上から降り注ぎ、彼の彫りの深い顔立ちを曖昧な影でぼかしていた。

対して三久のほうは、振り返ったその青白い横顔が光にくっきりと照らし出されており、黒目がちの瞳は澄み切っていた。

まるで本当に、何のことだかさっぱり分からないようだ。

「計算すれば、離婚した頃にはすでに妊娠していたはずだ。それなら、なぜお前から離婚を切り出した」

感情の欠片もこもっていない、平坦な問い。

結婚して初めて、三久は悟ったのだ。由樹が自分と結婚したのは、ただ責任感だけからだったのだと。

もし責任以外に理由があったとすれば――妻という名目で気兼ねなく欲求を満たせる、都合のいい相手が欲しかっただけ、だろうか。

二年間の結婚生活で、三久は自分の立ち位置を正確に理解した。

身寄りがなく児童養護施設で育った三久には、無条件の愛情も、帰るべき場所という安心感も、最初から欠けていた。

そしてこの結婚は、そのどちらの渇きも潤してはくれなかった。

ただひとつ、深い夜の中でだけ、彼が微かな熱を帯び、その漆黒の瞳に自分だけを映し出してくれる――あの瞬間を除いては。

だからこそ、離婚を切り出したのは三久のほうだった。

その時、由樹はただ短くひとことだけ言った。

「後悔しないなら、それでいい」

離婚届を役所に提出した当日の午後、三久は会社へ異動願いを出した。そして西戸市の他の支社へ、支社長として着任することになったのだ。

あれから半年ぶりの再会で、まさか彼女が子どもを産んでいたとは。

由樹は自分でも、胸の奥底で渦巻く得体の知れない感情を、うまく整理できずにいた。

「村上さんのために、私が身を引いただけよ」

三久は淡々と、まるで他人の事のように笑って見せた。

「本当に子どもを連れて帰るつもり?いきなり隠し子なんて連れて帰って、村上さんが怒って別れるなんて言い出したら、あなた、どうするの?」

村上千歳(むらかみ ちとせ)――それは、由樹がこれまでの人生で唯一、本気で愛した女だと言われていた。

彼らは幼なじみだったが、理由は不明のまま別れ、千歳は遠く海外へと渡った。

その後、由樹は何年も頑なにひとりでい続けた。浮いたスキャンダルなど皆無で、ゴシップメディアは何度も「若き社長は、初恋の帰りを健気に待っている」と美談として報じたものだ。

その千歳が半年前、ついに帰国した。

それが、三久の背中を押した最後の一押しだった。いつか離れようと思いながら、彼の温もりに縋ってずっと離れられずにいた、愚かな自分への引導。

彼女の帰国を知ったその日の夜、三久は由樹に離婚を切り出したのだ。

「それはお前には関係ないし、考える必要もない」

由樹の氷のような態度は、微塵も揺るがなかった。

「お前は頭がいい女だ。子どもがこういう環境で育つべきじゃないことくらい、冷静になれば分かるはずだ。酒井家に戻るのが、あの子にとって一番正しい選択だ」

確かに、三久は賢かった。しかし、血の通った感情が絡めば、どんな賢い人間だって機械のようには割り切れなくなる。

「実の母を嫌がる子なんていないでしょう。私の子なら、こんな安アパートでも私を嫌ったりしないわ。それなのに、父親だからって勝手に決める気?」

負けん気の強さと口が減らないところだけは、昔から少しも変わっていなかった。

由樹は、三久という人間の本質をよく知っていた。自分の強い信念を持ち、一度決めたことは絶対に曲げない。

仕事でも自分に平気で食ってかかり、あるプロジェクトの評価を巡っては、クビを覚悟で真っ向から反論してきたほど、芯の強い女だ。

彼女が素直に甘い声を上げるのは、本当にベッドの上だけだった。

でも、今回ばかりは事情が違う。どれだけ三久が意地を張って踏ん張ろうとも、由樹は決して引くわけにはいかなかった。

「三久。お前は本気で、俺と張り合えるとでも思っているのか」

それは、あまりにも残酷な反則だった。三久はまるで見えない大きな手に喉をきつく掴まれたみたいに、呼吸を奪われ、一切の言葉が出なくなった。

言い返す言葉も、反撃する術も、今の彼女には何ひとつ残されていない。

長い沈黙ののち、三久は口の端をかすかに引き上げた。

「……誤解してるわ、社長。あれは、親友の梨々香の子よ。退勤後に病院へお見舞いに寄って、さっき帰ってきたばかりなの」

由樹はわずかに眉をひそめ、射抜くような鋭い視線で三久を見据えた。

言葉の真偽を疑い、品定めするように全身を観察し――その視線はいつの間にか、タイトスカートに包まれた引き締まった細い腰と、豊かな丸みのあるお尻へと流れていた。

そこには、出産を経たような痕跡など、どこにも見当たらない。出産直後の女性とは、とても思えない体型だった。

「鈴木梨々香(すずき りりか)のこと、覚えてる?結婚してた頃、よく話してたじゃない……」

何とか取り繕って説明を続けようとしたが、由樹はもう彼女の言葉など聞いてはいなかった。

仕立てのいいスーツのポケットからタバコを取り出し、薄い唇に挟んで火をつける。そのまま窓辺に寄りかかり、ひと口、またひと口と、静かに紫煙を吐き出した。

一時間足らずの間に、突然自分の子どもがいると知らされて父親になったと思えば、今度はそれが人違いの誤解だったと告げられた――少しばかり冷却期間を必要としていた。

半年ぶりに目の前で見る三久は、どこか雰囲気が変わったような気がする。うまく言葉にはできないが、記憶の中にいる彼女とは、決定的に何かが違うのだ。

夜の窓ガラスに薄っすらと映り込む彼女の姿を、由樹は煙越しにそっと目で追った。

一緒に暮らしていた頃の三久は、どれだけ気が強くても、いざ俺の前となれば、まるで飼い主に従順な猫みたいにおとなしかった。

それが今はどうだ。まるで野良猫みたいじゃないか。

こんな突拍子もない悪ふざけを仕掛けて、俺を振り回すなんて。

三久は静かに近づいてくると、由樹の目の前にある窓を、すっと開け放った。真冬の刺すような冷たい夜風が室内に吹き込み、彼が吐き出した煙を、容赦なく散らしていく。

「ねえ、誤解だったとしても、純粋に気になるんだけど。もし本当に私たちに子どもがいたとして、その子どもと村上さん、どうしてもどちらかしか選べない状況になったら……あなたは、どっちを選ぶの?」

その選択肢の中に、自分自身が含まれていないことくらい、三久には痛いほど分かっていた。

「……そんな無意味な仮定の話に、答える価値はない」

由樹は吸いかけのタバコを指先で無造作に押しつぶした。灰皿を探したが見当たらず、火の消えた吸い殻を手に持ったまま、無言で部屋を出て行った。

こんな夜中に、未練がましく元妻と昔話に花を咲かせる趣味など、彼には持ち合わせていない。

あんな軽はずみなSNSの投稿さえ見られなければ、きっと今日が、彼はもう二度と会ってくれないだろうと、三久は閉まるドアを見つめながら思った。

――そう、一ヶ月前の「あの夜」さえなければ。

ホテルで偶然鉢合わせてしまい、ひどく酔っていた彼に流されるまま、二人はまた、熱い一夜を共にしてしまった。

朝になって気まずい空気が流れるのが耐えられず、三久は彼が目を覚ます前に、逃げるようにその部屋を後にしたのだ。

あの夜の過ちのことは、一生誰にも言わず、自分だけの胸の奥底に固くしまっておくつもりだった。

なのに、彼が残した種は、彼女の胎内で命の芽を出していた。

そう、彼女は本当に妊娠していたのだ。現在、六週目。昨日の検診で、胎児はすこぶる健康だと言われたばかりだった。

開け放たれた窓の外では、いつの間にか雪が降り始めていた。ふわりと大きな綿雪がゆっくりと舞い落ちて、街灯の下を歩く黒いコートの男の背中を、ひときわ際立たせている。

三久は静かに窓を閉め、氷のように冷たいガラスに額をそっと預けながら、遠ざかる彼の後ろ姿をじっと見つめた。

由樹は手に持っていた吸い殻を携帯灰皿へ捨てると、路肩に停めていた漆黒のブガッティに乗り込み、あっという間に走り去っていった。

あの超高級車が、この壁の剥げかけたボロアパートの前に停まっている光景が、どれほど滑稽で場違いだったことか。

そしてそれは、由樹という存在自体が三久の人生に、決して現れるべき人ではなかったのようだ。
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