Masukだが三久はそれ以上踏み込まず、意図的に話を逸らした。「本当にありがとうございました。これで貸し借りはなしですね」研は頷いた。「それでは」三久は踵を返し、その場を立ち去った。タクシーに乗り込み、ドアが閉まった瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、一気に力が抜けた。まるで全身の骨が抜き取られたかのように、座席の背に深くもたれかかった。顔色は青白く、すっかり血の気を失っていた。一時間後、アパートの入り口で、まるで示し合わせたかのように梨々香と鉢合わせた。車から降りた瞬間、三久は足元をふらつかせ、それを見た梨々香が慌てて駆け寄り、その体を支え止めた。「ちょっと、なんで手が氷のように冷たいのよ?」初夏の蒸し暑い日だというのに、三久の手は凍りつくように冷たく、顔は真っ青だった。梨々香の表情がさっとこわばる。「いったい何があったの?」三久は振り返ってタクシーのドアを閉め、深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、梨々香に支えられながら家の中へ入った。恐怖の余韻が残り、まだ声も出せなかったが、家に着くと、梨々香がすぐにお茶を淹れてくれた。それを少しずつ口にし、しばらくしてようやく落ち着きを取り戻すと、三久は病院での一部始終を話した。梨々香は聞きながら、何度も息を呑んで目を丸くした。「あの研さん、本当にいいタイミングで現れてくれたわね。以前あなたが彼を助けておいたおかげで、今回の絶体絶命の危機を切り抜けられたってわけだ」三久は額に浮いた細かい汗を手の甲で拭った。指先はまだ少し冷たいままだ。由樹に手首を強く掴まれ、あの漆黒の底知れない瞳にじっと見つめられたとき、まるで親権を争っていたあの頃の、冷たく容赦のない視線を向けられているようだった。あの瞬間、三久の心は恐怖で押しつぶされそうになった。「もう大丈夫、もう怖くないからね」梨々香は三久をしっかりと抱きしめ、背中を優しく撫でて慰めた。「あたしが蒼汰を産むのに、その辺の男を適当に選ばなかったのも、結局は親権争いになるのが死ぬほど怖かったからなの。あなたのこの件は……でも妊娠自体が予想外のことだったんだから、あなたを責めることなんて誰にもできないよ。酒井が妊娠を知ったところで、まさかその子は自分の子だとは夢にも思わないだろうし……」その言葉に、三
「離婚して半年以上経ってから妊娠したんです。社長の子ではありません」「なら、誰の子だ」由樹はそう問いかけてから、自分の問いが筋違いだと気づいた。それでも、三久の返答を静かに待った。胸の奥に、鈍器で殴られたような鈍い痛みが走る。それでも諦めきれず、もう一度問いを重ねた。「……社長には関係のないことです」三久はそう言い終えると、扉を押し開けて外へ歩き出した。数歩も進まないうちに、手首をぐいと強く掴まれた。由樹だった。追いかけてきたのだ。「何を怖がってる」「何をするんですか」三久は平静を装いながら、壁と由樹の胸の間に閉じ込められたまま、問い返した。由樹の薄い唇が、まっすぐに引き結ばれる。――俺は一体何をしているのか。元妻であり、部下でもある相手に、誰の子を身ごもったのかと問い詰めているなんて。「お前は神崎と裏でコソコソつながっている。あいつは俺の宿敵で、お前は俺の部下だ。この子が誰の子か、俺には問い詰める権利があるはずだ」由樹は堂々と言い切ったが、その言葉は冷たく、皮肉めいていた。三久は顔を上げ、澄んだ瞳で、詰め寄る由樹の姿を見つめた。思わず目の縁が赤くなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。三久は、少なくとも由樹だけは自分を分かってくれていると信じていた。たとえ自分にどれだけ分別がなかったとしても、洲人などと関わり合いになるはずがないと。だが――「三久さん」不意に、少し離れたところから声がした。三久が声のするほうを見る。研がカバンを手にして立っていた。ちょうど仕事帰りといった様子だ。彼はどこか気まずそうな顔をしながらも、意を決して二人のほうへ歩いてきた。今、廊下にいるのは三人だけだった。由樹も顔を上げ、細めた切れ長の瞳で、近づいてくる研を見据えた。「酒井社長」研は由樹に軽く頭を下げた。「またお会いしましたね。あの……私の婚約者から手を放していただけますか」三久は息を呑んだ。由樹の瞳が、一段と深くなる。「すみません。彼女とはまだ籍を入れていないので、妊娠のことは一時的に伏せていました。母の体調が思わしくなく、すぐに結婚式を挙げるのが難しくて。彼女に迷惑がかかるのを恐れていました。酒井社長にはご理解いただけますと幸いです」研は
逃げるように去った龍太郎と、机の上に置かれた健康診断証明書。そのどちらもが、三久に残酷に告げていた――これは偶然などではない。罠だ、と。前もって仕組まれていたのなら、由樹はすでに、三久の妊娠をはっきりと知っているということだ。哲朗からあの夜のことを聞かされたかもしれないという怯えが、まだ胸の奥でくすぶっているというのに。今日の昼、依果から聞かされた話で、さらに心をかき乱されたばかりだった。このわずか数時間の間に……三久は、いつか由樹に知られる日が来ることはとうの昔に覚悟していた。だが実際にその瞬間が訪れると、それでも動揺を抑えきれなかった。これまで由樹は、三久が意図的に妊娠を隠しているのではと疑っていたにすぎなかった。だが今は、それが確信に変わっていた。彼の目は、三久の妊娠に驚いているようにはまったく見えなかった。むしろ無言で問い詰めているようだった――妊娠のことを、どう説明するつもりだ。由樹は椅子を引いて深く腰を下ろし、両脚をわずかに開き、気だるげな姿勢で三久を見つめていた。その薄褐色の瞳が、瞬きもせず三久に注がれる。「どうして黙っている」彼の端正な顔には、はっきりとこう書かれていた――説明しろ。「社長」三久は下唇の内側を軽く噛み、深く息を吸って、乱れた気持ちを必死に整えた。「偶然ですね。社長も秦先生に会いに来られたんですか。少しお願いしていたことがあって、もう済みましたので、他にご用がなければ、私はこれで……」「早坂……三久」由樹が三久のフルネームを直接呼ぶことは、めったにない。しかも、これほど冷たい口調で。張り詰めていた空気が、一瞬にして凍りついた。三久は次第に息をするのも難しくなっていく。三久の不安を感じ取ったのか、お腹の中の小さな存在が、強くお腹を蹴った。「お前が身ごもっているのは……」「社長」三久は急いで口を開き、その先の言葉を遮った。「わざと妊娠を隠していたわけではないんです。ただ、切り出すいいタイミングが見つからなかっただけで」どこか開き直ったように、まるで気づかなかった由樹にも責任があるかのように言ってのけた。由樹の彫りの深い顔が、さらに暗く沈んだ。「俺のせいだとでも言うつもりか。部下への配慮が足りなかったと」「上司として、社長には十
依果でさえ、三久が意図的に由樹を避けていることに気づくほどだった。「今すぐ会社に来て仕事に戻れば間に合う。じゃないと今月のボーナスは全額カットだ」由樹は冷たくそれだけ言い放って、一方的に電話を切った。「はぁ?いや、数日休んでいいって言ったの、お兄ちゃんのほうじゃない……」毒づきながらも慌てて二階へ駆け上がり、着替えると、心の中で由樹を罵りながら、急いで会社へ向かった。一方の由樹は、通話を終えると苛立たしげにシャツのボタンを上から二つ外した。暗いパソコン画面に、冷たく張り詰めた表情の輪郭が映り込む。苛立たしげに舌打ちをし、その端正な顔には厳しさと深い戸惑いが複雑に入り混じっていた。しばらくして、由樹は一本の電話をかけた。「三久に、妊娠していることを本人の口から認めさせたい」「俺は医者だ。ドラえもんじゃないんだぞ」電話の向こうの相手は、数秒黙り込んだあと、呆れたように言った。由樹は動じなかった。「できるだけ早く頼む」……薄氷を踏むようなこの秘密は、いつ破れてもおかしくないほど危うくなっていた。三久の心臓は、今にも口から飛び出しそうなほど激しく脈打っていた。依果との食事を早々に終え、梨々香のところへ戻り、玄関に入った途端、梨々香の苛立った小言が聞こえてきた。「もう、ごちゃごちゃ言い訳してないで、さっさと愛菜を学校に戻しなさいよ!」ドアの音に気づいた梨々香がこちらを見て、目が合うと、声を出さず口の動きだけで「浅野」と伝えた。三久はバッグを置き、そっと歩み寄って梨々香の隣に座った。「分かった。証明書のことはこっちに任せて。明日の朝、そっちに届けるから。お金も用意しておいてね。明日、証明書と一緒に渡すから」温子が電話口で何を言ったのか、梨々香の険しい表情が少し和らいだ。電話が切れると、三久が尋ねた。「どうしたの?」「お金のことを聞いたら、なんだかんだとはぐらかされて。それより、愛菜が学校に戻りたいみたいなんだけど、あと一つ手続きが足りないって。病院の健康診断証明書が要るんだってさ」今、学校側は、愛菜が不治の病にかかっているという理由で、復学を認めようとしない。温子が「病気は誤解だった」と言い張っても、学校は納得せず、健康診断証明書を持ってくるよう突き返しているのだった。「ねえ、秦
三久は小さく息を呑み、箸を持つ手が小刻みに震えた。箸が手から滑り落ち、皿に当たってカチンと高い音を立てた。その音が耳に届いた瞬間、三久の心臓が早鐘を打ち始めた。「今、何て……」「あ、あのね、実は私とおばあちゃんは前から、みくさんが妊娠してるって知ってたのよ」依果は自分の口を軽く押さえた。またうっかり口を滑らせてしまったのだ。「お腹の子が神崎さんの子だってことも知ってる。おばあちゃん、みくさんを孫として迎えたいって言ってたの。そうすれば、みくさんが神崎家に嫁ぐときも、酒井家が後ろ盾になってあげられるからって……」三久は頭が真っ白になった妊娠が分かった瞬間から、自分のような何の後ろ盾もない人間には、あの絶大な力を持つ酒井家に太刀打ちできるはずがないと、三久は分かっていた。だからこそ、西戸を静かに離れることが、この子を無事に産むための最善の方法だったのだ。離れられずにいるのは計画外のことで、いずれは気づかれるだろうとも覚悟はしていた。だが、潔子と依果がすでに知っていたとは、想像すらしていなかった。さらに驚いたのは、二人は、この子が洲人の子だと完全に思い込んでいることだった。三久は頭を必死に働かせ、いったいどこで話が食い違ったのかを考えた。依果は三久の顔色がさっと青ざめたのを見て、慌てて言った。「怖がらないで。これは私とおばあちゃんしか知らない秘密だから。おじいちゃんにも言ってないの。おばあちゃんは、知る人が増えたら話が漏れて、みくさんに迷惑がかかるのを心配してたのよ」「社長は……知らないの?」三久はどうにか言葉を絞り出した。今、心臓が喉元までせり上がっているような感覚だった。依果は深く頷いた。「もちろん知らないよ。お兄ちゃんと神崎さんは犬猿の仲だもの。もし知られたら、みくさんがひどい目に遭うじゃない」依果の言葉を聞いて、三久は涙がこぼれそうになった。潔子と依果が、ここまで自分のことを親身に思ってくれていたことへの深い感動だった。「でも、なんでまた支社への異動を申請したの?」依果は理解できないという顔で言った。「神崎さんは知ってるの?」三久は気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと言った。「彼は……知ってる。私にもちゃんと考えがあるから。あなたとおばあちゃんがしてくれたこと、本当にありがとう。そ
「どけ」由樹は短く冷たい言葉を吐き捨てた。その声には有無を言わせぬ威圧感が込められていた。依果はごくりと唾を飲み、「はーい」とおとなしくドアを開けた。淡いピンクで統一された可愛らしい部屋は、由樹がまとっている冷徹な雰囲気とはあまりにも不釣り合いだった。由樹は眉をひそめながら中に入り、ベッドの足元にあるソファに腰を下ろした。「言ってみろ。ここ数日会社に行ってないのは、どういうことだ」「おばあちゃんから聞いてないの?」依果が逆に問い返す。「お前の口から直接聞きたい」由樹は足を組み、腹の前で両手を組んだ。組んだ指先をゆっくり動かしながら、隙のない威厳を保っている。依果は眉をひそめた。「上司が私にしつこく言い寄ってきて、きっぱり断ったら、陰湿な嫌がらせをしてくるようになったの。ねえ、お兄ちゃん、部署を変えてもらえない?」これは、潔子にはとても言えなかったことだった。言えば潔子が包丁でも持って会社に乗り込んで、その上司に自分の恐ろしさを骨の髄まで思い知らせるくらいのことをしかねない。そうなれば、自分の正体が完全に知られてしまう。あと二年くらいは、素性を隠した一社員として働く生活を楽しみたいと思っているのに。「分かった」由樹はぶっきらぼうに答えた。「その上司の件を片付けたら、お前は仕事に戻れ」依果は目を輝かせた。「後ろ盾がいるとやっぱり違うわね!で、いつ片付けてくれるの?明日から復帰できる?」「そう急ぐな」由樹は少し間を置いて言った。「働き始めたらろくに休めなくなるんだから、あと数日は家で大人しくしていろ」「ん?」依果は目を丸くして由樹を見つめた。おかしい。お兄ちゃんはいつも自分をこき使うばかりなのに、いつから自分から進んで休みをくれるようになったのだろう。「三久が異動を申請して、あと数日で出発する。お前、時間を作って会いに行け」由樹の言葉には、何か別の思惑が込められていた。依果は前から誘おうと思っていた。「私も前から誘いたかったんだけど、お兄ちゃんに迷惑をかけたくなくて我慢してたのよ」「何が迷惑になる」由樹が問い返す。「村上家のことよ。もし私がみくさんを誘ったって知ったら、千歳がまたへそを曲げるに決まってるから」このところ、千歳は時々依果にメッセージを送ってきて、露骨に距離を縮めようとしていた
依果は口では「わかった」と言いながら、部屋を出ていく摩美の背中に向かって、思いきり舌を出した。――千歳が由樹の腕を取ってダイニングへ向かう残酷な場面が、三久の頭から離れなかった。あれは、見るんじゃなかった。帰り道、冷たい夜風を浴びながら少し正気を取り戻した三久は、途中の店で温かい食事を食べてからアパートへ帰った。それから数日、由樹と千歳に関する華々しいニュースが連日のように報じられていた。もどかしかったのは、肝心の退職手続きにまだ何の動きもないことだ。人事部で顔のきく大島沙織(おおしま さおり)に電話をして事情を聞いてみた。驚いたことに、沙織は三久が退職を申し出
三久は思わずダウンジャケットの前を合わせ、まだ平らな腹を隠した。「出ていたよ。年のせいか、今年は特に寒くて」席に着きながら、さりげなく話題をそらす。「私のパソコンを使いましょうか?車から取ってきますが」「俺のを使え」由樹がノートパソコンを三久の前に滑らせた。スクリーンセーバーには古い写真が映っていた。男女の後ろ姿。男のほうは一目で由樹だとわかる。女の体型は、千歳に似ていた。三久はそちらを見ないようにしてファイルを開き、機械的に議事録を打ち始めた。仕事の上では、三久と由樹の呼吸は完璧に合っていた。彼が一つ視線を向ければ、どの項目を指摘して後で重点的に確認すべき
リビングにいる全員が反応する間もなく、二階から足音が響いた。由樹の母、酒井摩美(さかい まみ)が急ぎ足で降りてきた。五十近いとは思えない、三十代にしか見えないほど若々しい体型だ。真紅のショールを羽織っただけで、氷点下の外気も厭わず玄関へ向かった。眩しいほどのヘッドライトが消え、三久の目にようやく全体が映った。由樹と並んで車を降りてきたのは、千歳だった。三久の前ではいつも澄ました顔をしている摩美が、千歳に親しげに腕を組まれたまま笑っている。由樹は穏やかな顔でトランクを開け、いくつかの紙袋を取り出しながら、ふたりが話し込むのを静かに待っていた。絵に描いたような理想の家族の光
千歳が社長室に戻ると、哲朗が手際よく航空券の手配を進めているところだった。「由樹さんは?それ、何の予約?」「社長は休憩室にいらっしゃいます。海外支社で急ぎの対応が必要になりまして、社長ご自身が現地へ向かうことになりました」哲朗が言い終わる前に、千歳はバッグからパスポートを取り出して突き出した。「私の分も取って。一緒に行くから」「え……っ?」有能な哲朗も思わず目を見張った。千歳はさも当然といった顔で、「何?由樹さんの許可がないと動けないの?」この半年、由樹の行くところには必ず千歳がいた。哲朗はそれもそうだと納得し、パスポートを受け取った。「承知しました」







