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第2話

Author: 花野めい
児童養護施設の出身で、これほどの出世を果たしたのは三久だけだった。ずば抜けた成績で、国内トップクラスの大学へ全額免除で入学したのだ。

由樹と出会ったのは、その頃だ。名家の御曹司たちが集まる華やかな輪の中でも、彼はひときわ別格で、自然と視線が吸い寄せられた。

この二年間の結婚生活と、夜ごとの温もり――それだけで、一生分の思い出としては十分だと思っていた。

なのに、お腹の中に命が宿ってしまった。

産むことをためらう気持ちは、三久にはなかった。この世界でただひとり、血の繋がった尊い存在なのだから。

由樹に奪われるのが怖かった。でも一方で、淡い期待もあった。もしかしたら由樹は、最愛の千歳を怒らせたくなくて、この子を認知しないかもしれない。

結果は、あの通りだった。

三久は小さくため息をつき、まだ膨らみのないお腹をそっと見下ろした。

あの夜のことを由樹は覚えていない。それでも、万が一に備えておくに越したことはない。

由樹の目の届かない遠くの場所でこっそり産んでしまえば、きっと気づかれないはずだ。

万が一バレたとしても、今回の一件がある。もし本当に子どもができたと知っても、もう追ってくることはないだろう。

年の瀬が近づき、百栄グループの年次総会が開かれた。

三久は年次報告書を抱えて本社へ向かいながら、バッグの奥にもう一通、退職願を忍ばせていた。

ここを出よう。由樹から、できるだけ遠いところへ。

九時十分開始の会議。九時半になっても、由樹は姿を見せなかった。

ある支社の責任者が、「さっき村上さんを見ました。社長室にいらっしゃるみたいですよ」とそっと囁いてきた。

「それで遅刻するわけですね。村上さんにかまけているんですよ」

由樹はいつも仕事最優先で、時間に几帳面な人間だった。

千歳の登場が、あっさりとそのルールを破らせた。

三久はようやく理解した。「特別扱いされる」とはどういうことなのかを。

席を立ち、会議室の窓辺へ歩み寄り、少し開いたカーテンの隙間からそっと社長室を覗いた。

深いグレーで統一された空間の中に、鮮やかな紫色が揺れていた。

秘書として長く働いてきた三久には、あの部屋の間取りが目を閉じても浮かぶ。

椅子に座る由樹のそばで、千歳がデスクの端に腰を預け、二人が視線を交わして微笑み合っている――そんな光景が、自然と脳裏に浮かんだ。

あるいは、もっと近しく……

百栄に入社したのは、由樹のためだった。ただ彼の近くにいたかった。それだけのはずが、こんなにも深く絡まり合ってしまった。

もっとも、執着しているのは三久の側だけで、由樹にとっては気まぐれに目を留めた、ただそれだけの相手だったのかもしれないけれど。

あの二年間、特別扱いなど一度もなかった。愛されていると感じたことも。

こうして彼のそばに入り込もうと必死になったことが、果たして正解だったのか、今もわからない。

あれほど近くにいられたことを、密かに喜んでいる自分がいる。

でも同時に、胸が張り裂けるほど後悔もしている。

複雑な感情が、静かに胸の奥に広がった。

「皆さん、報告を始めてください。会議の様子は録画を行っておりますので、社長は後ほど録画を確認されます」

哲朗が会議室のドアを開けて入ってきた。

三久はそっとカーテンから手を離し、目を伏せたまま席に戻った。

由樹のいない支社長たちの報告会は、思いのほかすんなりと進んだ。三時間の予定が、二時間で終わった。

「皆さん、忘年会にお越しください。社長もすぐお見えになりますので」

哲朗が各支社の年次報告書を回収した。

三久の番になると、彼女は小さく微笑んだ。

「小林さん、これも社長に渡していただけませんか」

封筒に入れた退職願を差し出す。本当は自分で渡すつもりだったが、社長室に千歳がいる今、入りにくかった。

「直接渡せますよ」

哲朗は由樹の特別補佐で、三久とは以前からよく顔を合わせていた。ふたりの婚姻関係を社内で知っているのは、彼だけだ。

社長室の方向をちらりと見て言った。

「ノックして入れば大丈夫ですよ、仕事の話なんですから」

会議室のドアは開いたままで、社長室の様子がうっすらと見えた。

千歳は由樹の椅子の肘掛けに腰かけ、ふたりの距離は息がかかるほど近い。

いつもは鋭い由樹の険しい目元が、今は柔らかく和らいでいた。金縁眼鏡の奥の瞳が、穏やかな光を帯びている。

この半年ずっとああして過ごしているのだろう。哲朗にはもう見慣れた光景なのか、表情一つ変えなかった。

でも三久には、胸をえぐられるような初めての光景だった。息が、止まりそうになった。

離婚して、遠くへ異動して、距離を置けば、気持ちも少しずつ薄れていくと思っていた。

なのに彼が別の女と近しくしている姿を見たら、激痛が、胸の奥に走った。

三久は口の端を無理やり引き上げた。無理やり視線を引き剥がした。

「お邪魔するのも悪いので、これ、お手数ですがよろしくお願いいたします」

哲朗は封筒を受け取り、「承知しました」と言った。

三久は離婚後に自ら異動を申し出て以来、こうして陰でも顔を合わせようとしていない――気を遣っているのだろうと、哲朗は読んでいた。

「小林さん、では失礼します」

三久はバッグを手に取り、哲朗に軽く手を振った。

「忘年会は欠席します」

由樹と千歳が並ぶ姿を忘年会で見せられるくらいなら、さっさと帰って引き継ぎの準備でも始めた方がいい。

自己都合退職は、よほどのことがなければ受理される。年末まで残り二週間、引き継ぎには十分だ。

次にどこへ行くか、まだ考えなければならない。百栄の支社がなくて、由樹が絶対に来ないような場所を。

哲朗は報告書と三久の退職願をまとめ、由樹のデスクの上に置いた。

「社長、会議の記録は後ほどメールでお送りします。それと、こちらは早坂さん……早坂支社長からお預かりしたものです」

由樹は眼鏡を押し上げ、書類の束に目を落とした。

一番上に、三久の名前だけが書かれた封筒。わずかに眉が寄った。

「本人は?」

哲朗が答える。

「帰られました」

由樹は手を伸ばし、封筒を取り上げ、開けようとしたその時。

「由樹さん、ちょっとお化粧室に行ってくるね」

千歳が立ち上がり、くるりと背を向けて社長室を出た。が、エレベーターの方へ真っ直ぐ歩き出した。

由樹が突然の結婚をしたのは二年前のことだ。表向きは秘密にしていたが、千歳の母と由樹の母は幼馴染みで、秘密など存在しない。

千歳が知ったのは帰国してからのことだった。もっと早く知っていたら、あんなに長く海外にいるはずがなかった。

けれど知った時には、酒井家から知らせが届いていた。由樹と三久は離婚した、と。

離婚したとはいえ、千歳は「伝説の酒井家の奥様」とやらに、ひどく興味があった。

秘書から成り上がり、美人で聡明で仕事もできる、と聞いていた。

ただ素性が良くない。育ちが違う。長続きするはずがなかった。

見切りがよかったらしく、離婚後すぐ異動を申し出たとも聞いた。

それでも、今し方の、名前だけ書かれた封筒が、千歳の胸にざらりと引っかかった。

あの女、おとなしく身を引いているように見えて、案外まだ諦めきれないしぶとい女なのかもしれない。

千歳は小走りで追いかけたが、間に合わなかった。エレベーターはもう下りていた。

仕方なく引き返す。でも気になって仕方がない。あの封筒の中身、一体何が入っていたのだろう。

メッセージカード、手書きの手紙?

考えるほどに、焦燥感から千歳の足は速まった。

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